親愛の祝祷


「───?」

 不意に、意識の端に何かを拾った。もう夜も更けて休もうかと思っていた時だ。

 ボクは私室の方で寝衣に着替えていて、もう後は柔らかい布団に飛び込むだけ。明かりも消して窓から差し込む月明かりだけが部屋を照らしていた。その静けさの、ほんの片隅にそのざわめきはあった。

(……音素が、騒いでる?)

 確信が持てない。普段、音素がうるさくすることなどない。彼らが振動を生むのは譜術を起動する時や、譜業を動かす時だ。それ以外で言えばボクの動揺を拾った時とかにざわつくようだったけれど、そのどの感覚ともそれは違って届いていた。

 なんとなく違うのだ。まるで何かが音素の自然な流れを乱しているみたいに、ざわめきが近付いてくる。

(廊下……ううん。こっちに来てる)

 緊張がはしる。生まれて四年と半年程度だが、経験のない異常に悠長にする程能天気ではない。音素のざわめきがゆっくりと近付くのを感じとりながら、扉を睨んで窓を背にする。

 もしもの場合は窓から脱出する。教会の上層に部屋を持つので間違えば死ぬが、今のボクなら大丈夫だろう。音素の助けを借りれば問題ない。それ程にはボクと音素はとても仲が良くなっていた。ある意味、まだ距離のある音素のざわめきまで拾えるのがいい証拠だ。

(……執務室の扉が開いた?)

 音素の乱れと別に、耳が拾ったその音に眉を寄せる。おかしい。てっきりよく分からない音素兵器か何かが、作動しながら近付いているのかと思っていた。

 だが、扉を開けるというのは知性のある行動だ。少なくともボクの知るお師様よりは知性がある。それはゆっくりと執務室を過ぎ、ボクの私室へと向かってきている。

(鬼が出るか蛇が出るか……)

 周囲の音素に呼び掛ける。出会い頭に襲われるかは不明だが、念のため自衛に備えた。体を強化し、瞬間的に目眩ましも出来るよう第六音素も集めておく。

 そうして固唾を飲んで見守る前で、ドアノブが動いた。ゆっくりと下がり、扉が押されるように開く。

 入り込んできたのは、人影だった。それは開く扉に寄りかかるみたいに不安定な動きで───その人影がボクの相棒だと気付いた時に、呼吸が止まった。

(……え?)

 間違いない。部屋には月明かりしかないが、それが確かに彼を照らしている。千歳緑の鶏冠頭。扉に寄りかかるようにして入ってきたのは間違いなくボクの相棒だ。

 でも、それなら少し前から意識に触れていた音素のざわめきはなんだというのか。何故、それを待ち構えて彼に会うことになる?

「……っ」

 現状把握が追い付かないボクの前で、シンクの体が崩れ落ちた。そこでようやく気付きを得る。ふらついて見えたのは見間違いではなかったのだ。体調が悪いか怪我をしているか、分からないが彼の身に何かが起きている。

 頭を切り替えて彼の名を呼び、慌てて駆け寄った。

「シンク!」

 倒れた体へ手を伸ばす。状態を見なければ適切な対処が出来ない。仰向けにして様子を見ようと、明かりをつける手間も惜しんで代わりに第六音素に呼び掛けた。

 彼を照らそうとして、しかしそれは叶わない。名前を呼んだボクに、瞳が薄く開いて伸ばした手が捕まる。

「えっ」

 こちらの体勢を考慮しない強引な力に引かれて、床に引き倒された。痛い。

 見上げればシンクが覆い被さっていて、ボクの好きな瞳がボクを見下ろしている。仮面はない。

 でも、変だ。その瞳にあるのは確かにいつもの熱で、でもどこかおかしい。高熱に浮かされている時みたいにぼやけて見える。

(……高熱?)

 その発想から注意深く彼を観察した。頬が紅潮して見えて、発汗がある。瞳は潤んで、まるで濁っているみたいに意志の在処が判然としない。苦しげな荒い呼吸が繰り返されており、彼に掴まれている手首はとても熱い。まるでシンク自身の体が酷い熱を持っているみたいに。

「あり、あ……」

 苦しげな呼吸の合間に囁かれる。やっと聞けた相棒の声は、ボクの知っている普段の声とはかけ離れていた。弱々しくすがるような響きがあって思考が止まる。

 その隙に彼は体を低くしてボクの唇を塞いだ。

「!?」

 余計に頭が事態を理解できなくなる。呼吸を奪って、自由を奪う。咄嗟に抵抗を選んだのに押さえつける力が強くて敵わない。力任せに強引に触れられるのは初めてだ。

「ま、待って、シ……っ」

 聞いちゃいない。指先が体をなぞって羞恥が上がる。優しさよりも性急さを感じる触れ方。状況は分からないけど、平時じゃない。このまま流されるわけにはいかない。

 舌が捩じ込まれ、熱い掌が寝衣の間から侵入する。抵抗は意味をなさない。ボクよりシンクの力が強いのは当たり前で、敵わない。

「ん、んん、」

 与えられる「快」に流されてしまいそうになる意志をかき集める。傷付けたくない。でも、このままは選べない。眼に涙を浮かべながらも腹を括った。

「───第七!!」

 呼び掛けた音素は、ボクに覆い被さる彼へ向かう。ぶつけられ、鼓膜を震わし、酔わせる。

「っ……!」

 耳ごと頭を押さえて顔を顰めると、シンクの体が倒れ込んだ。一先ず危機を逃れてほっと息を吐きたかったが、そうもいかない。

 乱れた呼吸を無理矢理落ち着けながら、半端に熱を持たされた体を叱咤する。起き上がると、今度こそシンクの様子を見た。

「意識は……ない」

 相変わらず高熱にやられているように苦しげな呼吸がある。目蓋が閉じられ眉が寄っている。それに合わせて耳からの出血もあって、ちょっと申し訳ない心地になる。鼓膜が破れただろうか。

 音素に呼び掛ける余地はあったが、力の加減までは難しかった。抵抗するためとはいえ、血を流させる程傷付けたいわけではない。体調を確認したら治癒術を掛けるから許して欲しいと心の中で呟いて、彼の体に触れた。

「……?」

 音素の流れを感じ取るのは、ボクにとっては呼吸と変わらない。以前出会ったばかりの頃にテセの体を診たように、シンクの体も診ることにした。

 だが触れて困惑する。体内音素の様子を探ったのだが、それがまるでぐちゃぐちゃだ。

「なに、これ……」

 酷い。人間もレプリカも、音素が肉体を繋いでいる。レプリカはその音素が偏ることでボクのような「化け物」になってしまう。体内音素のバランスというのはとても大切なものなのだ。

 だが、今のシンクはそれが酷い有り様だった。第七音素だけで構成されている筈の彼の体に、異物が大量に入り込んでいる。

「第一音素……第二も、第三も……第六まで全部ある」

 有り得ない。本来在るべきでない音素が入り込んで体の中を乱していた。体内音素のバランスが乱高下するみたいに定まらず、体を正常に循環させていた第七音素を侵食している。

 多分、人間の体にあらゆる動物の内蔵を詰め込んだみたいな状態だ。こんな酷いキメラ結合は類を見ない。

「それでボクが襲われるのは分かんないけど……」

 とにかく原因を探らなければならない。体を構成する音素がやられているということは、フォンスロットから一時的に取り込んでいるのとはわけが違うのだ。

 こんな風に後天的に別の音素を取り込めばどうなるかなんて知らない。ボクみたいな「化け物」になるのか、それとも体を維持できなくなるのか。何にせよ無事では済まされないだろう。

「何か原因がある筈……」

 自分の衣服を整えるのもそっちのけで、シンクの体を診ていく。が、それを見付けるのは案外早かった。襟元を開いたその時にもう見えたのだ。何かが根を張るみたいにシンクの肌に広がっていた。

 衣服の前を開けて胸部を確認すれば、見覚えのあるものが肌に埋まっている。黒く澱んで見えるが音素結晶だ。

「人工的に固定されてる……純度はまぁまぁ」

 それはシンクの心臓近くに埋まって、周囲に根を張るように脈打っていた。テセの輝石に似ているけれど、様子が違いすぎる。テセの輝石は純度が非常に高いもので、透明であり肌にこんな風に痛々しい痕を生んではいない。

 子細は不明だが、パッと頭に浮かんだのは拒絶反応という言葉だった。どちらにせよ、この輝石に似た石が原因だ。どういう原理か、周囲の第一から第六までの音素を過剰に引き寄せている。ある程度効果を任意に出来る輝石とは安全性が雲泥の差だ。

「取り出さなきゃ」

 この輝石に似た石が周囲の第一から第六の音素を無差別に取り込んでいるせいで、シンクの体内音素がバランスを失っている。本来在るべきでない音素によって体を構成する第七音素が侵食されていて、非常に不安定な状態だ。だから一刻も早く取り出さなければならないし、取り出せば光が見える。

 だが問題は、どうやってという話だ。

「輝石なら違うんだけど……」

 この輝石に似た石はボクが作ったものではない。勝手が分からないし、明らかに体を侵している様子の異物を、正しく取り除く方法など分かるわけもない。

 だが誰に聞けば分かるというのか。音素結晶を体に埋め込むなど、本来は危険すぎて誰もやらないことだ。なら、ダメ元しかない。音素に愛されているらしい自分の体質に賭けてみよう。

「……お願い。ボクの大事な相棒なんだ。君達にはあげられない。返して」

 体を侵す石に触れ、それを構成する音素に呼び掛ける。当然だが、なんらかの方法で固定されている音素を操作することは難しい。侵食が進んでいて、石と彼の体の境も曖昧だ。間違っても一緒に体を構成する第七音素まで拡散されては敵わない。だから慎重に分解する。

(音素は同じ属性同士で引き合う性質がある。なら、愛しいボクの体内音素なら喜んで引き寄せられてくれるでしょ)

 眼を瞑り、石に触れる指先に意識を集中させる。祈るような気持ちで音素に呼び掛け、その流れを掴んだ。石という状態から、ボクの体内へ誘い込む。

 指先が音素の過剰な受け取りに熱を覚えた。体の中に巡る音素の量が増えたように感じられて、多分効果はあったと思う。ただ、それに安堵するには早かった。

「! これ……第七音素が乖離してる!」

 何故。分解しているのはあくまで石を構成する第一から第六までの音素だ。間違いない。

 なのにシンクの体は淡く光を帯び始めていて、きらきらと虚空へ消え始めていた。まるでこの石が失われると第七音素まで結び付きを失うみたいだ。

(おかしい。この石にあるのは第一から第六までの音素だ。第七音素と引き合う要素なんてある筈がない。でもこの石のお陰で第七音素の乖離を引き留められていたなら……第一から第六の音素を取り込んだ時点で、実際には第七音素が乖離を始めてたことになる)

 既に体を構成するだけの結び付きを失っていた。だが何が作用したのか、原因である筈の石が一時的に第七音素を留めていた。長くその状態を保てたとも思わないが、石の摘出は彼の寿命を縮めたにも等しい。

(ここにいるのが、ボクで良かった)

 何故彼がこの状態でボクのところへ来たのか分からないが、心の底からそう思った。ボクでなければ多分対処できなかった。ボクが「化け物」に生まれついていなければ、きっと彼は壊されていた。

 第七音素が乖離するなら、繋げばいいのだ。その術をボクは異端の存在として持ち合わせている。

「……あげないよ」

 囁いて、口付けを贈った。触れる唇から呼吸と共に第七音素を送り込む。指先は石の摘出に使っているし、他に彼と繋がりを意識できる場所はない。

 エルドラントが崩壊した後に彼にそうしたみたいに、その後にテセをこの世界に呼び戻したみたいに、その体を再構成する。ローレライの力を借りているのかなんて、もう意識してもいなかった。

 ボクの体は音素を通せば通す程、その通りをよくしていく。第七音素を流し込み、構成する力がある。それで十分だ。

(誰にもあげない)

 何者かの悪意に。音素に、世界に、神様にだって。彼をボクから奪うことは許さない。彼の存在をただ消費させるなんて認められない。この手を離さないと約束したから、ボクはもう一度彼をこの場所へ引き留める。

(もう一度、手を握り返して)

 生きて欲しいという祈りに、生きる意志を返して欲しい。地核でシンクはボクに手を伸ばしてくれたけれど、手を握り返してはくれなかった。でも生きることを、選んでくれたから。

 ───どうか、彼に未来を分けて。

 

 

 

*****

 

 

 

 夢を、見ていた。ただ温かさに包まれるだけの夢だ。彼女に手を伸ばされるまで、知らなかったもの。触れてみれば失うことが恐ろしくなって、でも今は失わないために手を伸ばすことが出来る。

 微睡みの中で、目蓋を押し上げた。曖昧にぼやけた視界の中で、人影が映る。

「シンク?」

 名を呼ばれる。知っている声だ。ボクを死なせてくれなかった暴君の声で、光に慣れない視界でぼやけた人影がゆっくりと像を結ぶ。亜麻色の、長い髪。

(……アリア)

 喉が張り付いているようで咄嗟に発声が出来なかった。胸にあったのは安心だ。何に自分が安心したのかは分からなかった。だが彼女が触れられる距離にいたことに確かな安堵がある。

 声の代わりに手を伸ばそうと指先に力を込めて、そこでようやく気付いた。

(違う。アリアじゃない)

 眼が光に慣れてきた。視界がクリアになっていき、人影が何者か正しく認識される。彼女の被験者───もう一人の"アリア"だ。

 彼女は横になっているボクを優しい表情で見下ろしていて、それを認識した瞬間に思考が停止した。信じられない心地になった。自分が今何をしたのか、認められない。

(───間違えた?)

 有り得ない。すぐに否定したが、脳は事実を知っている。アリアと被験者を、間違えた。姿形も声も、よく似ていても別人のものなのに。

 今まで彼女達を間違えたのはただ一度きりだった。初めてアリアと会った、コーラル城でのことだ。それ以来は間違えたことなどなく、彼女達もボクや導師、イオンを間違えたことなどない。

 他の人間にとっては大差のない話だ。だがボクにとっては衝撃が小さくない。よりにもよって、アリアを間違えるなんて認めがたい。

「目が覚めて良かったわ。一晩眠っていたのよ。喉が乾いたでしょう? 起きられる?」

 "アリア"から気遣いの言葉が降ってくる。それに頭が回り直して、複雑な感情を飲み込むと上体を起こした。

 少し怠いが調子は悪くない。彼女の言葉の通り喉は乾いていたが、起きて水を手渡されるようなルームサービスが必要な状態ではない。何故彼女がボクの私室に立ち入っていて、まるで看病についていたみたいに見えるのか。

 経緯を知るためにも水を受け取り喉を潤した。口の中が乾きすぎて水の味もよく分からない。発声する。

「……なんでアンタがボクの部屋にいる?」

「アリアに頼まれたからよ。放り出せないもの」

 当たり前でしょう、と言いたげに堂々と答えられるがまだ理解に至れなかった。寧ろ新たな謎が出てきてしまった。アリアに頼まれたというのはどういうことか。それではまるで。

 思考が至って、不吉な予感がした。確認の意味を込めて"アリア"の水色の瞳に問う。

「あのトラブルメーカーは今どこだ」

「グランコクマよ」

 嫌な予感が的中していた。ボクが寝ている間に何があったのか、アリアがダアトを離れている。布団をはね除けた。それに慌てて"アリア"が制止をかける。

「ちょっと! どうする気?」

「追いかける」

「ダメよ! お願いだから、まだ大人しくしていて」

「必要ない」

 事実だ。体の調子は悪くない。だが"アリア"は引き下がらず、声を掛けながら引き留めるようにボクの腕を掴んだ。それに何故か胸がざわついて、耐え難くて振り払った。何故そう感じたのか、ボクにも分からない。

「着替えるから出ていけ。それともそこで見てる? 別にボクは困らないけど」

「そこは困って頂戴───って、そうじゃないわ! ダメったらダメよ!」

「しつこい。なんでそこまでして引き留めるんだ。体の調子なら悪くないよ」

「アリアが心配なのは分かるけど、少し頭を冷やしなさい。そもそもなんであの子が貴方を置いて行ったと思っているの?」

 その言葉に当初の疑問が戻ってきて、お陰で不本意ながら自分が冷静さを欠いていたことを認識した。彼女の言葉の通り状況の確認が済んでいない。

 渋々脱ぎかけた服を直して"アリア"に向き直った。

「何があった? まさかボクが起こしても起きないから置いて行ったとかじゃないだろ」

「それは面白いけど違うわ。貴方が倒れたから休ませていたのよ」

「……倒れた?」

 眉を寄せて怪訝な顔を作る。倒れたと言われても身に覚えがない。昨晩は自分の執務室にいた筈だ。

「覚えていないの?」

 不思議そうに問う彼女に嘘を言っている気配はない。もう少し自分の記憶を掘り返してみることにした。

(昨日は……そうだ。守護役が執務室に来た)

 あのガキからアリアが出掛けた話を聞いて、それで……と。記憶を追ってようやく思い出す。変な女に遭ったのだ。罠にハマって何かをされた。導師の体に埋め込まれている輝石によく似た石を、埋め込まれた。

 至って、慌てて服の胸元を開けた。"アリア"が恥じらうように悲鳴を上げたが無視だ。触れて確認するが、そこに鉱石が埋まっている様子はなかった。

「夢……?」

「シンク! 前を閉じなさい! 淑女の前で破廉恥だわ!」

「今更何言ってるのさ。男の体なんてどうせ婚約者で見飽きてるでしょ」

「い、イオンの裸なんて看病の時くらいしか見てないわよ! バカ!!」

 返ってきた言葉に一瞬意外に感じるが、考えてみればおかしな話ではない。本来の年齢はさておき、被験者同士はまだ十三歳と十五歳だ。今年には十四と十六になるものの、肉体関係を持つにはまだ早い。

(ふぅん……あれだけ"アリア"に執着しておいて、まだ手はつけてないのか)

 イオンに対して少し優越感を覚える。それにしてもこちらの"アリア"は随分常識がある。何をどう間違えたら男の前で平気で薄着になるレプリカが生まれてくるのか。考えても無意味なので服の前を閉じて話を戻した。

「ボクが倒れたっていうのはアリアから聞いたの?」

「ええ。詳細は知らないわ。貴方が倒れた経緯も聞いていないの」

 となれば、ボクの体に人工の音素結晶が埋まっていたか等は彼女に聞いても仕方がなさそうだった。詳しい話をしなかったのは伝える必要がないと感じたからか、伝えない方がいいと感じたからか。判断がつかなかったため、ボクもしらばっくれておくことに決めた。

「何があったの?」

「さぁね。ボクも覚えてない」

 肩を竦める。実際、思い出せたのは輝石に似た石を体に埋め込まれたところまでだ。その後の記憶はない。ただ凄く渇いたことだけは覚えている。アリアに触れたいと思った気がした。

 多分、そのままアリアのところへ行ったのだろう。そうして彼女がボクの体からあの石を取り除いた。そこまで推測が立てられれば、思考は次へ移る。

「アリアはなんでグランコクマへ?」

「急ぎの調べ物って言ってたわ。ここでは分からないから、ジェイドの力を借りるんですって」

「死霊使いの……?」

 専門的な知識が必要ということか。寧ろ必要なのは技術かもしれなかった。グランコクマには帝国譜術・譜業研究院があるし音素研究を行う施設もある。アリアがあの石を確認したなら、疑問に思って調べようとした筈だ。

 それならいつ起きてくるともしれないボクを置いて出国してもおかしくはなかった。問題は同行者の方だ。

「導師と守護役がついてる。違う?」

「正解よ。どうして分かったの?」

「ふん」

 気に食わないが、似た者同士なのだから当たり前だ。今このダアトにアリアの師はいない。護衛役であるボクは寝ていて、教団には詠師会を押さえる祝師としてイオンが、その側役として"アリア"が正式に身を置いている。そうなれば、あの導師は絶対に自分が同行すると譲らなかった筈だ。

(それに、輝石のこともある)

 アリアがボクの身に起きたことを、あの導師にまで黙っていたとは思わない。寧ろ真っ先に相談しただろう。そうなれば、当然導師の体に埋まっている輝石の話になった筈だ。合わせて死霊使いの意見を聞きに行ったとしても自然だ。

(守護役だけが同行する状況じゃなかっただけマシか)

 あのガキにハメられて変な女に遭遇したのだ。事実は分からずともボクはそう思っている。導師の前で不用意なことをするとは思わないが、ダアトで堂々とボクを罠にハメたのだから油断はならない。どちらにせよ、すぐに追うべきだ。

「話は分かった」

「なんで分かったって言いながら脱ごうとするの!?」

「着替えるからに決まってるだろ」

「アリアを追う気ね。ダメって言ってるでしょう!」

 頑としてボクを行かせたくないらしく、"アリア"がボクにすがりつく。その手が服越しに触れて息を飲んだ。

(まただ)

 胸の奥がざわつく。繰り返されれば勘違いでないと分かる。明らかにおかしかった。この体は寝込むには不適切な程に調子がいいのに、"アリア"に対して妙な反応を見せる。ざわざわとうるさくて、落ち着かない。

「離せ」

 もう一度振り払った。だけど"アリア"は強情で、今度は簡単に振り払われてくれない。胸のざわめきが耐え難くて振り払う力が強くなる。

「きゃっ……」

「!」

 彼女がバランスを崩すのが見えて、慌てて手を伸ばす。怪我をさせるつもりはなかった。倒れるのを防ぐには遅かったが、腕を掴んで倒れる方向を修正することはできた。ベッドの上に庇いながら倒れこむ。

「わっ! ご、ごめんなさい。シンク」

「───」

「シンク?」

 名を呼ばれるが、答えることが出来なかった。

(……なに、これ)

 服越しに密着する体温に、鼻先に触れる匂いに、意識が固まる。今自分の体の下敷きになっているのはアリアじゃない。五感が得るものは全て違う。それなのに、何かが"アリア"を同じものとして認識させているみたいだった。胸のざわつきが大きくなり、頭の中に快楽の信号が現れる。

(違う。これはアリアじゃない)

 そう思うのに体を離せない。見下ろせば、水色の瞳が戸惑いを浮かべてボクを見上げていた。アリアと同じ色の、アリアとは違う眼だ。ボクが二年間、ずっと見たかった瞳だ。

「シンク……?」

 重ねて呼ぶ声に意識を揺らされる。違う。アリアじゃない。

(でも、「アリア」だ)

 心の声が応える。違うというのなら、どう違うか証明してみせろと声がする。知りたくはないかと誘惑がある。抗うボクの手が、"アリア"の首筋を撫でた。

「んっ……くすぐったいわ。どうしたの?」

 問われる。まだ向けられるのは困惑だ。普段と変わらない"アリア"。普段と違う"アリア"は、どんな顔をするのだろうか。イオンも知らないそれに、興味が湧く。

(……違う)

 アリアじゃない。繰り返し唱えて思考を制御しようとする。頭では分かっている。なのに、何故かアリアと"アリア"が混同される。

 おかしい。異常事態だ。離れなくてはならない。早くしないと、思考まで飲まれてしまいそうだ。なのに体は動いてくれなくて、ボクを見上げる"アリア"の眼に心配さえ浮かんでしまう。ボクは今、どんな顔をしているのだろう。

「大丈夫……?」

 "アリア"が手を伸ばす。やめろ、と心の中で呟いた。さっさとボクをはね除けて逃げてくれればいいのに、彼女はボクへの心配を優先したようだ。頬へ伸びる手に呼吸が浅くなる。それが触れたらマズい気がした。焦燥が胸に満ちて。



「人の婚約者を押し倒すなんて、見境がない獣だな」



 意識に冷ややかな声が滑り込んだ。それだけの変化で頭が冷え、体の自由が戻る。正常な呼吸を取り戻して、ボクは"アリア"から離れた。彼女が身を起こす。

「……言いたくないけど、礼を言ってやるよ」

「僕は殺してやりたいけどね。お前が自己嫌悪で酷い顔をしながら僕に礼を言うのは少し面白いから、特別に保留にしてやるよ」

 声の主を見もせずに頭を押さえて言葉を投げる。それが誰かなど問うまでもなかった。自分の被験者で"アリア"の婚約者であるイオンだ。何を感じ取ったのか、偶然か、ボクにとっては憎らしいが天の助けか何かだった。

 あのままではどうなっていたか自信がない。離れた場所からイオンと"アリア"の会話が耳に届く。

「アリア。しばらく部屋を出ておいで」

「え? ダメよ。看病があるもの」

「少し話があるんだ。二人でね」

「………………」

「ふふ。そんなに睨まなくても虐めたりしないよ。何もしないって約束は守るから」

「……分かったわ」

 渋々といった声音で"アリア"は了承すると、「絶対にグランコクマへ勝手に行かないように!」とうるさく言って部屋を出て行った。

 その退室を確認して、ようやく深く息が吐ける。背後にあった机に腰を預けた。イオンが嗤う。

「僕の前でそんなに気を抜いてるお前は初めて見るね。それだけ余裕がなかったってことかな」

「………………」

 その通りで、言い返す気力も湧かない。この性格が最悪な被験者に、過剰に感情を動かされることはもうない。だが気を抜けるような相手でもなかった。嫌いであることに変わりはないし、今すぐ消えて欲しい程に憎くもある。

 だが、それはもうボクの中心にはない。中心にあるのはアリアの存在だ。

「まぁ、僕も彼女とあの模造品を間違えさせられたらお前みたいに死にたくなるからね。分からないでもないよ」

 その言葉に息を飲んだ。それは的確にさっきまでのボクの状態をついた言葉だった。知らない筈なのに、知っている。顔を上げてイオンの微笑みを睨む。

「……何を知っている」

「言っておくけど僕が何かをしたわけじゃない。まだ体が馴染んでいないから、一時的に混同しているだけだ」

 何の話をされているか分からなかった。体が馴染む? 一時的に混同している? 前提が分からない。だがイオンはその話と関わりがあるのかないのか、違う話を始めた。ベッドの脇に置かれていた椅子に腰掛け、ボクを見る。

「『アイオンの縁者』って知ってるかい?」

「……はぐらかすな」

「はぐらかしていないよ。大事な話だ。お前が随分頑張っているようだからヒントをあげようと思ってね」

 意図が読めない。また余計な波風を立てられるのかと警戒するが、今のボクは警戒することが出来ている。なら耳を塞がなければならない程ではない。

 それにもう逃げないと決めたのだ。眼を背けたところで、この悪意は在り続ける。アリアを守るためにも視界に収めておく必要があった。

 何より「アイオンの縁者」という言葉はボクの関心を引く。十中八九、アリアに関わる話になるからだ。黙れと言わないボクに、イオンは笑みを深くしてから話を続けた。

「そもそもアイオンとは、人にとっての神に近しい。高次の霊、超越的な圏界を示すものであり、時間や永遠そのものを指す。真の神とする考え方もあったみたいだよ」

「哲学なら他所でやってくれない?」

「ふふ。まぁこの世界の記憶ではなく、彼女が元々いた世界の話だから、この辺りの話はお前には関係ないかもね」

 アイオンがこの星の外から来たことは知っている。この星においては意識集合体に近しい存在であり、音素でない未知の力を有している。それが「時」を属性とするものであることも分かっていた。どうやらそれに関わる話のようだ。

「アイオンは通常、プレーローマにいるんだ。あそこは永遠そのもので、アイオンとイコールだと言ってもいい。霊的な階梯圏域だからね。そしてアイオンは複数体いるという話もある。八体のアイオン全てを合わせて、僕らが知るアイオンと同一という話だよ」

 言葉面は拾えても、意味まで読み解くのは難しかった。急に哲学の話をされても興味がない。そういうのは恐らく導師やアリアの方が喜ぶだろう。それでもなんとなく、イオンの言いたいことが分かった。

「その八体が『アイオンの縁者』?」

「正解。アイオンの一部で、アイオンそのものとも言える。アイオンの加護『オグドアス』が与えられていて、その内上位の四体はテトラクテュスと呼ばれている」

 その話は以前アリアからも一応は聞いた話だった。胸に風穴を開けて生き残った後の話だ。プレーローマに通じる道とやらで以前のアイオンの契約者と会い、加護を受けていると話していた。

 確か「死ぬような目に遭いやすくなるけど死にづらくなる特典」だったか。事実なら傍迷惑では済まない。ボクの苦労の大半がアイオンのせいだと言える。

「八体のアイオンは男女の一対として四対ある。これは両性具有を表していて、互いを伴侶としている。かつての契約者は『片割れ』なんて言い方をしていたかな」

「その話必要?」

「大事だよ。アリアの伴侶の話をしているんだから」

「……は?」

 思考が追い付かなかった。我ながら間抜けな声を出して、イオンを凝視する。アリアの、伴侶?

「この世界に今『アイオンの縁者』として加護を受けた存在は五つ───この数字が何を示すか、分かるだろう?」

「………………」

 あの呼び出されるアイオンと同一と言える、加護を受けた存在が五つ。対を成す伴侶はアリアの伴侶と同義である。

 ここまでを前提におけば、分からないわけがない。だが、それはあくまで話の上でだ。理解には程遠いそれをボクは渇いた口で確認する。

「二人の『アリア』と、お前や導師、それからボクとでも言うつもりか」

「お前が望まなくてもそれが事実だ。僕達『イオン』と『アリア』はアイオンによって強く結びつけられている。テトラクテュスであるあの模造品の伴侶がお前とテセレマのどちらかは、僕も知らないけれどね」

「………………」

 それは重要な話だったが、それにこだわることは出来なかった。嫌な予感がする。「イオン」と「アリア」は強く結びつけられている───「伴侶」とは、なんだ?

 ボクの胸のざわつきが顔に表れたのか、イオンは機嫌が良さそうにそれを肯定した。

「ご明察だよ。『アリア』が『イオン』を助けるのは互いが強く結びついた縁者だからだ。そして『イオン』が『アリア』をどうしようもなく求めてしまうのも、それが僕らを生かすためだけに存在を許された、ただ一人の『伴侶』だからだ」

 それはつまり、ボクがアリアを求める理由もアリアがボクを生かそうとする理由も「そう定められているから」ということか。陳腐な物言いをすれば、運命づけられている───まるで預言のように。

(……違う)

 人間の意志を、選択を。

 簡単に奪って与えていく預言がボクは憎い。

 生まれてくる理由も、死にゆく理由も。

 生き続ける理由も。

 その全てを台無しにする預言が許せない。



 なら、アイオンという存在はどうだ?



(戯れ言だ)

 イオンの言葉など信用できない。また悪巧みをしていて、ボクを揺らがせようとしている。

 反面で、直感が悟っていた。否、直感ではない。ボクとイオンには気に入らないが確かに共通する部分がある。その感覚が、少なくともイオンがそれを事実として話していることを悟らせていた。

 ボクのこの渇望も。

 アリアがボクに傾ける「特別」も。

 アイオンに与えられた役割でしかないのなら───










「自分の意志が自分のものでなかった気分はどうだい?」




 


 ───ああ。最悪な気分だった。
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