庭園の造花


 友が、幻想に溺れ始めたのはいつからだろう。

 家柄もあって、元々信仰深くはあった。ローレライ教を尊び、始祖ユリアを敬い、預言を忠実に守る人間だった。子供の頃から誰かの助けになるのだと、自分が人々の模範になるのだと、そう夢を語っていた。それがどうして、こんな形になるのだろうか。

 全てが狂い始めたのは、世界が預言から外れたと聞かされた時だ。

 大陸が次々と魔界へ沈んでいく時ですら、人々は不安を持ちながらもどこか楽観視していた。これもユリアの預言の通りなのだろうと。

 けれど余計な身分があるだけ市民よりも情報が早い。世界がユリアの預言から外れたこと。預言廃止の動きがあること。立て続けに知らされる真実。預言を信じていた友を揺るがした衝撃は、どれ程のものだっただろう。

 世界を預言から狂わせた男が死んだと伝えられて、ひと月が経った頃。ローレライ教団の最高指導者である導師イオンが死んだと、内々で報せがあった。

 それは始祖ユリアを敬愛する自分達にとっては、有り得ないことだった。世界は始祖ユリアに愛されている。世界は始祖ユリアの祈りに護られている。世界は始祖ユリアの慈愛に導かれている。

 その象徴たる導師が、次代も定まらぬまま逝去されるなど有り得ない。導師がいなければ預言は詠まれないのだ。預言が詠まれない世界など───有り得ない。

「何が新生ローレライ教団だ!!」

 思い切り机に拳が打ち付けられる。大詠師モースによる、新生ローレライ教団の立ち上げが宣言されていた。内容はユリアの預言を遵守すること。けれど友の瞳には怒りがあった。

 今代の導師はイオンであり、大詠師モースではない。それは自明だ。新生ローレライ教団の主張はキムラスカ王国とマルクト帝国がユリアの預言を蔑ろにしたために、世界が滅び始めたというものだった。

 だが、どうだろう。預言から世界を外した男は教団の詠師であり、導師は逝去された。その中で立ち上がったモースという男に、人々を正しく導く祝福があるだろうか。

 その中で、降って湧いた話のように導師代理が現れた。勿論、初めは懐疑的だった。道を誤った教団の、導師を惑わした人間達の組織だ。急に現れた代理とやらを信じる程、民も単純ではない。

 けれど、それから程なくして彼女の姿を眼にすることになる。それはキムラスカ王国の首都バチカル、その貴族街でのことだった。

「他のみんなは屋敷で自由にしててくれよ。俺は部屋で休ませてもらうから」

 アパシオナート家と同じ赤髪に、正当な血筋を表す碧眼の青年を見付ける。長年姿を見せてはいなかったが、その特徴的な髪と瞳をこの街の貴族街で見ることがあれば、間違う筈がない。

 ファブレ公爵家に生まれた聖なる焔の光。世界中を飛び回り預言から外れようとする世界を救おうと奔走している、とは聞いていたが実際に見掛けたのはこの時が初めてだった。

 だが、友の眼が捉えていたのは自分と似た立場にありながら預言に運命を詠まれて大切にされてきた、ルークではなかった。

「……ユリア様だ」

「プレスト?」

「ああ、我らが聖母は、世界をまだ見放してはおられなかったのだな……!」

 あの眼に宿った光を、何と述べよう。希望に溢れる瞳には違いない。それでも、見えない一歩を踏み出したかのようで。

 屋敷に戻ると友は語った。全ては変革の途上にあったのだと。世界は預言から外れたのではなく、民には新たな預言が与えられるのだと。そのために始祖ユリアは生まれ直し、今この時代に戻っていらしたのだと。

「ユリア様はまだ成熟されていないのだ。自らの使命を、役割を自覚されていない。人間達に騙され、汚され、道を誤ろうとしている」

 栄光の大地エルドラントが消失し、預言の廃止が三国から表明された際の言葉だ。それは確信に満ち、信仰に歪んでいた。

 それから後、彼の元に一通の手紙が届く。差出人不明のその手紙を受け取ると、彼は行動を開始した。意欲的に活動し、様々な人間と渡りをつけ、侯爵である父君を通さずとも話が出来るようになった。そして彼は言った。

「俺は神託の御子様をお救いする。過ちを正し、魂を清め、あるべき導きへ世界を委ねるんだ」

 その準備は整いつつあると彼は微笑んだ。それは子供の頃から見てきた他者を慈しむ彼の尊さで───それが何も変わっていないように見えることが、私には何より恐ろしかった。

 

 

 

*****

 

 

 

 声がする。自分を囲むように、ざわざわと。でも、それが何を言っているのかは分からない。まるでフィルターが何重にもかかったかのように、言葉は音になる。

(うるさい。耳障りだ)

 耳を塞ぐ。ノイズが苦しい。一人にして欲しい。音のない世界に行きたい。どうしてここは暗闇なのだろう。どうしてここは音に溢れているのだろう。どうして。

(どうして、プレストの声が聞こえないの?)

 今一番聞きたい声。耳にすれば、あの優しい声音で話しかけられれば、あの瞳に見詰められれば、安心するのに。ここにいていいのだと……ここにいればいいのだと、分かるのに。不安になる。恐怖に足がすくむ。

(誰か。誰か……!)

 手を伸ばす。それに何かが触れた。握られて、人の手だと気付く。ノイズの中で、耳元に鮮明な声が届く。

 ───僕は、貴女を連れて行きたい。

 知らない、声。聞き慣れない、でも、胸の奥が疼く声。なんだろう。温かい。くすぐったい。落ち着かなくて、側に行きたくて。失っては、いけないものだった気がした。

(っ!?)

 世界が一転する。暗闇の世界が色の洪水に変わる。光の中を落ちていくように、体が加速する。繋いでいた手が失われて再び体を恐れが襲う。

 けど、同時に湧き上がるのは手を伸ばさなければならないという意志。この先に何か大切なものが落ちていってしまったように思う。絶対に許せない───「ボク」の怒りが、置き去りにされている、ような。

(───!)

 名前を。呼びたい。呼ばなくちゃ。引き留めなくちゃ。失う。そんなことは許されない。許せない。なのにどうして。

 どうして───君の名が、思い出せない。

 

 

 

*****

 

 

 

「御子様!!」

「……っ!!」

 声に急激に意識を戻される。光。色。なんだ。上手く認識できない。ぐらぐらする。頭が、体が整わない。内蔵が、飛び出しそう。

「御子様、ゆっくり息を吐いて……! ゆっくり、ゆっくり……そう、いい子だよ。ゆっくりでいいんだ……」

 声が導く。不安定な意識と肉体を鎮めようとしてくれる。回る世界が、ぼやける世界が、ゆっくりと形を成し始める。そう……そうだ、ここは……

「……コモ、ド……?」

「そうだよ、御子様。ほら、まだ呼吸を続けて。数を数えるから、ゆっくり吐いて、吸うんだ」

 曖昧に滲む視界に、コモドの姿が見える。彼の表情は分からないけれど、声は安心させようと優しく届けられる。心臓に程近い場所をゆっくりと叩かれる。合わせて数が唱えられ、それに従って呼吸を繰り返す。肩の力が抜けて、段々と落ち着いてきたのが分かった。

「…………も、大丈夫……」

「……うん」

 改めて眼を開ければ、コモドは微笑みながら手を移動させ、髪をすくように頭を撫でた。子供扱いだと直感的に理解する。

「大丈夫だって」

「うん……分かってる」

 分かっているなら、何故頭を撫で続けるのか。分からないけれど、不快ではないから大人しくすることにした。やがて布が優しく目元を拭う。視界がぼやけていたのは涙が覆っていたかららしい。

「怖い夢、見てた?」

「……分からない」

 確かに最初から最後まで怖かった。暗闇で音に囲まれて、知らない声に手を引かれて、光の洪水に墜落して。

(でも、温かかった)

 声を聞いて、自分の奥で何かが疼くのを感じた。手を伸ばそうとした。手を伸ばしたいと感じた。そこへ行きたいと、そこへ行かなければならないと。失えない何かが、あった筈だと。何かが喉を塞いだ。あれは何だったのか。何が「私」の意識を揺らしたというのか。

「ね、コモド……」

「ん?」

「私は、世界を導く神託の御子、なんだよね?」

「うん。そーだよ。プレストが言ってたでしょ?」

「……プレ、スト……」

 そうだ。プレストが、言っていた。彼が言うのだから、間違いなんてある筈がない。いい子にしないと。彼の言う通りにしないと。渇いて、仕方がないから。

「コモド……プレストは?」

「まだお仕事中。だから御子様はゆっくり寝てて」

「……うん」

 渇く。渇く。胸に焦燥がある。不安がある。あの瞳に見詰められたい。存在を認められたい。ここにいていいと、いるべきだと教えられたい。望まれて───彼の漂わせる甘い香りが、意識を引く。

「……仮にも男の前でそーゆー顔するの、よくないと思うなー」

「え?」

「物欲しそうな顔。そんな顔見てたら信仰心もぐらつくよねー。プレストの場合は自業自得だけど」

 何の話をしているか分からない。コモドは不意におどけた雰囲気を引っ込めると、私に問うた。

「御子様。おかしいって思ってない?」

 呼吸が止まる。その問いは。それは。だって。

 コモドの顔を見る。彼は微笑んでいた。いつも通りに。おかしい。それは、気付いてはいけない筈だ。考えてはいけない筈だ。疑ってはいけない筈だ。

 自分に記憶がないことも。神託の御子だとか、世界を導くだとか。高熱が続いたり、時折恐ろしい夢を見たり。こんなに、渇いて、渇いて。プレストの与えてくれる薬がないと、気が狂ってしまいそうなことだとか。それは、気付いてはいけないことだ。

 なのに、コモドは。寂しそうに───哀しそうに、微笑んでいた。

「御子様に、もし勇気があるなら」

 彼は立ち上がる。ベッドから離れ、部屋の出口へ向かう。退出するつもりだ。退出する前に何かを言葉にするつもりだ。何を。聞いてはいけない。でも、聞かなくてはいけない。

「食後に出されてる薬を飲まないようにしてご覧。プレストには内緒で。凄く苦しくて辛いだろうけど……でも」

 でも。彼は、私にすがるように眉を下げた。それは弱々しく、まるで行き場を失った迷い子のようで。

「……どうか。プレストを、救って欲しい」

 揺れる碧眼に、嘘の色はなかった。

 

 

 

*****

 

 

 

「何故だ!?」

 机の上に書類を叩きつける。執務上、大切な書類なのだがそんなことに構う余裕はなかった。御子様の高熱が治まらないのだ。コモドから発作の報告があったその日から、もう数日。

「有り得ない……!」

 熱は一度落ち着いた筈だ。魂の浄化は成された筈だ。御子様には継続して薬を与えている。あれは魂の浄化を促す薬だ。飲み始めは浄化の作用で高熱が続き、苦しむことになる。だが試練を乗り越え安定してきたならば、飲み続けて不調を呼ぶことはない。薬を常用し、普通に生活を送ることが出来るようになる筈だ。御子様はその段階に入ってきていた筈だ。

 それなのに、何故。

「……あいつらか」

 頭に浮かぶのは屋敷を訪ねてきた導師達の姿だ。汚れた魂が……かつて御子様を汚した魂が、身の程も弁えず近付いてきたために汚れが移ってしまったのか。そうとしか考えられない。導師と言えど、始祖ユリアの生まれ変わりに比べればただの人間に過ぎない。汚れを振り撒く、愚かな存在だ。

「どうにか、しなくては……」

 御子様の魂が漱がれなくては始まらない。人々は、世界は救済されない。御子様を正しい道へ導くために選ばれたのは自分なのだ。どうにかしなくてはならない。自分だから出来る。自分にしか出来ない。

「……っ」

 引き出しを開ける。そこから小瓶を取り出した。御子様に与えている薬だ。食事の際に毎度処方し空の瓶を受け取っている。

 これを与えれば、今日一日で与えていい適正量は超えてしまう。それでも他に方法は思い付かなかった。

 部屋の明かりを消し、誰もいない廊下を進む。こんな夜更けに女性の部屋を訪れるなど有り得ない。特に、御子様に対してでは不敬もいいところだ。だが、事は急を要す。通い慣れた部屋の扉を控えめに三度ノックするが、返事はない。

(眠っていらっしゃるのだろうか)

 当たり前だ。もう夜は更けているのだから。ならば、起きて頂くしかない。一刻も早く魂の浄化を成さなければならないのだ。高熱に苦しむ御子様を見ていたくはない。扉をそっと押し開き、中へと踏み込む。

「……っ、ぅ……」

「!」

 小さな息遣い。くぐもった声に、苦しげな呼吸。扉を閉めて慌てて寝台へ駆け寄れば、布団が乱れていた。薄闇の中で見下ろせば、寝台の上に広がる亜麻色の髪が認識される。御子様は体を小さくし、震わせていた。己の肩を抱き、何かに耐えるように肌に爪を立てる。その口は白いシーツを噛み、声を殺していた。

「御子様!!」

 お痛わしい姿に胸が詰まる。何故気付かなかったのか。何故今まで隠されていたのか。この苦しみを、奪い去ることが俺の役目だというのに。

 何に構う余裕もなく御子様の体に触れ抱き起こす。酷い発熱だ。体中が熱い。汗ばんだ皮膚に、美しく長い髪や寝衣が張り付いている。ここへ運び込んだその日と同じだけ熱い吐息が浅く繰り返され、御子様の渇きを理解する。

(ああ、御子様は戦われているのだ。戦うために、この薬を欲されている)

 手の中の小瓶を見る。ここまで来ても少しばかりの不安と躊躇いがあったのだが、それももうない。御子様の姿を見て確信したのだ。自分がとれる最良の選択肢がこれなのだと。自分が最大限、御子様のお力になれる方法は、今はこれしかないのだと。

「お待ちください、御子様。今……!」

 小瓶の蓋を開ける。甘い、独特の香りが僅かに鼻先に触れた。途端、

「……ぁ」

 御子様が目蓋を上げる。水色の瞳が、熱に浮かされ朦朧としているように、焦点の定まらない様子で、しかし確かに小瓶の方を見る。美しい湖面のような色が、濁って見えた。熱い呼吸を繰り返すだけだった唇が明確に開けられ、渇きに喘ぐ。

 求めておられるのだ、この薬を。飲み込まれることを忘れたように唾液が口の端から溢れ落ち、濡らす。体が予感される歓喜に震え、俺にすがった。

「御子、様……」

 震える。脳が揺れる。ダメだ。いけない。邪な考えだ。今、御子様は苦しまれているのだ。俺が助けになって差し上げなければならない。ここにいるのは他でもない俺で───俺だけ、で?

「はっ……」

 熱い吐息。熱をもった体に、汗で張り付く長い髪。はだけた寝衣からは白い肌が……肩が、太腿が、露になっていて。

 震えながら俺にすがりつく手が愛しい。可愛らしい。美しい。朦朧とした表情に、溢れ落ちる唾液に、何かが揺れる。触れたい。暴きたい。しなやかな体の線を描きながらも、俺の眼から御子様の柔肌を隠し続ける無粋な布を、取り去りたい。

 御子様が喘ぐ。俺の名を呼んで、俺を求めて、俺だけを映して、淫らに。その姿が、見たい───

「ぅ……あぁっ!」

 その瞬間、妄想が弾けた。小瓶を求める御子様の手が、小瓶を弾いたのだ。俺の手を離れ、床に落ちる。中身が質のいい絨毯に染み込んでいくのが見えた。

「………………?」

 理解が出来ない。思考が停止する。何が。違う。きっと、小瓶を取ろうとして手が滑ったのだ。うっかり弾いてしまった。これだけ意識を朦朧とさせ、体を震わせているのだ。当たり前だ。俺の配慮が足りなかった。まさか、御子様が魂の浄化を拒むなんて、有り得ない。

 ───水色の瞳に、微かな光があった。

「あ……」

 御子様の眼は、ハッキリと小瓶を睨んでいて。絨毯に吸い込まれる液体を認識していて。俺なんて見ていない。見えていない。彼女は、俺を、愛しては。

「………………」

 御子様の体を寝台に横たえ、離れる。彼女は浅い呼吸を繰り返し、苦しみ続けていた。俺はその側を離れ、床に落ちた小瓶を拾い上げる。中身は全て絨毯に吸われたわけではなく、僅かに残っていた。それを持って、御子様の元へ戻る。

「……はっ……はっ……」

 きつく閉じられた目蓋。俺を映さない。薬を拒む。こんなに、美しいのに、汚れた魂。

「……許されない」

 そんなことは許されない。貴女には役目がある。使命がある。ここで、こんな最初の段階で転ぶわけにはいかない。失望させないで欲しい。何故なら、

「人はみな、与えられた使命を全うするために全てを与えられるのだから……!」

 乗り上げる。薬を自身の口に含む。口内に焼けるような熱が広がる。構わない。今この時の激情に比べれば、この程度の痛みなど。

 身を屈める。見下ろしていた目蓋が開く。小さな手が弱々しく俺の肩を押す。細やかな抵抗が行われる。そのどれもが弱い。そう、弱いのだ。弱い。

(貴女は、弱い)

 自分一人では正しい道を選べないくせに。俺一人もはね除けられないくせに。弱い。儚い。こうして抑え込んでしまえば、何も出来ない。俺が護らなくては。俺が支えなくては。俺が正さなくては。

(貴女はただ───俺に従っていればいいんだ)

 両腕を片手で抑え、唇を触れさせる。柔らかい。熱い。閉じられた唇は、しかしすぐに堪えきれず開かれる。渇いているのだ。喘ぎを止めることは出来ない。吐息と共に薬を流し込む。

(……ああ)

 満たされたい。触れている。体の内側に、自身が侵入している。許されている。受け入れられている。それが幸福で、でもまだ足りない。まだ欲しい。空いている手が下がる。柔らかい肌を滑る。けれど、

「───、」

 見てしまった。気付いてしまった。体中から熱が引く。頭から冷水を浴びせられたようになり、心臓が不穏に早鐘を打つ。俺を見上げる、その眼は。

 侮蔑の色を、向けていた。

 

 

 

*****

 

 

 

「……で、プレストと喧嘩中?」

「……その名前を呼ばないで」

 ベッドの上で布団に埋もれて出てこない御子様に、オレは頭を掻いた。あれだけプレストのことを考えていたのに、この拒否の仕方では重症だ。今日いつものように訪ねて来てみればずっとこの様子で、どうにか何があったのか聞き出したところだった。しかし、まぁ。

「ちょっと襲われただけでしょー? 意思疏通に問題はあったかもしんないけど、好き合ってるならいーじゃん」

「………………」

 返ってくるのは沈黙だ。オレの理屈に否定が難しくて複雑になっているのか、それとも。オレはその「それとも」の方を口にした。

「嫌だったの? 口付け」

「………………」

 返事はない。でもこれは簡単だった。今まで大勢の女性と恋の駆け引きをしてきたのだから、無言から察するのにも慣れている。これは「嫌だった」が正解だ。

(ま。そー上手くはいかないか)

 元々、彼女がプレストを何とも思っていないことは理解していた。舞踏会でも街でも、路傍の石にしてはうるさいなくらいにしか思われてはいない。当のプレストは気付いていないようだったけれど。

(彼女がプレストを見ていたのは、記憶を失ってからだ)

 記憶のない不安からか、甲斐甲斐しく世話を焼く姿からか、それとも世話になっている負い目からか。彼女がプレストを見ていた理由はその辺りが妥当だ。決して、恋愛感情ではない。

 正直に言えば、個人的な仲の良さならオレの方が上だという自負すらあった。それも、ただのお喋りな案山子と変わらないだろう。彼女はオレのこともプレストのことも見てなどいない。記憶がなくとも見る先は変わっていない。プレストはただ、彼女を薬で壊して理性を奪い、身勝手な支配欲に付き合わせただけだ。

(男ってそーゆーモンなんだけどね)

 誰だってそうだ。愛しい、可愛い、大切にしたい。そう言いながら見下ろしている。餌を与え、箱庭で可憐に微笑む姿を願い、都合よく在るように仕向け、自分に従わせようとする。

 自分にすがりつく姿に興奮し、自分だけに従順に、乱れ、惑い、喘ぐ様を妄想する。そういうものだ。その「女」が何を考えているかなど、どうでもいい。自分を気持ちよくしてくれる道具くらいにしか思っていない。

(でも、そーやって見られる側は堪んないよなー)

 殆どの男は自分の醜い欲求に気付かない。気付かないようにして生きている。いや、気付いても肯定するのだ。そういうものだと、それが男だと。だから、男は狼。言葉など通じない。女に生まれなくてよかったと、もう何度思ったことか。

(それに比べたら途中で正気に戻ったプレストちゃんは良い子だし、自責の念で寄り付かないと決めたのも潔癖なんだけどね)

 オレなら幾らでも甘い言葉を囁いて、朝までには落とすのに。落としてしまえば何の問題もない。好き合っているなら、多少の順序は飛ばしてもなんとかなるのだから。

(あー……でも、御子様はなぁ)

 数日前の様子を思い浮かべる。口付けして肌に触れて夜を共にすることを添い寝と言われては敵わない。今回の件で、何が違うのかよく思い知っただろうけど。

 良い社会勉強になった……とは、流石に言えない。言えばオレまでこの部屋から叩き出されてしまう。全く。プレストの撒いた種なのだから、プレストが解決してくれれば良いのに。

 どうしたものかと首を捻っていれば、御子様の方から言葉をくれた。

「……アレが、コモドの言ってた『特別』?」

「えっ?」

「『全部が欲しい』ってヤツ」

 そう言えば、そんな言葉で説明したような気がする。「全部が欲しい」……その通りだ。「特別」……そうだ。でも、オレは知ってる。男の望む特別は自分にとって都合の良い、見返りを求めたものであることを。特別という言葉は時に、もっと重要な意味を孕む時があることを。

 そして目の前の彼女が、その答えに至ってしまうことを、察していた。

「なら、要らない。あんな特別、要らない」

「………………」

 あちゃー……という顔をするしかない。これはダメだ。決定的なところまで来てしまっている。凄い平たく言えば、プレストは「嫌われることをしてしまった」、だ。

 フォローすればオレの立場が悪くなるし、かといって彼女に賛同するわけにもいかない。プレストと彼女を対立させたいわけではないのだから。これは、プレスト自身の努力と時間に解決してもらうしかなさそうだ。

「あー……えっと、御子様? アイツのことは一旦忘れて、とりあえず布団から出てこない?」

「……コモドも、男の人でしょ」

 ご機嫌を伺おうとすれば拒絶をもらった。男性不信気味になっている。まぁ、そういう経験がゼロのお子様じゃ仕方がないか。納得して一つ頷いた。

「そーだね。でも安心して。オレ御子様には手ぇ出さないから」

「……信用できない」

「そこはほら! オレと御子様の仲でしょ~? 今まで一度だって、オレ御子様に熱い視線送ったことあった?」

「熱い……視線……」

 何かを考えるような間。昨晩、恐らくプレストに向けられただろうそれを思い出しているのか。しまった逆効果だったかと頭を抱えたくなった瞬間、もぞもぞと布団が動いた。

 ひょこりと、亜麻色の髪と水色の瞳が現れる。その顔は引かない熱で赤い。彼女はオレの言葉をどう思ったのか、プレストに内緒で勝手に断薬しているようだった。その結果、中毒性の高い薬を取り入れすぎた体は禁断症状に冒されている。中毒性が高い分反動も大きい筈なのだが、それでも彼女の意志は固いようだ。もう何日も口にしていないのだから。

(熱で発汗も多いし、ある程度は追い出せてるとは思うんだけどね)

 見舞いに来ている間、しつこく水を飲ませているのでそっちも効果がある筈だ。心配なのは熱が続くことによる脳へのダメージだが、なんとかなってもらうしかない。外から冷やすくらいは勘づかれないだろうが、下手なことをすればオレの協力がバレてしまうのだから。

 と、御子様が布団の中で呟いた。

「……知ってる」

「え? 何を?」

「熱い眼」

 突然何を言い出すのか。嫌だったと言いながら昨晩のプレストを思い出して惚気られているのだろうか。だとしたら心配損だ。痴話喧嘩は犬も食わない。

 なんて思ったのに、御子様の表情は真面目だった。遠くを見るように、眼が細まる。

「どこかで、見た……」

「………………」

 今度こそオレは自分の失策を思い知った。やってしまった。想定が足りなかった。彼女にそんな眼を向ける人間が他にいなかったか、考えても見なかった。いや、プレストに対してあまりに初なため、ないものと決めつけていた。

 でも、彼女はどこかでそれを記憶している。オレの軽率な一言で思い出すくらいには、意識に引っかけていたのだ。

(プレストに昨日襲われたのが衝撃的すぎたってのと、薬の効果が弱まってるせいもあるだろうけど)

 けど、それならそいつはどれだけ気が長いというのか。初な彼女を初なままにしておけるということは、全く警戒されていないということだ。オレなら傷付くし堪えられない。添い寝とか言い出す純真無垢な無防備さに、気があるのに堪えられるなら修行僧もかくや、だ。もしかして男じゃないのか?とまで思う。

「……大事に、されてるんだね」

 思わず感想が口を突いて出てしまった。しまったと塞ぐけどもう遅い。オレを見る御子様は驚いたように瞬きを繰り返していて、それから不意にそっと笑った。今の彼女に記憶はないし、その眼の持ち主が誰かも分からないけれど、それでもどこか懐かしそうに。

「───うん」

 その顔に、オレの中で揺らいでいた決意が、固まる。

 

 

 

*****

 

 

 

 やってしまった。失態だ。俺は最低の男だ。ここにいることすら許されない。あまりにも罪深い。

「全部口に出ていますよ」

「うぅ……殺してくれ……」

「ふざけたことを……」

 執務室で自己嫌悪に苛まれる俺に、冷たい声を落としてくるのは幼馴染みだ。薄紫の長髪を一つに纏めた、紫眼で長身の男。カルマート・グランツィオーソ。伯爵家の出で、子供の頃からコモドと三人でよくつるんでいた。今も、それは変わらない。

「つまらないことを言っていないで、次を考えなさい」

「次……!? なんて破廉恥な───」

「御子様の魂の浄化の話です!」

「あだっ!?」

 机に突っ伏していた顔を上げれば、直後に本の角が降ってきて頭頂部を突いた。あまりの痛みに再び机に突っ伏す。

「お、お前……」

「貴方が私欲に走ろうと構いませんが、自分の立場を忘れられても困ります。頭を冷やしなさい」

「ぐ……」

 正論だ。己の浅はかな行いを悔いることは重要なことだが、時は刻一刻と進んでいるのだ。世界を救済するにあたって、歩みを止めることは許されない。不本意だが、無理矢理にでも頭を切り替えることにする。

「……だが、御子様の魂が浄化されない理由が分からないんだ。薬は与えているし、空の瓶が戻ってもいる。本当に導師達が訪ねてきたこと以外、思い浮かばない」

「貴方は本当に頭が使えませんね」

「なんだと!?」

 心からの嘆息を送られて衝撃を受ける。必要なことはしている筈だ。何が足りていないというのか。しかし、カルマートはその説明をすることはなかった。

「仕方がありません。計画を変えましょう」

「他に手があるのか?」

「ええ。少し強引な手段になるため控えていましたが、時間がありません」

 任せてもらえますか、と問われて、俺は頷く。カルマートやコモドが俺を裏切ることなどない。彼ら以上に信頼できる者などいないのだから。彼らを疑うようになれば、その時はきっと俺の方が間違っているのだ。

 カルマートも頷き返した。

「では、今晩さっそく術に取りかかります」

「ああ。御子様を頼む」

 カルマートは鋭い紫眼を更に細め、いつもの頼もしい笑みで応えた。

 

 

 

*****

 

 

 

 夜更け。前の晩に襲われても尚眠気は来るもので、警戒に疲れていつの間にか眠ってしまっていたらしい。眼が覚めたのは、何となく違和感があったからだ。空気がざわめくような感覚。

 眼を開ければ、室内の暗闇に人影が見える気がする。

(誰……?)

 まだ頭が起きていなくて、ぼうとその人影を見上げる。コモドではない気がする。ならプレストだろうか。途端、警戒が脳を叩き起こした。

「!?」

 咄嗟に飛び起きようとして、更に驚くことになる。体が動かない───両手両足を拘束されていた。口には猿轡があって、典型的な拘束スタイル───あれ、なんだっけ、この文言。

「お静かに」

 聞き慣れない声に息を潜める。誰だろう。少しでも情報が欲しい。五感の全てを使って相手の正体を探る。けど、拘束されて床に転がされている身で分かることなどたかが知れていた。相手が男であるらしいことと、身長が随分ありそうだということしか分からない。

「無礼を承知で拘束させて頂きました。抵抗されては困りますのでね」

「………………」

 考える。ここはプレストの屋敷だ。それは変わらない。コモドの姿はないし、目撃者はいない。だからといって誰でもここに入れるかといえば、その筈もないのだ。

 以前好奇心に負けて部屋から出ようとした時に、あっさり見付かって叱られた。その時に、この部屋には人間の出入りを察知できる結界を張ってある、みたいな話を聞いたのだ。なら、目の前の男はプレストの許可を得て立ち入っているか、その結界を無効化するだけの実力があるかだ。

(どちらかの判断は出来ないけど……)

 そう、思考して。はたと気付く。手足の拘束は分かる。抵抗を受けないためという言葉そのままだ。だが、猿轡とはどういうことか。

(……声を出されては困る?)

 その瞬間に理解した。この男がしようとしている何かは、プレストの耳に届いてはいけないものなのだ。具体的には分からない。分からないけど、プレストを呼ばなくては。その答えに辿り着いたのに、遅かった。

「私にばかり気を取られていたようですね」

 きらきらと、体の下で床が輝く。違う。何かの模様が描かれている。舞っているのはそれを起動させる力の輝きで───知識が答えを提示した。音素と譜陣……これは、譜術だと。

「では。どうぞお眠りください。───神託の御子様」

 その輝きが最後の記憶で。






 あとは、ぶつり、と。

 全てが黒に切断された。
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