親愛の祝祷
不意に意識が浮上した。それは微かな音素の揺らめきで、もしくは誰かの気配だったかもしれない。自分がどの感覚を通して、何を拾って反応をしているのか、もうよくは分からなかった。でも確かに何かを感じて目蓋を上げる。
早寝をしたからか室内は薄暗く、まだ明ける様子はない。その薄闇の中に、ベッドの脇に立ってボクを見下ろす人影があった。それは見慣れた鶏冠頭に、嘴型の仮面の少年。
(───え、)
声は、出なかった。寧ろ喉が鳴った。ひゅ、と短く。ベッドに横たわるボクは、嘴の下から彼の顔を覗き上げる形になる。
千歳緑の瞳と確かに目が合った。でも互いに何も言わない。少なくともボクは言えない。ボクの喉に、彼の手が触れているから。
(……なんで?)
起きたての筈の頭が、微睡みなどすっかりどこかへやっている。冷水を浴びせられたように頭が冴えた。ボクを見下ろす瞳が信じられない。そこにあるのは冷たく、暗い色で。喉に触れる指先は命に届く指先だ。どうしてだろうか。
シンクが、ボクに殺意を向けている。
なんで、と声に出して問えない。喉は緊張で乾いて、眼は彼の瞳から離せない。千歳緑の瞳は何も語ってくれない。体を動かす、なんて発想は夢のまた夢で、ボクは思考停止から立ち直れなかった。
先に口を開いたのは、シンクの方だ。
「アンタを殺せば、分かるのかな」
何がだろう。声はいつも通りだった。瞳に浮かぶ感情の色に変化もない。あるのは変わらず冷たさと、暗さと殺意だ。それでも彼は、まだこの首を絞めようとはしない。命を握ったままだ。
応えられないボクに、彼は構わず続けた。
「どんな気分だった? 体のいい操り人形に持て囃されて」
(なに、を)
彼に何を言われているのか分からない。順番が欲しい。話の前提が共有されていない。数日ぶりに会ったボクの護衛役は、わざわざグランコクマまで追って来て何を言葉にしているのか。どうして、冷たく見下ろすばかりなのか。
「ボクもあいつも。アンタの玩具か」
誰のことを指しているのか。何の話をしているのか。誰も玩具になんてしていない。身に覚えがない。少なくとも、目の前にいる彼を玩具にしたことなんて。
喉に触れる指先に少しだけ力が増し、ぐ、と圧を受ける。それで逆に、喉が発話を思い出したようだった。催促を受ける。
「答えろ」
「……君が、何の話をしてるのか分からない」
ボクの回答に、シンクの口元が笑む。それは悪意のある笑みで、同時に知っている笑みだった。舞踏会の前に揉めた時に彼が見せた笑みに似ている。自分を、傷付ける笑み?
「自覚がないっていうのは本当か。まぁ、自覚の有る無しなんてボクには関係ないけどね」
「何の、話?」
「アンタが他人の意志を踏みにじる存在って話だよ」
返答があって、尚分からない。シンクの側に順を追って話す気がないのだ。言葉を交わしながら、理解を互いに得るつもりがない。これはそういうやり取りだ。明確な拒絶の一種であり、それなら何故この場に現れたのかと思う。
なんで、そんな眼をして、すぐ傍に立って、そんな風に自分を傷付けて笑うのだろう。ボクに、何が出来る?
「お笑い種だよねぇ。アンタがボクを助けたのも、ボクがアンタを求めたのも、カミサマの導きだって言うんだからさぁ」
「……アイオンのこと?」
「へぇ。知ってるんじゃない。知っててボクやあいつに手を伸ばしたってワケ? 庇護してくれるカミサマには従順なんだね。それとも同情でもした?」
ここまで言われれば、流石にあいつという言葉が誰を指しているかは理解できた。恐らくテセだ。でも違う。知ってて伸ばした手ではないし、神様なんてどうでもいい。二人に同情だってしていない。
「違う。ボクは……」
「喋るなよ」
「っ……」
喉を押す圧が増した。一瞬痛みがあって、でも潰されるような力ではない。答えろと言ったり喋るなと言ったり、理不尽だ。言動に一貫性がなく理屈が通っていない。
(冷静じゃない)
冷たい眼をしているのに、多分今の彼を占めているのは数多の感情だ。ボクに色が見えないのは、彼がそれらを押し殺しているから。伝える気がないのではない。押し殺さなきゃそこにいられないから、きっと彼はそうしてる。そういう、理由の分からない苦しさが、喉に触れる手から伝わってきていた。
(どうすればいい?)
手を伸ばしたい。苦しいなら呼吸を楽にしたい。ただボクがそうしたい。苦しそうなシンクなんて見ていたくない。
でも、彼を苦しくさせている理由はどうやらボクにもあるようで。ボクが手を伸ばしても、余計に苦しめる予感がした。
シンクが笑みを維持したまま口を開く。自身を傷付ける声音が、痛い。
「人の意志を謳っておきながら、アンタがそれを踏みにじるんだから。本当に気の利いた世界だよね。反吐が出る」
「シン、ク」
名前を呼ぶ。喉が痛んでも構わない。気付いて欲しい。目の前にボクがいることに。ボクが君を見ていることに。
君はボクと違って人の感情が見えるわけじゃないけど、ボクが伝えようとするものを感じ取る力はあった筈だ。だからちゃんと見ようとすれば見える筈で、受け取ろうとすれば受け取れる筈だ。でないと、今までコミュニケーションが成り立っていたことに説明がつかない。
だから彼の名前を呼んだけれど、返ったのは痛みと冷笑だった。
「そうやって媚びでも売ってるつもり? 御愁傷サマ。ボクはもう騙されない。アンタに従ってなんかやらない。アイオンもアンタも、ボクを都合よく使おうとしたみたいだけど乗せられてやらないよ。ボクを馬鹿にするな」
最後の言葉にだけ明確な怒りが混ざっていて、彼が押し殺す感情の一端がようやく覗いた。彼は怒っている。ボクとアイオンに。何故?
(アイオンは、多分縁者の話だ)
ボクが彼らを望んだ理由と、彼らがボクを望んでくれる理由に触れられた。だから恐らく合っている。ボクとしては「そういう解釈もあるんだな」程度だが、彼にとっては違うらしい。
決められたルールにボクが従っているように見えているし、知らない内に自分が従わされていたと感じている。それは分かるが、それならボクの話はなんだというのか。
「……ボクが、君の意志を踏みにじるって、なに?」
問う。瞳に殺意があっても、この手が喉を塞ぐ考えを持っていても、まだボクは無事だ。感情を押し殺してまでそこに立っているように、多分彼の中にまだボクを殺さない理由がある。
なら、今は一先ずそれでいい。自分が受けているだろう幾つもの衝撃なんて後で構わない。君の呼吸を楽にしたい。
(独りになろうとしないで)
シンクは口元から笑みを消した。への字に曲がる。ベッドへ乗り上げ、覆い被さると真上からボクを見下ろす。それはよく知る距離感で、でも今は仮面が邪魔をして表情が分からなくなってしまった。この角度では瞳が覗かない。
「ボクにおかしな石を埋め込んだ女から聞いた。アンタがどういう存在なのか」
どういう存在なんて言われても、こういう存在でしかない。そんな大仰なモノではないつもりだ。確かにちょっと色々と変だが、変であっても大したことは出来ない。伸ばせる手の数は両手の分だけであり、それはもう埋まっている。
そう思うのに、シンクは大袈裟な話を続ける。
「アンタは音素を変質させる。変質させて別物にする。そうやってボクもあいつも狂わせた。自分に都合のいい存在に置き換えた」
(───え?)
知らない、話だった。ボクが音素を変質させる? 変質した音素は別物になる? 初耳だ。知らない。それはどこから来た話なのか。いや、違う。
(今、なんて言った?)
音素の変質。ボクがテセやシンクを狂わせた。都合のいい存在に置き換えた。「自覚がないのは本当か」と確認した、少し前のシンクの言葉を思い出す。知らない。そんなことはしていない。でも、思い当たる節はある。
(テセもシンクも、ボクが体を再構成してる)
テセの体を再構成したのは、勿論彼の死から半年後だ。彼を涙型の結晶から人の姿へ戻した。シンクはついこの前、輝石もどきを摘出する際に再構成している。
でも、その前にも一度あった。テセより前に、エルドラント崩壊直後だ。彼が導師の力を使って、怒って連れ帰って体を繋いだ。あの時、ボクはボクの体を触媒にしてローレライの力を借りた。会話だってしたし間違いない。でも、ボクの体を通る時にその音素が変質していた可能性は、あるのではないだろうか。
(……違う)
そもそも、前提が成り立たない。ボクが音素を変質させるなんて非現実的だ。音譜帯で記憶粒子が第七音素になる原理だって分かっていないのだ。幾ら特異なレプリカの体とはいえあるわけがない。流石に突飛すぎる。
「有り得ない」
「なんで決め付ける? アンタは自分の体のことを知らないだけだよ。知らないから、ボクの言葉を信じない」
「そうじゃ、なくて」
なら根拠は何かと、ボクは問う。可能性の異質さに異論を唱えるボクに、決め付けるなと言うならシンクこそ何を根拠にしているのか。
問う。その当たり前な問いに返ったのは、嘲笑だった。仮面で邪魔をされて瞳も見えないのに、今までで一番痛みを伴っていて。
彼は答える。片手を自身の胸の前へやって、心臓を鷲掴みにするみたいに固く握った。声が、振れる。
「じゃあ、ここにある想いはどう説明をつけるんだ」
声が。色が。押し殺されていた感情が、波を生んで染み出してくる。瞳も見えないのに。景色が、色付いて。
「アンタが欲しくて、手離せないのに。何かに、アンタを被験者と間違えさせられる。おかしな石を埋め込まれてからの記憶はないのに、アンタを求めて歩いたことは覚えてる。起きてからずっと落ち着かなくて。アンタやアイオンがボクを利用してただけって話を聞かされても、こんなところまで来るしかなかった。預言と同じで気に入らないのに───アンタの側に行きたくて仕方がなかった」
この感情にどう説明をつける、とシンクがボクに迫る。彼から伝播する痛みと苦しさで、ボクの方がどうにかなってしまいそうだった。息が、出来ない。
「アンタは音素を変質させる。変質させた音素は、音素同士が引き合う作用でボクやあいつをアンタに繋いでる。体の中の音素がアンタを生みの親みたいに慕ってるワケだ。その音素は音譜帯なんかにはなく、ここにあるんだからな」
胸の前で固く握られていた手が開いて、人差し指がボクの心臓を突いた。ボクが音素を変質させている。変質させた第七音素の親玉がボクだから、二人はボクを望んでくれている。望まざるを得ない状態になっている。同属性の音素同士は引き合う性質を持っているから、当たり前に。
(理屈は、通ってる)
頭ごなしに否定なんて出来ない。でもそれは、ボクが音素を変質させているという前提が成り立ってからの話だ。彼の感情が根拠で音素の変質が証明されるなんて、順番が逆だ。
でもそれはボクの主観の問題で、シンクの主観の違いだった。ボクには彼の抱えている感情なんて分からない。強烈に伝播をしても、ボクは彼がボクに傾けてくれる「愛」を理解できない。頭で理解して、同じ思いを抱くことは出来ずにいる。それと同じだ。
彼が「おかしい」と思う程にボクを想ってくれている、その全てを同様に想うことは出来ないのだ。彼の主観を、否定する術なんてない。
「アンタが、ボクをおかしくした」
それは純然たる事実だった。少なくとも、彼にとって。
「アンタがいるからボクは生きるハメになった。預言を壊す選択を手離して、ヴァンを殺して。興味のない教団にいて、嫌いな同類の顔を見る日々を受け入れて」
どれも事実だ。彼がその選択をすることに、ボクが一ミリも関わりないなんて言えない。全部、「ボクがそれを選んだから」彼が選んだ事柄だ。
「アンタがいないと落ち着かない。アンタに触れると苦しくなる。空っぽの器が満たされて、ゴミのボクが望みなんてものを持つようになる」
おかしいだろうと、シンクが嗤った。ボクとの関わりの中で彼が得た変化の数々を、そんなものは「ボク」じゃないとはね除ける。自分の意志の在処が、分からない。
(だからシンクは、ボクを殺せば分かるかなって呟いた)
ボクが死ねば、ボク側が保有する筈の変質した音素は維持できなくなる。親玉であるボクが消えれば、それに惹かれることはなくなる。そうすれば、その想いが自分のものか、操られたものか判断がつくだろう。
そんなことのために、とは思わない。自身の意志の在処が如何に大切かは、ボク自身がよく知っているのだから。
「───アリア」
シンクが、ようやくボクの名を呼んでくれる。そこにあるのは甘くて切ない響きで、まるで初めて被験者と間違って名を呼ばれた時のようだった。
あの時、ボクはなんて思ったのだっけ。無意識の内に零れ落ちた三音。存在を有り得ないと否定するようで───どこか、恋しがって聞こえた声。
「ボクはアンタを認められない」
そう言いながら、その声に拒絶はない。仮面が外されて、でも顔は見られなかった。ボクの眼元を隠すように仮面が下ろされ、視界が塞がれる。暗闇の中で息が触れた。
「アンタの側には、居られない───」
唇に触れる柔らかさがあった。それは変わらずボクを求めるモノで、でもボクに別れを告げるモノでもあった。感情の波に溺れるボクに、たっぷりの愛を注ぎ込んで。
追い掛ける力すら残してはくれない。ボクの言葉も、抵抗も。彼は初めて許してくれなかった。こんなに愛をくれるのに、君はいなくなる。なんて残酷な話だろう。
(───ああ、でも。ボクも同じだった)
生きることを望んでおきながら、側にいて欲しいと願いながら、大切だと伝えておきながら。もう少しで消えるのだ。三年も保たずに自壊する。
なら、大差はない。お互い様だ。ボクは自分勝手に付き合わせて、彼を利用しただけ。間違っていない。最低なのはボクの方だ。
(ごめんね、シンク)
生きたくなんてなかったのに。それを知っていてボクは命を繋いだ。後悔していない。どんなに恨み言を積まれても、今この瞬間にあの時間へ戻るとしても。ボクは選択を変えないだろう。ボクは何があっても君を生かすし、君に恨まれる。
(…………好きだよ)
いつかボクの死を聞いた時、君は安堵してくれるだろうか。