親愛の祝祷
「アリア」
名を呼ばれて振り返れば、孔雀緑の髪と瞳を持つ愛しい人がそこにいた。彼はそっと近付いて、私を抱き寄せる。それが殊更に優しくて、私は戸惑う。
「どうしたの? イオン。なんだか様子が変よ」
「───うん。そうだね」
彼は理由を口にせず、ただ私の髪を撫でた。大切に扱われているのが分かる。温かくて恥ずかしい。
こうして触れている時に感じるものが、互いをアイオンの伴侶と思っているから得ているものなのかは分からない。でもどっちでもいいと思っていた。
私も、イオンも。ただ幸福だ。
「やっと、君が手に入る」
「え……?」
耳元に囁かれた、とても満たされた響きの言葉に戸惑いが増す。やっぱり様子が変だ。まるで、そう。彼に永遠の眠りへ誘われた日に、優しさが似ている。不安が滲んだ。
「また、何かをしているの?」
「違うよ。ちゃんと君との約束は守っている」
ただ随分前に蒔いた種が芽を出し、そろそろ花が咲きそうなのだと彼は笑った。世話をしている知人から連絡があって、その花をこれから見に行くつもりなのだとも。
「君もおいで。貴重な花だから」
「いいの? 嬉しいわ!」
花は好きだ。花弁や葉の形も、色味も時期も。種によって様々で、可愛らしい。見ていると癒される。花言葉なんてロマンチックだ。
「どんな花なの?」
「それは見てのお楽しみ」
でもそうだな、と彼は少し言葉を選んで、微笑んだ。
「君のための花だよ」
*****
声が、聞こえる。これは誰だっけ。
「何をしたの、イオン!!」
分からない。女性だ。まだ年若い声。
「約束は守ったよ。僕は何もしていない」
今度は男性の声。やっぱり、まだ若い声。
「君の預言を終わらせるにはこれしかなかった」
「そんなのっ……そんな、ことのために……」
「そんなことじゃない。僕は君以外は要らないんだ。君を奪わせないためなら、何だって犠牲にする。君の命だって」
知っていたでしょう、と少年の声が笑った。
少女が嗚咽を漏らして、その言葉を否定しない。
Βυθοςを拒絶できない。
罪も全て受け入れて、共に背負って許しを与えるのが、Χαριςの在り方だから。
誰だっただろう。知っている気がするのだけど。
それから少しして、何かが感覚に触れた。
ざわざわ、ざわざわ。なんだっただろう。
知ってる。これは、ボクの。
(───ボク?)
なんだっけ、それ。ボク。ここにいる、ボク。
(……ここに、いる?)
いる。指先が動く。手が、足が。体がある。
(そうだ。ボクだ)
まだ在る。空気が吸えて、匂いがある。
心臓が動いて、そうだ、目蓋を上げよう。
視覚と聴覚で、きっと会える。まだここにいるから。
目蓋を押し上げて、世界を映す。
沢山人がいる。でも、そんなのどうでもいい。
ただボクは、たった二人さえ見付けられれば、それで。
千歳緑の髪と瞳の少年。よく似た二人を見付けた。
彼らもボクを見付けて───見付けて、くれた。
「アリア!」
名を呼んだのはどちらだっただろう。
その三音でボクはボクを思い出す。
ボクはアリアだ。
春を告げる、雪花の偽物。
*****
身を起こす。存在の接続に成功した。ボクという自己をまだ規定できる。体が失われる前で良かった。流石に自己を規定する器が四散していたら、セルフイメージが足りなかった。
「アリア!」
すぐ側から名前を呼ばれる。聞き慣れた声。ボクの好きな、優しい人。顔を上げれば、少し大人びた表情をすることが多い彼は、年相応の心配を顔に書いていた。透明の壁越しに、押し付けられている彼の手に触れる。温度は分からない。
「おはよ、テセ」
「っ……」
起き抜けの挨拶をしたら、彼は表情を崩した。瞳に痛みの色がある。しまったなぁ、何か間違えたかな。そう思いながらテセの少し後ろに立ち尽くす人を見上げる。テセと同じ色を持つ少年。仮面が邪魔だなぁと心の内で溢す。
「……なんで、笑う」
「来てくれて嬉しかったから」
シンクが唇を引き結ぶ。知ってる会話だ。変わったことも沢山あるけど、変わってないこともある。君が敵でも、離れることを選んでも、ボクは君に会えると喜ぶみたいに。
「まだ存在を留めてはいるようですね」
離れたところから大佐が確認する。その言葉に疑念を持つ人はいない。既に聞いているんだ。頬を膨らませて、大佐に批難の眼を向けた。
「黙っててって言ったのに」
「不可抗力です」
ならせめて申し訳なさそうにしてくれればいいのに。そういう人じゃないのは知ってるけど。
彼の隣へ視線をやれば、機嫌の良さそうな笑みに迎えられた。ひらひらと手を振られてとても友好的だけど、彼女がしたことは忘れてない。
「ソティ。君、ボクの大事なものに手を出したよね」
「手を出さないなんて言ってないわぁ。いいじゃない、結果的に無事だったんだから」
そういう問題でもないのだけど、今更殺す理由もないし、この壁の中からでは殺せないので諦めた。何があったのか彼女は改名したみたいで、メリズと訂正を受ける。大佐の側にいるし、彼に貰ったのかもしれない。
「で、その辺どーなんですか。お兄ちゃん」
「どっかのバカ弟子のせいで保留だよ、バァカ」
相変わらず小汚ないお師様に罵られる。これは本当に恨まれている気配だ。悪いことをしたなぁと思いつつ、正直どうでもいい。サイドストーリーはボクのいないところでしてくれればいいから。
と、落ち込んだ様子の少女を見付ける。困ったな。恨んでもないけど、慰める気もないんだけど。
「あー、えっと。あんまり気にしないで。ボクは気にしてないから。よくあるよくある」
「なんで……私のせい、なのに」
それは違うと思ってる。思ってるけど、わざわざ伝えるのも億劫で笑って誤魔化した。君とはきっと、残りの時間全部を使ったって分かり合えない。彼女のせいではなく、ボクが外れ値だから。
視線を動かせば被験者とイオンの姿があって、そういえばさっき聞こえた会話は彼らのものかと納得する。涙に目元を濡らす彼女はイオンに捕まっていて身動きがとれない。それがいいと思う。この施設の主は多分彼女にも興味津々だから。
「ごめんなさい、アリア……」
「違うよ。ボクが自分で選んだんだ。いつかが今日になっただけだよ。大差ない」
心の底からそう思っているのだけど、言葉にすれば彼女に怒られてしまった。ついぞ、彼女がボクに向けてくれる好意はよく分からなかったなと思う。傍らのイオンに眼を向ける。
「術式ありがと。あと君、やっぱり性格悪いね」
「ええ。僕は貴女が嫌いですから」
初めて彼の本音の部分が聞けた気がして、逆に満足してしまった。彼が思惑込みで術式を施してくれたのだとしても、お陰で延命されていたのは事実だ。直接何かをされたわけでもないし、特に恨みはなかった。
「じゃあ、えっと。これでとりあえず全員かな。待ってくれてありがと。ネタバラシよろしく」
最後に声を掛けたのは青髪の少年だ。そういえば名前もまだ聞いてなかったなと思う。でも別に興味ないしいいか。どうせ、あとちょっとの付き合いにしかならないし。
青髪の少年はパァと表情を輝かせて、喜んで口を開いた。本当にお喋りなんだなと思う。ボクはもう、面倒臭いのに。
「では皆さん、ご清聴ください! ───第零音素の話を」
少年が、ボクと世界に立てた仮説を披露する。
*****
最初にボクが疑問を持ったのは、人の魂とは何処にあるかということなんだ。あ、この場合の魂は非科学的な概念じゃないよ。人々がそう呼びたがる「個」に値する部分だ。後天的に蓄積される経験や知識で、幾らでも変質する自己決定の側面だね。個性って言葉、みんな好きだろう?
人間の体は第六までの音素と記憶粒子で出来ている。中でも記憶粒子は星の記憶の一部だ。フォミクリー研究から、これの有無で生物は正常に活動を送れるか否かが分かれるとボクは考えた。星の記憶にない存在はこの星にエラーとして弾き出されるって話だね。
それは多分、ボクらが本当は星の一部だからだと思うんだ。ボクらの過去も未来も現在も、星は記憶を保有している。逆に考えれば個人の詳細な生涯、パーソナルデータも保有していることになる。人類は本来なら預言なんて知らずに生きて死んだかもしれない。なら、それは個人の意思決定や自己決定にまで及んでいておかしくない。
ところで預言は外れて見える時もあるし、後から当てはまって見えてくる時もあるよね。それをイオンと彼の同志は「星の記憶の修正力」としたようだけど、ボクも同意見だ。だって預言を知らない未来があったかもしれないなら、人々が預言を守ろうとする意志に左右されないってことだろう?
なら預言はもっと柔軟なものなんだ。ある程度は昔から、人の選択で変わってきていた。つまり星の記憶が全てではなく、人の意志が星の記憶を変質させていたんだよ、きっと。
ここで話を戻すけど、記憶粒子は星の記憶そのものだと言ったよね。ここまで話せば分かるかな。そう、自己決定や選択、人の意志によって星の記憶が変質し得るなら、手始めに体内の記憶粒子を変質させていると考えたんだ。
つまり記憶粒子に人の意志が刻まれることで、それを介して星の記憶にも変化が現れる。人の意志が刻まれた記憶粒子こそが「個」であり魂というわけだ。じゃあ、人の意志はどうやって記憶粒子に刻まれるのか?
フォミクリー研究に立ち返ろう。レプリカを作製すると基本的には被験者の記憶は引き継がれない。引き継がれるのは唯一、被験者の肉体そのものを素体とした場合のみだ。これは簡単、だってそこに被験者の記憶粒子があるからね。つまり第六までの音素で作られたレプリカというのは、被験者の肉体を素体とした場合のみ術者も知らない内に記憶粒子を引き継いでいるんだよ。
でもそれは被験者の死まで記憶している粒子だ。星の記憶の過去には接続できても、現在や未来は消失してる。だから生きていても接続エラーとして弾き出されてしまうんだ。そうして知っての通りの「化け物」になる。
肝心なのは他のレプリカは記憶を引き継げないということだ。同位体であろうと魂は別で、「個」は共有されない。第七音素で記憶粒子の代わりをしたってダメなんだ。星の記憶には被験者もレプリカも同じ存在として認識されることが多々あるのにね。
でもこれも簡単だ。被験者が持つのは記憶粒子で、レプリカが持つのは記憶粒子が変質した第七音素。つまり星の記憶上の同じパーソナルデータにアクセス権はそれぞれ持っているけど、それとやり取りをする粒子が別個なんだ。そうなれば記述漏れも同期ミスも重複も出てくる。当たり前だよね。それでも星としては概ね問題ないんだ。重要なのは被験者の記憶粒子に刻まれた人の意志を、レプリカの第七音素には複写出来ないってこと。
ボクはこう考えた。記憶粒子に人の意志を刻む「何か」がその瞬間に乖離しているんじゃないかって。それをボクら人類はまだ観測出来ていないから、逃してしまっているんじゃないかって。
でもこの仮説は証明が出来なくてね。ずっと行き詰まっていたんだ。そこに、イオンが彼女の話を持ってきてくれたってわけ。びっくりしたよ。第七音素を変質させて預言を、星の記憶を書き換えたとしか思えない実績があるんだから。
勿論イオンとその複製体の存命だ。他には彼女が命を奪っただろう数多の人達。ちょっと余計に殺すくらいは事故かもしれないけど、あんなに沢山はちょっと事故とは呼べないからね。ボクは期待した。彼女こそ人の意志を刻む存在なのかって。
彼女からとれた音素は様子がおかしかった。音素同士の引き合う性質が強化され、乖離が弱まっていた。彼女が音素に愛される体質ってことも聞いてたから、多分それと原因は同じだろうと考えた。その体質のお陰で彼女は七属性を用いた生物レプリカとして存在を維持できている。
沢山考えて、思ったんだ。もしかして彼女の中に、音素を引き寄せる「物質x」があるんじゃないかって。明確にそこに集まってるんだから、見えない何かがあるのは間違いないと思ったんだ。
その物質xは彼女の体内に多く在って、音素は引き寄せられる。そして彼女が音素を使うと、一定時間物質xはその音素に付属するんだ。そのくっついている状態が「変質している」状態なのさ。やがて物質xは消えて元の音素に戻る。
まだ人類には観測できないそれを、ボクは人の意志を刻む「何か」とイコールのものだと考えた。恐らく本来なら記憶粒子を変質させるための物質だから、音素には永続的には定着しないんだ。ただし第七音素だけは記憶粒子の性質を保有しているからきちんと定着する。まぁ観測も出来ないものを使うことなんて出来ないから、証明は難航してるけどね。
物質xは音素とは違うものかもしれない。でも便宜上、ボクはそれを「第零音素」と呼ぶことにしたんだ。遥か昔から、人類には観測が出来なかっただけで存在し続け、記憶粒子に人の意志を刻んできた何か。
多分音素や記憶粒子と違って総数は多くないんだと思う。だから、何の因果か第零音素を多く持って生まれてきた「アリア」は音素に愛されてる。
「意志によって星の記憶を書き換える力が強い」と言い換えてもいいよ。何も特別なことをしているわけじゃない。ボクらだってきっとしていることさ。被験者のアリアはちょっと人よりそれが強かった。
そこで済まなかったのが星の計算外さ。まさかドンピシャ、被験者を強化する形で作られたレプリカが生まれてきちゃったんだから。
レプリカのアリアは被験者から第零音素を分け与えられた。複写は出来なかった筈だから、それこそアイオンのせいかもしれないね。彼女にとっては二人とも「今代契約者アリア」なんだから、同一個体として彼女を経由して受け取ったのかもしれない。外の神様は置いておいて、問題はその後だ。
アリアは生まれのせいで音素をどんどん吸収した。人間と違ってフォンスロットで一時的に取り込むのではなく、体内音素として貯蔵してたんだから、被験者と違う進化にはなるよね。やがて自分で第零音素を生み出すようになったのさ。
体外で音素を変質させる被験者と、体内で音素を変質させるレプリカ。面白い対比だよね。それはさておき、これで分かってもらえたかな。今の彼女の状態さ。大量の音素に集られて自壊するってのが死霊使いの予想だったみたいだけど、ボクは違う。集られてるのは彼女の体内にある、観測できない第零音素の総量が大変なことになっているからだよ。
つまりさ、彼女は意識集合体に変異できるんじゃないかと思うんだ。それも七属性の音素の混合じゃなくて、第零音素の集合体。凄いことだと思わない? 生物レプリカが意識集合体に存在を昇華する、歴史的瞬間に立ち会えるってわけさ。
名前はもう考えてあるんだ。星の記憶や記憶粒子に人の意志を刻む物質の集合ってことだから、それらしいのがいいと思って。意識集合体になって音譜帯に上がれば、今後は人々の意志を庇護して星の記憶を書き加える存在になる。人の意志の代表みたいなものだ。丁度少し前に、教団が古代イスパニア語でそんな名前をつけていたよね。似合うと思うよ。
アセリスィア。古代イスパニア語で「真なる意志」だ。
*****
長い話が終わって、ボクは意識を接続し直す。多分省電力モードだった。実際にはみんなで会話をしていたのかもしれないけど、退屈だし情報だけ拾った。分かりやすさは大切だ。最初に確認に口を開いたのは大佐だった。
「イオン様はこうなることが分かっていましたね?」
「概ね予想はしていました。アリアとそのレプリカが星の記憶を書き換えていると確信していましたから」
イオンは穏やかに答える。預言によれば「アリア」は「星の記憶を綴る者」だ。「希望の祈り」として星の寿命を伸ばすなら、相応の対価を求められると推測した。だからボクを預言に差し出した。大事な婚約者を生かすために。
(別に腹は立たない)
ボクだってそうする。大事なものを奪われるくらいなら全部壊すって、テセが死んだ時に暴れようとした前科がある。
かといってテセが死んだ時みたいに満足して死ぬわけじゃない。納得があるだけだ。原因の八割以上が自分の無茶で、やり直せたとしてもその無茶は譲れなかったと思うから、駄々をこねない。ボクはボクの意志に従った。後悔してない。
「………………」
ふらり、と影が動く。シンクが透明の壁に歩み寄って片膝をつき、ボクと目線の高さを合わせてくれる。テセがそうしているように手が伸び、壁に触れた。それにボクも自身の手を合わせる。やっぱり、温度は伝わらない。
「……居なくなるなって、言ったクセに」
ぽつり、と掠れた声が漏れる。苦情だ。いつもそうだけど、彼の苦情は全然怖くない。言葉の裏側が駄々漏れだから。居なくなるなと言っておきながら自分が居なくなる───酷い話だって分かってる。
「ごめんね」
「許さない」
また一つ君に恨まれる。分かっていたけど選んできた。どうやら彼は、ボクが死んでも安堵はしてくれそうにない。ここへ来てくれたように、何か変化があったのだろう。シンクが言葉を続ける。
「アンタが人の意志を刻むとか、ボクの意志がアンタのものかとか、全部どうでもいい。今ならまだ許してやるから戻って来い。もう、アンタを殺そうなんて思わないから」
彼の声は震えない。いっそいつも通りなんじゃないかってくらい平静に聞こえる。彼がそう言ってくれるのは嬉しかった。それはきっと、彼が見失ってしまった意志の在処が見付かった言葉だと思ったから。でももう遅いのだ。それを青髪の少年が言葉にする。
「もう戻れないよ。そこから出たら全部パァさ! 彼女の体はもう限界。音素を遮断するそこから出したら、一気に音素に集られて意識集合体にすらなれないかも」
ギリ、とシンクが歯噛みした気がした。ボクが今どんな風に見えているのかは知らないけど、彼も分かっているのだとは思う。状況を覆す術がないことを。
「アイオンなら」
被験者が囁く。でもそれを否定したのはイオンだった。緩く首を横に振って、彼女に言い聞かせる。
「無理です。数ヶ月前から呼び掛けても応えないと言っていたでしょう?」
「でも!」
「応えませんよ。彼女はもう契約を維持することで精一杯でしょうから」
それは確信に満ちた言葉だった。被験者の表情に衝撃があって、絶望が染みていく。彼の微笑みを知っているように。
「何を……したの……?」
「貴女と約束をするより前に、彼女の力を少しお借りしました。元々契約者の命を二度も繋いだこともあり、蓄えが随分困窮していたようです」
「どうして、そんなこと」
「貴女はレプリカと違って、星の記憶を綴る程の第零音素は作り出せない。恐らく未知の力であるアイオンの力と合わせて『希望の祈り』になると予想したんです。なので先手を打たせて頂きました。預言が貴女に何も出来ないように」
預言が被験者に何も出来ないように。そして被験者が星の記憶やボクに何も出来ないように、だ。そもそも、とソティ、もといメリズが口を挟む。
「アイオンやアリアに頼るばっかりで、自分達じゃなーんにも出来なかったから、こうなってるんじゃないのぉ? 彼女に助けられるばっかりで最後には神様頼み。似合いの結末ねぇ!」
けらけらと彼女は笑う。悪意しかない瞳でそこに並ぶ顔を眺めていた。壁に触れるテセの指先に力がこもる。
「……その通りです」
絞り出すような声で、彼の感じている無力が伝播する。悔しさが、自身を責める声が聞こえてくるようだった。それでも彼と同じように苦しまないのは、きっと感情が飽和しているからだ。この空間は、感情が多過ぎる。
「………………」
大佐だって険しい顔をしている。きっと頭を使ってくれている。その上で選択肢がなくて、可能性を見付けられなくて、寧ろ現実的な予測が出たりなんかしていて。自分の頭は何のためにあるのか、なんて思っていそうだ。
(お師様は変わらないなぁ)
この部屋に満ちる空気感は決して明るいものではない。青髪の少年とイオン、メリズは機嫌がいいがそれだけだ。だというのに、お師様は興味がなさそうに欠伸を噛み殺していた。多分ボクが自分で選んでこうなったから、とやかく言う気がないんだと思う。化け物になって殺されるよりはマシくらいは思っていそうだ。部屋を出て行かないだけ温情だろう。
「でもおかしいなぁ。もう数値上は限界なのに、なんでまだ飛ばないんだろう。なんで人の形を留めてるんだろう……」
青髪の少年がぶつぶつと呟く。そしてやがて「分かった!」と嬉しそうに声を上げた。そしてパイプオルガンのような音機関を操作して、期待に表情を輝かせる。
「こうすればいいんだね!」
瞬間、目の前に赤が散った。
「───え、」
赤。透明の壁にぶちまけられた、赤い液体。体内を循環する血液。溢れたらマズいそれが、沢山。テセの胸元から。
(なに……?)
彼の表情が驚きから痛みに歪んで、千歳緑の瞳が隠れる。ずるり、と壁にもたれ掛かるようにしてその体が崩れる。
分からない。青髪の少年が何かをしたのだ。でも壁の中にいるボクには、外の音素の変化が感じ取れない。分かるのは彼が口元から血を溢しながら、苦しそうでもまだ呼吸をしているということだけだ。
「テセ!」
「テセレマ様!」
ボクが、アニスが呼び掛ける。シンクが青髪の少年とテセの射線に立った。でもきっと、彼はもう何もして来ない。その必要はない。
どんどんと溢れ出してくる血液が彼の白い法衣を染めていく。出血が多い。患部を確認は出来ないが、かなりマズい部分を損傷したのだと予想がついた。
「さあ、お姉さん! テセレマを治してよ」
「は……?」
「このままじゃ死んじゃうよ?」
何を言っているのか理解に苦しんだ。自分で致命傷を負わせておいてボクに治せとはどういうことか。大体、今は透明の壁に阻まれて治癒術を彼に掛けられない。訳が分からない、と思って、不意に気付いた。
(……ボクが、意識集合体に近い存在なら)
第零音素とやらをもしもボクが保有していて、テセの体にもあるのなら…………彼に埋め込まれた輝石にも含まれていることになる。
輝石はローレライに繋がっていて第七音素の支援を受けている。なら、同様にボクとのパイプもあるかもしれない。輝石の振動数はボクとは一致しないけど、音譜帯より余程近くにいる。試す価値はあった。
(第零音素に癒す力があるなんて話はなかった。でも第七音素を書き換えるには適してるって言ってた。ならきっと、テセの致命傷を書き換えられる)
そんな夢のような力があるものかと、普段なら言っただろう。もう少し吟味したかもしれない。でもボクにそんな余裕はなかった。失ってからでは遅いものがある。
「テセ。すぐに……」
「……駄目、です」
息を飲む。テセが応えた。ひゅー、と呼吸が鳴る。血を吐きながらも、死にそうになりながらも、ボクを見る。ボクのために言葉を使おうとしてくれる。
優しい瞳。彼の手はまだ壁越しに触れていて、ボクとの関わりを維持しようとする。
「僕は……元より、死んだ身です……」
「そんなの過去の話だ」
間を置かないボクの回答に、彼は頬を緩めた。迷いなくそう言ってくれることが、嬉しいのだとでも言うように。アリアらしい、と囁きが耳に触れる。
「貴女が、何者でも……僕は構わなかった。ただ……生きて、側にいてくれたなら……」
「そう思うなら生きて。君がいなきゃ、側にいられない」
「……いいんです。貴女はまだ、体を留めている……可能性があるんです」
可能性なんて言ったって藁にでもすがるようなものだ。青髪の少年も言っていたし、ボクだって分かってる。もう人には戻れない。もし体を留められるとしても、この透明の壁からは指先だって出ることは叶わないだろう。
「そんなもののために、君を犠牲にしろって?」
「そんな形でも、僕にとっては……価値があるんです」
分からない。天秤に乗せたって、まだ生きられる可能性が高いのはテセの方だ。ボクは吹けば飛ぶくらいに不安定な状態で、青髪の少年が訝しむくらいにまだ飛んでいないことが不思議なのだ。そんな形で生きたって価値なんてない。
「……アリア」
テセが微笑む。繰り返そうとする。あの時と同じだ。彼が死んだ時。満足を抱えて、君は一人で消えようとする。あの時も今も、それを許す気なんてさらさらないのに。
「飛ばなくて、いいんです」
その言葉がどこから来たのか、ボクは知らない。青髪の少年がどんな意図で「飛ぶ」なんて言葉を使ったのか。でもそれをテセが借りて、ボクの脳裏にあったのは空を飛ぶ鳥の話だ。
空を飛ぶ鳥。
翼がなくとも空を飛び、落ちることも織り込み済みで。
空を飛ぶことに理由などなく。
それが当たり前で、呼吸をするみたいに無意識に。
(ボクが前へ進むのは、立ち止まることが許されないから)
奪われることが許容できず、怒りがボクを突き動かす。
それで全てで、それが全てだ。
翼があるからでも、飛びたいからでもない。
ただボクが、そうだから。
───飛ばないなんて、有り得ない。
「!」
風が起こった。音素の嵐にそれはよく似ていて、でも透明の壁の内側に音素なんて無かった筈だ。
空気が振動して壁が砕けた。途端音素が寄り付こうとするけれど、それに食い潰されることはない。小さな彼らより、ボクの方が存在を確立されている。
背で、密度を増して具現可視化された力が翼のように色付いた。
「やっぱりだ! 第零音素は意志の音素だからね。飛ぶ意志が欠けてちゃあ、飛べないよ!!」
興奮する声が届くけど構わなかった。意識のないテセの手をとる。彼の第七音素を通して星の記憶に接続する。
何の疑問もない。出来ると思ったし、出来てしまう。それこそ呼吸と変わりなく。ただ彼の今を書き加えてしまえば、その変化はすぐだった。怪我なんて何もなかったように元通り。これで彼は生きていける。
「───」
ボクを見る眼。テセを挟んですぐそこに立つ彼の、仮面の向こうの瞳が分かるようだった。怒ってるし許してくれる気もない。でもきっと、テセが致命傷を負った時に分かっていたんだと思う。ボクは何がなんでも飛ぶって。それがボクだって、地核から一緒に飛んだ彼ならよく知ってる。
『ごめんね』
自分の声がいつもと違って聞こえる。まるで本当に空気を震わせているわけではないみたいだ。じゃあどうやって発話しているのかなんて、分かるわけもない。
シンクは慌てない。声も荒げないし、まさかで怖がったりもしない。当たり前みたいに手を伸ばされる。ボクに差し出して、彼は言った。
「ボクも連れて行け」
『本気?』
「離さないって言ったのはアンタだろ」
覚えてる。地核で約束をした。彼に手を伸ばせと、生きようとしてみろと怒鳴った。離さないから、望んでみろと。
ボクは今、もう一度彼の手をとる。壁越しでなく、ようやく温度を感じた。やっぱり、この手を掴んだことを後悔しない。後悔しないから───連れては行かない。
『……ごめんね』
何度目か。謝罪して、ボクは消える。彼が何かを言って、でもボクはそれを聞くことが出来なかった。仮面があって良かった。君の感情が彩った瞳なんて見てしまったら、この期に及んで留まろうとしたかもしれない。
存在が解ける。
像が無くなる。
音素の塊は拡散され、音譜帯へ向かう。
(一人きりでも平気)
ちょっと形が変わるだけだ。ちょっとボクが見えないだけ。
言葉が交わせず、触れ合えず。お昼寝も出来ない。
でもずっとココにいる。人の意志を見届けよう。
世界とか人類とか、そんな大義は要らない。
ただボクは、ボクの大切なものを生かすために。
(ボクがアイオンとルゥノの契約を履行すれば、きっとアイオンは存在を維持する必要がなくなる)
彼女が消えれば縁者でなくなり、傍迷惑な特典もなくなる。
テセもシンクも、これ以上は存在を脅かされないだろう。
でも彼らが生きることを選ぶかなんて分からない。
テセはともかく、シンクはやめてしまうかもしれない。
(独りで生きられるなら、誰かを愛したりしないから)
ボクがもし、本当に人の意志を星の記憶に刻むのなら。
お望み通り、星の記憶を綴る者になってあげるから。
最後に一つだけ、ボクという一つの意志を叶えて欲しい。
(ボクの願いは、ただ……)
ただ一つだけ、ズルをする。