シンク&アリア②
アリアの手を取ってダアトに戻ったばかりのこと。導師の指示でヴァンを探っていたという嘘で罪を免れ、神託の盾の立て直しをほぼ一手に引き受けていた。
日々、望まない忙しさで目まぐるしく過ごす。それでも心が凪いでいたのはアリアの存在があったから。ボクに「シンクでよかった」と笑い、「ここにいる君だ」と迫り、「導師とは違う」と言い放った女。
それらの言葉はボクがボクの命を投げ出さない理由にはならなかった。でも確かに記憶に焼き付いていて、地核から拾い上げられたボクの足を止めるには効力を持っていた。聞き流せなかった───「アリア」の言葉だったから。
でも。ボクが地核で手を伸ばし返したのは「アリア」だからじゃない。地の果てまで追ってきて必死に伸ばされた手が、ボクのためだけのものだったから。世界も、ヴァンも。ボクでさえ捨てたこの命を拾おうとした存在があの女だったから。
だからボクは。
*****
「シンク。ちょっといい?」
自分の執務室で書類に眼を通していれば、アリアが遠慮なく訪ねてきた。それに応え、少しばかり神託の盾再編について意見を交わす。一通り話終えれば、アリアはボクの顔色を窺うようにして問いを掛けた。
「疲れてる?」
「当たり前でしょ。どれだけの仕事が押し付けられたと思ってるのさ」
疲れが溜まらない筈がない。今更な問い掛けに八つ当たりも含めて返してやれば、しかしアリアはそんなことで動揺なんてしない。平然と躱して提案した。
「休憩しよ」
「少し休んだって変わらないよ」
「そうでもないよ。休み方にも色々あるしさ」
応えながら、アリアはボクの部屋で茶を淹れ始める。休憩するなんて言っていないのに勝手な奴だ。手元の書類に眼を戻そうとして、やめる。お節介焼きが部屋にいるのに仕事になるわけがない。
仕方がなく書類を机に投げ出し、応接スペースのソファへ移動した。
「ちゃんと寝てる?」
「さぁね。覚えてない」
誇張ではない。仮眠を取ることの方が多く、まとまった睡眠を取った覚えが暫くなかった。恐らく体は睡眠不足を訴えているが、構う気もあまりない。そうしてこの身を使うのは当たり前だったからだ。
目の前に温かい湯気を昇らせるカップが置かれる。拾い上げれば、ボクがよく飲んでいる珈琲ではない。眉を潜める。
「何淹れたの?」
「ハーブティー。交感神経を休めて欲しくて」
「余計なお世話だよ。この後も仕事があるんだ。珈琲の方がいい」
「そう言わずに。捨てるのも勿体無いから飲んでよ」
「………………」
そう言われれば仕方がない。折角淹れられたものを捨てる程、飲みたくないわけでもない。何かを言うことをやめ、ハーブティーに口をつけた。途端、仄かな花の香りが広がる。小さく、息を吐いてしまう。
アリアが向かいに座り、同じものを口にする。
「シンクってさ。自分に優しくないよね」
「優しくする必要がないからね。使えるものは使う。自分の体だろうが変わらない」
「そうやって酷使してたらさ、限界が来ちゃわない?」
「さぁ?」
はぐらかしたわけではなかった。限界が来た、と感じたことがなかっただけだ。確かに酷使しすぎて泥のように眠るまでに陥ったこともある。だが結局朝は来たし、ボクは変わらず起き上がった。死んでいないなら───限界とは呼べない。
言葉の背景まで汲み取ったかは不明だが、アリアは少し考えるように唸るとそれを伝えた。
「ボクは君に、身を削って欲しいとは思わないけどなぁ」
「お優しいことで。ただの道具に情を傾けたって無意味だよ」
「それだよ」
眉を潜める。「それ」と言われても分からない。アリアは構わず言葉を続けた。
「君を今使ってるのはボクだよね?」
「……そうなるね」
「なら、ボクの意思を汲んで欲しい。言ったでしょ、ヴァンみたいに使い潰すつもりはないって」
「………………」
言われた。ボクを使えと依頼をした時に明言され、ボクは好きにしろと答えた。これに関しては、アリアが正しい。ただ……心情としては理解が出来ない。道具は消耗品だ。労る必要なんてない。
「ヴァンが君をそう扱ってたのは分かってる。でも、ボクは違う。君にはちゃんと休んで欲しいし、自分に優しくしても欲しい。使い潰そうとしないで」
「……それは、アンタにメリットがあるの?」
「特にないよ。ただボクが……うん。ボクが君に優しい世界で在りたいだけかも」
「は?」
何を言われたのか分からない。思わず顔を凝視するが、アリアの表情は変わらない。相変わらず平然と応えてしまう。
「君の世界はさ、君に優しくなかったでしょ。ヴァンも君も、君に優しくしなかった。だからボクは優しくしたい。君を、尊重したいよ」
「───」
ボクを尊重する───言葉の意味が飲み込めない。ボクなんて価値のない不要品だ。使われるしか生きる道がない。ボクの体も、心も。どちらも捨て置いて構わない。その筈なのに。
「兎に角、これは契約上の正当な要求です。君はもっと君に優しくして」
「……そうは言われてもね。アンタが望んでることはよく分からない」
だってそれは、言い換えたなら「自分を大切にしろ」という言葉だ。大切になんて……する方法が分からない。したいとも思わない。どうすればいいのか、検討もつけられそうになかった。
その戸惑いを、アリアは器用にボクの表情から拾い上げたらしい。少し考えてから「分かった」と溢す。
「ボクが手本を見せるから、君はそれを自分なりの方法にして」
「手本?」
「そ」
頷いてアリアが腰を上げる。対面に座っていたのに、わざわざボクの隣に座り直すと指示をした。
「横になって」
「……は?」
「ハーブティーも飲んで少しは気が楽になってると思うし、今は睡眠を取って欲しい。だからここに横になって」
「ここって」
「ここ」
そのままの回答を受ける。なんなら、アリアの指は自身の膝を指していた。それがどういう意味か分からないなんてことはない。この女、頭が沸いているのか。
「冗談でしょ」
「本気なんだなぁ」
「断る。アンタに膝枕をされる覚えはない」
「シンク。ボク達、契約関係にあるよね?」
「……使う立場としての命令ってこと?」
「君が自分を労ってくれないからね。労られることを覚えるまで、解放しないよ」
「………………」
溜め息を吐く。ヴァンとあまりに違う要求に辟易とする。この女に使われることを選んだのは間違いだったかもしれない。そう思うが後の祭りだ。全く何も承服できていないが……今は従う以外に選択肢がないことも、分かっていた。
色々なものを諦めてソファへ体を横たえる。頭の下に触れる柔らかさが、居心地を悪くする。せめてもの抵抗で体を横にした。
「……満足?」
「まさか。まだまだだよ」
笑った気配がして、手が触れた。それはボクの髪を撫で、ボクを奇妙な心地にさせた。くすぐったい、とも違う。胸の表面がざわざわとして……息が、勝手に深くなる。
「シンクはさ。自分のことを捨てられるんだと思う。地核でそうしたように、身も心も」
「………………」
「でも、拾ったのはボクだから。君は預けてくれたでしょ。だから、もう捨てちゃダメ。いい?」
「……アンタには、ボクを拾い続ける理由があるの?」
「あるよ。ボクがそうしたいってだけだけどね。シンクがどうとか、条件があるような話じゃないんだ。ボクがそういう奴だから、君を粗末に扱いたくない」
「………………」
この女は変わらない。神託の盾の地下牢で怒りを見せた時と同じだ。大義名分やボクのためではなく、自分のために行動を決定する。それは決して理解は出来ないが……信用は出来る。理由が「アリア」にあるなら、アリアがアリアである限り変わらない答えということだから。
ボクはアリアに使われる限り、自分を捨てられない。
「……いい迷惑だよ」
「だろうね。でも諦めて。君は自分を労ることを覚えて欲しい。身も心も尊重されて、生きるんだ」
「………………」
どうしていいか分からない。そんなことを望まれた覚えはない。身も心も尊重されて生きる───アリアは、ボクに生きることを望む。
眼を瞑る。地核で伸ばされた手が思い出される。ボクに死を許さなかった自信に満ちた眼を思い出す。繋がれた、痛い程の熱が蘇る。
ボクの世界は、ひっくり返された。あの瞬間に。
「……ねぇ」
「うん?」
「手。片方空いてるよね?」
「空いてるよ」
「なら、出して」
「? どうぞ」
ボクの唐突な要求にもアリアは応える。理由を聞くことも、警戒することもない。見上げるのが嫌で横に向けていた体を、上へ向ける。アリアの片手はボクの髪を撫で続け、もう片手はボクの胸の上で掴んでやった。地核で繋いだ、あの時のように。
アリアが息を飲んだのが、眼を閉じた世界で聞こえた気がした。
「自分を甘やかせって言ったのは、アンタだ」
「……うん」
「……起こさないでよ」
「うん。任せて」
任せて、なんて。何を任せればいいのか。ボクの枕になり続けることか、触れる手を維持することか。どちらでも……なんでも構わない。何を任せるのかも分からないまま、ボクは任せてしまうことにする。
意識を手離そうと手綱を緩めてしまえば、睡眠不足で疲弊していた心身はすぐに休息を求めて傾きだした。飲まされたハーブティーで神経が休まり、触れる温度がボクに心地好さを与える。
与える───与えられる。
(……ああ。そうか)
以前の主とあまりに異なる要求。優しくしたいと言われ、望まれたこともないことを望まれる。それはボクの世界になかったもので、新しく与えられるものだ。
ボクを気遣って淹れられる茶も、労るために分けられる体温も。知らなかったもので、与えられなかったもの。アリアにとっては大した意味などない、些細なことなのかもしれない。でもボクには……「シンク」には初めて注がれる感情で。
優しくされる、ということを知ってしまう。
「………………」
呼吸が深くなる。胸が落ち着かないのに、勝手に気は休まる。誰かの前で眠ったことなどない。でも不安も抵抗もなかった。このままこの場所で眠りたい。与えられるものを享受して……ゆっくりと。
眼を閉じても伝わるその存在は、手離し難くて。
仄かな花の香りが、触れていた。
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