亡霊と希望


 目が覚めて、最初に感じたのは右手の温かさだった。ぼんやりと、薄闇の中で天井を眺める。慣れた天井ではなかったが、その意匠に見覚えはあった。

(バチカルの王城だ……)

 確信はないが、多分そうだ。なら、ボクは城に運び込まれたのだろうか。最後に見たのはザオ遺跡で、迎えに来てくれた相棒の顔だった気がする。

(……何が、あったんだっけ)

 自分の記憶が飛んでいるのは分かる。あの場面から今目覚めるまでの記憶がない。でも、何があって意識が途絶えたのか分からなかった。

 なんだか視界がおかしくなって、変な音がしていたような気がする。声が出なくて、それで……

(分からない)

 まるで回路への接続がエラーを起こしたみたいに、何も分からなかった。そっと息を吐く。分からないなら仕方がない。何が起きたのか、明日周りの意見を聞いてみよう。

 バチカルの王城で寝ていたということは、ここへボクを運んだ仲間がいて、少なくともナタリアには話が聞けるということだ。部屋の中がぼんやり見えるくらいの薄闇なので、二度寝をして朝を迎えれば誰かには会える筈。

 いっぱい寝た気もするけどもう一回寝よう、と眼を閉じて「あれ?」と思う。そういえば、右手が不自然に温かいのだった。

「………………」

 首を右に向けて、言葉を失ってしまった。そこにあるボクの右手は、別の右手に捕まっていたのだ。更に言えば、その更に奥に寝顔がある。ちょっと幼さのある整った顔。

(……いや、顔が良いな……)

 余計なことを考えてしまった。いつもの贔屓目はさておき、そこで寝ているのは気を失う前に最後に見たボクの相棒で、寝ても覚めても相棒の顔を見るというのはどういうことか。というか、同じベッドで寝てるのおかしくない?

(いやまぁ……触れ合いの時間をもつ日はそうかもしれないんだけど……)

 因みにそういう時はボクが先に寝てしまって、朝に起きると彼の姿は既にないため、朝まで添い寝サービスがついているのかは知らない。確認するのもなんだか憚られたため、今のところ謎だ。

(ボクが寝惚けて呼び込んだ……のかな?)

 基本的に、彼の方から添い寝を選択することはない。大体がボクのせいだし、特例は触れ合いの時間だが……寝ている間に何かがあった感じは流石にない。いや、分からないけど。

 となれば、やっぱり不思議だ。何故ボクの相棒は、ボクと同じ布団でボクの右手を確保しているのだろうか。

(……ま。いっか)

 考えても仕方がない。細かいことはどうでもいい。起きて隣に相棒の寝顔があることにびっくりはしたが、お陰で右手は温かいしなんとなく嬉しい。それで良しとしよう。

 こっそり頭を近付けて、繋がれている彼の手へ触れさせる。温もりが冷えた額から直接脳に伝わるみたいで、心地よい。眼を閉じてそれを存分に享受する。

「……何してんの、アンタ」

「へっ?」

 近い距離で声がして、驚いて眼を開けた。すると当然のように、寝起きらしき千歳緑の瞳がボクを眺めていた。滅多に見れない微睡みのかかった瞳に、しかし何を思うより先に顔に熱が上がってきた。羞恥だ。

(見られた!?)

 悪いことをしていたわけではない。でもこっそり、勝手に人の体温で暖を取っていたわけで、それを当人に見られては決まりが悪い。

「いやっ? あの……えへへ」

「………………」

 気の利いた言い訳も浮かばず、笑って誤魔化す。対して、向こうはまだ寝惚けているのか反応が悪い。寝起きが悪いなんて意外だなと思っていたら、ボクはすぐに自分の思い違いを知ることになる。

 不意に彼が上体を軽く動かした。「お?」と思った時には遅い。彼の上体が近付いて、額に触れるだけの温もりが落とされた。所謂、キスだ。

「!? な、なに!?」

「別に。寒かったんじゃないの?」

「ぃぃぃ……」

 意地悪だ。全部分かってるみたいな悪い笑みを口元に浮かべて、顔を赤くするボクを見下ろしてくる。やっぱり性格が悪い。

 でも見下ろす瞳はなんだか、ザオ遺跡で一瞬見ることが出来たあの優しい色があるように見える。寝起きだからそう見えるだけだろうか。

「シンクさん?」

 彼は半端にボクを見下ろしたまま、ぼんやりと動かない。なんだろう、熱でもあるのだろうか。呑気な思考と無関係に、彼はボクの肩を押すと仰向けにして、その上に覆い被さってきた。真上から見下ろされる。

(……なに?)

 薄闇に見えるシンクの瞳に、不思議な色がある。寝起きだから、ではない。熱のある瞳。そこに切実な色が重なって見えた。胸の奥がざわつく。

「……アンタに、触れていい?」

 甘い声が意識を撫でた。心拍が上がる。いつもとどことなく違う様子に、頭の中がぷちパニックだ。触れる───

(触れるって、そういうことだよね……?)

 他にない。頭では分かっている。でも今まで、そんな風に許可を求められたことはない。彼はいつだって、ボクがはね除けられないタイミングを絶妙に狙って、居たたまれなくなるボクを嘲笑うみたいに勝手に触れてきた。ボクはただ、抵抗をしなかっただけだ。

(でも、これじゃまるで……)

 ねだられているみたいだ、と言葉が浮かんだ。そして理解する。ねだられている。ボクのタイミングを読むのではなく、彼の都合で、今。まるで、何かに急かされるみたいに。

「……お預け食らいすぎて、気が狂いそうなんだよ」

「ま、待って……」

 顔が熱い。何の話をしているのか、分かるけど分からない気分になってくる。何が彼を駆り立てるのか分からないし、どうしてそんな切実な眼をしてねだってくるのかも分からない。安易に頷いてはいけないものが、そこにある気がした。

 戸惑いながら「待て」を要求したら、彼は眉を潜めながらもぴたりと距離を維持した。猫が餌を前に足を止めさせられたみたいで、物凄く不満そう。

「え、えーと……色々、どうなったか話を聞きたいなぁ……なんて」

「そんなの、朝でいいだろ」

 仰る通り。今聞こうが後で聞こうが、多分この様子では大差はない。逃げ道失敗だ。

「じゃあ、ほら! 夜中だし、寝た方がいいよ。うん」

「嫌なの?」

「ぃ……」

 切り込まれる。露骨だった自覚はある。ボクを見下ろす切ない光が、胸を騒がせた。逃げ切れない、気がする。

「嫌とかじゃ、なくて……」

「なら、逃げるな。どれだけ待たされたと思ってる」

「待たされるも何も、牢に入れられたのはボクのせいじゃないと思うんだけど」

「アンタが気を失ってからの方が長かった」

 嘘だ。ボクが寝ていたのは精々一日か二日くらいだろう。対して、シンクが牢に入れられて合流するまでには一週間以上が経っている。流石に一週間を超える昏睡状態だった感覚はしない。……多分、だけど。

「事実と異なる申告はどうかと思います」

「事実だよ。実際の日数じゃなくて、ボクの体感時間の話だからね」

「へ……」

 変な声が出てしまった。ボクを見下ろす瞳に、あくまで冗談の気配はない。相変わらず熱のこもった瞳に切実な色があって、いたって真面目にボクを見下ろしてきている。

 ボクと会ってない時間より、ボクが近くで寝ている時間の方が長く感じられた……とはどういうことだろう。読み解けない。

「アリア」

 名前を呼ばれる。甘い声でねだられている。それはもう、どうしていいか分からなくて、切実な視線を追い払うことも出来ない。すぐ隣で寝て、手を繋いでいてくれたのだ。それが温かくて嬉しかったことを、ボクは覚えている。

(うぅ……)

 折れよう、それしかない。なんとなく、いつもと違う様子があって警戒が浮かぶのだが根拠はない。何よりさっきみたいに「待て」を聞いてくれるなら何も問題はない。……聞いてくれる、よね?

 一抹の不安を感じながら、目線を下げる。せめて顔を見ずに了承を口にしようとして、それが眼に入った。

(……?)

 寝起きで、少し乱れたシンクの寝衣の襟元。あまり見られない首元が薄闇の中でちょっと露になっていて、そこに何か違和感があった。何かが、見えた気がする。

「……アリア?」

 どこかを見て動きを止めたボクに、訝しむ声が降ってくる。ボクは構わずそこへ手を伸ばした。シンクの首元に触れる。

「……っ」

 その反応が痛みだと気付くことは難しくなかった。大きな変化ではない。触れた瞬間に僅かに肩が強張って、頭上で小さく息が飲まれた。予感に従って、襟元を開く。

「……痣?」

 酷いものではない。治癒術をかけてしまえば痕も残らないようなものだ。治りかけ、だと思う。

「どうしたの? コレ」

「───どっかの馬鹿を担いだ時に、ちょっとね」

 問えば、彼はなんでもないようにそう答えた。その馬鹿ってまさかボクのことなんじゃ、と思いながら納得して手を引っ込める。

 でも引っ込めようとした指が肌を滑り、別の感触を拾った。それは開いた襟から更に下……服に隠れて明確には分からないが、胸の方に続いているように思える。傷のような、痕。

 嫌な予感で、ボクは彼の服に手を掛けた。

「! 離せ!」

 途端、シンクが抵抗をする。ボクを引き離そうとする力が本気に思えて、おかしい。予感が確信へと変わる。彼は隠し事をしている。この服の下に、何かを。

「第三!!」

「っ!」

 第三音素に呼び掛けてシンクの体を煽る。動きが止まったところを、無理矢理上体を起こして飛び掛かった。

 ベッドの上で、ボクの体がシンクを押し倒す。抵抗されるより先に、彼の上体を隠す服の前を開けた。そうして見えたのは……

「……なに、これ」

 傷だ。切り傷とか、擦り傷とか、とにかく沢山。数も多いが、種類も様々だ。痣も幾つもあって、それと関係なく肌が色を変えているところもある。一度爛れたみたいに再生途中の皮膚もあって、抉ったみたいな鋭い線が、重なるようにみみず腫をうっすらと起こしていた。

 どれも治りかけで、治癒術を使えば痕も残らなさそうな、そんな状態だ。

(……そういう問題じゃない)

 そういう問題ではないのだ。どくり、と心臓が鳴る。生々しい傷の痕が視界を埋める。普段は見えないシンクの肌が露になっていて、でもそのことに意識を割く暇はない。

 無事なところがないのでは、というくらいに執拗に刻まれたそれは、とてもではないが戦って受けた傷には見えないのだ。見える範囲だけでも満遍なくあるその傷は、抵抗した上で受けた傷ではない。これではまるで────

(───拷問だ)

 思い至って、シンクの顔を見る。彼は顔を顰めて背けていた。いつもちゃんとボクを見てくれる眼が、合わない。それが彼の意志で、彼の選択だった。隠すつもりだった。この生々しい拷問の痕を、ボクに見られるつもりはなかった。

(違う。ボクだけじゃない)

 思考を修正する。誰にも言うつもりがなかったのだ。だからこの体中の痕は残っている。治癒術が使えない彼では、綺麗に治してしまえなかった。自然に治るままに任せるしかなく、そうして治りきる前にボクに見付かった。

「……どういうこと?」

「………………」

 自分の声の温度が下がる。シンクは答えなかった。教える気がないのだ。なら、自分で考えるだけだ。彼はザオ遺跡に、ボクを助けに来てくれた。その前はバチカルでナタリアと会っている。その前は船で、ダアトから直接来ていて───思考が答えへ至った。考えるまでもなかった。彼が無抵抗に拷問を受ける可能性があるところは、一つしかない。

「……詠師会?」

「………………」

 固く響く声に、彼は答えてくれない。何を聞いても答える気がないと分かる。どうして、誰に拷問されたのか、ボクに教える気がない。ボクは君の上司で、相棒のつもりなのに。

「なんで、答えてくれないの」

「……答えたくない」

 ようやく返った答えは、答えとしては分かりきっていて何の役にも立たない。答えられないのではなく、答えたくないのだということを証明できただけだった。

「答えて。許さないから」

「関係ない。忘れろ」

 拒否に、呼吸が止まった。関係ない───?

「……関係、あるよ」

「ないよ。これはボクが勝手にヘマしただけだ。アンタには関係ない」

 シンクの言葉が意識を滑る。彼は変わらず、ボクを見ない。言葉より雄弁に語る瞳を、ボクに向けてくれない。分かるのは、彼が今ボクを突き放しているということ。そしてそれが、ボクの感情を振れさせたということだ。

「関係ある!!」

 叫ぶように重ねて、シンクの頬を引っ張った。無理矢理にボクの方を向かせる。痛みと驚きに変わった表情に、ようやく合った緑の瞳に、ボクは言い募った。

「君がっ! こんな風に傷だらけで!」

 胸が痛い。奥の方が締め付けられるみたいで苦しい。目の前が滲んで、ぐらぐらする。頭が回らない。ちゃんと言葉が選び出せない。感情ばかりが、先行して。

「───君がっ……大事なんだよ……!」

 全然伝えられない。涙がぽろぽろと、次から次へと出ていくのが分かった。喉が引きつって、しゃくり上げないように必死だ。

 ぼやけた視界では表情を見ることも叶わなくて、代わりに頬を引っ張っていた指先を滑らせる。頬から首筋を経て、胴体へ。そこにある傷痕達をなぞる。痛い。

「……なんでアンタが泣くのさ」

 触れる肌の奥から振動があって、声が伝わる。それには戸惑いがあって、なんでなんてボクが知りたい。自分が怒っているのか、哀しんでいるのかも分からない。

 ただ今、ここに堪え難い苦しさがある。傷痕に触れる指先が震えそうだ。

「……はぁ」

 溜め息が聞こえて、シンクが体を起こすのが分かった。ボクは上手く体勢を変えることが出来なくて、ベッドに尻餅をつくみたいになる。

 涙でぼやける視界の中で、彼が近付くのが分かった。唇に触れるだけの口付けが贈られて、ボクは反射的に眼を閉じる。

「……、」

 柔らかく口付けが繰り返される。啄むような甘い感触。彼の右手が頬を撫でて、左手が体を引き寄せた。体が密着する。眼を閉じているとその感触と温度が全てで、ゆっくりと気が落ち着いた。

(体の奥が……熱い)

 じんわりと温かさが広がっていく。脳が少し痺れたみたいに感じられて、思考が解ける。やがて唇が離れて、ボクは目蓋を持ち上げた。

 いつの間に拭われたのか、視界は涙で滲んでいない。至近距離でボクを見詰める、千歳緑の瞳と合った。

「……悪かったよ。関係なくない。アンタはボクの……」

 そこで、彼は言葉に迷う。上司とも、相棒とも言わない。瞳が揺れて、ボクの瞳を覗き込む。まるでそこに答えがあるとでも言うように。彼は空気を吸い込んで、しかしその続きは言葉にしなかった。

「これについては話せない。悪いけど、それは譲れない」

「……なんで」

「言っただろ、ボク個人の問題だって。これが、アンタにとって無関係じゃないのは分かった。だけどボクの問題を解決するのはボクだ。アンタじゃない」

「………………」

 言われていることは分かる。この件に関して保護者は要らない、と言っているのだ。その主張はとてもよく分かるもので、だからこそズルい。不満が顔に表れる。

「不細工」

「うっさい」

 嗤われて、酷い。シンクの左手がボクの右手を持ち上げる。それから彼の胸へ触れさせた。傷が指先にある。困惑して彼の瞳を見れば、あるのは甘い、熱の色。吐息が漏れる。

「アンタが治してよ」

 懇願。唇が再び近付いて、呼吸が奪われる。治してと言いながら、ボクの口を塞ぐ。これでは治癒術が詠唱出来ない。そう文句を言いたいのに、全然離れていかない唇に、言葉は飲み込まれていく。

「……は、」

 ようやく離れた時にはすっかり息が上がっていて、思考が幾らか溶かされている。体に力を入れる方法が分からない。

(なに……?)

 この前までと、何かが違う。されていることも、体の反応も変わっていない筈なのに。呼吸が、触れ方が、視線が───それとも、刺激を受け取るボクの方が変わったのだろうか。

(蕩ける……)

 気持ちがいい。脳が受け取る「快」の刺激が違う。もっと欲しくて、自分から離れた彼の唇へ触れた。重ねて、舌先でシンクの唇を緩く刺激する。

 驚く気配がして、すぐに口付けが返ってきた。ベッドの上に引き倒されて、唇が離れる。見上げた先に、ボクに「それ」をくれる千歳緑の瞳がある。満たされるように、頬が緩んだ。

「……アンタ、やっぱり悪女だよ」

 その言葉の意味は分からなかったけど、分け与えられる温かさが心地よくて。ボクはそっと目蓋を下ろした。

 

 

 

*****

 

 

 

 翌朝、正常な思考力を取り戻したボクは、シンクの顔を見られない事故を起こしつつ布団から抜け出した。

 自分が口付けをねだったことも信じられないし、違法薬物に与えられる「快」の刺激に負けず劣らずの思考の溶かされようも実感してしまった。これは危険な行為だと、初めて感じた。

 もしこれが誰にでも出来てしまうなら、ハニートラップなんてボクには無理だ。あんな風に蕩けてしまっては音素操作なんて出来やしない。ティアとガイが絶対やるなと言った意味が、分かったような気がした。

 ボクが目を覚ましたということで、ティアもガイもナタリアも喜んでくれた。二晩近く眠り続けていたことに疑問は残ったが、結局誰にも仮説は立てられず、ダアトに戻ってイオンに意見を聞いてみようという話になる。

 ティアとガイは護衛任務ということでついてきてくれることになり、ナタリアと別れの挨拶を済ませる。プレスト達は国の管理下に戻ったということで、一応ダアトに戻る前に挨拶をしておこうしたら何故かシンクに却下された。反対が強固だったし、別に会えなくても一向に困らないので断念する。






「え!? シンク、二人のこと名前で呼ぶことにしたの!?」

「声がデカい」

「だって!」

「今のところ、全然呼んでもらえてないけどな」

「まだ慣れていないのよ。速度は人それぞれだし、少しずつ慣れていってくれればいいわ」

「そうやって歳上感出すのやめてくれる? 不愉快だから」

 なんて会話をアルビオール内でしたりもした。






 やがてダアトに降り立ち、引きこもりのせいで未だに歩き慣れない街を歩く。外套とフードで容姿を隠しつつ、住処である教会へ向かった。中へ入り、とりあえず導師であるテセの姿を探そうとする。ケテルブルクから勝手に出て、こうして勝手に戻ってきたため、多分怒られるだろう。

(でも、先に話を聞かなかったのはテセの方だし、ボクを自由にさせたくなければ不用意に外に出さなければいいんですよ)

 なんて開き直りを胸にテセの執務室へ向かおうとすれば、頭上から聞き慣れた声が降ってきた。

「アリア!?」

 見上げれば、入ってすぐの広間にかかる二階の通路に、目的の人物の姿があった。名前を呼ぶより先に彼は慌てて姿を消して、回り込んで一階に姿を現す。

「テセ───わっ!?」

 名前を呼んだにも関わらず、駆けてきた彼にそのまま抱き着かれる。彼にしてはめちゃめちゃ元気な出迎えに、思考がバラバラになってしまった。

「アリア……ああ、よかった! 無事で……!」

「え……えーと……?」

 心配のされ方がちょっと過剰に思えて困惑する。確かにケテルブルクを勝手に抜け出したが、ティアもガイもいることは、恐らくネフリー知事からの報せで聞いていた筈だ。シンクを牢から出したのがテセというのも聞いているし、彼らの実力を知らないなんてこともない。

 ここまで心配されるのは想定外で、目を白黒させていれば右手首を誰かに掴まれて、ぐいと体を引かれた。シンクだ。ボクは今テセに抱き着かれているので、数歩シンクの方へ体が揺れる形になる。それを感じ取ったらしいテセが顔を上げた。

「元気そうじゃない、導・師・サ・マ」

「ええ、お陰様で。貴方も無事で何よりです。シンク」

 ボクの顔面が引きつる。嗤うシンクの声には明らかに敵意が込められていたし、それを受けたテセの声にも穏やかな圧が込められていた。少し見ない内に、なんでかバリバリに敵対している。双方笑みが怖い。

「な、なぁ……シンクはともかく……あれ、テセレマだよな……?」

「その筈、よ……?」

 ガイとティアがボク同様、事態の変化に戸惑いを示しているのが伝わってきた。渦中のボクはそれどころではない。

「離れてくれない? 導師サマ。見苦しいんだけど」

「シンクこそ、手を離してください。ここはもう教会ですから、アリアについていなくてもいいんですよ」

「へぇ。誰の尻拭いに行ってやったと思ってるワケ?」

「浅慮から自分の役目も果たせぬ状況に陥っていた護衛役は、誰でしたか?」

 言い返すテセというのは、めちゃめちゃに怖かった。普段通りの穏やかな微笑みなのが余計に怖い。シンクと違って言葉選びが丁寧で、荒い言葉でないが故の怖さもある。

「なんで二人共、喧嘩してるの……?」

 間に挟まれて、頬を引きつらせたまま問う。それぞれに形の違う、しかし要するに同じ内容の答えが返る。

「こいつがべたべたくっついて離れないからだ」

「シンクがアリアの手を離せば済みます」

「………………」

 何も言えない。今の回答で何が今起きているのか、ようやく把握した。何故ならボクは、二人がそれぞれにボクへ傾けてくれる「それ」の存在を知っているのだから。

 しかし、何故かそれにティアとガイも理解が及んだようだった。

「ま、待って? どういうことなの? アリア、貴女まさか……ふ、二股を……!?」

「流石にそれはマズいぞ、アリア」

「いや……それがそういうわけではなくて、ですね……」

 若干ずれて勘違いが発生している。そのままにして誤解が広まるのも嫌で、仕方がなく最低最悪の話を口にすることになる。その場にいる全員から目を逸らした。

「どっちかというと、両方フった……みたいな」

「両方フった!? ……おいおい、既に魔性の女とは驚いたな」

「えぇ!? じゃ、じゃあこの状況はどういうことなの!?」

 二人の驚きに、「ですよねー」という心地だ。いや本当に、ボクにも分からない。確かに両方ともフった筈なのに、前よりも好意の示し方がエスカレートしている。おかしい。

 ティアの問いに、シンクが嗤う。

「アリアにその気がないってだけでしょ? ボクがこいつに何をしようと、本人が嫌がってないんだから部外者に口を挟まれる謂れはないよ」

「それって……つまり……」

 ガイが呟くのが聞こえて、ティアも顔を赤くして口元を押さえているのが見える。今の発言で、ボクとシンクの間に何が起きているか概ね察されてしまったようだった。対抗するようにテセが口を開く。

「僕はアリアの意志を尊重します。ですが、シンクが我が物顔のように振る舞うことまで許容するつもりはありません。僕も彼女の『特別』ですからね」

「それも……つまり……」

 焼き直したみたいに、ガイとティアの同じ反応が目に入る。要するに、シンクもテセも「片方は選べない」とフったボクに「その意志を尊重する代わりにこちらの意志も尊重せよ」と言っているようだった。理屈は分かる。理屈は分かるが無茶苦茶だ。……ボクが悪いんだけど。

「……道理で、ああいうことに慣れていたのね」

 ティアがうっかり、ぽつりと呟く。シェリダンでプレストにハニートラップを仕掛けた時の話だろう。慣れていたのかは知らないが、それ以外に推測できない。

 そして、それは今うっかりでも口にしてはいけない話だった。シンクの眉が上がり、テセの瞳が鋭くなる。

「……どういうこと? アンタ、外で誰とそういうコトしたんだ」

「いや、ちがっ……」

「アリア、正直に話してください。僕は怒っていませんから」

「それ大概怒ってる人の発言だよね!?」

 結局、誤魔化しが効くわけもなくプレストと何があったのかを白状させられることになった。二人からは揃って「ハニートラップ禁止令」が厳しく発令され、シンクからは「間違いでも次があったら相手を殺す」という宣言まで受けてしまう。テセも「僕も少し……色々と保証できかねます」と明言を避けたので怖い。

 結果的にシェリダンでティアとガイが言っていた通りのリアクションで、どうやらボクより二人の方がテセとシンクへの理解が高いらしいと知った。

「しかし……あんた本当に悪女だったんだな……」

「知らないの? アリアは前から相当の悪女だよ」

「二人共、失礼ですよ。アリアは素敵な女性です」

「……なんだかテセレマ様が一番怖い方に見えてきたわ」

 何はともあれ。居たたまれなさ百%の状況で、ボクは無事にダアトへの帰還を果たしたのだった。……コレ、無事っていう?

 

 

 

*****

 




 

 ダアトに戻れば、状況は幾らか変化していた。変化というより、最早変貌だったと思う。



 一番大きな変化は「導師イオン」の登場だ。彼は今まで被験者と共に存在を秘匿されていた。たまに教会内を歩き回っていたが、時にボクやテセのフリをしたりして、二人共事情を知る人間以外の目に留まらないようにしていた。

 だが何を思ったのか、彼は表舞台に出てくるつもりになったらしい。会合に乱入し導師補佐役を呼び戻す方向へ詠師会をまとめてくれたという。それから今後は教団に正式に籍を置いて詠師会に混ざることを決定まで持っていき、ボクらを一番困らせていた課題を片付けてくれていた。

 どういう心境の変化で面倒を負ってまで急に助けてくれたのかと聞くと、彼は穏やかに微笑んで答えた。「僕の婚約者が、陽の当たる場所に出ると言って聞かないので。頑固で困ります」と。人としてどこかおかしい人だ、と感じてはいるけれど、こうして被験者を想って語る時には普通の人なんだな、とも思う。ボクにとってイオンはそういう人だった。



 二つ目の変化は、テセが「導師イオン」の影武者だったことが、正式に街に伝えられていたことだ。なんでも、うっかりイオンがテセと街に出てしまったらしく、下手に騒がれる前に正式に発表したらしい。「四年前に病に臥せったイオンの代わりに」という説明をしたらしく、レプリカと明言はしなかったそうだ。

 勿論、気付いている人は沢山いるだろう。でも、多分テセは被験者とかレプリカとか、そういうところで価値を判断して欲しくなかったのだと思う。そして、影武者でも確かに象徴として街の人と関わってきたテセに、彼らも想うところがあったらしい。バチカルでナタリアが受け取った親愛には届かないだろうけど、一先ずダアトの街は大丈夫そうだ。



 三つ目の変化は、前の二つに続くものだ。「導師イオン」の健在は、街の人にも知れている。今後は詠師会に混ざる、という決定は彼らにも伝わっているようで、そういう意味では街はちょっとさざめいている。

 それは喜びであったり、イオンとテセのどちらが導師に相応しいかであったり、様々だ。でも、イオンは「あくまで現導師はテセレマである」という姿勢を決然と示したらしい。噂話は止められないが、多分大丈夫だと思えた。



 四つ目の変化は被験者だ。これが二番目にびっくりした話で、彼女は「神託の御子」として名乗り出ることにしたらしい。街の人にはもう挨拶を済ませたそうで、その行動力には驚かされた。

 ボクなら知らない期待を勝手に寄せられて偶像にされるなんてお断りだけど、彼女は違うらしい。「導師イオンの婚約者だった身として、人々の心に寄り添いたい」そうだ。

 それに当たって、彼女もまた籍を教団に置くことになった。イオン共々、新しい役職を用意しなければならないわけで、それはボクやテセの仕事になってちょっと頭が痛い。



 そしてその四つ目の変化に伴う変化が、五つ目の変化としてボクの身に迫っていた。

 

 

 

*****

 

 

 

「アリアー? ねね、後ろのファスナー上げて」

「ん。はぁい、ちょっと待って」

 声をかけて背を見せれば、彼女は亜麻色の髪を揺らしてボクの方へと近付いた。きちんと綺麗に着られるように手を加えながら、背のファスナーを上げてくれる。着られたっぽい服を鏡に映して、軽く自分の動きをチェックしてみた。

「うん、大丈夫そう。ありがと」

「どういたしまして」

 ここは教会本部の一室だ。彼女を振り返れば、人の良さそうな微笑みがボクの視線を受け止める。

 彼女は今、ドレスに近いものを身に纏っている。白を基調にして淡い水色を差し色にしたそれは、デザインはドレスだがスカートやフリルを敷き詰めておらず、中に動きやすい服と足下にはロングブーツが見える。こうして見ると表情のお陰か人柄か、本当にお姫様だ。

「似合うね」

「アリアこそ。可愛いわ」

 褒められて「そう?」と首を傾げた。再び鏡を見れば、先程確認した自分の姿がある。着ているもののデザインは殆ど彼女の物と共通していて、違いと言えば差し色が淡い緑色であることくらいか。少し、舞踏会で着ていたドレスを思い出す。多分似合っていないこともないが、彼女の方が似合って思えた。

「アリアがそういう衣装を着て嫌がらないなんてね。どういう心境の変化?」

 どことなく嬉しそうに聞かれて、ボクは考えてみる。確かに、少し前まではこういうものは苦手だった。女性的なものには抵抗があって、そう振る舞うことも、そう見られることも苦手だった。でも、今はあんまり気にならない。率先して着飾りたいとは思わないけど、着飾ることへの抵抗も薄い。

「んー。多分、テセとシンクのお陰かな」

「二人の?」

「うん」

 バチカルで、プレストに「そういうこと」をされた。知らないものに混乱するボクに、コモドが「それがどういうものか」教えてくれた。知ってしまったボクに、シンクは優しく触れて「それ」を伝えた。戻ってきたボクに、テセは許しと温かさを持って「それ」を渡してくれた。だから、気にならない。

「自分が女として見られてるってのは、今でもよく分かんないけど……でも、二人は女としてだけじゃなくて、ボクとして見てくれてるって信じられるから」

 そうやって、人と人としての繋がりを築いてきたつもりだ。服や装飾の一つで、ボクが変わってしまわないことを彼らは分かってくれている。女だからボクを見るのではなく、ボクだから女として見てくれている。それは有り難いことだ、多分。

「……そうね。二人は、とても深く貴女を愛しているわ」

「愛?」

 意表を突かれて、ボクは彼女の顔を見た。彼女は変わらず穏やかに微笑んでいて、瞳にはまるでボクを見守るような優しい色が宿っている。頷きが返ってくる。

「ええ。二人とも、貴女が自分のことを忘れても、貴女がアリアであることを忘れなかったわ。ずっと近くにいようとして、いっぱい間違えて、自分で自分が許せなくても……やっぱり、貴女の近くにいる」

「………………」

 彼女の言葉を噛み締める。それが「愛」。多分、愛には沢山種類があるんだ。言葉にするだけでも沢山あるし、その幾つかはボクだって気軽に口にする。その中で、彼らがボクに渡してくれる「それ」は────「愛」は、そういうもの。

 それはボクが二人に渡したいものにとてもよく似ていて、でもやっぱりどこかが違う。男として、なんてボクには分からない。ボクにとってテセはテセだし、シンクはシンクだ。それ以外には成り得ない。

「あ。『フられても』ね」

「……それは言わないで」

 茶目っ気たっぷりに追加されるが、これでも申し訳なく思って居心地の悪いところがあるため、あまり笑えない話だ。大切にしたい相手の気持ちを汲めず、同じものを返せないというのは中々落ち込む。

「アリアこそ、イオンとはどうなの?」

「勿論ラブラブよ」

「うわ、なにその余裕……」

 痛いところを突けたりしないだろうかと水を向けて、煽りをくらってしまった。まぁ、彼らの間に何があったとしてもボクには関わりないし、勝手に幸せにしててくれというところだ。

 と、被験者が微笑みながらも少し、眉を下げた。どうしたのだろう。彼女は躊躇いがちに口を開いた。

「……私ね。ずっと貴女が羨ましかったわ」

「えっ」

 びっくりした。こんなにお淑やかで、譜術士としても一流で、頭も良くて努力家で、教養もいっぱい詰まってて完璧な人が、一体ボクのどこを羨むというのか。

 ボクなんて日々どうやって補佐役の仕事をサボってお昼寝するか、に勤しんでるだけなのに。面倒臭がりだから大体何の役にも立ってない。

 でも、彼女は本心からボクに憧れを抱いていたらしい。言葉が続く。

「四年前、私はイオンを止められなかった。あの人を助けることも、養父に与えられた役割を全うすることも出来なかった。何も知らず、何も出来ないまま、鳥籠の中でただ愛されて終わったわ」

「………………」

 それはちょっと、悲観の強くこもった言葉で、ボクも不用意なことは言えない。当時のことを、ボクは話に聞くくらいしか出来ないのだから。

「イオンの……ヴァンの企みを壊したのは貴女。預言を失った世界で導師代理の立場に就いたのも貴女。沢山知って、沢山出来ることをして。鳥籠の中でただ愛される、なんて選択を貴女は一度もしなかった」

「それは……そうだよ。ボクは何もしないで待てる程、気が長くないんだ。世界や他人だって信用してない。自分が何かしなきゃ、この世界はボクから大事なものを奪っていく」

 言葉を返せば、彼女は「そうね」と囁いた。「それにもっと早く、私も気付けていれば良かった」と。それは後悔の滲む顔で、でも後悔で終わる顔じゃなかった。眼を上げた彼女の表情は、力強い。

「貴女は貴女がしたいことをした。私も私がしたいことをするわ。大人しく鳥籠にいることはもうやめる。譲れないものが、私にも『ここ』にあるから」

 彼女の揃えられた右手が、そっと心臓の辺りを押さえた。それにボクは共感した。ボクも、自分の「そこ」に譲れないものがある。世界の全てを滅ぼしたって構わないくらい。

「コレはそのための一歩?」

「ええ。貴女も、付き合わせてしまうけど」

「いいよ。どうせ、この大火事は消せないんだ。だったら火事じゃなくしちゃった方が早い」

「早いか遅いかで考えるところは、本当に貴女らしいわね」

 くすり、と笑って彼女はボクに手を差し出した。もう時間だと告げている。下らない大衆のための、下らない神話を演じる時間。でも、ボクは殆ど何もする必要なんてない。それらしい振る舞いも、それらしい話も、彼女がやってくれる。手を重ねて、一緒に歩き出す。

 部屋を出て陽の差し込む廊下を歩けば、見慣れた姿が見えてきた。背格好も顔付きもよく似ている、二人の少年。このダアトの現導師と、先代導師。彼らはそれぞれに柔らかく微笑むと、ボクらに手を差し出した。ボクらも応えて手を離し、自分の手を取るべき相手へと重ねる。

「綺麗ですよ。アリア」

「テセがそう言ってくれると心強いよ」

 互いに臆病風は吹かない。やる気満々、前を向く眼だ。イオンと被験者も何かを話して、同じように前を向く。

「間違っても落ちるなよ」

「君はボクをどれだけ落ち着きないと思ってるの」

「テセレマ様も、落ちないで下さいね!」

「大丈夫ですよ。アニス」

 脇に控える護衛役に言い返すと、隣で守護役に念を押されて苦笑する気配が伝わってきた。全く、どちらの主も従者に信用されていない。

 ちらり、と隣を見ると被験者の耳で揺れる飾りが目に入った。緑の鉱石が入れられた透明の円筒だ。それがどういうものかは知らないけれど、彼女がずっと身に付けているのは知っている。だから多分、大切な物なのだ。ボクの髪に今も留まっている、貝と涙の飾りのように。

「───時間だよ」

 案外細かいことを気にするボクの相棒が、面倒そうに教えてくれる。被験者と視線を交わらせてから、ボクはテセに頷いた。彼も穏やかに頷き返して、ゆっくりと手が引かれる。ボクはテセに、被験者はイオンに。揃って手を引かれ、護衛役と守護役を後ろに控えながら、そこへ踏み出した。

 ダアトの街を一望出来る、教会のバルコニー。光が溢れ、喧騒が耳に障る。ボクは虚構を、被験者は本当を。それを待ち望む、民衆の前へ。

「じゃ、演説よろしくね。本当の『神託の御子』さん」

「任せて。お付き合いよろしくね。『双子御子』のアリア」

 ボク達はそうして、変わり続ける世界に新たな一石を投じる。

 互いの譲れないものを守り、時に押し通すために。










 ND2020・ウンディーネデーカン・シルフ58の日。

 二つの希望は「神託の双子御子」としてその名を伝えた。







 今一度、春を告げる二重唱が、世界に届く。
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