外伝.紫の夜に見たもの

ヒイロが軽く右手を掲げると、足元の契約陣が応じるように輝きを増した。

床に刻まれた複雑な幾何学模様に、妖艶な紫の光が血流のように駆け巡る。かつて摩海の底で交わした絶対の縛りが、今この現代日本の隠れ館で再び呼び覚まされようとしていた。

バッドは嘆息を漏らしながらも、一歩、また一歩と躊躇いなく陣の中心へと歩みを進める。日中の小さな黒い三角帽子の姿からは想像もつかない、威圧感のある青い瞳が、怪しく光る魔方陣に照らされていた。

「さて。今夜も繋ぎ直すか」

「そうね。契約は放置すると少しずつ歪むもの」

ヒイロは不敵な笑みを浮かべ、薄暗い部屋の中で桜色の髪を揺らした。

二人は身を隔てるものを静かに取り払う。

ヒイロは迷いなくバッドに近づき、彼は慣れた手つきで彼女の体を抱き寄せた。
これは恋人たちの睦み合いではない。
交わした契約の縛りをより強固にするための、確実な魔術儀式。

肌と肌が直接触れ合い、二人の境界が融け合う瞬間、契約陣から目も眩むような紫の光が弾けた。

「……っ」

一瞬、ヒイロはきつく眉を寄せ、息を止めた。

重なる肌を通じて、二人の魔力がゆっくりと波長を合わせていく。紫と金の光が契約陣の上を巡り、離れていた魔力は再び一つの流れとして結び直される。
それは互いの存在を繋ぎ直すための、変わることのない儀式だった。

静まり返った部屋に、二人の重なる呼吸の音だけが微かに響く。

互いの熱を感じる距離で、二つの異なる魔力が波長を合わせるように共鳴を始めた。
ピリピリとした、肌を刺すような静かな緊張感が室内に満ちていく。

――その時だった。

ヒイロの青い瞳が、わずかに部屋の入り口へと向けられる。
完全に閉まりきっていない扉の隙間。そこから、戸惑いを帯びた気配を彼女は感じていた。

気配の主はライだ。若草色の髪を小さく揺らし、獣耳を伏せてこちらをじっと見つめているのだろう。

だが、ヒイロはそれを咎めることも、拒絶することもしない。ただ、一瞬だけ視線を向けた。

一方通行の譲渡ではない。
呼吸を重ねるごとに魔力は二人の間を巡り、完全に一つへと混じり合っていく。

自信家で、決して誰に屈することもない目の前の魔女。その彼女と己の存在が、融合している。
バッドの瞳の奥の光が強く揺れた。それは甘美な情動ではなく、彼女の圧倒的な存在感に心惹かれる下僕としての悦びそのものだった。

やがて契約陣の輝きが静かに収まり、室内には雨音だけが戻ってくる。
必要な儀式は終わった。
それだけのことだった。

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