1.退屈な魔女の館

現代日本の地図から消されたような、霧深い山の頂。
峻険な岩肌を背にして、石造りの洋館が静かに佇んでいた。

古びたその館には、麓の人間も滅多に近づかない。迷い込んだ獣でさえ、何かを恐れるように山を下りていくという。

館を包囲する結界の存在を知る者は少ない。
ただ、招かれざる客だけは、決して長居できなかった。
その洋館の応接間に、一人の男が立っていた。

裏社会で“毒蠍”と呼ばれる組織の幹部。普段なら人を震え上がらせる側の男だったが、今は高級スーツの襟元をじっとりと汗で濡らしている。

部屋は静かだった。

壁際に並ぶ古い書棚。
天井近くで揺れるランプの灯り。
薬草とアルコールが混ざった、微かな香り。
そのどれもが妙に落ち着かない。

男は乾いた喉を鳴らし、慎重に口を開いた。

「……お願いだ、ヒイロ殿。この薬がなければ、我が組織は終わる」

震える手でトランクを開く。
中には黄金の延べ棒が隙間なく並んでいた。血と硝煙の匂いが染みついた、裏社会の莫大な富だ。
だが、それを前にしても館の主人は興味を示さなかった。

部屋の奥、天蓋付きの長椅子へ気怠げに身を預けていた女が、ようやく視線だけを男へ向ける。

「――少ないわね」

桜色の長髪が肩を滑り落ちる。
ヒイロは深いスリットの入った紫のドレスを揺らしながら、ゆっくりと身を起こした。
青い瞳には熱がない。
黄金を前にしているとは思えないほど、退屈そうな目だった。

「私の薬を、そんな箱ひとつで持っていこうなんて。随分と安く見られたものだわ」

「こ、これは相場の三倍は――」

「相場?」

小さく笑う。
愉快そうには見えなかった。
ヒイロは傍らの机へ手を伸ばし、小瓶を指先で摘み上げる。

淡い紫色の液体が、ランプの灯りを妖しく反射した。

「素材集めだけでも面倒だったのよ。しかも調整は繊細。少しでも魔力の流れがズレれば全部駄目になる」

瓶を軽く揺らしながら、つまらなそうに続ける。

「貴方たちは完成した薬しか見ないでしょうけど、こちらは工程ごとに神経を削ってるの。わかる?」

男は返事に詰まった。

黒いブーツが床を鳴らす。
ヒイロは男の前まで歩み寄ると、足先でトランクを軽く押した。黄金が数本、床へ転がって鈍い音を立てる。

「別に、貴方たちが潰れようと興味はないわ。抗争でも縄張り争いでも好きにすればいい」

男を見下ろす視線は冷たい。
けれど、それ以上に無関心だった。

「ただ、自分の価値も理解できない相手に、私の成果を渡す気はないだけ」

「……これ以上となると、組織でも簡単には用意できん」

「なら諦めなさい」

返答はあっさりしたものだった。
脅すような響きすらない。

「他を当たれば? まぁ、再現できるならだけど」

男の喉がひくりと鳴る。
この国で、ヒイロの調合技術に並ぶ者はいない。
だからこそ、彼はこの山まで来たのだ。

沈黙の末、男は床へ散った黄金を拾い始めた。

その姿を眺めながら、ヒイロは小さく息を吐く。

「……どいつもこいつも、欲しがるばかりね」

力。薬。救い。
求める者は後を絶たない。
けれど、彼らが見ているのはいつだって結果だけだった。

「次はもう少し、まともな話を持ってきなさい。……帰りなさい」

その一言に押し出されるように、男はトランクを抱え直した。
重たい扉が開き、閉じる。
足音が遠ざかっていくと、館は再び静寂に沈んだ。

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