9-2.紫の夜に見たもの

雨は夕暮れから降り続いていた。

実験室の窓を伝う雫が、外灯の明かりをぼんやりと滲ませる。

石造りの壁一面には薬草や鉱石が整然と並び、棚には色とりどりの薬瓶が静かに光を反射していた。
室内に漂うのは、乾燥させた薬草と薬液が混ざり合った独特の香り。
換気扇が低く唸り、調合に使ったアルコールランプの火だけが、小さく揺れている。

ヒイロは乳鉢の中身を慎重に瓶へ移し替えると、静かに栓を閉めた。
ラベルへ日付と調合内容を書き込み、棚の決められた位置へ戻す。
最後に机へ向かい、研究記録へ数行だけ走り書きを残した。

――薬効に変化なし。次回は配合比率を再検証。

ペン先を止め、乾きかけたインクを一瞥する。
壁掛け時計へ目を向けると、針は日付が変わろうとする時刻を指していた。

「……思ったより遅くなったわね」

誰へ向けるでもない呟き。
そのとき、不意に実験室の扉が開いた。

「まだ終わってなかったのか」

低く響く声。
夜を迎え、本来の姿へ戻ったバッドが、気だるそうに扉の枠へ肩を預けていた。

「珍しいわね。バッドがここに来るなんて」

ヒイロは顔を上げる。

「館ん中歩いてたら灯りが点いてた。それだけだ」

「そう」

短い返事だけを残し、ヒイロは器具の片付けを続ける。
ガラス器具を洗い、水気を丁寧に拭き取って棚へ戻す。
その手際を眺めながら、バッドは苦笑した。

「仕事熱心なのはいいんだけどよ、少しは休めよ」

「必要ないわ」

「お前が倒れたら俺が面倒見る羽目になるんだぜ」

「それは悪いわね」

口ではそう言うものの、謝っている様子はまるでない。
バッドも今さら気にしない。
契約を交わしてから数年。
こんなやり取りは日常茶飯事だった。

やがてヒイロは最後の器具を棚へ収め、小さく息を吐く。
その視線が壁掛け時計へ向いた瞬間だった。

「あ……」

ほんの僅かに眉が動く。

「どうした」

「今日だったわね」

バッドも時計を見る。
数秒遅れて「ああ」と鼻を鳴らした。

「契約の維持か」

「ええ」

「危うく忘れるところだったぜ」

「バッドらしいわ」

「お前も今思い出した口だろ」

否定はしない。
ヒイロは白衣を脱ぎ椅子の背へ掛けると、黒いマントを羽織った。

「行きましょう」

「はいはい」

バッドは肩を竦め、その後ろを歩く。

長い廊下を並んで進む。
雨音だけが館を静かに包み、他に人の気配はない。
互いに言葉を交わすこともなく歩き続ける。
それが気まずいと思ったことは、一度もなかった。

やがて二人は私室の前で足を止める。
ヒイロは静かに扉を押し開ける。

室内は薄暗く、中央には古い契約陣が静かに眠っていた。
普段は床へ溶け込んで見える紋様も、この夜だけは紫色の光を宿している。

バッドは契約陣を見下ろし、小さく笑った。

「毎度思うが、見た目だけは大層だな」

「契約は形だけでは維持できないもの」

ヒイロは迷いなく契約陣の中央へ歩み寄る。

「始めるわよ」

「ああ」

その短い言葉を合図に、部屋の空気がゆっくりと張り詰め始めた。
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