2.退屈な魔女と摩海の魔族

翌朝。
霧の深い山奥に佇む館は、いつものように深い静寂に包まれていた。
窓の外では乳白色の靄が森の境界を曖昧にし、朝を告げる鳥の声さえも、館を覆う強力な結界に遮られて遠い残響のように響く。
数百年の時を刻んでも決して変わることのなかった、冷徹で美しい朝。
――のはずだった。

『おい、魔女』

低く、どこか不遜な響きを含んだ声が、仕事机の上から降ってくる。
ヒイロは開いたままの調薬書へ視線を落としたまま、隠しきれない苛立ちと共に露骨に眉を寄せた。

「……朝からうるさい帽子ね」

机の端では、昨夜まで圧倒的な威圧感を放っていた高位魔族が、いまや黒い三角帽子の姿となって、不満げにふわふわと浮遊していた。布地の先端が、生き物のようにせわしなく揺れている。

『帽子じゃねぇ。バッドだ』

「でも今は帽子でしょう?」

『夜になれば戻れる』

「なら夜まで帽子で我慢してなさい」

ぴしゃりと言い放ち、ヒイロは再び羽根ペンを走らせた。
広々とした机の上には、丁寧に選別された乾燥薬草、鈍く輝く魔鉱石、そして妖しい紫色の液体が満ちた試験管が整然と並んでいる。室内には、彼女が長年親しんできた独特の甘く鋭い薬品臭が漂っていた。

バッドはしばらく黙ってその手元を眺めていたが、やがて持ち前の落ち着きのなさを発揮し、退屈そうに宙を漂い始めた。

『お前、朝からずっとそれやってんのか』

「仕事だもの」

『真面目だなぁ』

「誰かさんと違ってね」

帽子がふわりと軽やかに飛び、高い棚の上へと移動した。
次の瞬間、好奇心に満ちた声が飛んでくる。

『おい、これ飲んでいいか?』

「触らないで」

反射的な即答だった。
ヒイロはようやく顔を上げ、棚の上を睨みつける。
帽子の先端が、厳重な封印札が貼られた小瓶を器用に、そして恐れ知らずにつついていた。

「それ、半径三メートル吹き飛ぶ試作品」

『危ねぇな、この館』

「今さら?」

バッドがケタケタと愉快そうに笑う。
その毒気のない笑い声を聞きながら、ヒイロはそっと、自分でも気づかないほど小さな吐息を漏らした。

昨夜の契約から、ずっとこの調子だ。
許可なく喋り、勝手に飛び回り、土足で他人のパーソナルスペースへと踏み込んでくる。
静寂だけが唯一の隣人だったこの館に、異物のような、けれど生命力に溢れた「雑音」が入り込んでいた。

「……落ち着きないわね」

『退屈なんだよ』

「摩海へ帰れば?」

『もっと退屈だ』

あっさりと、迷いのないトーンで返され、ヒイロは一瞬だけ言葉に詰まった。
その僅かな隙を見逃さず、帽子はふわりと急降下し、彼女の華奢な肩へと着地した。

「なに」

『別に』

帽子の先端が、親愛とも悪戯ともつかない手つきで、さらりと桜色の髪を撫でる。
ヒイロは僅かに身を強張らせ、眉を寄せた。

「気安く触らないでくれる?」

『契約繋がってんだから今さらだろ』

「……それとこれとは別よ」

唇では拒絶の言葉を紡ぎながらも、彼女はその温もりを感じる重みを、力ずくで振り払うことはしなかった。
バッドはそれを察してか、満足げに、そして面白そうに喉を鳴らした。

調薬室の窓から、霧を透かした淡い朝日が差し込み、室内の銀細工を優しく照らす。
机に向かったまま、ヒイロは淡々と薬液を混ぜ合わせ続けた。
けれど、肩の上に乗った小さな重みと、そこから伝わる微かな熱だけが、どうにも意識の端から離れてくれない。

館を包む空気は、相変わらず静かだった。
ただ、昨日までと決定的に違うのは。
その静寂のすぐ隣に、決して孤独ではない「誰か」の気配が、確かに混ざり合っていることだった。
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