シンク&アリア③
久し振りに師がダアトに戻ってきた。
「ホレ、土産だ」
「なにこれ」
「ジュースだよ、ジュース」
「ふーん」
その言葉を信じたのが間違いだったかもしれない。
師はいつでもトラブルを起こしてくれる。
*****
「なにこれ」
ある晩、ボクの執務室に置いていたそれを見つけてシンクが取り上げた。つい最近もらったばかりの、師からのお土産だ。
「ジュースだって。お師様のお土産」
「あのオッサンが?」
途端、シンクの表情が怪しむものに変わる。気持ちは分かる。ボクも警戒して飲んでいない節はあったから。
「捨てたら?」
「それは流石に」
いくら相手が知った仲の師とはいえ、お土産を味見もせずに捨てるわけにはいかない。そう答えればシンクは仕方がないと言いたげに息を吐いて、提案した。
「ならボクが味を見る」
「え。大丈夫?」
「アンタに飲ませるよりはマシだよ」
そう……かなぁ。まぁ、流石に毒物だったりはしないと思うので、代わりに飲んでくれるなら助かるところではある。出来れば飲みたくない。
すぐにグラスを用意しジュースを注ぐ。シンクは目線の高さまで持ち上げるとそれを注意深く観察した。
「ふぅん……果肉が入ってるね。匂いは桃に近そうだ」
「桃のジュースなら普通のものかな」
「さぁね。飲んでみなきゃ分からない」
「何かあったらどうにかするから任せて」
「ハイハイ」
全然期待してない返事で受け流し、シンクはグラスを傾けた。軽く味を見るように一口飲み込み、眉を潜める。
「……普通だね」
「普通なんだ。じゃあボクも飲もうかな」
「いや。遅効性の可能性もある。念のためアンタは飲むな」
「君はボクの師をなんだと思ってるの?」
「師弟揃って最悪な奴等だと思ってるよ」
師の評価を求めた筈なのに、ボクまで含めて酷い言われ様だった。おかしいな、師より余程まともなつもりだったのに。
一先ずソファに座り少しばかり様子を見る。万が一何かがあった場合にすぐに動けるよう、今回は隣に並ぶことにした。こう見えても治癒師なので。
そのままグラスを飲み干すまで雑談をしつつ過ごしたが、特に異変はない。考えすぎだっただろうか、と思った頃。その変化はやってきた。
「………………」
「シンク?」
ふと、彼がぼうっとして見えることに気付く。名前を呼んでみるがすぐに反応はない。目の前に手を出してひらひらと振ってみると、ようやく緩慢な動きでこちらを向いた。ボクを見る瞳は、やはりどこか曖昧だ。
「だいじょぶ? 気分悪い?」
「………………」
「シンク?」
もう一度名前を呼ぶ。彼は───表情を緩めた。
「え」
いつもの笑い方では決してない。もっと自然な、嬉しいことや幸せなことがあった時につい浮かべるような微笑みだ。テセが浮かべるようなと言ってしまえば話は早い。でも今ボクの目の前にいるのはシンクの筈で、絶対にあり得ないからこそ固まってしまった。衝撃過ぎる。
「アリア」
名前を呼ばれる。まるでその三つの音が何より大事だと言わんばかりに、温かな温度を伴って。───明らかな異常事態だ。
思考停止から復帰しようと努力した瞬間、シンクが頭を傾ける。それは軽い衝撃と共にボクの肩口に寄り掛かる。もう一度思考が停止した。
「……えっと?」
「なに?」
「いや、あの。なに?じゃなくてね」
なら何を聞けばいいのかも分からない。状況が概ね飲み込めていなかった。動きを止めてしまったボクに、シンクは構わず口を開いた。
「嫌じゃないなら、いいでしょ」
「まぁ……それはそう」
寄り掛かられて嫌ということはない。ただ今までにない事態に戸惑ってしまうだけで。シンクはそれ以上何かを話すつもりもないらしく、黙ってボクに頭を預けているだけだ。……寄り添っている、だけ。
その距離感と温度が、むず痒い。
「……眠いの?」
「ううん……アンタの近くにいたいだけ」
「え」
脳が理解を拒んだ。およそ、彼の性格上あり得ない台詞だった。本心だとしても素直に口にする類いのことではない。鈍い動きの脳をどうにか動かす。
(シンクの状態異常がジュースによるものなのはいいとして……なに? 素直になる薬でも混ぜられてた??)
とりあえず緊急事態……という程ではない。この状態で部屋を出ていくようなことでもあれば彼のためにも止めなければならないが、ここにいる限りは問題ない。どのような言動があっても、ボクが墓場まで持っていけばいいだけの話だ。
一先ず様子見を続ける……と考えていると、シンクの頭が動いた。ボクの顔を覗き込んで不満そうに問い掛ける。
「なに考えてるのさ」
「え。いや大したことじゃ……」
「なら、違うこと考えないでよ。アンタはボクのことだけ考えて」
「待っ……??」
脳が理解を拒否するパートⅡ。彼の口から飛び出してくる言葉が理解できない。このジュース、人格を破壊する作用でもあるのだろうか。どうにか彼への返答を用意する。
「えっと……シンクのことだけ?」
「そう。アンタは導師のこととか、教団のこととか。考えることが多すぎる。もっとボクのことを考えてよ」
「結構考えてるつもりなんだけどな……」
「足りないよ。もっと……ボクだけでいいんだ」
囁くように呟いて、その顔がどこか寂しげに映る。……うっかり胸にきてしまう。状態異常中とはいえ、そうして剥き出しの感情を向けられることにボクは弱い。
ぐい、とシンクに肩を押される。ソファの上で押し倒され、シンクはボクを真上から見下ろした。顔を真正面から見てようやく気付く。シンクの瞳は熱でもあるみたいに潤んでいて、その顔は泣き出しそうに歪んでいた。
息を、飲んでしまう。
「ボクだけを見てよ……導師のことなんか、忘れて」
「……しん、」
「分かってる。アンタは無理だって。だから……今だけでいいから。今だけ、ボクだけのアリアでいて」
「………………」
切実な声だった。懇願、と言ってもいい。ジュースのせいだとしても、それが彼の願いであることは事実だと思った。だって彼は実際に同じことをボクに願ったことがあるから。自分だけを選んで欲しい───そう、世界の命運すら脇に置いて望まれた過去がある。
胸が、痛む。
「……シンク」
名前を呼ぶ。なるべく柔らかく、彼に冷たく届かないように。手を伸ばして頬に触れた。そこに涙はないけど、溢れてしまっても拭えるように。彼は、ボクを見る。
「いいよ」
「……え」
「今だけなら、いいよ。シンクのためのボクで」
「……ホントに?」
「うん」
微笑んで頷いて見せる。安心させてあげたかった。不安そうに揺れる瞳に何かをしたいと感じた。彼は……瞳から、ぽろぽろと涙を落とす。それはようやく溢れ落ちた涙で、初めて見る涙だった。
「アンタは……導師を呼び戻した。ボクが生きて側にいるのに」
「……うん」
「ちゃんとボクを見てよ。アンタが手を伸ばしたのは、ボクでしょ」
「うん。ごめんね」
謝ればくしゃりと顔を歪める。両頬を掌で包んで、涙を受け止める。そんなことで君の涙は───痛みは止まらないとしても。
「すごく……痛いんだ。アンタがあいつを選ぶ度に……痛くて、死んでやりたくなる」
「死なないで」
「っ……なら……なら! アンタが痛みを止めてよ! 生きてる限り……ずっと、痛いんだ」
シンクの表情は本当に苦しそうで、痛みを覚えているように見える。生きている限り痛み続ける───そうしてしまったのはボクだ。ボクが彼に生きることを望んだから。
(……困ったな)
どうすればいいか、分からない。どんな言葉を掛けても不誠実で、最終的には彼を傷付ける。ボクに出来ることなんてそう多くはなく、何が彼の助けになれるか分からない。
でも、今だけは。
今だけは彼のためだけのボクだから。
「シンク」
名前を呼んで、頬に触れていた手を離す。代わりに首に回して引き寄せた。咄嗟にボクを潰さないようにしてくれるけど、潰されたって構わなかった。君の生きる痛みに比べれば、全然だ。
「なに……」
「こうやって抱き締めてもさ。伝わらないものは伝わらないと思う。でも……言葉も、行動も。伝えようとしないと絶対に伝わらないから」
「………………」
「ボクに出来るのはこんなことだけどさ。君の痛みが……少しでも和らぐように」
シンクは身動ぎをしない。大人しくボクに抱き締められていた。ボクが生きる理由は、生きる痛みを知ったから。同じように思って欲しいとは言えない。でも出来るなら、シンクにもそうして生きて欲しい。痛みがあるからこそ死ねないと、思って欲しい。
彼はしばらく黙ってボクに抱き締められていて。互いの心臓の音が重なる。それがなんだか心地好くて、ボクまでこうしていたくなってしまう。……離れがたい。
不意に、呟きが落ちる。
「今だけ……ボクだけのアンタなら」
「うん」
「一緒に、寝て。朝目覚めるまで……側にいて欲しい」
「……うん」
少しでも長くその時間を引き延ばそうとする。ボクに君の気持ちが全部分かるなんてことは起こりえない。君がそこまでしてボクにこだわる気持ちだって、きっと何割かしか想像できていない。
でも、少しでも寄り添いたいから。
ボクは彼の望みを断らない。
*****
隣室にあるボクの私室で、並んでベッドに転がる。ジュースの影響なのか、シンクは既に眠そうだった。それでも眠気に抗っている様子で、今という時間が惜しいのだと伝わる。
顔の間で手を握って眠ろうとすれば、不満そうな顔が向けられた。
「もっと……近くがいい」
「近く?」
「そう。アンタの心臓の音が……全部が、感じられる距離」
言うが早いか手が伸びて抱き寄せられる。ぴったりと寄り添い合う形になり、互いの体温が交換された。
「……温かい」
「人並みの体温はあるからね」
「それだけじゃないよ。……匂いも、好き」
「匂い?」
「アンタからはいつも、甘い匂いがするんだ……花の香りみたいに」
心当たりはない。けど、彼がそういうなら事実なのだろう。匂いが好みの相手との相性は遺伝子レベルでよい、みたいな話をどこかで見た気がする。何にせよ、気に入ってもらえているなら良しとしよう。
シンクはボクの背に腕を回してぎゅうと力を込める。まるで……縋りつくように。それがまた胸を切なくさせた。
(多分……あのジュースは前頭葉の働きを鈍くする。理性が弱くなるから普段抑圧してる感情が表に出やすいんだ)
効果としてはお酒に近い。アルコールは入っていなさそうだったから、似たように「酔う」果実が使われているのだろう。それでシンクがこうなってしまった。
怪我の功名かもしれない、と思う。ボクは知らなかった。彼がどれだけ、その感情を抑え付けて側にいてくれているかを。どれだけの負荷が彼の精神に掛かってしまっているかを。
状況を改善することは出来ない。どんなに望まれても、ボクはシンクだけを選んで生きることは出来ないから。だからといって彼に変わって欲しいとも望めない。彼の在り方を決めるのは彼で……生きるためにボクが必要なら、ボクを諦めろとも言えないからだ。
だからせめて、こうして何かの力を頼ってでも発散する機会があるのはいいことだと思う。ボクもその時だけは……彼だけのために在ると約束できる。
「……もう、寝た?」
「ううん。まだ起きてるよ」
問われて答える。声は随分微睡んでいるようで、眠りに落ちる寸前なのだろう。何か伝えておきたいことでもあるのだろうか。きっと明日目覚めた彼は教えてくれないだろうから、聞いておきたい。耳を傾けた。
「ねぇ……ボクはさ」
「うん」
「ボクは……『しあわせ』が、分からない」
唐突な単語だった。それがどこから来た言葉なのか、ボクには分からない。きっとどこかで幸せについて考えるタイミングがあったのだろう。その続きを、彼は今言葉にしている。
「でも……アンタの側にいると、感じるものがある」
「………………」
「……もし『しあわせ』に形があるなら……それはアンタの形をしてるんだろうね……」
そう、囁いて……彼は眠りに落ちたようだった。微かな寝息が聞こえてくる。ボクを抱き寄せる腕の力も自然と緩まって、でもボクは抜け出さない。朝まで側にいると約束したから。
ボクが、幸せの形。その言葉に込められた深い感情を想像しながら、ボクも目蓋を閉じる。明日起きた君は、同じようにボクを「しあわせ」に数えるのだろう。それを胸に秘めて、言葉に出来ないまま。
君の呼吸を、もっと楽に出来たならいいのに。
叶わない現実に、もどかしさを覚えた。
*****
翌朝、目覚めたシンクは何も覚えてはいなかった。その性質上、記憶があったらシンクのメンタルが持たないと思うのでよかったと思う。彼は間違っても、ああしてボクに甘えることを良しとしないだろう。
ジュースについては「飲むと物凄く眠くなるみたい」と事実と異なる話を伝えておいた。それで眠りかけていたシンクをボクの部屋に運び、うっかり一緒に寝てしまったことにした。ボクなら全然やりそうなので全く怪しまれなかったのは、喜ぶべきか。
「このジュース捨てた方がいいんじゃない?」
「いや、使い道があるからとっておくよ」
「使い道? まぁ、あるだろうけど……」
訝しみながらも肯定する様を見ながら、彼の想像と違う使い道を考えていることは言えない。時々はシンクの抑圧された感情を発散すべきで───それに、このジュースは最適だ。彼が普段からもっと素直なら、要らないのだけど。
ボクももう少し彼のために出来ることを考えようと思う。痛みで死んでしまいたいと、泣く夜がないように。
(君の「しあわせ」で在り続けたいから)
君の涙は、空が泣くよりこの胸を打った。