庭園の造花
暗い。
何も見えない。
何も聞こえない。
手を伸ばしても、実際に手を伸ばせているのか分からない。
感覚がない。認識が出来ない。
ただ呼吸すら苦しくて。
泥の中に、全てが沈んでいくようで───
*****
「!」
一転して、明るい世界がボクを迎えた。光が溢れ、色も形もある世界。目覚めと共に眺めることになる天井も、もう数日は変わらない。ここはキムラスカ王国の首都バチカル───その街にある宿の一室だ。
「……は、」
浅くなっていた呼吸を落ち着けて、体を起こす。鉛のようにとは言わないが、普段より体は重い。睡眠をとっていても体が休まっていないのだと思うが、そんなことに構う気はなかった。じっとりと皮膚を覆う汗が気持ち悪い。
(……なんで)
ベッドから抜け出し、シャワールームへと向かう。思考するのは自身の置かれている状況や体調ではなく、たった一つのこと。感情が先立って思考が妨げられている。そんなことにすら、ボクは自覚があるのかないのかも怪しくて。占めるのは、後悔と焦りと不安だ。
(なんで、アンタがいない)
───導師補佐役が行方知れずになってから、一週間が経とうとしていた。
*****
あの日。夜中に出航している怪しい船に乗り込んだボクは、アリアを見付けることが出来なかった。
疑った通り、最近バチカルでひっそりと続いていた行方不明事件の犯罪集団が利用している船で、被害者は幾らか生存を確認出来ている。ただ、その中にアリアの姿はなかったのだ。
制圧後、一番新しく仕入れられた「資源」の女は証言している。「もう一人、自分のせいで捕まった女の子がいる筈だ」と。特徴を聞けばアリアと合致したし、あいつが今回の行方不明事件に関わったことは間違いない。それなのに、姿はなかった。
「船も荷馬車も、厳重に確認をさせています。彼女がバチカルの外に連れ出された可能性は低い筈です」
城の私室で、ボクを呼び出した王女はそう言った。アリアが見付からなかったとはいえ、事の顛末をキムラスカ王国に報告しないわけにもいかず、ボクは明け方には引き上げて登城した。
報告を受けて、インゴベルト国王陛下はすぐに人の出入りを厳しくしたし、導師補佐役の捜索に兵を出した。それでも見付からない。見付からないまま、次の日が来る。
(次の日)
アリアがいないまま、進む時間。
そんな日が、あと何回来る?
「……シンク。貴方が自身を責める気持ちも分かりますわ。ですが、きちんと休息をとってくださいませ。酷い顔色ですわ」
「王女サマには仮面の下が見えるって?」
「当たり前です。これでも共に旅をしたのですよ」
「………………」
仮面で隠せていない部分で十分ということか。普段ならそれでも体調を知られるヘマはしないのだが、繕う余裕すらないようだった。自分で自分の惨めさが嗤える。
「そんなお小言を言うためにわざわざボクを城に呼んだワケ? なら、もう用は済んだよね」
暇じゃないから行くよ、と残して踵を返せば、否定の声と共に引き留められる。
「お待ちになって。貴方を呼んだ理由はもう一つありましてよ」
何か、と睨むように王女を振り返れば、「どうぞ。入っていらして」と続き部屋に声が掛けられる。扉が開いて入ってきた姿に、ボクは久しぶりに動揺した。
見慣れない旅装束に身を包んだ二人の人間。鏡を見てるように同じ顔が一つと、周りに迷惑をかけて行方知れずになってる馬鹿と同じ顔が一つ。喉から出ていった声は、どこから来たのかも分からない怒りを含んで低くなっていた。苛々する。
「───なんでバチカルにいるワケ、導師サマ」
「帰還命令を無視する兄を諌めるために、でしょうか」
返ってきた声に冗談は欠片も感じられず、こちらを見据える眼にいつもの甘さはまるでない。隣に並ぶ水色の瞳も、眉を吊り上げて同じように大きく頷いた。意識的に嗤う。
「ああ、つまり役立たずの護衛役はお役御免ってこと?」
「こーら。分かってて曲解するのは悪趣味よ」
めっ、と被験者のアリアは片目を瞑った。自分の口がへの字に歪むのを自覚する。分かってる。このお人好し達が、どうして危険を冒してまで他国へ出てきたのかくらい。それが分かってしまうくらいには、近い場所で過ごしてきた。
「シンク」
呼ばれて見れば、真っ直ぐな緑の瞳にぶち当たる。導師としての顔と察して少しは大人しくする。
「今回のキムラスカ王国への協力、よくやってくれました」
「……ついでだよ」
「そうだとしても、貴方の行いのお陰で多くの命を失わずに済んだことは事実です」
称賛。労いの言葉。目の前で微笑む顔に苛立ちが増す。やめろと、心の内で声がする。そんなことでは、この後悔は止まらない。堪えきれず、言葉として出ていく。
「でも、アリアがいない」
「はい。そうですね」
護衛役としての任を果たせなかった。やるべきことが出来なかった。何のためにここにいたのか。何のためにアリアの傍を望んだのか。何のために……生きているのか。
(生きている価値すらない)
当たり前のことを、今更のように繰り返す。知っていたのに、分かっていたのに。アリアが拾ったからある命。ここにあるのは残り滓で、ボクなんてモノは最初から存在しない。あの、ザレッホ火山で捨てられた日から───
「導師補佐役の護衛役。貴方に補佐役の捜索を命じます」
言い渡された命に、眉が寄る。趣旨が違う。
「……役立たずなんじゃないの?」
「確かに、命令を無視されては困ります。ですが、貴方の行動が任務の範囲内なら、問題はありませんよ」
「………………」
どれだけのお人好しなのか。本当にあの馬鹿によく似てる。
(いや、違うか)
わざわざボクを王城に呼び出して説教する王女も……アリアのお仲間共は、みんなお人好しだ。吐き気がするくらいに、都合がいい。
弟ぶってる導師サマに、姉ぶってる被験者がボクを見る。ああ、くそ。王女にしてやられた。荷物をつけられたら、無茶が出来ないじゃないか。
「大丈夫。私達なら、絶対にアリアを見付けられるわ」
気休めでもなんでもなく。まるで確信があるかのように、本物の"アリア"はそう言いきった。
*****
「で? どうやってダアトを抜け出してきたワケ?」
所変わって、宿で問う。いつまでも王女の私室を占領しているわけにもいかないし、作戦会議という奴だ。机につく導師とボクに、やけに手際よく"アリア"が茶を淹れた。
「イオンに代わりを頼みました」
「ぶっ!?」
衝撃的な言葉に思い切り茶をむせる。"アリア"に差し出された布で口元を拭って、腰を浮かせた。
「お前、何考えてるんだ!」
「合理的でしょう」
「それはっ……」
勿論、分かる。同じ顔で、同じ役割を担ってきたのだから。だがストレートに理解するには事態が複雑だった。本物の影武者が、本物に影武者を頼むなんて。
(引き受けた方も引き受けた方だ)
「……趣味が悪い」
「必要なことをしただけですよ」
椅子に座り直せば、導師が苦笑する。自分でも似たようなことを思ってはいたらしい。ダアトには事情を知るオッサンがいるし、滅多なことはないとは思うが……頭を抱えたくなってくる。
「……そっちは? あの異常者からどうやって逃れてきたのさ」
"アリア"の方を向く。彼女がダアトどころか教会からもまともに出たことがない箱入りなのは自明だ。それを加味しなかったとしても、婚約者である被験者からの溺愛は気持ち悪いの一言に尽きるが。
ボクの悪意ある言い回しに彼女は眉を上げるが、やがて仕方がなさそうに息を吐いた。
「ちゃーんと許可をもらいました」
「脅したの?」
「失礼ね!」
今度こそハッキリと怒られるが、それ以外に思い浮かばない。可愛らしくねだったところで、あの気持ちが悪い微笑みで流されるのがオチだ。"アリア"は「まぁ」と視線を泳がせる。
「アリアが帰ってこなかったら、一生貴方を許さないとは言ったけど」
「やっぱり脅してるじゃん」
「……えへ」
誤魔化すように舌を出される。被験者じゃないんだから、そんなことで誤魔化されてはやらないが。それはさておき、大体の事情は分かった。ここにいるのは「導師」ではないし、こっちの"アリア"はちゃんと許可を得て出てきている。余計な警戒はしなくていいということだ。
「報告書は読んだ?」
「はい。シンクが捕らえた所属不明の集団が、服毒自殺をしたことまでは聞いています」
導師の言葉に頷く。行方不明者を乗せた船にいた犯罪集団は、貴重な情報源として生かして捕らえたのだ。しかし、気付けば牢の中で一様に死んでいたらしい。死因は毒ということだが、当然何が起きたのかは判明していない。調査中ということだが、国側の失態だ。
「わざわざ厳重な警備下に毒を差し入れる奴がいるんだ。潔く死体になる方もロクでもない……つまり、まだ終わってないんだよ。僕達は蜥蜴の尻尾切りにあっただけだ」
「随分決意の固い組織的犯罪、ということね。バチカルに本体がいるかは分からないけど、少なくともアリアを拐った人間はいる筈だわ」
その言葉を聞いて、不意に思い至る。そういえば、と口にした。
「もう一人、アンタ達を溺愛してる存在がいた筈だけど。そっちは何も言ってないの?」
星の外から来たとかいう、胡散臭いアルビノの少女。始祖ユリアの妹と契約をした意識集合体のようなもので、今は実質「アリア」達のストーカーだ。水色の瞳を伏せて顔を横に振られる。
「よく寝てるみたいで呼び掛けに応えないの。何も言ってこないから、寧ろアリアは無事なんだとは思うわ」
元々、アイオンはルゥノとの契約のために存在しているだけだ。この世界の流れに手を貸すつもりも、直接的に「アリア」を助けることもない。アレが干渉してくるのは、今代契約者である二人の「アリア」の命が脅かされた時だけだ。そう思えば、アレが出てこない方がマシな状況に思える。頼もしくはないが、ないよりはいい保険だ。
「アリアが狙われた理由が分からない以上、導師サマも同じ顔してるアンタも、危険があるってこと。忘れないでよね」
導師補佐役という立場から狙われたなら、その上である導師を狙わないとも限らない。服装を変えたところで顔を知っている人間はいるだろう。"アリア"の方は言うまでもない。
「心配してくれるんですか? ありがとう」
「足引っ張るなって言ってるの」
「大丈夫よ。これでも導師に必要な教育は一通り受けてるんだから」
「なんで導師の婚約者がそんなものを受けてるんだ」
「大人の事情ね」
知りたくもない事情を知ってしまった。"アリア"に導師の力があることは周知の事実であり、養父だった元大詠師モースが権力を欲していたのも想像に難くない。代替品ということだ。反吐が出る。
「あいつが器用に体を動かせるのは、オッサンの悪教育だけが理由じゃないってことか」
「私に武を教えてくださったのは先生だから、結局同じのような気もするけど」
「どっちもロクな教育受けてないな」
「アリア」の人生にオッサンも関わりすぎだ。アイオンといいストーカーも大概にしろ。
(いや……それは、「ボクら」も同じか)
イオンもボクも、目の前の導師も。彼女達がボクらを選んだのか、ボクらが彼女達に寄り付いているのか。アイオンやオッサンと大差ない話だ。本当に、物好きだ。
「シンク。状況に変化はありましたか?」
「ないよ。犯罪集団は尻尾を切るし、補佐役の不在を広めるわけにもいかないからアドリビトムも動かせない。国王陛下が連日調査で兵を動かしてるけど、進展はない」
「行方不明者が出なくなったのが、兵が動いてるお陰か、もうその必要がなくなったからなのかは、判断が難しいわね」
"アリア"の指摘の通りだ。導師も頷く。
「……死の選び方からしても、単なる人身売買を目的とした組織とは思えません。他に、目的がある筈です」
「それがアリアと関係してるって?」
「恐らくは。今の彼女は、肩書きが多すぎますから」
口にしながら導師の顔が曇る。そんな顔をするくらいなら、アリアを望まなければよかったのだ。責任を感じるなら、最後まで面倒を見ればいい。それしか、ボクらに出来ることはない。
「少し気になることがあるの」
"アリア"が顔の横に手を上げる。「ここに来るまでに報告書を読み返したのだけど」と言葉が続けられた。
「行方不明者が見付かった日、別件で船での集団自決が報告されてるわよね?」
頷き返す。聞く限り、船にいた人間の全てが一ヶ所に固まって自分達の首を刎ねたという話だ。身元を表すものは何もなく、船の所属も不明。状況からナイフによるものと推測できるらしいが、そんなことは有り得ない。調査が足りないとしか思えなかった。
「気になるの。船で集団自決……それも、死に方が異様だわ。偶然かもしれないけど……」
「符合している、ということですね。どちらにせよ、今は情報不足です。そちらを調べてみるのもいいかもしれません」
別件とされている、その船の出来事が関連しているとすれば。死んでいた者が「資源」を運んでいた犯罪組織の一味だったとすれば。そちらの船にアリアがいたなら。
「……話を聞くべき奴がいる」
船の集団自決を別件として報告した第一発見者───プレスト・アパシオナートだ。
*****
質のいい調度品で揃えられた応接間へ案内される。どれもこれも品が悪くなく、そこがまた気取っていて腹立たしい。ソファをすすめられ、導師が座った。ボクと"アリア"は座らない。その対面に、赤い短髪に橙色の眼をした男が座る。
「本日は急な訪問に時間を割いてくださり、ありがとうございます」
「いえ。私などが導師様にお目通り叶うなど、光栄です」
場所はアパシオナート家の別邸だ。内密に、という形で導師の身分を明かし面会を申し込んだ形になる。勿論、アパシオナート家はダアトの最高指導者の来訪を蹴ることが許されるような立場ではない。確実に話が聞くことが出来る。
「護衛役殿も、お久しぶりです。お会いできてよかった」
「………………」
必要のない猫っかぶりに沈黙で応えてやる。仮面の向こうで眼も合わさないボクに、奴は居心地が悪そうに苦笑した。それから"アリア"の方を見る。
「そちらの方は……」
「僕の守護役です。すみません、極秘任務中のため顔をお見せすることが出来ないんです」
「いえ、構いませんよ。導師様のお顔を拝見できただけでも、身に余ることですから」
言葉の代わりに、ぺこり、と"アリア"は頭を下げた。今、彼女は頭からローブを被っている。宿の外では発話も控えるように言ってある。どこで誰が見聞きしているかも分からないのだから。
「それで、私に何の御用でしょうか。導師様が秘密裏にダアトを離れ、訪ねていらしたのです。私で御力になれるとよいのですが」
「先日、貴方が報告した船での集団自決に関することです」
「……痛ましい事件です。私がもう少し早く現場に駆け付けられていたなら……」
眉を下げて惜しむような顔に舌打ちを堪える。ゴミの命なんてどうでもいい。何様のつもりだ。
「我々は、バチカルで行方不明者を出していた犯罪集団との関連を疑っています」
「自決した彼らが、民を拐っていたと?」
「はい。詳しくは話せませんが、発見者である貴方の話を聞きたい。ご協力頂けませんか」
「我々」と口にしたことで、これは教団の意向となる。導師の要請に断れるわけもなく、「勿論」と返事があった。それから赤髪の騎士サマが語ったことは、報告書から読み取れることと大きく違いはなかった。その死に様のイメージが、いくらか補強されたこと以外。
「……では、本当に彼らはナイフで……」
「分かりません。ですが、私にはそう見えました。集団催眠であれば、あるいは」
「催眠、ですか」
「いえ。根拠のない妄言です。お忘れください」
赤髪が下げられるのを横目に見ながら、考える。集団催眠による自死───いや、催眠ならば他殺の可能性もある。何故死ななければならなかったのか。ボクやこの騎士サマが嗅ぎ付けているのを察知して、先手を打たれたというのか。
(いや、有り得ない)
こっちの騎士サマはともかく、自分の動きを誰かに見られていたとは思えない。そんなヘマはしない。どんなに急いでいたとしても、周囲にネズミの気配があれば気付いた筈だ。それとも、
(アリアが手に入ったから、用済みになった?)
それならば、こちらの動きなど確認する必要はない。考慮の必要すらない。だが、行方不明者が出始めたのはひと月は前の話だ。犯罪集団の目的が最初からアリアにあったとは考えにくい。なら、何故こうもこちらに都合悪く事態が変わる?
(くそ)
分からない。大筋を誤っている筈はないのに、決定的な部分を見誤っている気がする。どこで、何を間違えているのか。検討もつかない。そうして焦りに追い立てられる間にも、導師と騎士サマの話は進む。
「申し訳ありません。あまりお役に立てず……」
「いえ。貴重なお時間を割いてくださり、ありがとうございます」
面会時間が終わろうとしている。それを察知して、ボクは動いた。今回のボクのお役目だ。
「───ところで、ウチのお姫様見てない?」
ずっと黙っていたボクの言葉に、橙色の瞳を大きくして数度瞬きを繰り返す。驚きと、考える素振りと、それからしっかりとした返答。
「いいや。まさか戻られていないのか?」
「そのまさかだよ。お前の乗り込んだ船にもいなかった?」
「いや……いらっしゃらなかった。すまない、力になれそうにない」
「───そう」
ソファの側を離れる。面会時間の終わりを示せば、導師もソファを立った。
「ありがとうございました。またお話を伺いに訪ねさせて頂くかもしれません」
「構いませんよ。いつでもお待ちしております」
握手を交わして導師がこちらへ来る。その後ろから"アリア"もついてきて、騎士サマに玄関口まで見送られた。そこから少し歩いて、十分に警戒をしながら路地に潜む。尾行などはない。
「どうしましたか、シンク」
導師に問われる。どうしたか、なんて次元ではない。力になれそうにないと謝られたが、十分だ。十分に、奴は情報を落としてくれた。
「あいつ、アリアの居場所を知ってるよ」
*****
来客を帰して、ふっと息を吐く。侯爵家の人間として恥ずかしくないように努めてはいるものの、やはり相手が教団の最高指導者ともなれば緊張してしまう。まだまだだなと、自分の未熟さを噛み締めた。
(……さて)
踵を返し、屋敷の奥へと向かう。この別邸は自分が管理を任されていて、当主である父などはいない。そのため人払いも簡単だし、人一人を部屋に置くくらい何ということもなかった。人気のない廊下を進み、一つの扉を三度ノックする。中から鳥の囀りのように声が返って、ノブを押した。
そこは客室であり、机も椅子も本棚も、必要な調度品は揃っている。窓からは明るい陽が差しており、暖かい。その中に設えられた大きな寝台には、愛しい人の姿がある。
彼女は寝台で身を起こしており、結われていない亜麻色の髪は差し込む陽を受けて美しい。汚れた世界を映さない、湖面のような水色の瞳が、俺を映して微笑んだ。
「来てくれたんですね、プレスト」
「───御子様がそうして微笑みかけてくださるなら、いつでも馳せ参じますよ」
「ふふ。冗談が上手ですね」
心の底から思った言葉を口にしたのだけど、おかしそうに笑って流されてしまった。それでも構わない。俺の言葉で貴女が楽しそうにしてくださるなら、それでいい。
「どなたか、いらしていたのでは?」
「もう済みました。そんなことより、御子様。まだ体調が万全ではないのです。きちんとお休みください」
俺の心配に、御子様は見るからに不服そうな顔をする。
「そうは言いますが、本当に体に不調はないんですよ。寧ろなんだか運動不足を感じます」
「いけません。気高い御身なのですから、軽々しく民にその肌を晒すなどあってはなりません」
「はぁーい」
不満を隠さないまま、しかし俺の言葉を彼女はきちんと聞いてくれる。人間に汚された魂が浄化されたのだ。良かった。これでようやく、我々は正しい道へ導かれる。
「でも、プレスト? 神託の御子とか、預言だとか……貴方はそう言いますが、まだ実感がないのです。記憶も戻らないし……」
「それでよいのです。大丈夫。焦らずに少しずつ元気になってください。民も貴女のお言葉を心待ちにしています」
「……はい」
吊り気味の瞳が伏せられる。美しい。まるで作り物のように。計算され尽くした、神の贈り物だ。これが始祖ユリアの似姿というのなら、愛されている。───触れたい。
「プレスト?」
「!」
水色の瞳に間近で覗き込まれてハッとする。いけない。なんて畏れ多いことを。彼女は貴き花で、その甘い蜜を与えられるにはまだ自分では足りない。
(ああ、でも)
間近で覗き込む瞳に、吸い込まれる。すぐ側に感じる吐息が、意識される。少しくらい、いいのではないか。そんな囁きが脳裏にある。ここには自分と彼女しかいない。彼女は自分のすることならば、きっとなんでも受け入れてくれる。何故なら、彼女は全ての愚かしい人間を正しく導くための母なのだから。
「……御子様」
手を伸ばす。亜麻色の髪へ差し入れる。細い首筋へと触れれば、急な感触に驚いたのかびくりと小さく体が震えた。その反応が愛しい。戸惑うように揺れる瞳に誘われる。
ああ、その瞳が永遠に俺だけを映してくれたなら。いや、今だけでも俺を映してくれたなら。俺だけの名を呼んで、俺だけにその慈愛を傾けてくださったなら。俺の前だけで、淫らに───
「お見舞いにきったよーん! 御子様♡」
騒々しい声と扉の開け放たれる音で意識が戻る。そちらを見れば、金髪のお調子者が無作法に乗り込んできていた。幼馴染みであり志を共にする友、コモドだ。
「……お前はもう少し落ち着いて行動できないのか」
「え!? なになに、何その体勢! プレストくん我らが麗しの御子様に何しよーとしてたの!?」
「勘違いをするな。髪にゴミがついていらしたから、とっていただけだ」
俺の言葉に戸惑うばかりだった御子様が納得の色を見せる。勿論、嘘だ。道を誤りかけた自分の醜さを覆い隠すための、汚い嘘。
(嘘は、必要だ)
隠さなければならない。御子様に汚れを与えないために。汚いものは片付けて、嘘で覆って、綺麗に見せなくてはならない。それが御子様の御身を預かる幸運に恵まれた、自分の役割なのだから。御子様から離れる。
「では、御子様。私は執務に戻りますね。コモドも見舞いに来ましたし、後のことはアレに申し付けてください」
「あ……はい」
「コモド。失礼のないようにな」
「ハイハーイ」
大きく手を振ってくる幼馴染みを無視して、御子様へ頭を下げる。後はコモドがよくやってくれるだろう。御子様の微笑みに見送られ、俺は部屋を出た。廊下を戻り、いつもの執務室へと向かう。
(御子様がいらしてから、約一週間)
血溜まりから連れ帰り、数日間御子様は眠り続けていた。高い熱が続き、我らが同志に与えられた愛の試練に、挑まれ続けていたのだ。そして目覚められた時、彼女は何も覚えていなかった。魂の浄化が成ったのだと思った。
だが、熱は下がらなかった。まだ魂が清めきれていないのだ。だから毎日、彼女には薬を与えている。何も思い出さないように、魂が正しく清められるように。
(ようやく今朝は発熱がなくなったというのに)
先程までの来訪者を思い出す。教団の最高指導者である導師テセレマに、その守護役と御子様の護衛役。預言の廃止に賛同した人間達であり、御子様を一番近くで汚し、たぶらかしてきた者達だ。
(罪深い)
だが、どんなに罪深くとも人はやり直せる。正しい道を歩める。大丈夫だ。きっと俺が、そして御子様が、始祖ユリアの祈りを世界に届ける。救うのだ。それまでどうか、救済の手を待っていて欲しい。
「───あと、少しだ」
ようやく、始まるのだ。
*****
プレストを見送って、彼の幼馴染みと二人きりになる。プレストはよく様子を見に来てくれるけれど忙しいようで、こうしてコモドと過ごすことは案外多かった。私が退屈してしまわないように、彼らなりに気を遣ってくれているようだ。
「熱、下がったって聞いたけどホントに平気そうじゃん」
彼はベッドの脇に椅子を運ぶとそこに腰掛け、碧眼で私の顔色を見た。頷き返す。
「そうなの。それなのにプレスト、寝てろって言うの」
「しょーがないよ。だって御子様、ずーっと熱出してたんだから」
「それは……そうだけど」
この部屋で目覚めてから数日は記憶が曖昧だ。高熱に浮かされていて、ぼんやりとしか思い出せない。プレストがついていてくれたのは分かるのだが、それだけだ。
それから熱が下がり始め、意識がハッキリし始めてから状況を理解した。私がプレストの屋敷で療養していること。私にはお役目があるらしいこと。それは預言を詠み、世界を正しく導くことであるということ。この世界は預言を手離し、滅びの道を歩もうとしていること。その時の暴動に巻き込まれ、私の記憶は失われてしまったこと。
私にはこの屋敷で目覚めるより前の記憶がなかった。
「プレストは心配なんだよ。御子様命だからね」
「……確かに、記憶をなくしてこんなところでお世話になってるしかないのは、不甲斐ないけど。でも、運動不足はよくないよ」
今日熱が下がったばかりといえばそうなのだけど、屋敷の中を歩くとか庭に出るとか、それくらいはしてもいいのではないだろうか。ベッドからも出るなとはどういう了見なのか。不満を口にすれば、コモドは「ふーん」と意味ありげに溢した。
「なに?」
「いや。いつものことだけどさ、オレにはふつーに話すのに、なんでプレストには丁寧な言葉使うわけ?」
「それは……」
分からない、としか言えなかった。記憶がない今、自分が周囲とどんな風に話していたかなど思い出せない。その中で、自然に出てきた言葉がそれだったのだ。プレストが敬語を使って敬ってくれるから、かもしれない。多分そうだろう。
「コモドの敬い方が足りないから?」
「あはは! ならしょーがないね。オレ、プレストみたいにはなれねーもん」
彼みたいに私を敬ってくれる、ということだろうか。確かにそれは想像できない。コモドは冗談で調子のいいことを言ってくるくらいが丁度いい。いつものように。
「記憶、戻らないの?」
「うん。ごめんね」
「気にしてないよ。寧ろ、戻らない方がいいかも、なーんて」
「え?」
思わず彼を見れば楽しそうにウインクを寄越される。
「冗談☆」
「……もう」
びっくりした。声が少し本気に聞こえたのだ。冗談ならもっと分かりやすく言って欲しい。
「まぁ、いーじゃん。ここでのんびり御子様ライフしてればさ。元気になったらやることいっぱいになるし」
「でもそれ、私がやらなきゃいけないことなんでしょ? だったら早くやりたいよ」
「それって、プレストのため?」
当たり前みたいに問われて喉が詰まる。その通りだった。私が高熱を出して、記憶を失って、沢山の迷惑をかけているというのに、プレストは優しくしてくれる。毎日気にかけて、大切にして、想ってくれる。その期待に応えたい……と、感じている気がする。
けれど、その問いを肯定することは難しかった。私がプレストに期待されていることは、神託の御子として振る舞うこと。使命を果たすこと。個人的な感情や欲求で、立ち上がることではないのだ。その葛藤を読み取ったように、コモドは小さく笑った。
「いーんじゃないの? 御子様だって人間だしさ。アンタがプレストを想ってくれるなら、オレも嬉しいし」
「そうなの?」
「そーだよ。幼馴染みが信仰心と男の欲求で板挟みになってるのを見てるのも、しんどいしね」
「???」
なんの話かと首を捻れば、「この話はまだ早いか」と苦笑された。子供扱いされたようで納得がいかず食い下がれば、彼は言葉を選びながら教えてくれる。
「つまり、御子様の全部が欲しいわけよ」
「全部?」
「そ。御子様に口付けして、体に触れて、夜を一緒に過ごしたいわけ。オーケー?」
「えーっと……添い寝?」
「惜しい!」
あちゃあ!とコモドは自分の額を叩いた。知識を総動員したのだけど、違うらしい。コモドは説明を諦めた様子で簡単に話を締め括る。
「御子様の特別になりたい、みたいなこと! アイツ頭が固いからさ、そーゆーの、アンタの許しがなきゃ出来ないみたいなんだよね」
「特別……」
「だからさ。アンタがアイツを想って、特別にしてくれるんならオレは嬉しいんだ。アイツに全部をあげてもいいって思えたら、アンタの方から伝えてくれない?」
「………………」
「御子様?」
特別、という言葉が頭を回る。どこかで覚えがある。知識としてではなく、胸の奥で。私の知らない何かが、それを知っている。感覚が、感情が……特別という概念を、知っている。
「御子様!」
「わっ、えっ、ごめん。なに?」
大きな声に呼び戻される。びっくりして問えば、コモドの表情が曇った。心配、ともどこか違うようで、複雑な色に不安が過る。
「……どうしたの?」
「んーん? なんでもなーい」
ニカッと歯を見せて笑う。その顔にさっきまでの陰はなく、自分が気にしすぎているだけかと思う。でも、確かに。
「じゃ! 御子様。今日は何する? 読書? またオレが読み聞かせよーか?」
「コモドは話を脚色して脱線するからダメ」
「ちぇー」
以前、悪者退治に城から旅立った勇者が葡萄に転生した時には、どこにオチがつくのかハラハラしたものだ。葡萄になった時点で分裂して複数の話が並行し始めた時には、理解を追い付かせるのに大分苦労した。
「じゃあじゃあ! 今日は御子様が読んでよ!」
「えぇー……」
「いーじゃん! 減るもんじゃないし。オレと御子様の仲でしょ?」
「コモドが馴れ馴れしいだけじゃん」
「ひっど! 傷付くよ!?」
なんて。何でもない言葉を交わして、私は近くにあった本を手に取る。さて、勇者が葡萄に転生する話より面白い話をどうやって生み出してやろうか。そう思いながら、本の表紙を捲った。
*****
「根拠を聞かせてもらえますか?」
宿へ戻り、導師に問われる。ボクの意見を疑っているというより確認をしたい様子で、少しは疑えと思いながら説明した。
「必死さだよ。アリアが行方知れずと聞いてもあいつは乗ってこなかった」
「そう? とても普通の反応だったと思うけど」
「あいつはアリアの周りを飛ぶ羽虫なんだよ。なのに力になれない、なんて不自然だ」
ボクの言葉に"アリア"と導師の表情が変わる。納得が半分、聞き捨てならないという過保護が半分。同感だけどその話は後だ。
「もう一つある。ボクが切り出すまでアリアの不在に触れてこなかった。導師と護衛役が揃ってるってのにさ」
「確かに、少し違和感がありますね」
「両方考慮したら黒、ね。私は賛成だわ」
思い切りのいい"アリア"の言葉に、しかし導師は首を横に振る。
「それだけでは弱い」
「じゃあ指咥えて見てろって言うの?」
「違います。ナタリアに協力を依頼して、アパシオナート家の周囲を調べましょう。別邸への人の出入りや、金銭の動きを見ます。組織的な犯罪であるなら、外堀を埋めなければまた蜥蜴の尻尾切りにあうだけです」
「……ちっ」
腹立たしいが、導師の言う通りだ。最優先事項はアリアの無事であり、保護だ。だが組織を潰さなければ二度目を招いてしまうかもしれない。それではダメなのだ。それくらいは今の脳味噌でも分かる。
「なら今からでも……」
今からでも動く、と言おうとして再び首を横に振られた。苛立ちもあって怪訝な顔で訳を促せば、導師は答える。
「それはこちらでやります。シンク、貴方は休んでください」
「は? 何言ってるの。情報収集ならボクでも出来る。余所の兵に任せる気はないよ」
「いいえ。貴方は休むべきです」
平行線の言葉に苛立ちが加速する。思わず一歩前へ出れば"アリア"が進み出た。手が伸ばされ、警戒が浮かんでボクは下がった。───哀しそうな瞳が、見える。
「……今、私は貴方に何もする気がなかった。でも、貴方は警戒したわよね」
「………………」
言い返せない。普段なら判断できる。情報が取捨選択されている。アリアでなくとも、彼女は"アリア"なのに。警戒が過剰になっている。
「貴方の力は、アリアを助け出すその時に必ず必要となります」
導師の眼がボクを見る。真っ直ぐな、哀れみも懇願もない瞳。ただ強く前を見る眼。助け出す時を、しっかりと描いている顔だった。
「そのために今は休んでください」
「……勝手に始めたら、許さないからな」
「はい。勿論」
部屋を出る。代わりにアリアの部屋へ入った。部屋の主を失った部屋は、そのままだ。当然ベッドを使う気なんてなくて、備え付けのソファへ転がる。夜というのもあり肌寒い。
(プレスト・アパシオナート)
目蓋の裏に思い浮かべる。赤い短髪に橙色の眼の、いけすかない男。騎士然としながら上から目線の、アリアにまとわりつく余計な羽虫。
(絶対に吊し上げてやる)
逃げることは許さない。何が目的かも分からないが、思い通りにはさせない。二度と見られない顔にしてやる。今度こそ、本当に。そう奥歯を噛んだところで、音が耳に届いた。
(声……歌?)
耳を傾けて、気付く。知っている声だ。今一番、近くで聞きたい声。けれど、そんな筈はないとよく知っている。そして同時によく似たこの声を窓の外から───隣室から届かせる人物に、一人だけ心当たりがあった。
「……余計なお世話だよ」
ぽつりと呟いて、深く息を吐く。疲れた。考えるのも、感じるのも。今はただ、無責任に眠りたい。そう思えば、体中から力が抜けた。
(……今だけは)
今だけは……この温い感情に、触れていたいから。
*****
夜空を見上げて歌を口遊む。第一音素を込めた譜歌で、誘眠効果があるものだ。一人きりで踏み留まっていた可愛い弟に、少しでも労いになればいいのだけど。
一通り詠い終えて、窓を閉じる。室内を振り返れば、眠そうにするテセレマに気付いた。
「ご、ごめんなさい! うっかり譜を込めすぎたみたい……」
「いえ……素敵な譜歌でした。子守唄ですか?」
「……ええ。時々、イオンに詠うのよ」
彼は、とても寂しい人だから。手の届く場所に全てあるのに見えていない。聞こえている筈なのに理解しない。だから、私は夜更けに譜歌を詠う。眠りの中で死に落ちようとする彼に、道を示すために。彼に忍び寄る死を、追い払うために。
「……貴女は、とても優しいですね」
「どうかしら。酷い女だと思うけれど」
「そうですね。残酷で……それでも、僕達は惹き付けられる」
私を見る彼の眼は、哀しそうな色をしながらも幸福そうで。それが逃れられないものだと知っているようだった。胸の奥が締め付けられる。訳が分からないまま、感情のままに謝罪が口をついた。
「ごめんなさい」
「何故、貴女が謝るんです?」
「……イオンが言っていたわ。『アリアは特別だ』って……その意味は分からないけれど、時々思うのよ」
それはほんの少しの違和感。歯車が違う感覚。確かにここにいるのに、景色の裏側へ通り抜けてしまいそうな、そんな実感のなさ。
「私は……私達『アリア』は、何かの間違いだったんじゃないかって。どこかで世界が歪んで……そうして世界を歪ませる、エラーの一種なんじゃないかって」
「何故、そう思うんです?」
問われても言葉にはならない。私は困って微笑することしか出来なかった。この感覚に説明はつかない。誰も世界の成り立ちや仕組みなど、初めから自分の存在が在ったのかなど、説明してくれないのだから。神様なんて、信じてない。
でも。テセレマは立ち上がると私の傍までやってきた。そして私の手をとると、まるで祈るように両手で包み込んだ。眼を閉じ、そうして言葉にする。私は上手く言葉に出来なかったのに、まるで当たり前のように。
「なら、僕は感謝しなければなりませんね」
「……何に?」
「この世界を作り出した、全てに」
何も、言えなかった。私が背にした窓から月光が差し込んでいて、それが彼を照らす。深緑の髪がきらきらと映る。導師が祈る姿を人々は信仰に変えるけれど───目の前の一人の少年が捧げる祈りは、それより余程、静かだった。静かで、優しい。
この優しさに……可愛い妹は負けたのだと思う。
「貴方も、十分残酷ね」
「え?」
「ふふ」
「優しい」は、時に「残酷」だから。優しさを知ってしまえば、人は弱くなる。優しさを手離せない。それが他者を、時に自分を傷付けることになろうと、決して。誰かに手を伸ばされ、誰かに手を伸ばすことを覚えてしまえば───戻れない。
先に落ちたのは、テセレマと可愛い妹のどちらだったのだろう。戻ってきたら、聞いてみようか。
「さ、起きて起きて! ナタリア王女殿下のところへ急ぎましょう」
「あ、はい!」
不意に思い出したように彼は慌てる。それが少し可愛らしくて、行く先を少しだけ想像する。きっと、彼の進む道は温かく明るい世界なのだろう。まるで、春の陽気のように。
(貴方じゃなきゃ、辿り着けないわ)
そしてきっと、その場所へ連れていくのはあの子なのだ。可愛い私の妹。同じ姿、同じ声、同じ名前を分けたたった一人の肉親。誰にも、あの子の意志は踏みにじらせない。
夜のバチカルで、また時が動く。