2.退屈な魔女と摩海の魔族
男は、愛嬌さえ感じさせる三角帽子の姿のまま、調薬室の空気を楽しむようにふわふわと宙を漂っていた。
黒い布地の奥から漏れる笑い声は、姿を変えられた屈辱など微塵も感じさせず、むしろ新しい玩具を手に入れた子供のように愉快そうだ。
「ぎぎぎ……」
『まさか召喚された直後に、ここまで鮮やかに契約まで持っていかれるとはな』
「油断したあんたが悪いのよ」
ヒイロは床へ落ちていたローブを拾い上げ、指先で埃を払うと、気怠げな動作で再び肩へ羽織った。
熱を帯びて乱れた桜色の長髪を梳きながら、冷ややかな、けれどどこか楽しげな視線だけを宙に浮く帽子へと向ける。
「それに、勝手に人の館で好き放題したのはそっちでしょう?」
『はっ。あれくらいで動揺してた癖によく言う』
「……燃やされたいのかしら」
ぴり、と静かな調薬室の空気が魔力で震える。
だが、使い魔となったバッドは恐縮するどころか、さらに楽しそうに布地を揺らして笑うだけだった。
『――で、お前。名前はなんて言うんだ?』
帽子が不敵に揺れる。ヒイロは一瞬、教える義理などないと言いたげに唇を尖らせたが、契約を交わした仲であることを思い出し、小さく息を吐いた。
「ヒイロよ。この館の主にして、あんたの新しい契約者」
『ヒイロ、か。いい響きだ。俺の名はバッド。摩海の魔公子だ。覚えておけよ』
ヒイロは、呆れたように小さくため息を吐く。
本来、彼女が扱う魔族というものはもっと分かりやすく、御しやすい存在だった。
力に屈して恐怖するか、牙を剥いて敵意を剥き出しにするか、あるいは機械的に契約に従うか。
けれどこいつは、そのどれにも当てはまらない。
許可なく喋り、勝手に笑い、こちらの心の境界線さえ軽々と踏み越えてくる。
まるで最初から、この館の主の一人であったかのような顔をして。
「……面倒なのを引いたわね」
『お前が呼んだんだろうが』
間髪入れず返ってきた即答に、ヒイロは一瞬だけ毒気を抜かれたように黙り、やがてふっと、自嘲気味な笑みをこぼした。
確かにその通りだ。
退屈凌ぎという贅沢な理由で試した、高位の召喚術。
だが、その亀裂から現れたのは、今まで彼女の周囲を固めていた退屈な連中とはまるで違う、色彩に満ちた存在だった。
恐れを知らず、媚びを売らず、どこまでも図々しい。
「まぁ、いいわ」
ヒイロは重厚な机の上に、二人の名が刻まれた契約書を置き、宙を舞う帽子を見下ろした。
「バッド。あんた、これから私の下僕だから」
『誰が好き好んでなるかよ』
布地の奥から、不満げではあるがどこか弾んだ声が響く。
『俺はただ、摩海が退屈だったから応じただけだ。まさか、こんな面倒な契約を仕込まれてるとは思わなかったけどな』
「ふぅん?」
ヒイロは興味深げに目を細めた。
「あっちでも退屈してたわけ?」
『強すぎると大体そうなる』
その返答は、傲慢な自慢話というよりは、ごく当たり前の事実を述べるような自然な響きを持っていた。
ヒイロは少しだけ目を瞬かせる。自分と同じ種類の「渇き」を、この不遜な魔族も抱えていたのだ。
そして次の瞬間、彼女は我慢できずに小さく吹き出した。
「何それ。最悪」
『お互い様だろ』
帽子がゆらりと揺れ、ヒイロの周りを揶揄うように旋回する。
毒気を含んだやり取りのはずなのに、それが不思議と嫌ではなかった。
静まり返り、時が止まったようだったこの館に、初めて小気味よい「雑音」が混じり始めた気がする。
ヒイロは窓の外へと目を向けた。
夜明け前の深い霧が、しっとりと山々を覆い、新しい一日の始まりを告げている。
長い間、何の揺らぎもなかったこの魔女の館へ。
厄介で、騒がしくて、そして妙に遠慮のない存在が、鮮やかな火花と共に跳び込んできた夜だった。
黒い布地の奥から漏れる笑い声は、姿を変えられた屈辱など微塵も感じさせず、むしろ新しい玩具を手に入れた子供のように愉快そうだ。
「ぎぎぎ……」
『まさか召喚された直後に、ここまで鮮やかに契約まで持っていかれるとはな』
「油断したあんたが悪いのよ」
ヒイロは床へ落ちていたローブを拾い上げ、指先で埃を払うと、気怠げな動作で再び肩へ羽織った。
熱を帯びて乱れた桜色の長髪を梳きながら、冷ややかな、けれどどこか楽しげな視線だけを宙に浮く帽子へと向ける。
「それに、勝手に人の館で好き放題したのはそっちでしょう?」
『はっ。あれくらいで動揺してた癖によく言う』
「……燃やされたいのかしら」
ぴり、と静かな調薬室の空気が魔力で震える。
だが、使い魔となったバッドは恐縮するどころか、さらに楽しそうに布地を揺らして笑うだけだった。
『――で、お前。名前はなんて言うんだ?』
帽子が不敵に揺れる。ヒイロは一瞬、教える義理などないと言いたげに唇を尖らせたが、契約を交わした仲であることを思い出し、小さく息を吐いた。
「ヒイロよ。この館の主にして、あんたの新しい契約者」
『ヒイロ、か。いい響きだ。俺の名はバッド。摩海の魔公子だ。覚えておけよ』
ヒイロは、呆れたように小さくため息を吐く。
本来、彼女が扱う魔族というものはもっと分かりやすく、御しやすい存在だった。
力に屈して恐怖するか、牙を剥いて敵意を剥き出しにするか、あるいは機械的に契約に従うか。
けれどこいつは、そのどれにも当てはまらない。
許可なく喋り、勝手に笑い、こちらの心の境界線さえ軽々と踏み越えてくる。
まるで最初から、この館の主の一人であったかのような顔をして。
「……面倒なのを引いたわね」
『お前が呼んだんだろうが』
間髪入れず返ってきた即答に、ヒイロは一瞬だけ毒気を抜かれたように黙り、やがてふっと、自嘲気味な笑みをこぼした。
確かにその通りだ。
退屈凌ぎという贅沢な理由で試した、高位の召喚術。
だが、その亀裂から現れたのは、今まで彼女の周囲を固めていた退屈な連中とはまるで違う、色彩に満ちた存在だった。
恐れを知らず、媚びを売らず、どこまでも図々しい。
「まぁ、いいわ」
ヒイロは重厚な机の上に、二人の名が刻まれた契約書を置き、宙を舞う帽子を見下ろした。
「バッド。あんた、これから私の下僕だから」
『誰が好き好んでなるかよ』
布地の奥から、不満げではあるがどこか弾んだ声が響く。
『俺はただ、摩海が退屈だったから応じただけだ。まさか、こんな面倒な契約を仕込まれてるとは思わなかったけどな』
「ふぅん?」
ヒイロは興味深げに目を細めた。
「あっちでも退屈してたわけ?」
『強すぎると大体そうなる』
その返答は、傲慢な自慢話というよりは、ごく当たり前の事実を述べるような自然な響きを持っていた。
ヒイロは少しだけ目を瞬かせる。自分と同じ種類の「渇き」を、この不遜な魔族も抱えていたのだ。
そして次の瞬間、彼女は我慢できずに小さく吹き出した。
「何それ。最悪」
『お互い様だろ』
帽子がゆらりと揺れ、ヒイロの周りを揶揄うように旋回する。
毒気を含んだやり取りのはずなのに、それが不思議と嫌ではなかった。
静まり返り、時が止まったようだったこの館に、初めて小気味よい「雑音」が混じり始めた気がする。
ヒイロは窓の外へと目を向けた。
夜明け前の深い霧が、しっとりと山々を覆い、新しい一日の始まりを告げている。
長い間、何の揺らぎもなかったこの魔女の館へ。
厄介で、騒がしくて、そして妙に遠慮のない存在が、鮮やかな火花と共に跳び込んできた夜だった。