短編:間奏時
雨がしとしとと降り注ぐ中で、その少女は傘も差さずに立っていた。濡れることも厭わず灰色の雨雲を見上げていた横顔が、不意に何かに気付いたようにこちらを見る。その金の瞳が猫のように細められて、口元が妖しく笑みを形作った。
「───あらぁ。『神託の御子』様じゃない。ご機嫌よう」
彼女はまるで、この世全ての悪意を詰め合わせたかのような凄惨な笑みを浮かべながら、それでもどこか雨の景色に滲んで消えてしまいそうな儚さで、黒髪を濡らしてボクに微笑んだ。
*****
「神託の双子御子」を名乗り始めてひと月を越え、ボクはある程度ならダアトの街を自由に歩けるようになっていた。限定的とはいえ約一年ぶりの自由は心地よく、気晴らしにも丁度いい。元々机仕事に適性はあまりないので、気が向けばふらりと街へ出ていた。
「んー! いい天気」
春から夏へ少しずつ移り始めているが、まだ陽光は暖かく空気も優しい。青草の匂いを運ぶ風にのびのびと気を緩め、光合成を楽しんでいた。
街へ出ているのはボク一人で、本来ならば護衛役を同行させるように言われているのだが、内緒で出てくることの方が多かった。
(シンクも忙しいし、ボクも思い付きでお散歩したくなっちゃうからね)
いちいち同行をお願いしていては手間と業務上のマイナスが目立ちすぎる。ついでに言えばボクのお散歩頻度を把握して余計なことを言われたくもなかった。たまには自由でいたいのだ。
自由と言っても「神託の双子御子」は今や教団の象徴の一つなので、完全なプライベートとも言えなかったが。
「御子様だ~!」
通りを歩いていれば、通りすがりに母親に手を引かれている幼女が笑顔と共に手を振ってきた。無難に微笑んで振り返してやる。特に何も思ってはいないが、それくらいの建前は扱える。愛される象徴らしく振る舞うことは、今の教団にとって意義のあることだ。
「おお……御子様……」
「アリア様だわ……」
遠巻きに大人達が礼を払う。基本的に声を掛けてくる大人は少ない。視線はほぼ常に浴びているが、嫌ならば顔を隠せばいいわけで、そっちの方が面倒なので注目を集めることは受け入れることにした。
実際、御子が愛想よく街を歩いているというのは印象がいいものなのだ。なら、ボクはのびのびと陽の光を浴びられて教団の利益にもなる方がずっといい。ただまぁ、道の脇で膝を折ってまで礼を払われ拝まれるのは、中々慣れないものがあった。
「おじちゃーん。あんみつひとつー」
「おう、御子様じゃねぇか。散歩ですかい?」
「うん」
お散歩の度に訪れてすっかり顔馴染みになった店主と言葉を交わす。基本的には受け入れられているとはいえ、「神託の双子御子ねに対する街の人の対応はそれぞれだ。
崇めてくる人もいれば懐疑的に見る人もいるし、中にはこうして普通に顔見知りになってくれる人もいる。だからって何でもないんだけど。
「あらまぁ、御子様じゃないの! いつもご贔屓に」
「あんみつ美味しいからね」
店主の奥さんが奥から現れて、商売人の顔で頭を下げる。それに簡潔に答えて、中の席で適当に待った。暫くして現れたあんみつを食しながらぼんやりと思う。
(平和だなぁ……)
ほんのちょっと前に大変な目に遭ったとは思えない程、長閑だった。教会は落ち着きを取り戻したし、テセやシンクとの関係性も一応は定まっている。
幽霊部員だった人達も正式に教団に身を置いて不安要素が減り、ボクは街を堂々と歩けるような状況に変わった。怪我の功名みたいに仲間達と話す機会も得られたし、お陰で今の平和が身に染みる。自由万歳。
(……護衛か)
こっそり置いてきた相棒のことを思う。護衛がいるべきというのは流石に一応理解はしているのだ。だがやはり誰かといる時間は誰かといる時間であり、自由とは違う。
特にテセやシンクと過ごす時間というのは昨今安心だけではなくなっていて、護衛役を空気として扱うことは出来ない。少し前ならいざ知らず、今のダアトならば比較的安全だし、ちょっとくらいいいのではと思っていた。
(バレたら怒られるだろうな)
分かっている。分かっていても気軽な一人散歩をやめられないのだ。お日様と外の空気と自分の足で歩く感覚は最高なのだ。あとあんみつが美味しい。
(大体育ての親がちっとも大人しくしてないんだから、ボクが大人しくしてられる道理もないじゃんね)
開き直りを得て、あんみつを食べ終わる。御馳走様でしたと店主と女将に一声掛けて、退店する。それから街の中を眺めて歩く。適当に露店を物色して回った。
ダアトはケセドニアと違って雑多に物の集まる場所とは言えない。だが一つの国のようなものなので、商売をしに来る人間は少なくもない。特産品を扱う大店もあるし、見る場所は幾らでもあった。
(ま。買わないんだけど)
相変わらずボクの物欲というのは死んでいるようで、綺麗なものを見れば綺麗だなと思うし、面白いものを見れば面白いなと思うのだが、どうしても「欲しい」には繋がらない。欲しいものなんて、特にない。
「御子様ー!」
「御子様だー!」
「御子様どっちー?」
「妹の方」
「導師様の方だー!」
答えてやれば何がそんなに楽しいのか、けらけらと笑いながら過ぎていく子供達を見送る。やはりというか、二人の「アリア」の見分けは少し難しいらしい。パッと見では仕方がないだろう。導師様の方と記憶されているのがちょっと面白い。
(なんか珍しいものないかなー)
暫く適当にふらふらしていると、鼻先に触れる空気の湿りが増していることに気付いた。空を仰げば雲が随分かかって、通り雨の予感がする。今日は元々風の流れが速かったので雨が降るとは思っていたが、どうやら想定より早かったらしい。
街の中心を見やれば一際大きく壮麗な教会の姿があって、しかし今から急いでも濡れそうだなと思う。
(第四音素に助けてもらお)
呼び掛けて体を包んでもらう。完全に遮断したわけではないので濡れないわけではないが、濡れることによる冷えを緩和できる。髪留めだけはしっかり保護をして、ゆっくりと濡れながら帰ろうと歩き出した。
やがてぽつぽつと雨粒が落ち始め、慌てたように通りから人の気配が消えていく。その中をボクは悠々と歩いた。何度か通りすがりに雨宿りをすすめられるが断る。あまり粒の大きくない雨は、肌に触れても軽く、雨音も静かで心地が良い。しとしと、雨の匂いが鼻をくすぐる。
そんな折である。少女と行き逢ったのは。
「ご機嫌よう」
肩程の黒髪に猫のような金の瞳。十四、五歳に見える少女は膝丈の黒いワンピース姿で、腰にはコルセットが巻かれ、その下のスカート部分はふんだんに使われた白のフリルで膨らんで見える。袖口からも同じフリルが覗き、まるで小さなドレスのようだ。
だが、何故だろう。その華やかさに反して、受ける印象は「静」だった。彼女は動いて微笑んでもいるのに、降り落ちる雨より余程冷たく、止まって思える。
(まるで、屍衣だ)
こちらを振り返る時に見せた表情のちぐはぐさと、その服に受ける印象の齟齬はよく似ていた。ボクは応える。
「ご機嫌よう。何をしているの?」
少女は答える。変わらない微笑みで。
「雨に濡れていたの。貴女は?」
「ボクは帰るとこ」
まるで知人と話すように言葉を交わして、でもお互いにお互いが知っている仲ではないことを知っている。顔は見たことがあるけれど、自己紹介もしていない。ただ行き逢っただけだ───行き遭っただけだ。この殺戮者に。
(ケセドニアで見た顔だ)
「神託の御子」過激派の動きを知るべく、アルビオールでケセドニアへ仲間と向かった記憶はまだ新しい。そこで過激派と目された信徒達は文字通り蒸発し、真っ赤な海が広がった。ボク達は五体満足で生き残り、目の前の少女と一戦交えたのだ。
謎ばかりが残り得るもののなかった記憶を引っ張り出して、目の前の少女と照らし合わせる。少女に、変わった様子はなかった。
「なんでダアトに?」
問えば、少女は愉快そうに声を作り空気を震わせる。まるでボクが対話を選んだことを喜んでいるようにすら思えた。小首を傾げ、ボクに問う。
「なぁに? 私がダアトにいたらおかしいかしらぁ?」
「そういうわけじゃないけど……また誰か殺すのかなって」
「あは! 殺さないわぁ。殺す理由がないもの」
その言い分にボクは眉を潜める。殺す理由がない───それは「神託の双子御子」の登場により、過激派が大人しくなったためだろうか。そう思って重ねて問えば、少女は微妙な反応で肯定を返した。
「そうねぇ……それもあるけど、個人的な事情もあるかしら」
「個人的な事情?」
「教えてあげなぁい♡」
人を食ったような笑みが返って、こういう猫が何かの童話にいた気がしてくる。肝心なことは話さないで情報を散らかして遊ぶような、愉快犯の顔だ。
「ねぇ。話をするならどこかへ入らない? 私はいいけどぉ、貴女は体を冷やすんじゃないのぉ?」
「……そうだね」
少しだけ迷って頷いた。少女の危険性は知っているが、今こちらに害意がないことは様子から分かる。彼女はボクが把握している面倒事の一つであり、戦いにならないのなら聞きたいことはあった。
異性ではないし人の目があるようなところを選べば問題ないだろう。危機意識を学んだのだ。
「じゃあ……あそこはどぉ?」
少女が指差した先を見る。そこにあるのは宿の一つだ。どういうことかと意図を尋ねれば少女は気軽に答えた。
「雨で冷えたし、温泉で温まらない?」
宿の看板を改めてみれば温泉の情報がある。湧水洞や火山の関係から、ダアトには温泉が引かれた宿が幾つかあるのだ。この宿はその一つのようで、宿泊がなくとも温泉を利用することは出来るようだった。
「冷えた体を温泉で温めるのは分かるけど、それって裸の付き合いって奴じゃないの?」
「タオルを巻けばいいじゃない♡」
そういう問題だろうか。少女は「早くしないと風邪引いちゃうわぁ」と口にして、いそいそと温泉宿へ入っていった。そうなれば一人で帰路につくのも微妙なところで、ボクも宿へ足を向ける。
まぁ普段からボクは武器を携帯するような戦い方はしていないし、裸だからといって何が変わるわけでもない。向こうも譜術士と知れているので大差はないが、銃を使われないだけ寧ろ有利だろう。
(混浴だったら出よう)
心の中で基準を設けて、ボクは少女の後を追った。
*****
温泉は幸運にも男女がきちんと分かれたものだった。脱衣場で服を脱ぎ、少女のすすめの通りタオルで体を隠す。
因みに温泉に入るのはこれが初めてで、少し勝手が分からないところがあった。知識は一応あるがお師様との旅では温泉に入る贅沢などなかったし、ルーク達との旅でもそんな悠長な時間はなかった。このダアトに根を下ろしてからも街へ出る機会はほぼなく、当然のように温泉宿に用などない。
物珍しさに若干そわそわしつつ、黒髪の少女に先導されて浴場へ入る。湯気が凄い。
「滑らないようにねぇ」
「はぁい」
応えて石造りの広い空間を歩く。こうしてみると大浴場というだけに見える。所々に街の人の姿があり、湯気の影響か人々の眼鏡の有無か、注目される気配はない。他の人と程よく距離のある隅に少女が進んでいき、温泉へ身を下ろした。
「入ってらっしゃぁい」
手招きをされ、ボクも水へ足を入れる。雨に濡れて冷えたからか、思っていたよりも熱い。少女が平然と入ったので油断をしていた。熱に体を慣らすようにしてゆっくりと浸かり、少女の隣に並ぶ。
「温泉って熱いんだね」
「あらぁ。温泉は初めて?」
「うん」
「色々効能があるのよぉ。若さの秘訣になったりするんだからぁ」
「へぇ……」
若さの秘訣、と言われてもピンとは来ない。別段若く在りたい願望とかもない。まぁ、体が思うように動かせる方が色々と便利なので、そういう意味では若さは大事かもしれない。少女がうんと前へ伸びをする。
「温泉が初めてならのぼせちゃわないように気を付けないとねぇ。おかしいなって思ったらちゃんと言うのよぉ?」
「あ、うん」
温泉未経験者のせいか面倒を焼かれてしまう。仲間でも姉もどきでもないのに変な感じ、と思いながら口を開いた。
「それで……ええと、君の名前って聞いてもいい?」
「呼んでくれるのぉ?」
「うん。不便だから」
肯定すれば、黒髪の少女は「ソティ」と答えた。ファミリーネームまでは教えてくれないようだったが、呼ぶ分には困らないので十分だ。
「ソティ。君はなんで『神託の御子』過激派を殺したの?」
「………………」
「……ソティ?」
何故かボクを見たまま黙った彼女に首を傾げる。改めて名を呼ばれれば少女は破顔した。年相応の微笑みだ。
「久しぶりに自分の名を誰かに呼ばれたと思って。ふふ」
「ん。一人旅なの?」
「まぁそうねぇ」
曖昧に頷かれる。一人で旅をしていると名を呼ばれることはそうないので、そういうことかと思ったのだが判断が微妙になった。一応は肯定をもらったのだし掘り下げることでもないかと思い、問いを戻そうとした。
が、ソティの方から話を続けてくる。意外だ。
「帰れば一人は呼んでくれる人がいるけれど、別に親しいわけでもないわぁ」
「親しくない人と住んでるの?」
「拾われたから仕方がなくねぇ」
拾われた、という言葉にちょっとシンパシーだ。ボクもお師様に拾われたもので、まぁ暮らしとしては決して良くはなかったがお陰で生きてこられた。仕方がなくと言いながら嫌悪などは覗いていないし、温度感も近いようだった。
「拾われたら仕方がないね」
「貴女も誰かに拾われたのぉ?」
「うん。生き方も戦い方もその人に教わった。お師様って呼んでる」
「ふぅん……」
相手が詠師エレティクスであることをわざわざ話す必要はない。ざっくり話せば、何かが彼女の興味を引いたようだった。可愛らしい顔が見合った声で隣から話をねだってくる。
「どんな人なのぉ?」
「どんな……いい加減な人かなぁ。雑だし、傍若無人でボクに掛ける迷惑なんて考えてないし、気分のままに行動するというか……」
「台風みたいな人ねぇ」
「そうだね。雪山に放り出されたり噴水に落とされたり看病してもらえなかったり……今思うと色々酷かったな」
遠い目で二人旅を思い返せば、隣からくすくすとおかしそうに笑う声が届く。結構ノリの良い少女のようだった。それから問われる。
「その人は貴女にとって、親みたいなものかしらぁ」
「うん。育ての親だとは思ってる」
「生みの親もどこかにはいるものねぇ」
生みの親、と言われて浮かぶのはどこかの鬼畜眼鏡だ。ボクは被験者と違って産んだ親などいないし、遺伝子を参照した相手であるアリアは姉を自称しているので親とは思いにくい。作り出した人間となればモースが一瞬脳裏を過るが断固拒否だ。親というならまだ大佐の方が有り難い。
「生みの親はまぁ、性格悪いかな」
「そうなのぉ?」
「うん。分かってて知らないフリして人を追い詰めるとことかある。でも結構優しくて甘いなって思う。ボクが相手だからかもしれないけど……」
大佐は元々はそんなに甘い人ではないらしいのだが、ボクやルークに対してはどうにも甘いところがあった。見過ごして見捨ててしまえばいいのに、わざわざ忠告をくれたり。
それはやっぱり、ボクらがレプリカだからだろう。そうして人らしさを学ぼうとするボクらを、多分子の成長を見守る親みたいに見ていた。もしくは、自分の一部のように見ていたか。ルークは彼の過ちの証であり、ボクもまた彼の死を理解しない心が生んだ化け物なのだから。
「雪国育ちで肌が白くて顔も綺麗なんだ。眼鏡も伊達だし、弱点がなくて困る」
「それは厄介ねぇ。私なら惚れちゃいそうだわぁ」
「三十六とか七とかの生みの親にはちょっと惚れられないかな……」
想像してみるが、別段特別な感情は湧かない。頭の中で姿を取り消した。少女が問いを重ねる。
「貴女はその二人の親が好き?」
「ん。ソティは親が嫌いなの?」
「……いいえ。でも、ちょっと複雑だから」
そう答えた時の笑みはどことなく寂しげに映ったので、ボクはそれ以上踏み込むのをやめる。被験者と違って、親身になって話を聞くような親切心は持ち合わせていない。
「二人とも好きだよ。関係性は複雑だけど、どっちもボクが生きていけるようにって思ってくれるからね」
「……そう」
何かの感情を乗せてソティが囁く。吐いた息が安堵のように耳に届いて不思議な心地だった。ボクに自身の環境を重ねているのだろうか。だとすれば、あまり親との関係性は良くないのだろうと思う。ソティが何かを語り出す。
「私、お兄ちゃんがいたのよ」
育ての親みたいなものだったと彼女は続ける。少し年の離れた兄で、両親を早くに亡くして自分の面倒を見てくれていたらしい。だが今はもう死に別れて会えないのだと話す。
「最期にちゃんと話をすれば良かったって、ちょっとは思ってるの。でも、どうしてもお兄ちゃんの傍にはいられなくて」
「何故?」
「行きたい場所があったのよ。その時じゃなきゃダメだった……だから私は最期なのに、お兄ちゃんから離れたの」
どこへ行ったのかは聞かなかった。だが、ソティは勝手に答える。どうやら余程ボクに話を聞いてもらいたいようで、別段遮る必要もないので大人しく聞くことにした。
「恋をしていたの。同い年の男の子。無愛想で不器用で……私は彼から目を離せなかった。私はどうしても彼のところに行かなくちゃならなくて、お兄ちゃんを放り出したわ」
無愛想で不器用な年の近い異性───必然、ボクの脳裏を過ったのはシンクの姿だ。開放的な姿のせいか温泉の熱さとは別の熱が点った気がして、頭から払い出した。が、ソティのせいで戻ってくることになる。
「貴女はそんな恋、したことない?」
「恋は知らないけど……そういう時でもきっと、何がなんでも会いに行かなきゃいけないと思うような相手はいるかな」
大佐やお師様が死にかけていたとして、並行してテセやシンクが窮地に立たされていれば、ボクはテセとシンクを選ぶ。当たり前だ。逆は有り得ない。
「その相手が好きなのよね?」
「好きだよ。大事だし、失えない」
自明のことを口にすれば、ソティは同意するように頷いた。彼女もまたその恋の相手に、近い想いを持っていたのだろうか。ソティはボクの顔をじぃと覗き込むと、やがて悪戯好きそうな笑みを浮かべた。
「その相手とはどこまでしたの?」
「えっ……」
「キス? それとも肌を合わせる関係まで進んでいるのかしらぁ?」
「……内緒」
「ざぁんねん♡」
体の奥で覚えのある疼きが存在を主張して、居心地が悪くなる。こうして疼きを覚えてしまうと暫く落ち着かなくなってしまうので、少し不便だった。
触れ合いの時間をもつと解消されるのだが、そのためにこちらから触れ合いを求めることはない。なんとなく、恥ずかしいし抵抗がある。
「綺麗な髪に、眼に、肌に……胸も大きくて羨ましいわぁ」
「そんな舐めるように見られても。胸はソティだってあるじゃん」
「まな板じゃないだけよぉ。貴女の方がずっと大きいし、形も良さそうだわぁ」
形、と言われて困惑する。胸に形の良し悪しがあるのだろうか。考えたこともない。隣から小さな手が伸びてきて、唐突に胸を揉まれる。びっくりした。
「わっ。なに?」
「触り心地を確かめてるだけよぉ」
「タオルの上からで分かるの?」
「ええ♡ あと、こっちもねぇ」
「っ、」
胸の先に刺激があって思わず声を飲んだ。温泉で温められた体は、奥に覚えてしまった疼きと合わせて少し敏感になっているようだった。
慌てて手を払い除け逃れる。異性でないからと油断した。睨めばソティは愉しげに笑う。
「ごめんなさぁい。でも、どうやら相手にちゃあんと愛されてるみたいねぇ。可愛い反応だったものぉ」
「……ソティ」
「ふふ。今見聞きしたものは秘密にしてあげるわぁ」
そんなものを街の噂にでもされたら流石に恥ずかしい。こちらは残念ながら街の人に顔も名前も知られている有名人なのだ。失うものが大きすぎる。
「っとぉ。そろそろ上がりましょうかぁ」
「え? もう?」
「結構浸かっているわよぉ。それに貴女は温泉初心者だし、今ので顔が赤くなってのぼせても気付いてあげられないものぉ」
「………………」
複雑な心地になりながら、先に上がりだしたソティに続く。温泉から立ち上がってみれば、確かに少しのぼせかけている感覚があった。どうやらソティは人の状態を見る目があるらしい。
熱と高い湿気の満ちた空間を出ると、脱衣場の涼しい空気が肌と肺を撫でた。温められた水が生乾きになる臭いが少し鼻につくが、問題はない。湯冷めしない内に着衣に取りかかることにした。
*****
温泉から上がったらコーヒー牛乳を飲む、というソティの教えに従い、廊下の隅に置かれたベンチで並んで飲む。温泉後であることの意義は特に感じないが、美味しいので良しとした。
宿にはやはりまばらに人の姿があって、この雨で同じように退避した人達もいるのかもしれないと思う。
「それでソティ。君が『神託の御子』過激派を掃除した理由だけど」
「ねぇねぇ。コーヒー牛乳美味しい?」
「君ボクの話聞いてる? 美味しいよ。甘くて冷たい」
二度目の質問にしてスルーされてしまい、もしかしてこの子ボクの疑問に答えるつもりがないんじゃという疑念が湧く。当のソティは気にした様子もない。コーヒー牛乳の瓶を目線の高さに掲げて懐かしそうに頬を緩めている。
「甘くて冷たい、かぁ……やっぱりそうなのねぇ」
感慨深そうな呟きに、しかし違和感があった。慣れない温泉でのぼせかけた頭を少し働かせて、正体を掴む。確認の意図も込めて問いを投げた。
「……分からないの?」
「ええ。私には味も温度もよく分からないのよぉ」
そう答えながら平然とコーヒー牛乳を飲む彼女に、冗談を言っているような気配はない。寧ろ、今までの彼女の言動に少し納得が湧いたくらいだ。熱い湯に平気で入っていった様子も、ボクがのぼせないように目を配っていたのも、自分では熱さを感じ取れないからか。味覚や温感はどちらも痛覚という話だし、その辺りの障害が何かあるのかもしれない。
そうなると別の疑問が湧く。
「なんで味分からないのにコーヒー牛乳飲むの?」
「それが温泉というものだからよぉ」
よく分からなかった。どうやら温泉というものはボクが思うより奥が深いらしい、と思いながらコーヒー牛乳を喉に流し入れる。うん、甘くて美味しい。温泉で温められた体に流れ込む冷たさが丁度良かった。
「ゴミ掃除をする理由はゴミがゴミだからじゃなぁい?」
「急に答えてくれるんだ」
「聞こえてはいたものぉ」
聞いていたのなら無視しないで欲しい。手間だ。心の中で苦情を並べつつ、今なら答えてくれるかもしれないと思い詳細を尋ねてみた。
「どうしてゴミなの? 普通にしてれば生きてる人だと思うんだけど」
ソティはボクの問いに横目を流す。それはどこか冷ややかで、彼女は飲み終えたコーヒー牛乳の瓶をベンチに置くと、ボクへ手を伸ばした。害意はなさそうなので様子を見れば、温かい掌がボクの腹部を撫でる。
「『神託の御子』は器であり、信徒の愛を注ぐ───」
囁くと、その手が少し下がり人差し指が下腹部を押した。まるでその下を意識させるような動きで、少し戸惑う。
見れば、ソティの表情は真面目なものだった。会ってから幾つかの表情を見たが、その殆どが楽しげな笑みだった。だが今彼女の顔にあるのは真面目で、冷たいものだ。瞳にあるのは、鋭い殺意の一部に見える。ボクではなく、ボクを通して誰かへ向けられた殺意だ。
「女の体を都合よく犯そうとする男が、大嫌いなのよ」
「……そっか」
冷えた声にある温度のちぐはぐさがボクに現実味を与える。ソティは女性の体をいいように扱う男性が殺したい程に嫌いらしい。許せないから殺したということだ。それはボクには分からない感覚だけど、多分世間一般的にはおかしな感覚でもないのだろうなと思う。
「神託の御子」過激派の思想が燗に障るから虐殺したのは、道理だろう。倫理観とか道徳観に照らし合わせれば違うのかもしれないが、ボクは生憎と持ち合わせがないのでどうでもいい。ただ、これはプレストが出会えば殺されるんだろうなぁとは頭の隅で連想した。
「聞きたいことは聞けたかしらぁ?」
ソティはボクから手を離す。表情はパッと切り替わって少し見慣れてきた明るい笑みだ。明るくて、こうして見ると年齢相応の普通の少女に見える。
実際には虐殺現場で悠然と微笑む存在であり、雨の中で遭った彼女の異質な笑みも忘れていない。常に表情と雰囲気に不一致を孕む少女だった。
「んー。もう過激派を殺す予定はない?」
「ないわぁ。ケセドニアの件でちょっと牽制になったみたいだしぃ、『神託の御子』も双子で名乗り出て流れが変わったものぉ」
「分かった。十分だよ。ありがと」
「捕まえないのぉ?」
「なんで?」
素で分からなくて問い返せば、ソティは瞬きをする。それから口元を悪意に歪めて、でも瞳に不釣り合いの親しさをこめるとボクに同意した。
「そうね。私は貴女の大切なものに害意を持っていない。殺す理由も捕まえる理由もないわねぇ」
「うん」
「私、貴女が気に入っちゃったわぁ。可愛いもの」
「……それさっきのやり取り思い出すからやめて」
妖しく笑まれて、ボクは服の上から胸を隠す。まだ体は温泉の熱で温められているし、奥の疼きも消えてはいない。また触られては堪らない。
ソティは「ふふ」と含むように笑いを溢すと立ち上がり、窓から外を見た。
「通り雨、止んだみたいよぉ」
言われて見れば、外が明るい。雨音もしないし、温泉で体を温めている内に去ったようだった。来るのが早かったように、風に浚われて去るのも早い。
ソティは飲み終わっていたボクのコーヒー牛乳の瓶を掠めとると、自分の物と合わせて廊下に設置されている箱に入れた。回収箱らしい。
「じゃあ、私は行くわぁ。ご機嫌よう、アリア」
「ん。ご機嫌よう、ソティ」
まるで親しい仲であるかのように挨拶を交わして別れる。実際には親しくもなんともない、ただ行き遭った関係だ。ただちょっと、互いに周囲に似た関わりを持つことを共有しただけの、知らない人。
ボクよりも小柄な黒髪の少女の背が外へ消えるのを見送ってから、ボクもベンチから腰を上げた。そろそろ帰らないと不在に気付いたシンクにねちねちと言われそうだ。
表に出て、夕陽に近付きつつある陽光を浴びる。雨の中に儚く見えた屍衣の名残は、どこにもなかった。
*****
後日談というか、その後教会に戻ってから、ボクはちょっと酷い目に遭うことになる。自分の執務室に戻れば案の定シンクに捕まり、勝手にお散歩に出ていたことを責められた。それはまぁ予想済みだったのだが、やり過ごそうとしている内に思いもよらないことに彼が反応したのだ。
「……なに、この匂い」
「匂い?」
なんのことだろうと首を傾げれば、シンクはボクとの距離を詰めて鼻を寄せた。反射的に身を退こうとすればそれを許さないように片手をとられ、もう片方の腕が腰に回る。あっという間にゼロ距離でボクの首筋に彼の呼吸が触れた。温泉の熱を残している体が小さく震える。
「嗅ぎ慣れない水の匂いだ」
当のシンクはボクのリアクションに何も思っていないみたいに平然と話を続ける。耳元に響く声に体の奥の疼きが首をもたげるようで、戸惑いながら返事をした。
「……多分、温泉」
「温泉? なんで」
「通り雨で濡れたから温まろうかなって」
例の譜術士と偶然遭ったから仲良く湯に浸かって来ました、とも言えずそう答えた。実際、事実だ。「ふぅん」とシンクは息を漏らすと、首元に鼻先を埋めた。呼吸と肌の熱が直接届いて体温が上がり始める。
「じゃあ今、凄く血行がいいワケだ?」
「そう……だね?」
嫌な予感がする。因果関係は掴めないが、シンクが愉しげに笑っている気配がした。捕まえていたボクの手を離すと、襟が開かれ首元に緩く歯が立てられる。触れる熱い吐息と唾液の湿りに心臓が鳴った。
「な、なに……」
「温泉上がりのアンタは違う味がする」
「だからって食べないで……」
懇願するが、ボクに抵抗の意志は示せない。体は正直なもので、寄せられるシンクの体温に期待があるのが分かる。
ずっと燻っていた体の奥の疼きが、待ち望んだものを得られることに悦びを示す。言葉の通り血行の良さが関わりあるのか、快楽の信号がいつもより早く全身に回るようだった。
(……くらくらする)
掴む手は強くはない。逃げようと思えば逃げられるだろう。でもそうして捕まっていることに、抵抗はなくて。触れる手から、呼吸から。移る熱はボクの意識を曖昧にしてしまう。心地好くて───触れられたい。
のぼせてしまったみたいだと。
ボクは心の中で言い訳をした。