3.摩海の鼓動と魔女の回路

廃工場での一件以来、館の空気には奇妙な「重力」が加わっていた。
主であるヒイロの絶対的な静寂を、バッドという異分子が当然のようにかき乱し、いつの間にかそれが一つの風景として定着し始めていた。

「ぎぎっ、ぎぎぎ」
(おい、その干からびたトカゲの尻尾。右の棚の一番上じゃなくて、三番目の遮光瓶の隣だろ)

調薬室に、不機嫌そうな低い声が響く。
ヒイロは手元の大釜から目を離さず、短く返した。

「……私の館よ。どこに何を置こうが私の勝手だわ」

「ぎぎぎ」
(勝手だが、効率が悪い。お前、さっきから三回も無駄な往復をしてるぞ)

振り返ると、人の姿に戻ったバッドが、棚の整理を勝手に進めていた。
魔公子としての矜持か、あるいは単なる性分か。彼は意外にも手際が良く、ヒイロが「自分にしか分からない」と思っていた雑多な素材を、その効能ごとに完璧に分類し直していく。

「余計な真似を……」

毒づきながらも、彼女は彼が差し出した瓶を無言で受け取った。
指先が触れそうで触れない、絶妙な距離。
これまでは「敵か、下僕か」という極端な二択しかなかったはずの関係に、「有能な同居人」という正体不明のカテゴリーが加わりつつあった。

夜、暖炉の前に場所を移しても、その奇妙な空気は続いた。
ヒイロはソファで魔導書を開き、バッドはその傍らの床に座り込んで、古い歴史書を眺めている。
会話は少ない。けれど、以前のような殺伐とした監視の視線はない。
ヒイロはふと、無意識にバッドの気配を探している自分に気づく。彼がページを捲る音、時折漏らす鼻歌のような吐息。それらが聞こえている間、彼女の肩からわずかに力が抜けていた。

「……何を見てるの」

ふいに、ヒイロが問いかけた。

「お前らの世界の、下らない英雄譚だ。どいつもこいつも、魔族を倒して満足してやがる。……気に入らねえな」

「そうね。人間は、理解できないものを悪と呼びたがるものだわ」

何気ない会話。しかし、その視線は本に落ちたまま重ならない。
互いの領域を侵さないという暗黙のルール。けれど、物理的な距離は数日前よりも確実に縮まっていた。

静寂が心地よい重みを持ち始めた頃。
ヒイロの瞼が、抗いがたい眠気に揺れた。連日の調薬と、魔力の消費。そして、隣に「自分と同等以上の力を持つ守護者」がいるという事実が、彼女の警戒心を無意識のうちに眠りの底へと引きずり込んでいく。

こっくりと、桜色の頭が揺れる。
魔導書が指先から滑り落ち、ソファのクッションに音もなく沈んだ。

「……。おい、寝るなら部屋へ行け」

バッドが呆れたように顔を上げた。
返事はない。ただ、規則正しい寝息が聞こえるだけだ。
彼は立ち上がり、無防備に眠る魔女を見下ろした。昼間の傲慢さは影を潜め、睫毛の長い瞼が静かに閉じられている。

「……ったく。無用心すぎるだろ、お前」

バッドは自分の指を見つめた。
触れれば、彼女はすぐに目を覚ますだろうか。あるいは、その白い首筋に指をかければ、この奇妙な均衡は壊れるだろうか。

彼はそっと手を伸ばした。
触れたのは肌ではなく、彼女の肩からずり落ちそうになっていた髪だった。
桜色の細い束を指先でなぞる。熱い。魔族の体温よりもずっと、人間の、彼女の生命の熱が指先に伝ってくる。

そのまま、指先は彼女の耳元を掠め、首筋の近くで止まった。
触れるか触れないかの距離で、バッドは動きを止める。
ここで引き寄せれば、彼女を自分の「居場所」へと完全に繋ぎ止めることができる。そんな独占欲に近い衝動が、胸の奥で火花を散らした。

けれど、彼は唇を噛んで手を引いた。
代わりに、自分の脱ぎ捨てていたジャケットを、乱暴に、けれど音を立てないように彼女の身体に掛けた。

「……今日は、貸しにしといてやる」

バッドは再び床に腰を下ろした。
眠る彼女の影を背中に感じながら、彼は再び本を開く。
契約という鎖が、いつの間にか別の、もっと柔らかくて厄介な何かにすり替わっていることに、彼はまだ気づかないふりをしていた。
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