シンク&アリア③
被験者のアリアの髪を、幾度触ったことがある。眠り続ける彼女を見守る時に、手慰みに。勿論、「結う」なんて行為はしたことがなかったが。
だから、いつからかアリアの髪が目についた。触り心地が気になった。触れてどんな気持ちになるのか気になった。被験者と同じなのか───そんな関心。
ボクが手を伸ばせば、そいつは大人しく触れさせる。女が髪を触らせるのは余程のことだと、なんとなく想像できる。でもこいつは大分普通じゃないから、どこまで一般常識に照らしていいのか分からない。
「ありがと、シンク」
鏡の前で、振り返ってボクに微笑み掛ける。表情を作ることの多いこいつが、偶に見せる自然な表情。どうしてボクにそんな顔を見せるのか分からない。ただ、そうして自分へ気を許しているみたいに振る舞う様が、ボクの胸に何かを湧かせる。
ボクを見て笑うアリア。ボクに髪を触らせるアリア。ボクの結った髪を気に入るアリア。ボクの存在が、彼女に影響することが心地好い。気分がいい。どこまでが許されるのか、試してみたくなってしまう。
「ボクで叶えられることなら叶えたいなって……思ったから」
こいつはこうして、当たり前のように甘言を吐く。あまりに軽率で胸に悪い。導師の言葉が蘇った。「アリアは優しくて甘い」───本当にそのままだ。
こいつが誰にでも優しく振る舞ったなら、きっとボクは嫌っただろう。誰にでも甘かったなら、嗤ってやったと思う。でもこいつがそうして手を差し伸べるのは、ボクと導師だけ。理由は分からないが、事実がそうだった。
だから、ボクは。
「……少し。動かないでいて」
「オーケイ」
ボクの要求にアリアは簡単に頷く。何をする気なのかも聞かない。関心がないから、じゃない。ボクが何をしたとしても受け入れるつもりだからだ。どうしてこいつはこんなにも甘いのか。胸の奥が、苦しい。
「………………」
距離を近付けて抱き締める。腕を回せば、アリアは大人しく収まってしまう。ボクより余程華奢な体。被験者の体を抱き締めたことはない。でも抱き締めて比較したいとは思わなかった。ボクが知りたいのは、アンタに触れて起きる自分の変化だから。
「……っ」
そっと。ボクの背に手が触れる。抱擁を返されている───どうして。嫌がって、暴れて、突き飛ばして。そうしたっていいのに、アリアは受け入れる。受け入れるどころか返してくる。そうしたいと言うように。……理解できない。
回した腕に力がこもる。抱き締めたい、と思った訳じゃない。縋ったんだ。被験者のアリアに縋った過去を、過去にしてしまいたくて。今ボクが縋りたい存在はアンタだから。アンタの存在が───「全部」だから。縋りついて、それを許されたいと思ってしまった。
(……アンタは、それも許すんだ)
身勝手に触れているのに、抱き締め返してまで。拒絶しないだけじゃない。受け入れるだけでもない。同じものを返そうとする。不器用で律儀な奴だ、と思う。そんな奴だから……ボクも引き寄せられてしまう。甘い花の蜜の香りに、抗えない。
捨てられるだけの生。空っぽのボク。与えられず、被験者に期待して磨耗した感情。それが、アリアの存在で癒される。こいつ一人で全てを解決してしまうのだから、本当に規格外だ。ボクにとって……「全部」で当たり前だった。
(この世界にたった一つだけ感謝してやってもいい)
ボクに唯一与えられた祝福が、アリアでよかった。