亡霊と希望
自分で至った結論に、目の前の微笑みに。僕はそれでも信じられない気持ちの方が大きかった。たった一人を追い詰めるために張り巡らされた罠。希望を絶望に変えるための悪意。
"アリア"のレプリカであることが許せない、"アリア"を助けるための実験台……それらの言葉に、きっと偽りはない。だが、それだけではシンクにしたことへの説明がつかない。説明がつかない部分に、一見矛盾が見えるその場所に、本当の答えがあるように感じた。
───彼が、そこまでしてシンクにこだわる意味とはなんだろう。
「よく出来たご褒美に、暫くは何もしないでいてあげる」
イオンから掛かった言葉にハッとする。彼の口元を歪に形作っていた悪意は、まるでどこかへ行ってしまったみたいに鳴りを潜め、普段通りの穏やかな笑みが戻っていた。
だが僕はもう知ってしまっている。その微笑みの裏に潜むものを。唾を飲み、睨むように視線を鋭くして、イオンを見る。
「……その言葉を僕が信じると思いますか?」
「信じても信じなくてもいいよ。僕の気紛れだからね」
イオンはくすり、と小さく笑う。愉快なのだ。彼の言葉に警戒を見せる僕が、面白くて仕方がない。
(……何故?)
考える。目の前にいる人間の、思考や感情を理解できるとは思っていなかった。それ程に彼が沈む水底は深いところにある。
だが、人は話し合えばいつかは分かり合えるものと、僕は信じていたい。どれだけ人の理から離れようとしても、僕も、シンクも、アリアも。結局は人であることを手離せないでいるのだから。
───人の愚かしさを、愛しさを持つ限り、僕達は人だ。
「ああ、そうだ。僕のこと、言いたければ誰に言ってもいいよ。……その結果を受け入れる準備が出来ているならね」
そこに意味を含ませながら、イオンは僕に選択を委ねる。僕が動けば自分も動くのだと、そう暗に示す。「君は誰を殺す?」と、その優しい瞳が問うようだった。
(何故)
考える。何故、彼はシンクを狙うのか。自分の劣化レプリカを嫌うなら殺せばいい。アリアと違って利用価値などないだろう。僕達「イオン」は預言の上ではもう終わった存在の筈なのだから。生かして"アリア"に使える余地などない。でも、彼はシンクを殺さない。ただ、執拗にいたぶるだけ。
(何故)
暗い地下牢での光景を思い出す。肌を焼いた悪意を、目の前の醜悪な在り方を重ねる。彼の言葉はどこからが嘘で、どこまでが本当か分からない。
シンクが警戒して、アリアに報せなかった判断も理解できる。これは危険なものだ。「アリアが知らないから」まだ水面下で小さな動きをしているのだ。
当のアリアが知れば、彼は手段を変えるだろう。ゆっくりといたぶる、その時間が失われる。シンクがその身で稼いでいる時間がゼロになる。それは間違いなく、蝶の羽ばたきなどでは済まない。イオンは、アリアの命を最初から握っているのだから。
(せめて、彼女の命を繋ぐ術式がイオンのものでなければ)
歯噛みする。シンクが抵抗を選ばなかった第一の理由は、恐らくそれだ。イオンの機嫌を損なえば、アリアが人でなくなる。彼の術式で体内の音素バランスを保っている彼女は、それを失えば世界を滅ぼしかねない存在へと変貌してしまう。その技術を作り出し禁忌とした死霊使いは、確かにかつて生み出したその存在を「化け物」と評した。人ではない、と。
だが、僕もシンクも、彼女を生かす術式は作り出せない。その能力が足りない。それは彼が「導師イオン」だから出来たことだ。劣化した代替品の僕達では手が届かない。
試みなかったわけではないのだ。彼女に施された術式を詠み解こうとしたことはある。だが、分かったのは被験者とレプリカの圧倒的な差だけだった。能力が一番被験者に近いからと「導師イオン」に選ばれた僕でさえ、彼には届かない。
「それじゃあ、良い夢が見られるといいね」
彼は微笑む。以前から見せる「普通の」表情で、立ち去ろうとする。彼はそうして感情を覆い隠す。その方が都合が良いからだ。その方が余程上手く、周囲の現実が動くから。
なら───何故、彼はその顔を「僕」に見せたのだろう。
「……ぁ」
気付いてしまった。立ち去ろうとするその背に、そこにある矛盾に眼が向く。"アリア"を助けるためにアリアを追い詰めるのだと、そのために僕やシンクを消費するのだと。そう言いながらシンクを傷付けることに重きを置いていたその矛盾と、それはよく似ていた。
「イオン」
呼び止める。彼は足を止めて、僕を振り返った。まだ何か用があるのかと、どこか「期待」をして見える顔。愉しい暇潰しになってくれるのかと問う顔。その顔は、僕とよく似ている。僕やシンクと、大きくは変わらない。でも───
「───どんなにシンクを傷付けても、貴方の痛みは貴方のものなんですよ」
「───?」
僕の言葉に。イオンは初めて表情を手離した。何を言われたのか、理解が追い付かないような、虚を突かれた顔がそこにあった。僕はそれに言葉を重ねる。気付いてしまったそれを、矛盾の在処に気付かない彼へ差し出す。
「貴方は僕に、本当の顔を見せる必要などなかった。自分が何を思い、何をしていたかなど知らせる必要はなかったんです。でも、貴方は僕に話をした。こんなに、簡単に」
「……暇潰しだよ。僕を恐れながらも僕の前に一人で現れたお前に、ちょっとしたご褒美をあげただけだ」
何を言い出すのかと、少し驚いた顔のまま彼は返す。そこには少しばかりの戸惑いが見えて、本当に分かっていないのだと理解する。彼は本当に、気付いていない。
「貴方はシンクから希望を奪おうとした。絶望に変え、苦しめようとした。ですが、アリアを殺して与える絶望は選ばなかった。貴方が直接手を下す方法は選ばなかった」
例えば、アリアを殺さないにしても彼女をこの教会で「壊す」方法は幾らでもあった筈なのだ。危険な薬で自我を壊すことも、その体を冒すことも、この場所で十分に出来た。だが彼は回りくどい方法をとった。それは、
「貴方では駄目だったからです。貴方が希望を奪うのでは、シンクは貴方を憎むだけだ。それでは意味がない」
「………………」
イオンは表情のない顔で僕を見ていた。シンクにとって、彼は憎悪の対象だ。理不尽の塊で、異物の象徴。今更、彼が何をしようとシンクは揺らがない。牢で酷い拷問を受けたところで、何も変わらなかったように。
「貴方が望んだのは、シンクが自分から絶望へ落ちること。自分を肯定できないまま、希望であるアリアを閉じ込め、自らの手で彼女を這い上がれない泥の底へ沈めること」
実際に、シンクは一度そうなりかけた。アリア以外を見ないようになり、アリアを離さないようになっていた。静かで怖い眼をするようになったと、アリアは言っていた。それはきっと、彼が深い水底を眺めるようになったからだ。
そうして、何が残るだろう。何が出来上がるだろう。二人きりの閉じた世界。世界の理不尽さに、自身の醜さに、諦めを得てしまったシンクと。彼の澱んだ愛に沈められるアリア。
それはとても幸せで、でもどこへも行かない未来だ。そしてその関係性は、既にこの場所にあるものだ。この場所に、僕やシンクが作られる前からあったもの。停滞した愛。本当の顔を教えられた、今なら分かる。
「貴方はシンクを自分と同じにしたかった。自分と同じように絶望し、同じ世界を眺める存在にしたかった」
「──────」
イオンは応えない。それが僕の憶測を固めていく。きっと彼はそうなれると思ったし、そう出来ると思ったのだ。同じように世界を嫌い、同じようにアリアにすがる存在だから。
イオンにとって、シンクは「同じ」だった。そしてきっと、シンクにとっても。彼は牢で、イオンを「僕達と同じ」と評したのだから。
「でも、違うんです。僕もシンクも貴方ではない。貴方と同じにはなれない」
僕は今まで一度だって、彼らを「同じ」だと思ったことはない。イオンがシンクを傷付けた行為を「加虐」だと思った。でもきっと、二人には「被虐」行為に映っていた。
イオンはシンクを通して、自分を傷付けていた。彼にとって、醜く、肯定し難い「自分」を、なぶるための。「何より大切だ」と言いながら、自分の手でその花を摘み取ってしまった己の醜さを、シンクに重ねていた。己をいたぶる代わりに、シンクをいたぶっていた。
(それは正しく、代替品の扱いだ)
イオンにとって、僕とシンクは代替品なのだ。"アリア"の代替品はなくとも、自分の代替品はある。僕達という個を認めず、壊していい道具のようにしか思っていない。自分から作り出されたものを、自分のもののように扱っている。自分に代わる、自分なのだと思っている。
(だから僕に「本当のこと」を話した)
鏡に映る自分に、話をするように。「導師イオン」であった自分の、「代わりの導師」として。彼には自覚がない。シンクや僕に、自分を重ねている自覚がない。
自覚がないまま、僕に全てを話して問いかけをしていたのだ。「お前はどうするのか」と。「シンクと同じように、『イオン』になれるのか」と。
僕は答える。それはきっと、彼のサインだから。
「僕とシンクは『違う』───『イオン』には、ならない」
明確な拒絶。イオンは驚いた顔をして、僕の顔を見ていた。彼の眼に、今の僕はどう映っているだろう。分からない。分からなくていい。僕と彼は、違うのだから。違う存在のまま、近くに在ることは出来る。
「……そう」
イオンは視線を下げて、少し声を低くしてそう応えた。それから溜め息を吐いて、顔を上げた。
表情はない。微笑みも、驚きも、苛立ちも、何もない。まるで張り付けていた顔を全て忘れてきたみたいに、彼は僕を見た。それは「導師イオン」になるために生きていた頃の僕を思い出させた。自分の感情を置き去りにした、人形の顔。
「………………」
彼はそのまま歩き出す。僕の方へ、距離を詰めるようにゆっくりと近付いてくる。僕は動かなかった。臆することも、逃げることもしたくはなかった。突き付けた決別を、反故にしたくなどなかったから。
イオンは目の前へ立つ。そして、
「うっ……!?」
腹部に響く重み。呼吸が詰まって、視界が回った。僕は気付けば床に両手をついて這い、汗と唾液を溢しながら荒い呼吸を繰り返していた。
(───痛い)
腹部に酷い痛みがある。殴られたのだと、遅れて認識した。混乱と驚きで体が動かない。涙で滲む視界で、床を眺めることしか出来ない。狭い視界に映りこむ、すぐ近くに立つ彼の顔を見上げることが出来ない。頭上で、嗤う気配がした。
「っ……!」
髪を乱暴に掴まれる。引きちぎるみたいに上に引かれ、無理矢理に顔を上げさせられた。痛みに喉が詰まって、僕は反射的に閉じた眼を開ける。
僕を至近距離で見下ろす緑の瞳は、何かの感情を表していた。それはまだ、自分の感情すら手探りの僕には分からないものだ。分かるのはただ、張り付けた表情より余程、瞳は感情を語るのだということだけだ。
「お前が僕の役に立たないなら、要らない。あったら使えるかと思ったけど、お前は訳の分からないことばかり口にして流れを乱す。折角愉しく遊んでいるのに、邪魔をされるのは不愉快だ」
「イオ、ン……」
「お前達は僕の出来損ない。僕の玩具で僕のモノだ。アリアなんて希望はないし、薄汚くていつ壊れても構わないガラクタさ。───だから、今ここで壊してやるよ」
嗤う。指先が近付く。僕の眼へ。まるでこの眼球を抉り出すつもりでもあるように。手を伸ばしてその腕を抑えるけれど、止まらない。僕の両手でも、その片腕には敵わない。
「人払いはしてあるから安心しなよ。ここには今誰も近付けない。お前がどんなに泣いて叫んだって、誰も気付かない」
「あ……」
指先が眼の周囲に触れた。目蓋を撫で、その優しい手つきで痛みを予感させる。ぐ、と指先が眼窩を形作る骨を押した。掌に塞がれていない方の視界で、イオンの微笑みを見上げる。その眼にあるのは、暗く慈悲深い光。
「前からその眼を抉り出してみたいと思ってたんだ。自分の眼を抉るわけにもいかないからね。シンクの眼を抉ってしまったらつまらないし───ありがとう」
止まらない。止められない。その指先が、ゆっくりと眼窩へ潜り込もうとして、
「───っ」
「!」
僕の周囲で音素が巻き起こり、イオンを弾く。彼は数歩よろめいて下がり、その手から逃れた僕は再び床に膝をついた。
「はっ……はっ……」
心臓がうるさい。与えられた恐怖と、急に使った力のせいだ。早鐘を打つ心臓の代わりに、その側に埋まる輝石に触れる。服の上からでもそれは固い感触を示して、そこにあることを主張する。僕はゆっくりと呼吸を落ち着けた。
(……大丈夫)
まだ生きている。僕は一人ではない。虚弱な僕の心臓なんて頼りにはならない。でも、ここにはもう一つ、僕を生かす意志がある。僕に生きていて欲しいと願って、抗う意志を支えてくれる力がある。
そこへ音素を集めながら、僕は立ち上がった。膝は笑わない。顔を上げ、目の前の脅威を見る。
「……?」
彼は不思議そうに自分の手を見下ろしていた。それから僕を見る。何が起きたのか分かっていない様子で問う。
「お前は体が弱すぎて、戦えないんじゃなかったっけ」
「……ええ。そうですね」
「なら、その眼はなんだい?」
分からない。彼の眼に、僕が今どう映っているかなど。でもどういうつもりで立ち上がったのかは示すことが出来る。
僕は片足を下げると、腰を落として構えた。そして告げる。レプリカにだって個が───意志があるのだと。
「───僕は貴方に屈しない」
「……調子に乗るなよ。ガラクタ」
低い声で応えた彼には、確かに感情があった。
*****
「掌閃波!」
譜陣を描きながら掌底を繰り出す。それをイオンは体を半歩ずらし、片腕で流してしまう。一歩こちらへ踏み込むのが見えた。
「まだです!」
今の技で第三音素の補助を受けた体を捻り、衝撃波を胴へ叩き込む。受けたイオンの体が揺れ、それに追掌を発動させようとする。だがそれより先に、彼が起こした音素に力の流れを乱されてしまう。
「───破空裂翔」
彼の足元から第三音素が巻き起こり、その煽りを至近距離で受けてしまう。同じ第三音素が、押し負けるのが分かる。彼はそのまま指先を地へ下ろし、追撃の風を起こす。
「翔波」
「くっ……!」
音素の波に耐えきれず、足が地面を離れた。イオンは攻撃の手を緩めない。浮いた体へ鋭い掌底が突き出される。
「裂破五連」
第五音素が従って、炸裂する。この距離で受ければ無事では済まない。輝石に音素を集めた。
「粋護掌!」
両手を打つ。足元に現れた譜陣に合わせて、第二・第四音素が障壁のように僕を包む。それに譜陣を重ね、第三音素をはしらせた。
「散ッ!」
障壁を形作っていた音素が、外へ向かう運動を得て力強く拡散される。迫っていた第五音素を散らし、僕は床を転がって身を起こした。離れた場所で、イオンが僕を見下ろす。
「……ふぅん。どういうカラクリか知らないけど、本当に戦えるみたいだね」
興味深いと表情が語りながらも、その眼に温度はない。こちらの攻撃を受けて弱る様子もなく、平然と立っている。対して、僕は肩で息を繰り返していて体力の消耗が激しい。
(互角ではない……)
七番目のレプリカである僕は、被験者に一番近い能力を持っていた。だが体が弱く、力を使えばすぐに動けなくなってしまう。それをこの輝石は助けてくれていた。
譜術の負荷を軽減し、反動を受ける体を強化し、消耗を早く回復してくれる。シンクのようには動けずとも、それなりには体を動かせるようになったつもりだ。
(……ですが、僕の攻撃は殆ど効いていない)
何が原因か、僕には判別がつかない。僕の体の使い方が悪いのか、譜術へ流し込む音素の運用が下手なのか。それともイオンが何かをしているから上手く作用しないのか。
音素の動きを無意識に拾い上げているらしいアリアなら、きっと分かるのだろう。僕には経験も足りていない。
「随分消耗はするみたいだけど、威力は悪くない。流石に僕の代わりに選ばれただけはあるね。安心したよ」
肩で息をしながら、立ち上がる。頬を伝う汗を腕で拭った。悠然と微笑む彼を睨みながら、どうすればいいかを考える。
(このままでは勝てはしない)
こちらの攻撃が効かないなら当然だ。だが、誰かの助けも期待できなかった。この場所は、基本的に立ち入りが禁じられている区画だ。いるとすれば"アリア"とアリエッタくらいになる。だが、ここで戦いを始めて暫くが経つが、どちらも現れない。
(先程、イオンは『誰も近付けない』と言った。恐らく、この空間を術で隔離している)
ここで起きていることが周囲に漏れないように、なんらかのカラクリが用いられている。確かなことは言えないが、シンクを地下牢で痛め付ける際にも使っていたのだろう。でないと、イオンの来訪に見張りの守護士が気付いていた筈だ。
「そろそろいいかな。その体、調べさせてもらうよ」
「くっ……」
イオンが近付いてくる。ゆっくりと距離が縮まり、僕の間合いへ入る。その瞬間に身を引いて譜陣を用意した。その体を吹き飛ばそうとして、しかし彼は一足跳びに僕の懐へ潜り込む。笑みが触れる程近い場所にあった。
「───刹那七連」
彼の手にある音素の輝きが眼に入る。大技の一つだ。裂破五連を受けるよりもリスクがある。だがこちらは別の技を構えている最中で、瞬時に取り消すことも出来ない。回避をするにも打ち消すにも、間に合わない。
(ならば……!)
全身のフォンスロットを開ける。音素の輝きが僕の体を包み、イオンの表情が変わる。戦えるようになったとはいえ、僕がこれ程の大技を使ってくるとは思っていなかったのだろう。
巨大な譜陣が僕と彼の間に浮かぶ。音素の過剰な加護を受けて、僅かに早く僕の方が結果を導き出せた。
「閃掌絶波ッ!」
打ち込んだ掌が、イオンの胸を打った。衝撃波が幾重にも発生し、その体が速度をもって吹き飛ぶ。その行方を見守る前に、僕は崩れ落ちるように両膝をついた。
「はぁ……! はぁ……!」
汗が酷い。心臓が破裂しそうで、全身のフォンスロットが熱く感じられた。体が弾け飛んだのではないか、というだけの反動が体を襲っていた。体の感覚がどこか遠く、視界が揺れる。呼吸が整わない。
(くる、しい……)
このまま呼吸が出来ず死ぬのではないか、という不安すらあった。当分動けそうにはない。が、それはイオンも同じだ。今の距離で、しかも正確に胸に当てることが出来たのだ。肋骨を砕いた感覚こそなかったが、無事ではない。
ようやく生き残れたのだと思って───その耳に、声が届いた。
「痛いな……」
「!」
心臓が跳ねた。揺れる視界をどうにか持ち上げて、僕は前を見る。そこには廊下に仰向けに倒れるイオンの姿がある。
だが、それはゆらりと揺らめいて、ゆっくりと上体を起こした。口元にある血を指先で確かめて、眼を細める。───まだ動けるなんて、と僕は息が上がっていて声に出来ない。
彼は立ち上がると、一瞬だけふらついて、後は真っ直ぐ僕へと向かってくる。ゆっくりと、確実に。
「びっくりしたよ。お前にそこまでの力があるなんて。力を流しきれなくて怪我しちゃった」
三度、イオンが目の前に立つ。這いつくばり、呼吸もやっとの僕を見下ろす。その顔にあるのは変わらない微笑みだ。
様子を見るに、言葉の通りダメージがあったのだろう。それなのに彼は表情を崩さなかった。最後には、またいつもの張り付けた笑みへ戻る。何も、彼へ影響を及ぼさない。
「でもお前の方がタイムアップみたいだね。惜しかったね、出来損ない」
言葉が意識をざらりと撫で、その手が伸ばされる。僕は逃げられない。体は動かず、手を持ち上げることすら出来ない。輝石に音素を集めようとしても、それに体が限界を訴えて散ってしまう。何も出来ない。ただ絶望が胸に染みていく。
(嫌だ)
死にたくない。負けたくない。荒く繰り返される呼吸が、その証明だった。どんなに苦しくとも、理不尽な絶望に屈することなく在りたい。生きて明日を見たい。まだ───アリアの側にいたい。
(───アリア……!)
迫り来る恐怖に、彼女の姿を思い浮かべ、ぎゅっと目蓋を閉じる。戦う力が足りない、無力な祈り。「ああ、結局僕は無力だった」なんて諦めが浮かぶ隙もなかった。
あったのは、ただ彼女への想い。抗う力が欲しいという祈り。祈ったところで奇跡など起きない。起きるのは、必然だ。
僕の体を、膨大な音素が包んだ。
「なっ!?」
イオンが驚きの声を上げ、すぐに吹き飛ばされる。僕はそれを目撃して、同時にその変化に気付いた。
「体が、軽い……?」
声に出して、更に気付く。呼吸が整っている。先程までの反動や体力の消耗が嘘のように消えていた。それどころか、今までに負った傷もまるでなかったかのように消えている。体は今までの人生で一番調子がいいのではないか、と思う程に楽だった。
何が起きたのか、理解が追い付かない。
「イオンは……!」
ハッとして彼の姿を探す。吹き飛ばされた先で膝をつき、苦しげに胸を押さえているのが見えた。何が起きたのかは分からないが、先程の音素の嵐が彼に効いたらしい。
と、僕の体を包んでいた淡い音素の光が消える。普段力を使った後のような反動や消耗はない。ただ、
(輝石が熱い……?)
肌を焼く程ではないが、接合部分が確かに熱を感じていた。服の上から触れてみれば、やはり指先が熱を拾う。
今まで、こんなことはなかった。輝石はいつだって何の温度も伝えず、ただ無機質に僕の胸に埋まっていた。それが、じわりと熱を帯びている。ゆっくりと、その熱が引いていく。
「………………」
何が起きたのか、僕にもイオンにも分からない。その奇妙な間を、慌ただしい足音が乱した。
「イオン様!」
僕と彼しかいない場に、姿を現したのはアリエッタだ。イオンの用意していた結界が解けたのか、そもそも彼女には関係のないものだったのか。
慌てた様子で、僕達の姿を認めると一瞬戸惑いを浮かべた。ここで何が起きていたのか、に困ったのだろう。だがすぐに胸を押さえて膝をつくイオンの姿を確認して、彼女は駆け寄る。
「イオン様!?」
「……大丈夫だよ」
「でも、顔色が……!」
「大丈夫。それより、そんなに慌ててどうしたんだい?」
優しい声音で、しかし明確な拒絶を乗せて彼女の心配を拒む。それに、あれだけ献身的に慕うアリエッタが相手でも、イオンは「そう」なのだと悟ってしまう。
アリエッタは何も気にした様子がなく、思い出したように訴えた。
「大変なの! アリアがどこにもいないの!」
「アリアが……!?」
途端、イオンの表情が大きく変わった。優しげな微笑みが消え、驚きと焦り、不安が過る。この場所で彼と相対してから、一番豊かな感情表現だった。それが、彼にとっての"アリア"をよく表していた。
「教会中探したの! でも、どこにもいなくて……!」
「何故……」
泣きそうにすがるアリエッタに、イオンは視線をやらない。ただ呆然とした表情で何かを思っているようだった。それが見ていられなかったのかもしれない。僕は立ち上がり、口を開いた。
「教会内に姿がないなら、街かもしれません。すぐに探しに行きましょう」
"アリア"の容姿は、当たり前だが教団の導師補佐役とよく似ている。知り合いならまだしも、面識のない街の人々では同一人物にしか見えないだろう。
そしてその容姿は今、「始祖ユリアの生まれ変わり」として誰もが知るものだ。「神託の御子」を祀り上げようとする過激派の存在も明らかになっている。
無断で外出をしたのなら、危険がある筈だ。すぐにでも迎えに行かなくてはならない。
「………………」
だが、イオンは静かに視線を落とした。そこにあるのが迷いだと気付いて、困惑する。何を迷う必要があるのか分からない。彼にとって"アリア"が大切な存在なのは、見ていれば分かるのに。アリエッタが促す。
「イオン様!」
「………………」
彼の顔にあるのは、それでも迷いだ。"アリア"を探しに行くことへの迷い───迷いであって、諦めではない。それに気付いて、僕は掛けるべき言葉に至れた。
「立ちなさい、イオン」
「……模造品が口を挟むな」
「いいえ。僕は作り物の命を与えられた存在です。でも、ここにある意志は偽りではない。だからこの口は閉じません。───立ちなさい、イオン」
言葉を重ねる。彼は僕の顔を、不愉快そうに見上げた。そうして微笑みを取り外し、苛立ちのままに顔を顰めれば、成る程シンクに似て見える。でも、それだけだ。似ているだけで、それ以上のことはない。
「貴方が何故足踏みをしているのか、僕には分かりません。聞くつもりもない。ですが、貴方が"アリア"を追いたいと思っていることは分かります。そして、追うべきだということも」
「………………」
イオンは沈黙を続ける。けれど僕を見上げていた眼には、十分な感情が見てとれた。それが何かなんて、僕には分からない。ただ、彼が動き出すための動力にはなったようだった。
イオンが立ち上がり、駆け出す。それを慌ててアリエッタが追って、
「……アニスに怒られてしまいますね」
守護役を呼びに行く時間も惜しんで、僕も追いかけた。
*****
どうして。
胸にあるのはその問いだ。どうして、彼女は出て行ったのだろう。僕に何も言わず、アリエッタもつけず、一人で教会の外に出たのか。
街へ出る危険はよく分かっていた筈だ。「神託の御子」の騒動で、実際に危害を加えてくる存在があることも学んだ筈だ。それなのに彼女は外へ出た。守りもつけず。
(どうして)
今まで、そんな無茶をしたことなんてなかった。大人しく教会の中にいて、いつだって僕をあの部屋で待ってくれていた。時折別の場所にいたって、僕が少し探せば簡単に見つかった。外出をする時には、必ず僕に事前に話をした。なのに、どうして今更になって。
(───いなくなろうとしている?)
体が、指先から冷たくなるようだった。ダアトの街に、彼女はいないかもしれない。もう船に乗って、どこかへ行ってしまったかもしれない。僕の知らない内に、僕の手の届かないどこかへ。
(そんな筈、ない)
彼女がいなくなる筈がない。彼女が僕の傍から消える筈がない。彼女には僕しかいないんだ。そうなるように仕向けた。そう在るように望んだ。
彼女は賢いから、そんなことは気付いていた筈だ。分かっていて、僕の用意した鳥籠に入っていた筈だ。なのに、どうして。
(───ああ……ほら)
気付いてしまう。思考を乱すものが、胸をざわつかせるものが、不安という感情であることに。こんな感情が自分にあったのかと、何度でも彼女は僕に思い知らせてくれる。
この世界はガラクタで、どうでもいいものばかりなのに。僕の存在も感情も、何の役にも立たないのに。君がいると全然違う。僕はまるで生きているみたいになって、君を探して息を切らせることになる。マイナスな思考ばかりが浮かんで、君の姿を見付けるまで冷静に頭を回すことも出来ない。
君は僕に、感情という「色」を分けてくれる特別な花だ。
(いなくならないで)
君がいないと呼吸が出来ない。意味のない自分が、ガラクタとしての価値すら失う。何を想えばいいのか分からなくなってしまう。───夜の眠りが、死に変わってしまう。
「あっちです!」
導師のレプリカが声を上げる。なんでついて来ているんだ、と思う余裕だってない。ただ示された先の広場に、やけに人が集まっていることに気付いた。
そちらへ駆け寄って、人混みに近付く。途端、烏合の衆が僕に気付いて戸惑いを見せた。波が割れるように、ざわめきながら道を開ける。そこを僕は歩いて、ようやく見付けた。
彼女は陽光の下で、きらきらと透ける亜麻色の髪を揺らしていた。街の人間に微笑みかけていて、しかし異変に気付いて顔を上げる。その水色の瞳が僕を映して、驚きに大きくなる。
───思い出した。僕はこの光を受けて輝く瞳が、まるで教会から見える海の輝きのようで……吸い寄せられたのだと。
「───イオン?」
小鳥の囀りのような声が、僕の耳をくすぐる。僕の名前を呼ぶ。見えていない、なんてことはない。忘れてしまった、なんてこともない。彼女は、今も僕を見ている。
「どうしたの? そんなに慌てて」
足を止めてしまった僕に、彼女は自分から駆け寄ってきた。訝しみながら、どこか心配の色も浮かべて。
いつも通りだ。いつも通りに彼女は話している。なら、僕もいつも通りにしなくては。でないとおかしい。切れている息を整えようとする。
「……君が、いなくなったから」
あれ、と思う。おかしなことを口にした筈はない。正当な理由だ。なのに、意識の端に違和感がある。声だろうか、表情だろうか。何かが違う。息が震えた。思った通りに、何故いかない?
「イオン……?」
ほら、怪しまれてる。彼女を不安にさせている。なんでもないのに。なんでもなくて、ただ彼女が黙って教会を離れたことを、叱ればいいだけなのに。
危ないだろうと。心配するでしょうと、ただそう言えばいい。いつものように微笑んで、優しい声音で、二度とこんな危険なことはするんじゃないと、言うだけでいい。そうやって僕の傍に縛れば、何も問題はないのに───それが、出来ない。
「……泣かないで」
頬に彼女の手が触れる。何を言われたのか分からなかった。泣く? 僕が? 自分の死を詠んだ時にも、世界の終わりを知った時にも、涙なんて出なかったのに。
君を死の眠りにつかせた時も、自分が死ぬ時でさえ、泣きはしなかった。なのに、なんで今更。そう思うのに、言われて伸ばした指の先には濡れた感触があった。指についた液体を目視してみれば、それは確かに涙のようで、困惑する。
(どうして)
何度目の問いか。アリアの指先が、僕の涙を優しく拭う。その顔を見れば、少し寂しそうに微笑んで見えた。
どうして。また浮かぶ。彼女の見せる表情は、僕には難しすぎる。彼女の瞳は、とても雄弁に感情を語るのに。それを読み解けるだけの力が僕にはなかった。僕の中にない「それ」を、僕は参照出来ない。君に色を分けてもらわなきゃ、僕の中に色なんて有りはしない。
「ごめんなさい。心配をかけたのよね」
「……うん」
声が掠れる。たったそれだけの短い音で、何故声が掠れなければならないのか。おかしい。変だ。しゃくり上げたわけでもないのに、涙が出るだけで声が掠れるのだろうか。
そんなことを思う僕に、君は思ってもみないことを言った。心配の色、寂しそうな色、それから申し訳なさそうにして───今度は眉を吊り上げて、怒った色をしていた。
「でも、イオンが悪いのよ! 私の話、全然聞いてくれないんだから!」
「……え?」
「何を聞いてもはぐらかして、答えてくれない! 怒るわよって何度も言ったのに、それも無視! だから私、出てきたの」
今度は、笑う。穏やかに、優しく。陽の光の眩しさに眼を細めた時のように、温かな表情で広場を見回す。つられて見れば、そこにいるのはダアトの街の人間達だ。
僕にとっては何の意味も持たない有象無象で、預言にすがるガラクタの一部。でも彼女にとってはまるで違う。ひとつひとつが、価値のある命に刷り変わる。
この箱庭に敷き詰められた造花は、君の眼には等しく生花に映る。慈しむように見回して、彼女は再び僕を見る。彼らを見るのと同じ、愛を謳う瞳で。
「私、『神託の御子』になるわ」
衝撃的な宣言だった。思考が止まって、それから焦りが占めた。冗談ではない。そんなことは認められない。君のレプリカが、そうやってどんな目に遭ったのか、君は知っている筈だ。
そう言いたいのに、ここは外野の眼が多すぎて上手く言えない。出来るのは反対の意志を示すことだけだ。
「駄目だ」
「もう遅いの。分かってるでしょ?」
彼女は悪戯っ子のように片眼を瞑って勝ち誇る。そうだ、もう遅い。彼女は教会から出てきてしまった。人間達にその姿を見せ、広く認知され始めてしまった。
この広場に集まるだけでも結構な人数になる。人の入れ替わりだってあっただろう。今だって人が増えていっていて、人々が彼女を認識することを止めることは出来ない。上手くレプリカで覆い隠していたのに……世界に、彼女の存在が知られてしまった。
「アリア……」
「大丈夫よ。だって、貴方がいてくれるでしょ?」
「え……?」
また、流れの分からない発言が飛び出した。彼女は何を言うのか。僕がいるなんて、そんなことは当たり前で……
(……違う)
分かってしまった。彼女は気付いていた。「神託の御子」を祀り上げる流れに、僕が何かをしていることを。僕が自分のレプリカを追い詰めようと、群衆を利用していることを察知していた。
だから自ら「神託の御子」になろうとしている。僕がこれ以上、あのレプリカに手を出さないように。「神託の御子」がアリアに変わってしまえば、僕は何も出来なくなる。奥歯を噛んだ。
「そんなに……あのレプリカが大事なの?」
声が低くなる。冷たい音で、彼女の意識を撫でた筈だ。なのに彼女は変わらない温かさで僕に触れた。───雪を溶かして、春を呼ぶみたいに。
「違うわ! そういう意味じゃないったら」
「……じゃあ、どういう意味?」
問えば彼女は言葉に迷うように「う~ん」と頭を悩ませた。それから思い付いたようにパッと表情を明るくし、僕の手を取る。実際に触れる体温はあまり僕と変わらなくて、でもやっぱり温かいと思った。生きている温度だと。
彼女はそんなことを思う僕を見て笑う。太陽の下で、僕の作った鳥籠の外でも、僕だけへ詠う鳥のまま。
「貴方も、私と一緒に生きましょうってことよ!」
ああ、神様。信じられない。
亡霊の時間に、こんな唐突に終わりが来るだなんて。