親愛の祝祷
感情がぐちゃぐちゃだった。
空っぽなボクに、初めてそれを手渡した奴がいた。いつの間にかそれはボクに染み付いていて、勝手に死んだ七番目も、それを留めようと命を投げ出した馬鹿も、ボクには煩わしかった。そうして何かを思わされ、思考が振り回されることが生きていることなのだと、やがてボクは理解した。
感情なんて必要なかった。
ボクにあっても何の意味もないガラクタだ。誰に何を思う? 誰に何を訴える。ボクに向けられるのは利用する意志。ボクが向けるのも利用する意志。そこに情なんて必要ない。想うことに意味などない。空っぽのボクに、意味などない。
それでも執着は消えない。
一度覚えた欲は無くならない。握られた手の温かさも、力強さも。ボクを真っ直ぐに映す瞳と名を呼ぶ声。ボクに意味を与える意志。自分が彼女の手に固執していることには気付いていた。それが欲しいのだと認めるまで、随分掛かった。ボクの手など伸ばしてはいけないと戒め続けて、でも結局堪えきれなかった。その甘い花に、とっくに狂わされ始めていた。
触れるしかなかったあの時に、自覚した。
ボクにはボクの感情がある。知り尽くした下らない堂々巡りの憎悪ではなく、出来事に対する突発的な揺らぎでもなく、分解することも出来ないぐちゃぐちゃの感情だ。解けない程に、絡まる程に複雑で、数多の感情。与えられる中で勝手にボクの中に育まれていた、知らない持ち物。それは、彼女に手酷くフられたその時にも酷い乱高下をした。
三度目の今は、どんな感情に乱されているのか。
分からない。考えないようにしなければ、そこに居られなかった。これ以上何も想わなければ、ボクはボクで居られる。芽生えてしまった感情に、覚えてしまった花の甘さに、自分が溶かされる。
感情なんて煩わしいばかりだ。行動を制限され、思考も振り回される。弱味が出来て、弱者に成り下がる。狩られる側なんて真っ平だ。ボクは世界に牙を剥く。
(でも、おかしいな)
空っぽで何もないボク。代用品にもなれず、ただ捨てられるだけの生を受けたゴミ屑。与えられず、得たものもない。それがボクで、同時に「ボク」なんてどこにもいないと吐き捨てていた筈だ。それなのに、今ボクは何を守ろうとしてもがいているのだろうか。
彼女の操り人形だったのではないかと、そんな疑いが湧いたところで「ボク」なんて初めから存在しない。価値のないものに価値を与えたのは彼女だ。それならきっと、操り人形でも構わない筈なのに。いつの間にか「ボクの意志」が何者かに侵されている可能性に堪えられなくなっていて。それが他でもない彼女でも、受け入れられなくなっていた。
(どうして)
分からない。考えることを、思うことを。誰かを想うことをやめてしまった頭では、何も分からなかった。ただそうして傷付けることよりも、独りになることを選んだ。繋がれる手がなければ、生き続ける意味などないのに。矛盾するぐちゃぐちゃの感情を押し込めて。
ボクはその手を離した。
*****
「それで、首輪を噛み千切った番犬はいつまで逢瀬を覗き見しているのかしらぁ?」
温室に女の声が響いた。潜むボクに聞かせるよう、意図的に大きくされた声だ。女は死霊使いに助け起こされるように花の中に立ち直していた。服についた青い花弁を払い落とす。
別に出ていく必要なんてなかった。それでも自然とそうしたのは何故だったのだろう。無意識に仮面に触れた。
「シンク!」
「なんで……シンクが……」
煩わしくもボクの名を呼ぶ存在は二人。驚きながらもほっとした様子のお人好しが一人と、怯えがあるみたいに顔色を悪くする裏切り者が一人。死霊使いとオッサンに驚きはない。温室に何者かが入り込んでいたことには気付いていたようだ。ボクにとってはどうでもいい。
「すみません、シンク。アリアがどこかへ消えてしまいました」
導師がボクに歩み寄りながら申し訳なさそうに眼を伏せた。その感情に意味なんてない。
「知ってる。良かったんじゃない? これでお前も自由だろ」
「……え?」
ボクが何を言ったのか分からなかった、みたいな顔をする。考えてみれば七番目は、教団の操り人形からアレの操り人形に変わっただけだった。意志なんてどこにもない。
「詳しいことはそこの女に聞けば? それともそっちに聞く? 知ってるんだろ、守護役」
水を向けてやれば導師守護役のガキが肩を震わせた。今日一日様子を見ていたが分かりやすかった。導師が戸惑うように名を呼ぶ。
「アニス……?」
「わ、私……」
答えられない。自分が正しいことをしたと信じていながらバツが悪いと感じている。その感情にも意味はないのに。必要のない後ろめたさだと譜術士の女が口を挟んだ。
「アニスちゃんは大事なご主人様を守りたかったのよねぇ」
「アンタッ……!」
「あらぁ! 事実でしょお? 何を隠す必要があるのぉ? 貴女は正しい選択をしたのよぉ。あの子は毒なんだからぁ」
「毒?」
問う意を込めて死霊使いが繰り返せば、女が答える。
「アリアは世界の在り方を、存在する物や人、あった筈の出来事を変えてしまうのよぉ。だからアニスちゃんもそこの坊やも、あの子を排除することを選んだ。ご主人様や自分を守るためにねぇ?」
「………………」
どこから理解をすればいいのか分からない、と導師の顔に書いてあるようだった。おかしいと思う機会さえ奪われていたのだ。ボクと同じように。
「メリズ。場を乱すのではなく説明をしなさい」
「はぁい」
死霊使いの言葉には素直に頷いて、女はその話をする。グランコクマへ向かう船の上で一方的にボクに聞かせ、恐らくそこの守護役にも聞かせたのだろう話を。
「私を研究院から連れ出した人は根っからの研究者でねぇ。音素とか記憶粒子、預言や世界の在り方を紐解きたかったんですって」
その過程で、研究者は新たな機会を得る。約二年前、この世界は外殻大地を降下させた。それによりフォミクリー研究の最新のデータや理論に触れることが出来た。そしてエルドラント崩壊後、「化け物」である筈なのに教団の第二位で人に紛れて過ごす特異なレプリカを知る。
「情報提供者がいたみたいねぇ。私は会ったこともないけど、その人間がアリアがどういう理屈で存在を留めているかを教えた。そして彼女が排出する音素の一部を提供した。サンプルとしてねぇ」
「何故そのようなことを?」
「情報提供者はアリアが第七音素を変質させてるって推測を立てていたのよぉ。だからそれを確かめたかった」
「第七音素の変質……?」
「詳しいことは知らないわぁ。その話を受けた研究者は喜んで引き受けたわぁ。自分の知りたいことに繋がっている話だものぉ」
研究者は特異なレプリカの抱える謎を調べ始めた。そして様々な可能性に気付くことになる。
「彼女が本当に第七音素を変質させているなら、それは凄いことよぉ。だって音素だけでなく記憶粒子まで変質させられるってことだものぉ」
それは世界の在り方を変える力だ。在るべきものの在り方を強引に変えてしまう。ボクや七番目にそうしたように。
「実際、アリアの体を通過した音素は様子がおかしかったそうよぉ? そこの坊やに私が埋めた石も、私の体に埋まっている石も、アリアからとれたサンプルを固定したモノだもの」
その異質さは既に知っているだろうと、女は見回す視線に悪意を込めた。音素を引き寄せる力が強く、乖離させないなんて「音素に愛される体質」によく似ている。
「音素の変質は起きている、というのが彼の結論だったわぁ。じゃあ、ねぇ? 彼女が体を再構成したレプリカは、以前のままかしらぁ?」
女の問いに守護役が顔を俯かせる。守護役もボクも変質を認めたから、原因の排除を選んだ。これ以上、主や自分が惑わされることのないように。それで正しい。
「……成る程。それでアニスはアリアをどこかへ転送させたんですね? 貴女が与えた簡易転送譜術によって」
「そうよぉ。これ以上、大事な導師様がアリアに存在をおかしくされないように。愛を込めて、ね?」
死霊使いの確認に女が頷き、導師は守護役を見る。眉を下げ、戸惑いを乗せながらも事実かを確認しようとする。その視線に顔を俯かせたまま、ようやく守護役は応えた。
「……本当です。ごめんなさい」
「アニス……」
「ずっと怖かったんです。アリアが世界を……貴方を変えていくことが。その子の話を聞いて納得しちゃったんです。人や世界の在り方を変えるなんて、やっていいことだとは思えない。だから……」
それ以上は言葉にならない。だが守護役が何を考えて何をしたのかは十分に共有されていた。導師がボクを見る。
「貴方も、アリアは側に在るべきではないと?」
「そうだよ。アイオンの縁者ってだけでもぞっとするのに、ボク自身まで好きに作り替えられるって言うんじゃ信用ならない。ボクは預言の……あいつの操り人形じゃない」
声に怒りが滲んで、導師は瞑目した。少しばかりの沈黙を挟んで、目蓋が上げられる。その眼に陰りは───ない?
「僕はアリアを迎えに行きます」
導師が何を言ったのか、分からなかったのはボクだけではなかっただろう。少なくとも守護役にも理解が出来なかった筈だ。話を聞いていなかったのかとすら疑ってしまう。何故、という声なき問いに導師が微笑みを浮かべる。
「アリアに再構成された僕が僕のままなのかは、実はもう何度も考えたんです」
結論は「分からない」だったと導師は溢す。
「でもそれでいいんです。僕は彼女のお陰でここにいられる。大切に思っていた人達に、世界に触れられる。皆さんや彼女を、愛おしく想う気持ちに変わりはない。彼女がくれた僕の意志は、変わらずここにあるんです」
強調するようにその手が胸の前へ触れた。自身の心臓に触れるように、もしくはその側に埋まる輝石に触れるように。
「……ありがとう、アニス。僕のために、辛い選択をさせましたね」
「……っ」
「でも、いいんです。僕は分かった上で、彼女と生きていきたい。もう選んでいたんです。僕はイオンではなくテセレマなのだと……そう、名を変えた時から」
「汝の意志することを行え」という呪縛に、導師は微笑む。一片の曇りもない眼で、堂々と。理解が出来ない。自分が自分でなくてもいいなんて……
(……違う)
自分が以前の自分と違っても「自分」なのだと。そう結論付けたのだ。誰に定義されるでもなく、己で定義をした───苛々する。その苛立ちが口から出た。
「綺麗事だ。結局は事実から眼を逸らしてるだけだろ。あいつを側に置きたくて仕方がないから自分を納得させているだけだ」
「……そうかもしれません」
ボクの言葉に導師が眼を伏せる。ほら、そんなものだ。ちょっとつついてやれば弱さが覗く。覚悟なんてそんな大仰なものは有りはしない。そう嗤ってやろうとしたボクに、導師は眼を向けた。しっかりとした、意志の宿る眼───
「ですがシンク。貴方も同じように思うから、今この場に居るのではありませんか?」
「……は?」
「貴方が本当にアリアを排除するつもりなら、このまま姿を消せば良かったんです。アリアを助けに行こうとしている状況に、姿を現す必要などなかった」
「………………」
知らない。
分からない。
何も考えてなどいない。
何も思ってなどいない。
矛盾する感情に眼を向けてやる必要なんてない。
甘ちゃん導師の都合のいい解釈だ。
ボクはアレがどうなったって構わない。
───その言葉達は、声にはならない。
「先程、アニスがアリアに何かをしたと、貴方は予測がついていた。譜術士を呼び出す放送も聞いていた。そして、わざわざこの場所に現れた。……偶然ではないでしょう」
「……偶然だ」
「貴方はアリアを放ってはおけないから、助けに行きたいからこの場所へ来た」
「違う」
「アリアの、側に───」
「違うッ!!」
声が出た。大きな。
違う。感情は揺れていない。
何も思っていないし、考えてもいない。
違う。ボクは正常だ。
「ボクは迎えになんか行かない。助けるなんて狂ってる。あいつは何も知らない顔でボクを利用してた」
利用? 当たり前だ。そんなの普通だったじゃないか。なのに、何故今更になって利用されていたことが気にかかる?
「道具じゃないって言ったのはあいつだ。自分の意志で側にいて欲しいって……言って、おきながら……」
そうだ。そう言葉にされた。そう望まれた。人の意志を尊重する奴だから、あいつはボクが認めない「ボク」をしつこく認めようとして来たような奴だから。
「ボクに『ボク』を与えたクセに……それを」
それを、なんだ? ボクが守ろうとしているもの。アイオンの縁者だとか、存在の変質だとか、音素の引き合いだとか。そうやって脅かされる「ボク」の自由。「ボクの意志」。
どうでも良かった筈で、存在しなかった筈で。空っぽだった筈のボクに、いつの間にか在った「ボク」。アイツが神託の盾の地下牢でボクの手を掴んで、怒りを表しながら放った言葉。
───ここにいる君だよ。ボクが話してるのは導師の代用品でもないし、代用品にもなれなかった出来損ないでもない。
「………………」
言葉が上手く出なくなってしまった。喉が詰まって形にならない。頭の中が、胸の内が、ぐちゃぐちゃで。何故ならボクが見えざる手に持っていかれたくないと望む「ボク」は、きっと。
「……音素の変質で、僕や貴方が彼女に惹かれているのだとして」
導師が語りかける。ボクに。うるさくて、余計なお世話だと思うのにボクは遮らない。ボクと違って迷いを持たなかった奴の言葉が、考えることも想うこともやめなかった奴の言葉が、無視できない。
「けれど僕が思い出すのは、彼女と旅をした時間なんです」
導師であり、導師である前に個人であると告げられて。意志を願う名を渡されて。何かを思い、考えることには意味があると肯定され。自身の想いに従うことを選んだ。
そんな話を導師はする。体を再構成される前から伸ばしていた、特別な手の話をしている。……ボクにも、覚えがあるだろうと。
「想いを渡し合えば、人は変わります。時間を重ね、言葉を交わし、出来事を共有し……そうやって互いの意志に触れる度に『自分』が変わっていく。それが成長で、変化なんです。全ての人間が当たり前に重ねていく、変化だ」
あいつとボク達の間にあったものと違うのかと、導師は問う。音素による変質があったとして、それが本当に自身の全てであったのかを問い掛けてくる。彼女と重ねた時間には、何の意味もなかったのかと問う。
ボクは答えられない。まだ、答えを持たない。
「……すぐに答えを出す必要はありません。貴方の内に芽生えたものが、ただ与えられたものなのか。それとも自身の育んだ『自己』であるのか。決められるのは貴方だけです」
導師が……テセレマを名乗る似た立場にある存在が、己をそう定義したように。ボクにも「ボク」を選べと言われる。誰に定義されるでもなく、理由を外に求めるのではなく、自身の内にそれを探せと。───意志の在処を、問われる。
「………………」
「………………」
ボクも導師も何も言わない。問うべきを終え、答えはまだ出ない。守護役は後悔を顔に書いて、オッサンは肩を竦める。死霊使いは何かを考えるようにしていて、その傍らに立つ女は嗤った。そのまま口を開く。
「話は済んだかしらぁ。それなら、早くアリアのところへ行きましょお?」
「メリズ。アリアはどこへ?」
「ユリアシティよぉ。研究者の彼の元に送り込んだもの」
「……だからフォミクリー研究やアリアを知ったのがその時期なんですね。創世暦時代の技術を転用しているのも」
「そうよぉ。でも、後のお話は船の上でしましょ。急がなくちゃ翼が生えるところが見られなくなるわぁ」
「翼?」
導師が問う。ボクも眉を寄せた。知らない話が出てくると予感した。そしてその予感は裏切られない。満月の瞳を猫のように歪ませて、女は笑む。
「アリアが死んじゃうかもってコトよ」
*****
目が覚めて、知らない景色を見た。
(……固い)
眠っていたらしいのにベッドではない。床のような固さの場所に俯せに倒れていた。ゆっくりと身を起こす。
(何が……あったんだっけ……)
頭が揺れる。酷い頭痛とかではないけれど、軽い脱水みたいに少しだけ脳が心許なかった。最後に覚えているのはグランコクマの王宮でアニスと会っていたことだ。
(二度寝って気分じゃなくて……着替えて、王宮の中を散歩しようとして……)
アニスに会って言葉を交わした。大した会話ではなかったけど、その中で彼女は「ごめんなさい」と口にして……
「!」
記憶が繋がってハッとした。何かを投げつけられた。小瓶のようなもので、それが割れると同時に音素が溢れ譜陣が作動した。あれは何度も見た簡易転送譜術の媒体だ。
「じゃあ、ここは……」
見回す。広い空間だ。ドーム型になっていて窓はない。その一画に天井へ向かうように壁を埋める、巨大なパイプオルガンのようなものがあった。意匠が独特で覚えがある。
(創世暦時代のもの……?)
音機関・譜業だろうか。素人目には何も分からない。ただ、それがお飾りでない限り余程大掛かりなことをするための物のように思える。下方にはそれへ接続される形で、幾つもの音機関が並べられているようだった。各々が並列で情報を処理しているのか、絶賛稼働中のようだった。ウィンドウが目まぐるしく動いている。
その中に一人の少年の姿があった。癖のある青の短髪の、背の低い後ろ姿。若作りでない限り、まだ子供だ。体格を見る限りイオンよりも幼く見える。その少年は忙しなく譜業を触っており、ボクの起床に気付いた様子はない。
(……えぇと)
迷ってからボクは音を出して知らせることにした。目の前にある透明な壁を叩く。それは不思議な材質だった。見た目は硝子に似ているのに叩いた感触がとても軽い。案外丈夫で割ることも容易くはなさそうだ。何故か今、ボクはその透明の壁に取り囲まれていた。
「あ! 目が覚めたんだ!」
ボクの出した音に気付いたのか、少年はパッと振り返ると表情を明るくした。翡翠色の大きな瞳が見える。どうやら声は届くらしい。
「気分は?」
「あー……えっと、ちょっと悪い」
「だよね。ごめんね、多分それのせいだ」
少年がボクを指差す。恐らくボクを取り囲むこの透明の壁のことだろう。どういうことかと首を傾げれば説明があった。
「それ、音素を通さないんだ。今の君にとって音素は酸素みたいなところあるから、酸欠みたいな感覚があると思う」
言われてみれば、確かにずっと静かだ。音素のざわめきが聞こえていない。壁の内側には音素が感じられず、壁の外の音素に呼び掛けることも出来ない。
(……あれ? コレもしかして結構ピンチなんじゃ?)
音素を扱えなければ、ボクはただの十七歳の小娘だ。この硝子に似ている謎の壁をぶち破ることだって出来ない。つまり自力での脱出はほぼ不可能ということになる。
現状特に命の危険は感じていないが、無意識にも音素に頼りきりになってきた身としては一抹の不安を覚えた。あって当たり前に力を貸してくれていた存在が側にないというのは、中々大きな環境の変化だった。
「君が簡易転送譜術とか変な石を作ってた人?」
物々しい譜業の山に、背丈に合わない白衣を引きずっている「如何にも」感から尋ねてみる。少年は明るく肯定した。
「そうだよ! 君はアレの完成形を輝石って呼んでるんだっけ。いいなぁ、ボクも作りたい! やっぱり音機関で君がしてるみたいなことを再現しようとすると難しくてさ。データも全然足りないし弱ってたんだ」
随分お喋りだなと感じる。これは聞けば色々教えてもらえそうだと思い、会話へ思考をシフトした。
「なんでそんな物を作って配ったの?」
「実際に使った際のデータが欲しいからに決まってるじゃないか! 折角どっちも試作に成功したんだから、使ってくれそうな人にプレゼントしたんだよ。お陰で理論の検証とか術式の改善とか出来たし、悪くはなかったよ!」
そういえばプレストが使った時点の簡易転送譜術は、使用者に危険がある物だった話を聞いた気がする。それ以降の物を調べる機会はなかったが、こうしてボクが五体満足ということは術式の改良が行われていたということだろうか。
そしてこうなると、この少年は特に高い思想とかがあって三勢力を支援していたわけではないかもしれない。ただ作ったものを試したくて配っていたことになる。
「でも君が来てくれて良かったなぁ。そんな注文はしてないんだけど、ソティに感謝だね!」
「ソティ?」
「うん! あれ? 彼女に転送させられたんじゃないの?」
不思議そうに首を傾げられる。成る程、少年とソティは直接繋がりがあるようだった。ここに対応する転送譜陣を持った簡易転送譜術を携帯していたわけだし、自然だ。となると、それをアニスに渡したのはソティとなる。
(別にアニスがボクをここに送り込んだって驚きはしない)
彼女がボクに何かしらを思っていたのは知っている。それは過去に「組織に所属しないのか」という話をした時からあったもので、テセが一度死んだ件だって許しがあったわけではない。
それでも仲間としてなぁなぁにやってこれているつもりだったが、何が切っ掛けになったのだろう。やはり、蛆虫処理の時の禍根だろうか。
「まぁいいや! 時間は有限だからね! 早く君からデータとサンプルをとらなきゃ!」
「……待って? ボクから?」
眉を寄せる。確かにボクの体は色々と特異だが、だからこそ何故と疑問を持つ。何のために、どんなデータをとるつもりなのか。少年は再開させようとした作業を中断し、気前よく答えてくれた。
「そうだよ? もしかして気付いてない? あの疑似輝石、君から作ったものだよ!」
「……は?」
一瞬思考が止まった。動き出してもよく分からない。ボクから輝石が作れるって何? 本気で困惑してるのを感じ取ったのか、少年は「うんと」と頭を悩ませると丁寧に説明してくれる気になったようだった。
「君が七属性を使ったレプリカだって教えてくれた人がいてさ。ボクすっごく興味が湧いて! で、その人が術式で君から排出される音素の一部を、サンプルとして持ってきてくれたんだ! 自分の術式だから一部を掠めとるくらいは難しくないって言ってたよ」
(……イオンだ)
ボクの体に音素を排出する術式を施しているのは彼だ。どうやら大佐が怪しんだ通り、彼は個人的な目的もあってボクに延命の術式を施してくれたらしい。善意を期待していたわけでもないし、特に問題はない。
「で、その人曰く君は第七音素を変質させる力があるんじゃないかって。それを調べて欲しいって頼まれたんだ!」
「第七音素の変質?」
「そう! 実際、君の体を通った音素はちょっと様子が違ってさ。疑似輝石もそうだったでしょ?」
つまり、あの輝石もどきに使われていた音素はボクが以前に排出した音素ということだ。何か嫌だな。
「不思議なことに、音素同士の引き合う性質が強化されるんだ! 乖離もしづらくて、えぇと君のあれ、『音素に愛される体質』って奴と関係あるんじゃないかなって」
確かに、お師様曰くそういう話になる。音素に愛されてるから自然に起きる乖離が弱く、お師様の術式で体内音素のバランスを保てていたのが初期の頃のボクだ。つまりボクが七属性を使った生物レプリカとして、第七音素の乖離を起こさずに体を維持しているのもそういうこと、なのだろうか。
「ただ、変質した音素って一定時間が経つと元の音素に戻っちゃうんだよね。だから固定してみたら疑似輝石が出来たってわけ! でも貰い物の音素だから純度も低くて、固定技術も全然だし、数も作れなくてさぁ」
「はぁ……」
「でも君は凄いよね! やっぱり大本だから簡単に音素を変質させるし、純度の高い音素結晶を固定しちゃってさ! その力で生物レプリカだって作り替えたんでしょ? 音機関で再現できるようになるのはいつかなぁ!」
「………………」
ただの言い回しの問題かもしれないが、嫌な予感がした。生物レプリカを作り替えた───少し前にシンクから聞いた話が脳裏を過る。
曰く「ボクは音素を変質させる」「変質させて別物にする」「自分の都合のいい存在に置き換える」「その変質した音素同士が引き合うことで、ボクと彼らは繋がれている」。曖昧だった話が具体性を帯びてくる。
その予感を肯定されたかったのか、否定されたかったのか。ただ、知らないままでいる選択だけはなくて、ボクは問う。
「……作り替えたって?」
「導師イオンのレプリカ二体だよ! 個体名はテセレマとシンクだっけ。二人とも、もう純粋な第七音素で出来てないよ! 君を通して変質した第七音素だ。基本的には普通の第七音素と変わりないけどね」
「じゃあ、何が違うの?」
問うと「これはまだ仮説なんだけどね」と前置きをして少年は話を少し戻す。
「さっき、情報提供してくれた人が第七音素の変質を怪しんでたって言ったでしょ? 第七音素って元は記憶粒子でさ。生物レプリカに第七音素を混入出来ないことから、記憶粒子としての性質は保持したままなんだと思うんだよね」
それはグランコクマで大佐やディストともした話だ。その時ボクは星の記憶への接続が可能か不可能か、という点が肝になっているのではないかと考えた。そのために、記憶粒子もしくは第七音素が必要なのだと。
「だから第七音素を変質させられるってことはさ、音素だけじゃなくて記憶粒子も変質させられるんじゃないかな!?」
「記憶粒子の変質……って、まさか」
「そのまさかだよ! 記憶粒子は惑星の記憶を有する粒子! 星の記憶の欠片だ! 人や物を星と繋いでる物質であり、星の記憶そのものだ! つまり君が本当に第七音素を変質させることが出来るなら、星の記憶を書き換えることだって可能かもしれない!!」
翡翠色の瞳をキラキラと輝かせて、少年は興奮した様子を見せる。星の記憶を書き換える……星の滅びを回避できる?
(ボクにそんな力がある?)
にわかには信じ難い。そんな唐突に、アイオンとルゥノの契約を叶えられるようなオイシイ話が降って湧くだろうか。大体が、まだ仮説の段階だ。証明はされていない。そう思ったのだが、少年はとんでもないことを言い出した。
「実際、君達『アリア』は死を詠まれていた『イオン』を複製体含め、今までずっと生かして来ただろ?」
「………………」
預言にとって、星の記憶にとって、被験者とレプリカの違いはあまりない。どちらでもいいようになっている、というのがボクの仮説。それに則ればイオンもテセもシンクも、とっくに死んでいるべき存在だ。それがまだ生きているのは確かに「星の記憶を書き換えて」いるに等しく、彼らをこの世界に留めたのはボクとボクの被験者……二人の「アリア」だ。
「バチカルで君、沢山死なせただろ? あれも多分君が書き換えたんじゃないかな! でないと一斉にあれだけの人間が都合よく自害するわけないし。防衛本能かな?」
バチカルで大量に自害した人間と言われれば、思い浮かぶのはボクを拉致した過激派が、港に停まっていた船内で首を落として死んでいた異質な話だ。あれは、ボクが身を守るために、星の記憶を書き換えて起こしたもの?
(……あれ?)
そういえば、と思う。おかしな思考がよく割り込んできてはいなかっただろうか。それは旅の頃から時折入り込んでいた、まるで人間を生かすか世界を滅ぼすか迷う声。
「要らない」と何度思考しただろう。何度も、何度も。状況が行き詰まるとボクはその声を聞いていた気がする。つい最近も薬や恐怖で「ボク」という意志が揺らいだ時にその声はした。意識にノイズがはしって、ボクという思考がショートして。その回路は接続を果たしていた。
ボクはあの時、星の記憶を書き換えて、脅威となる存在を終わらせようとしていた?
「君の被験者はガードが厳しくて調べられてないんだけどさ、多分君よりずっと音素を変質させる力は弱いんじゃないかな。何て言ったって君は生まれが特殊なレプリカで、被験者より明らかに『音素に愛されて』いるからね! 起こしてきた変化も君と被験者じゃ規模も数も違いすぎる」
否定が出来ない。イオン達の生存を根拠にされてしまえば、まるで妄想だと切り捨てることは出来ない。奇跡が起きて運命が変わるなんて思っちゃいない。運命が変わるなら、それは必然だ。変わるだけの何かが、作用している。
「さて! 話は一旦いいかな? 早くデータとサンプルをとりたいんだ。君の体を調べてボクの仮説を証明したい!」
「待って、何を……」
声を掛けるボクに構わず、少年はパイプオルガンのような巨大な音機関に向き直った。鍵盤のような部分を操作する。途端、違和感が体を襲った。
「───ぁ」
ぐわん、と頭が揺れる。気持ちが悪い。
視界が回って堪えきれず、床に伏す。呼吸が浅くなり、唾を飲み込むのも一苦労だ。涙が浮かんで苦しい。内側から叩くような頭痛に、脳を揺らされる感覚があって、吐き気が酷い。
(音素、酔い)
荒い呼吸を繰り返す。手足が痺れ、脳の命令が届かない。ざわざわと音素が騒いでいて、耳鳴りが意識に障った。この材質不明の透明の壁の内側が、いつの間にか音素で埋め尽くされていた。少年が譜業を操作して入れたのだろう。気付けば体中のフォンスロットが、焼かれるように熱い。
「選りすぐりの高純度の音素をいっぱい入れたから、苦しかったらごめんね! データもサンプルもとれて、一石二鳥でさ。まだ第一音素しか入れてないから、第七音素までずっとよろしくね! 沢山取り込んで変質させてね、お姉さん!」
少年の声が遠い。視界が暗くなり、意識を保てなくなっていることが分かる。
(だめ……)
素人の頭でも分かる。この状況はマズい。音素酔いを起こす程の量の音素を、七回も与えられるということだ。つまり、とんでもない量の音素を取り込まされる。
そんなことをすれば、この体が取り込む音素量は一気に増えるだろう。既に八十%が音素に埋め尽くされ、体が壊されかけていると大佐は言っていた。間違いなく自壊の時が加速する。
「……っ」
透明の壁へ手を伸ばす。音素に呼び掛けて壊そうとする。でも音素酔いを起こしてまともに動いていない頭では、上手く音素と意思疏通がとれない。術式を組んで譜術を扱うなんてもっと無理だ。ボクの手はただその壁に阻まれるしかなく。
(……この手を……誰に、伸ばすって……?)
ボクの伸ばした手の先にいたのは、たった二人だ。でもボクが本当に音素を、記憶粒子を変質させるなら。体を再構成された彼らは望まずして、ボクの側にいることになってしまっていたのかもしれない。体内音素が親であるボクを慕っていただけで、彼らの意志ではないのかもしれない。
───人の意志を謳っておきながら、アンタがそれを踏みにじる。
(ああ……ホントに、そうだね……)
シンクの声が蘇る。ボクを求めながら、別れを望んだ温もりを思い出す。なら、丁度いいかもしれない。今ここで消えたなら、テセもシンクも自由になる。ボクに惑わされる必要なんてなくなる。ボクも、嘘を吐かなくて良くなる。
(…………よかっ、たぁ……)
安堵の息が漏れた。肩の荷が下りた。何かを望んだ指先は、壁を滑って地に落ちる。伸ばす必要は、もうないから。
どうか、あなたが───……