5.言葉なき執着の足音

――その夜を境に、二人の間には言葉に頼らない、けれど確実な変化が静かに溶け込んでいった。

ある夜のことだった。
ふらりと一人で出かけていたヴァンが、静かに館へと戻ってきた。彼はいつも通り、リビングにいるヒイロに声をかけることもなく、無言で自室へと向かおうとする。

ソファで魔導書をめくっていたヒイロは、本から目を離さないまま、不意に声を落とした。

「血の匂いがするわね」

ヴァンがぴたりと足を止める。
見れば、衣服の袖がわずかに裂け、その下の腕に浅い傷がついていた。吸血鬼の肉体にとっては、放っておいてもそのうち塞がるような、大したことのない怪我だ。

ヴァンはヒイロを振り返ることなく、淡々と返した。

「問題ない」

「そう」

ヒイロもそれ以上は追及しなかった。
傷の原因を聞き出そうともしなければ、心配だからと治療のために追いかけてくることもしない。ただ一言だけ応じ、また手元の本へと視線を戻した。

ヴァンはそのまま、静かに自分の部屋へと戻っていった。

しばらくして、ヴァンが自室の机に向かったとき、その上に小さな薬瓶がぽつんと置かれていることに気づいた。
自分が部屋を空けていたわずかな間に、誰がこれを置いたのかは、考えるまでもなかった。一流の薬師である彼女が調合した、傷を癒やすための薬だ。

ヴァンは薬瓶を手に取ると、再びリビングへと戻った。

ヒイロは先ほどと変わらない姿勢で、静かに本を読んでいる。ヴァンはその傍らまで歩み寄り、静かに声をかけた。

「お前か」

ヒイロはやはり、本から目を離そうとはしなかった。ただ、めくるページの音に重ねるように、凛とした声を響かせる。

「使うかどうかは任せるわ」

「……」

「ヴァンには必要ないものかもしれないけど」

ヴァンは返事をしなかった。ただ、手の中にある硝子瓶の冷たい感触を確かめるように、そっと指先を添える。

ヒイロもまた、それ以上は何も言わなかった。

無理に優しくされることを嫌う吸血鬼のプライドを、彼女は決して踏みにじらない。「放っておいてほしい」というヴァンの拒絶を受け入れつつも、同時に「ちゃんと見ている」という静かな気遣いだけを、必要な分だけ置いておく。

押し付けがましくない彼女のその優しさが、ヴァンの頑なな心を、少しずつ、けれど確実に溶かしていく。

(……本当に、傲慢で、不可思議な女だ)

手の中の薬瓶を見つめながら、ヴァンは心の中で静かに呟いた。傷について説教されるよりも、無理に手当てされるよりも、この適度な距離感が、今の彼にはひどく心地よかった。

言葉にはしない。けれど、ヴァンにとってヒイロという魔女が、世界の誰よりも特別な存在へと変わっていく確かな足音が、静まり返った館に響いていた。
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