亡霊と希望
ふと、名前を呼ばれたように思えて顔を上げる。
白と黒の紙束から眼を上げれば、色のある自分の執務室が迎えた。何も変わらない、いつも通りの風景。だがそこに、自分の名を呼んでくれる導のような少女はいない。自分以外に人の気配のない、伽藍とした空間が広がっているだけだ。
(……いけない。集中しなくては)
頭を振って手元の書類に眼を戻す。だが一度逸れてしまった思考は上手く戻らなくて、僕は溜め息を吐いて書類を机へ置いた。椅子を引き、窓越しに空を仰ぎ見る。
陽の落ちた空に星が瞬く様が眼に入って、外の世界のことを思った。自由で、不自由な世界。ダアトでやるべきことがある今の僕では、手の届かない世界。そこで、アリアは。
(……怒っていた)
僕が勝手に彼女のケテルブルク行きを決めてから、ずっと彼女は僕に抗議をしていた。「そんな必要はない、大丈夫だ」と何度も伝えられた。その言葉を僕は信じられなかった。
彼女の「大丈夫」は全然大丈夫ではない。自分の命を脅かされても震えず、泣かず、恐れない。まるで宙に投げ出された林檎が地へ落ちるように、当たり前に死を受け入れている。
(どうして……)
彼女は特異な生まれのレプリカだ。倫理観や道徳観に欠け、破壊衝動に簡単に判断を左右されるリスクを抱えている。そのためか、彼女は人の命に頓着しない。誰が誰を、どれ程の人数を手に掛けようが、構わない。出会った頃には人を殺すことを楽しんでいる節さえあった。
だが彼女は二年前に始まった旅の中で彼女なりの答えを出したようで、今は無用な殺生は避けているように見える。自分の命についても同様だ。僕やシンク、アニス達が心配するからと、少しは命の危険について考慮してくれるようになった。
(でも、それはそう繕っているに過ぎない)
後から聞いた話でしかないが、一年前の旅の終わりに詠師エレティクスがアリアを殺そうとした話は聞いている。その時、アリアは死を選びはしなかった。それは「生きたい」ということだと思っていいのだろう。
それでも、バチカルで拐われて記憶を奪われても、ダアトという自分の領域で毒を盛られても、彼女は恐れない。平然と「大丈夫」と言う。結果的に死ななければどれだけ命を脅かされても問題がない、というのは決して「死を理解している」とは言えないのだ。彼女が死を理解しない限り、彼女はいつでも宙に投げ出された林檎のように、命を落とす危険性を持っている。
(……いえ。これもただの言い訳かもしれません)
彼女が自身を簡単に秤に乗せてしまうから、なんて、ただ彼女のせいにしようとしているだけかもしれない。
彼女をケテルブルクへ送ったのは、僕の意志だ。僕が彼女を守りたくて、目の前でみすみす失うようなことがあれば、耐えられないから。だから少しでも安全と思える場所へ送った。多分、本当のところはそれだけの話なのだ。
(彼女の「大丈夫」を信じられないのは、僕の弱さだ)
悔しさのようなものが胸に上がって、拳を握った。と、部屋の扉がノックされる。応えれば、今このダアトで一番信頼をおける自分の守護役が姿を見せた。彼女は僕の顔を見ると、困ったように眉を下げる。
「テセレマ様。こんな時間まで起きてちゃダメですよぅ。ちゃんとお休みしてますか?」
「はい。必要な休息は取っていますよ」
「でも……顔色が悪いです。教会の襲撃からずっと動きっぱなしですし、一度ゆっくりされた方がいいと思います」
心配してくれるアニスに、僕は首を横に振った。
「出来ません。補佐役と統括総長が動けず、詠師エレティクスも呼び戻せない。襲撃者の件も、アリアの安全確保についても、問題は解決していないんです。僕は僕に出来ることをしなくては」
「でも、このままじゃテセレマ様が倒れちゃいます! 輝石のお陰で良くなったっていっても、無茶をしていいわけじゃないんですよ!」
アニスは語調を強めて僕を諌めようとする。怒ってくれるくらい、心配をしてくれている。それがとてもよく伝わって、けれど僕はそれでも頷けなかった。服の上から、自身の心臓近くに埋まる輝石にそっと触れる。
「……駄目なんです。休もうとすると、目蓋の裏にケテルブルクにいるアリアの姿が見えてしまう。焦りや不安が滲み出て来て、落ち着けない。……彼女がいないと、ゆっくりなんて出来ないんです」
「テセレマ様……」
僕の回答にアニスは哀しそうな顔をする。その顔を見ても選択を変えられないことが申し訳なくて、僕は「すみません」と言葉にした。
と、アニスは急に自身の頬を左右から挟むように両手で叩いた。ぱちん、と良い音がする。
「あ、アニス?」
「……よし! なら、テセレマ様がちゃんと休めるように、アニスちゃんがもっともーっと頑張りますよ~! それで、一日でも早くアリアが戻って来られるように、いっぱいお手伝いします!」
自分に喝を入れ直すように明るく振る舞う。その気丈さと優しさが心強くて、僕は頬を緩めた。
「……ありがとう」
僕の感謝に彼女ははにかんだ。
*****
アニスから幾つかの報告を受け、十分に話をしてから彼女を下がらせる。そっと息を吐いて椅子の背に体を預けた。
とりあえず、現状は大きな問題は起きていないようだった。ダアトの街が落ち着きを取り戻すにはまだ時間が掛かりそうだが、アリアを一時的に離した効果もある筈だ。
(『神託の御子』過激派の問題さえ解決出来れば……)
思いながら、それが一番難しいと感じていた。バチカルでの件は勿論、先日の襲撃についても進展はないのだ。黒装束の彼らが、今もダアトの街に潜んでいるのか否かも分かっていない。眼に見えないものをどうやって追えば良いのか。
「………………」
気になることはあった。だが、まだそれを線で結んでいいのかが分からない。
主には小さな違和感だった。アリアのアドリビトム視察に、プレスト達の行動。シンクの暴走に、彼を追ってアリア達が不在の時に教会本部が襲撃されたこと。戻るなり情報提供を受けた詠師会がシンクを拘束し、詠師エレティクスの不在もありアリアが孤立することになる。
どれもタイミングが良いのだ。誰にとって都合が良いか、といえばまだ分からない。でも、誰にとって都合が悪いかは現段階でも十分に分かる。アリアだ。
(先日の毒の件もそうだ)
調べさせたところ、致死性のある毒ではあったが簡単に解毒が出来るものだった。水差しに仕込んでいたというのも、手軽な方法であり確実性には欠ける。あれがもし、アリアを毒殺する目的ではなく……僕を脅す目的であったなら。
「………………」
書類をまとめ、席を立つ。執務室から廊下に出れば、しんと静まり返った空気が僕を迎えた。僕やアリアの執務室がある教会上層は、元々あまり人通りがない。夜も随分更けているため、誰かに会う可能性はあまりなかった。
仄かな音素灯に照らされた廊下を進む。教会の上層から下層へ……そして、地下へ。なるべく音を立てないように、誰にも会わないように気をつけて進む。やがて目的の場所が見えた。
(守りは守護士が二人ですね)
廊下の曲がり角で、目的の階段前に陣取る団員を確認する。眼を閉じ、輝石に感覚を集めた。ローレライの力を受けて体にあるフォンスロットが活性化する。
本来ならばこの体が負荷に耐えられない程の音素を取り込み、床に触れた指先から譜陣を描く。ダアト式譜術を発動させれば眼に見えない波のように音素が空間を凪いだ。
息を整えて曲がり角から覗けば、立っていた守護士二人が倒れているのが確認できた。
(すみません……)
心の中で謝罪をして、彼らの横をすり抜ける。今の譜術でこの階層にいる人間は全て気を失った筈だが、油断は出来ない。
急いで無愛想な階段を駆け降りれば、薄暗い空間へと辿り着く。最低限の明かりが石造りの地下空間を仄かに照らしていた。まるで人の気配がないような静けさと、冷たい空気が意識を撫でる。その中を進み、目的の場所へ近付く。一歩、一歩と近付き、やがて見えたのは。
牢の中で傷付き倒れている、シンクの姿だった。
「!!」
心臓が飛び跳ね、慌てて駆け寄ろうとして牢に阻まれる。焦りを堪えて譜術を使い、入り口を破壊した。
反動で上がる呼吸を無視してシンクの側に行けば、彼の周囲には洗い流されていない血の痕が幾つも確認できた。息を確認すれば、ちゃんとあってホッとする。意識はない。
(……酷い)
改めてシンクの様子を見る。新しく血が流れている様子はないが、およそ人道的とは言えない光景がそこにはあった。
ところどころが破れ、血液を吸って凝固している服から暴行を受けていたのは間違いない。見えている範囲だけでも打撲痕が痛々しく、幾つもはしる擦り傷が生々しい。だが、それだけでは済まない。
(裂傷、火傷……それに、これは鞭の痕……?)
刃物を使った傷や、皮膚が爛れた箇所もある。場所を選ばず皮膚が抉られているのは鞭のように思えた。それはしつこく体を打ったようで、幾条にも重なっている。
命にかかわる深手はない。だが、それが逆にここで起きたことの凄惨さを雄弁に語っていた。シンクが今負っている傷の数は酷いもので、それを与えた手段もおぞましいものだ。だが、それでは周囲の血痕を説明しきれない。
数があっても、量が足りないのだ。もっと大きな怪我を、それこそ深手を負っていなくては辻褄が合わない。
(まさか……深手を負わせた後に、治癒術を……)
背を冷たいものが這い、ぞくりと震わせた。
こびりついた血痕から、一度や二度ではない。執拗に痛め付け、人体が機能しなくなる手前までいたぶり、死なない程度に治癒する───それを一体何度、何時間繰り返したというのか。
シンクの受けた痛みを思うより先に、それを行った者の精神性に戦慄した。正気ではない。これは拷問だ。だが何かを聞き出すための手段には思えない。拷問そのものが目的だと、そう感じる程に醜悪だ。
「……ぅ……」
シンクが小さく体を震わせる。人の気配があることに気付いたのか、意識が戻ったのだ。目蓋がゆっくりと持ち上がり、見知った瞳が僕を見る。
「シンク!」
思わず名前を呼べば、彼は何かを言おうと口を開いて、しかし咳き込んで言葉にならない。苛立たしげに顔をしかめ、改めて咳き込むと血の塊を地面に吐き出した。どうやら血液が中途半端に喉を塞いでいたらしい。
「はっ……」
苦しげに呼吸をして、彼は無理矢理に体を起こす。全身の傷が別々に痛覚を刺激するだろうに、顔を歪めるばかりで痛みに声を上げることはない。彼の動きに、塞がっていなかった幾つかの生傷が開き直し、血が流れ出していた。
「無理に動かないでください! 致命傷はありませんが、治癒術では失った血液までは戻りません」
「ぅ……る、さ……」
喉で血が固まっている分がまだあるのか、発声がしづらいようだった。いや、もしかしたら肺が傷付いているのかもしれない。
拳を握る。この短い時間にもう二度、輝石の力を借りている。その分の消耗から回復してはいない。それでも、その力を使うべきだと思った。
輝石に触れ、第七音素を集めて譜陣を描く。すぐに癒しの力が起こり、シンクの体へと潜り込んでいった。傷を内側から癒していく。
「……っ、はぁ……」
やがて限界が来て音素が散り、僕は地面に両手をついた。汗が伝い、肩で息をする。消耗から治癒術の維持が難しく、全ての傷を治すことは出来なかった。
それを悔しく思いながら顔を上げれば、緑の瞳と目が合った。シンクは起こした体をどうにか壁で支えるようにして座り、僕を睨んでいる。
「シンク……?」
「……そういうところが、嫌いなんだよ」
掠れてはいたが、ようやくきちんと聞き取れた彼の言葉は、何故か僕に対する拒絶を示していた。困惑する。
もっと、この状況で口にすべきことは他にあるのではないだろうか。何があったのかとか、何故僕がここにいるのか等だ。けれど彼が口にしたのは、と考えて気付く。
(僕の行動が偽善的だから……)
だから彼は「嫌い」という言葉を使った。気付いてしまえば、うっかり頬が緩んでしまった。それはつまり、僕が彼に向ける心配や想いを、彼も認識しているということだ。受け取りはしないが、分かってはいる───偽善的に映っていたとしても構わない。
「……笑うな。気持ち悪い」
「すみません。……シンク。落ち着いたらで構いません。何があったのか教えてくれませんか?」
説明を求めれば、彼は鼻を鳴らして嗤った。
「必要ないよ。ボクのコレは関係ない」
「どういうことですか?」
「ただの憂さ晴らしってこと。それよりアリアだ。あの昼行灯はどこにいる?」
鋭い眼の光に息を飲んでしまう。手負いの獣の気配に似ていて、触れ方を間違えばこちらが喉笛を裂かれると錯覚した。
だが、そうだとすれば、僕は彼に殺される。今僕は自分の選択が、何者かの意図に乗せられたものだったように疑っているのだから。覚悟をして答える。
「……ケテルブルクです」
「け……ああクソ! そういうことか……!」
僕の回答に何かを理解したように、シンクは顔を歪めて吐き捨てた。その様子は彼女がケテルブルクにいることに納得があるように見えた。だが苛立ちは僕以外へ向いている。予感が肯定される気がして、僕はその話を切り出した。
「シンク。僕は貴方から、貴方を密告した人物について聞くためにここへ来ました」
心当たりがあるようだった、とアリアが言っていたことを覚えていたのだ。もし彼の謹慎が一連の作為的な違和感に連なるものならば、その心当たりは最も警戒すべき対象ではないか。そう感じる。
「バチカルの件からずっと、あまりにもタイミングが良い。アリアを追い詰めるみたいに駒が進められている」
「はっ! 流石は劣化品。お前もボクも気付くのが遅すぎる」
「……では」
「予想通りですよ、お優しい導師サマ? お前はみすみす魔物の縄張りに餌を放り出したってワケだ」
「………………」
悪い予感は、シンクのその言葉で肯定されてしまった。やはり彼女がダアトを離れたのは何者かの意図だったのだ。僕は安全を考えて、彼女のためにそうしたつもりだった。だが、分かりやすい脅しに乗せられてしまっただけだった。
拳を握る。自分の意志が何者かの掌の上ということが、こんなにも悔しいものだったとは。だが、それなら。
「それなら、今ここで貴方を自由にすることに、意味はありますね」
「なに……?」
訝しむように眉が寄って、僕はそれに構わず輝石に触れて譜術を使った。消耗は変わらないが、今必要な力はそこまで大きくはない。手枷を二つ外すことが出来れば十分だ。
ぱき、と乾いた音がしてシンクを捕らえていた枷が割れる。ここは牢のため、囚人は譜術を扱えないよう特殊な譜を込めた拘束具をつけられることがある。彼の場合は手枷がそうだ。
彼は重い枷の外れた手首を確認している。それに時間が惜しくて、僕は息を整える前に彼に願った。
「アリアを助けてください、シンク。貴方の拘束も、彼女がダアトを離れたのも、何者かの意思だというのなら……貴方が彼女を追うことが、最もその何者かの狙いを崩せる筈です」
僕の言葉にシンクは不愉快そうに顔を顰めた。僕にそう願われることが嫌なのだろう。「お前なんかに言われなくてもそうする」と言いたげで、けれど彼の口から出てきた言葉は全く別のものだった。
「ボクが姿を消せば、次に命を狙われるのはお前だよ。その自覚はあるのか」
「──────」
それは、彼にとってただの確認だったのかもしれない。もしくは起きることへのせめてもの忠告か。本当のところは分からない。でも、僕の耳にはまるで僕の身を心配してくれたみたいに聞こえて。
(……そう言えば、彼は凄く嫌そうな顔をして否定するのでしょうね)
想像して、また頬が緩んだ。シンクは僕を嫌っている。それは僕が導師の代替品に選ばれたからであり、そうして代替品であろうとしてきたからだ。
彼曰く「良い子」の僕の精神性を嫌っているし、綺麗事も偽善的な行為も嫌いだ。アリアが僕の側を選んだから、仕方がなく関わりを持っているだけ。
そしてきっと、彼女が僕の側を選んだことも面白くは思っていない。アリアの現状を思えば、死んでくれた方が有り難いくらいに思っていてもおかしくはないだろう。でも。
(こうした場面で彼が口にするのは、僕の覚悟を問う言葉)
それは、彼が僕の存在を見損なってはいない証ではないだろうか。背中を任せる、なんて格好のいい話ではないのは分かっている。でも、「やれるか」と彼は聞いてくれる。僕が役立たずでないと、彼も感じてくれているように思えた。都合のいい解釈かもしれないが、その方が力が湧く。
彼の瞳を見て、しっかりと僕は頷いた。
「勿論です。今のダアトから貴方を逃がす人間は僕しかいない。貴方の不在に気付いた何者かは、アリアを追い詰めるためにその牙をダアトに残る僕へ向けるでしょう。───大丈夫です」
僕の返答に、シンクはじっと僕を睨む。それから腰を上げた。元々命にかかわる傷がないのもあり、僕の拙い治癒術でも動けるくらいには回復している。だが失われた血液は戻らない。
彼は体をふらつかせて、すぐに立て直すと牢の外へと向かった。本当ならきちんと休んでいて欲しい。でもアリアを助けに行けるのは彼だけで、彼でなくてはならない。過酷さを分かっていて、僕はシンクを外へと送り出す。
(それが僕とシンクの選択で……僕が導師であるということだ)
人の上に立つということだ。身軽でない、相応の重さを背負うと、僕は自分で決めたのだ。
牢を出る前に、シンクは一度だけ足を止めた。そして首だけで振り返って僕を見た。自然、彼の姿を追っていた僕と目が合う。シンクは口を開いて、そして告げる。アリアを追い詰めようと手を伸ばす、姿の見えなかった何者かの存在を。
「ここにいたのはボクとお前と同じ───『イオン』だ」
同じ、という言葉がどこまでを指しているのか、僕には分からなかった。驚きで何も言えない僕を残して、シンクは姿を消す。
この空間に残る悪意が、僕の肌をひりひりと焼いた。まるで、その醜悪さが僕達の内にもあるのだと、そう静かに主張するように。
*****
ネフリー知事に事情を説明し、ティアとガイと共にケテルブルクを離れた。きっと彼女はダアトとグランコクマに連絡を入れるだろうし、テセ達も皇帝陛下達もすぐに知るところになるだろう。
(テセは心配するだろうな)
申し訳ない反面、止まる気はなかった。ボクの意見や話を聞かなかったのは彼が先で、それならボクが大人しく言うことを聞いている必要なんてない。どうせどこにいても「神託の御子」として騒がれてしまうのだ。それなら事態の解決に動けた方がずっといい。その手掛かりと行動の自由を、今のボクはもっている。
「ボクをけしかけたりして、ガイこそ皇帝陛下とかに怒られないの?」
「はは。プレストの情報を俺に持たせたのは旦那だよ」
「……うーわ」
シェリダンへ向かう船の上でガイに問えば、彼は明るくそう答えた。それで十分に理解できてしまう。
つまり皇帝陛下はともかく、大佐はボクに「自分で解決しろ」と言っているのだ。いや、一応「神託の御子」過激派の問題はボク個人の問題とは思っていないのだっけ。なら「動けるなら動け」というところか。狙われてる張本人なのに。鬼か。
(でも、それだけ頼りにされてるってことだよね)
有効な駒の一つくらいには思ってくれている。大人しく守られているだけでは似合わないと、ガイが傾けてくれた親愛によく似ていると感じた。
……「じゃじゃ馬だからどうせ大人しくしていないだろう」と読んで情報を持たされていたなら、ちょっと心外だが。実際に聞いたらそう言われそうだ。
「ティアは? いいの?」
「……今の私は教団の響士だもの。導師補佐役様の命令には逆らえないわ」
「ふふ。ありがと」
わざわざ役職に様を付けてまでそう言ってくれる優しさに感謝する。実際はボクをケテルブルクに留めることを導師であるテセから命令されているわけだし、命令の強さもそちらの方が上だ。だからそれはただの言い訳で、都合の悪い事実には眼を瞑るというサインだった。
(シンクとテセ、どうしてるかなぁ……)
海を眺めながらぼんやりと思う。ボクにとって、かつての仲間はそれなりに特殊な位置にいる。何かあれば頼れるし、出来れば生きていて欲しいし、出来ることがあるなら手を貸したいとも思う。被験者である"アリア"やイオン、それからフローリアンだって、どうでもいい他人とは思っていない。
でも、こういう時に想う相手はいつだってあの二人だ。ボクの手を引いてくれた陽だまりのような人と、ボクが手を引かなくちゃ勝手に暗闇に落ちようとする困った人。せめて、月明かりが届く場所にいてくれればいいのに。
(ボクの手が届く場所に、さ)
シンクは今頃、教会の地下で牢に入れられているだろう。彼がやったことをどうとか言うつもりはないが、教団としてマズいのは分かるので、ちゃんと反省して欲しい。人を殺す前に上司であるボクに相談するべきだ。
対して、テセは今頃、無茶な働き方をしているだろうなと思う。輝石があるからといって体がとても丈夫になったというわけでもないので、ちゃんと自分の体を労って欲しいのだけど。
そうこう思っている内に、見覚えのある街に着いた。高原のある乾いた大地に、譜業や音機関が群れを成して街を形作っている。
シェリダンを初めに訪れたのはお師様との旅の中だったが、その後はルーク達との旅でアルビオールを求めたり、地殻の振動を止めるための技術協力を願ったりで、何度も訪れた。
(コレを貰ったのもこの街だったな)
そっと、結った髪に添えられている髪留めに触れる。うっかり一度モースに捕まった後、テセと一緒に抜け出してここへ来ていた。
その時に渡されたそれは、貝から作り出された細工で耳元に近付けると波の音が聴こえる、ちょっと洒落た音機関だった。貝の白と、涙型の水色の石。
(……テセは、いつから「それ」をボクに持ってくれてたんだろう)
旅の中で彼が傾けてくれたものを思い返す。「導師イオンだから」と行動していた彼が、「導師イオン」と関係なくボクに関わろうとしたことを知っている。
ボクを側に望んで、考え直して欲しいと傷付けたのに、彼はボクをシェリダンの観光に連れ出してくれた。その優しさは……いつから、不思議な温度を伴っていたのか。
あの時間は彼にとって「デート」のようなものだったのかもしれない。ボクは本当に無神経で……酷い奴だ。
「アリア?」
「! あ……ええと、なに?」
視界に彼女の綺麗な顔が入り込み、声を掛けられて内心少し慌てながら返事をした。うっかり考え込んでいたらしい。見ればティアもガイもボクの顔を見ていて、どことなく戸惑った様子だ。その理由はすぐに知れる。
「なに、じゃないわ。なんだかぼうっとしていたけれど、体調が悪いの?」
「え。いや、えっと……なんでもないよ」
「なんでもないって顔じゃないぞ。体調が悪いわけじゃないっていうなら……ははーん」
「な、なに? ガイのその顔は」
ピキーン、と何か得心がいった様子のガイに慄く。その反応にか、ボクの表情からか、ティアも何かに思い当たったようだ。なんだろう、みんな読心の達人か何かなのだろうか。怖いからやめて欲しい。
「ま。野暮なことは言わないよ。相手がどっちなのかは正直気になるが……」
「ガイ」
「……な?」
何故かティアからお叱りの声が飛んで、ガイは眉を下げて笑った。彼女のこの反応を見越していたらしい。くるり、とティアはボクに向き直ると耳打ちするみたいに囁いた。
「……いつか、聞かせてくれたら嬉しいわ」
「う……うん」
何をだろうか。二人が思い至っていることが、もしテセやシンクに渡されているような感情に関わることだったとして、ボクは何を話せるだろう。
違う意味でどっちも「特別」だから片方なんて選べません、なんて言ったら酷い話だ。魔性の女みたいで凄く困る。実際、それをテセにもシンクにも伝えて両方フった……みたいな状況だ。
(でもテセはそれでいいって言いながら……ああいうことしてくるし……)
口付けられたことは当然覚えている。感触を思い出して余計に恥ずかしくなってしまう。シンクに至っては触れるだけでは済まない口付けをしてきたし、「アンタが悪い」って言った時の悪い笑みは何かを諦めたみたいには見えなかった。
少なくとも触れ合いの時間をなくす、とはまだ一言も聞いていない。……ボクはどうなってしまうのだろう。一抹の不安を覚えつつ、思考を振り払った。
「と、とりあえずプレストと会わなきゃ!」
今は「神託の御子」過激派問題だ。それが解決しなければダアトでのんびり過ごす時間は戻ってこない。テセやシンクとのことは、それからだ。
「どこに行けばいいのかしら。具体的な話はなかったわよね?」
「それなんだけど、多分ボクが一人になったら勝手に向こうから来てくれるんじゃないかな」
「一人にって……本気か?」
急に真面目な顔でガイに確認され、頷き返す。ティアの表情にも心配の色が出る。彼女の場合、ちょっととはいえケテルブルクで彼相手に動揺するボクを見ているのだ。心配も一入だろう。だがそうする他にない。
「探したって見付かってくれないと思う。だったらさっさと誘きだした方が早い」
「……大丈夫なの?」
「大丈夫」
ティアの注意深い問いに、ボクはしっかりと、でも即答をした。本当は怖いし、不安もある。でも大丈夫だ。彼女にそう答えたボクの声は震えていなかったし、震えを誤魔化すようなこともしていない。二人の眼だって、ちゃんと見てる。
「ケテルブルクではいきなりでびっくりしたっていうのもあるし、来るって分かってたらなんとでも出来るからね」
「……分かったわ。アリアを信じる」
「街中で意識集合体は喚んでくれるなよ?」
「気を付けまーす♪」
少しでも気軽なやり取りをして、二人からの信頼へ応える。場所はどこがいいだろうと考えて、一つ良い場所を思い付いた。
見晴らしがよくて、プレストもボクを見付けやすいし、離れた場所からティア達に見守ってもらうことも出来る。もう一度、髪に留まる飾りに触れた。
(君のお陰で、立ち向かえる)
その場所は、この髪留めをくれた彼がデートの終わりに見せてくれた風景なのだから。
*****
シェリダンの街の外れに、波止場みたいに海を見渡せる場所がある。以前足を運んだ時には陽が沈んでいて「夜の海は少し不気味だ」なんて話をしたが、今はまだ陽があり夕暮れを予感させる夕陽が、海を彩っていた。
これから現れる人間の瞳の色と同じだなぁなんて思いながら、ボクは一人佇む。夜を予感させる時間帯と職人の街であることもあってか、人の姿は全くない。
不意に、波の音に小さな雑音が混じった。靴が砂を踏む音。振り返って海から視線を街へ向ければ、目的の人物がいる。
黒い外套を羽織った、ルークみたいに赤い髪の青年。熱誠を伝える大きな橙色の瞳が、夕陽に照らされた海を映して炎みたいに揺らいで見えた。
「御子様……」
その、優しくて怪しい響きのある声が耳に入り込んで、一瞬膝が笑いかけた気がする。でも、叱咤しなくとも当たり前に持ち直せる。
彼にいいようにされたのは「ボク」じゃない。ケテルブルクでも音素を暴走こそさせてしまったが、抵抗出来なかったわけではない。今は薬の影響もないし、何より触られた感触なんて、シンクとの触れ合いを思い出せば幾らでも塗り潰せる。
……まさかそのために、しつこく触れ合いを求められた訳ではないよね? なんでかまた一抹の不安を覚えてしまった。
「話がある。プレスト」
親しさのない声で名を呼べば、彼はびくりと肩を震わせた。考えてみれば、彼はずっと社交界向けの猫っかぶりなボクと、記憶喪失でやっぱり猫っかぶりなボクしか見ていないのだ。こうして「ボク」として話をするのは初めてになる。勝手が違って戸惑うだろうが、いっそ優位に立つには利点に思えて、利用させてもらうことにした。
「君に協力して欲しいことがあるんだ」
「……お言葉ですが、御子様。今の貴女は人間達の汚れを受けておられる。浄化を望まれない貴女の言葉には従えません」
まぁ、大体予想通りの言葉だ。彼の理屈では今のボクは「人間の汚れを受けて魂が濁り、預言の廃止を選んでしまった未熟な御子」だった筈だ。
記憶が飛ぶようなヤバい薬や如何わしい方法で浄化をしようとする方が、余程頭の中がヤバいと思うのだけど、信じこんでしまって常識がひっくり返っている彼には通じない。常識なんてボクにも分かんないけど。
だから正攻法で彼と話すことは出来ない。代わりになるネタは用意してある。
「コモドとカルマート」
「!」
彼の幼馴染み二人の名前を口にすれば、顔色が変わる。その顔にあるのは心配と警戒で、予想が外れていなかったことが確認できた。
大体、おかしいのだ。彼は己が正義だと疑っていない。常識が入れ替わってはいるが、国や世界、預言に向ける忠義が失せたようには見えない。そして知る限り、幼馴染みとはとても親しくしていたし信頼していた。そのプレストが、コモドを蜥蜴の尻尾にするだろうか。
馬車で再会した時にも彼はコモドの無事を確認して安堵していたし、カルマートが急にボクをグランコクマへやったという趣旨の発言もしていた。となれば、全ての采配はカルマートが為していたのではないか。プレストは知らない───それがカルマートが作った、プレストを逃がすための抜け穴であり、カルマート自身がプレストに悟られないよう、勝手をするための抜け穴だったのだ。
その抜け穴は、使い処によってこちらにも有利に扱える。
「協力してくれたら、彼らの無事を約束してあげる」
「無事……? 王室は、あの二人に何をしたのです!?」
「まだ何も。アパシオナート侯爵家は君を除籍したし、カルマートは今でも自宅で謹慎中。コモドは……牢屋だね」
正確には王室に協力しているので牢にはいない筈だが、分かりやすくそう伝えた。実際調べればコモドの消息は掴めない筈で、同じことだ。重要参考人ということで、他の信者みたいに始末されないようナタリアが保護している。プレストはそれを知っているのかいないのか、声を荒げる。
「あの二人は国を、世界を憂い行動を起こした忠臣です! どのような理由があって、そのような罰を───」
「導師補佐役の拉致監禁、違法薬物による脳の破壊に、安全性に欠ける危険な譜術による自我の抑制。あとは許可証もなく小ズルい真似をしてキムラスカ・マルクト間を行き来したことかな」
「……は?」
ボクの述べたそれに、プレストは呆然と息を漏らした。彼の中で己の選択は正しいと認識が覆っているのは、一部はカルマートによる情報操作が含まれている筈だ。なら、彼の知らない物の見方で事実を増やしてあげればいい。
「君はボクを保護したのかもしれないけど、ボクが誰か分かってて教団に連絡しなかったのは事実だ。それは対外的には拉致になるし、部屋から出さなかったのは監禁に当たる。これは流石に分かるね?」
「それは……」
「分かるならよろしい。次だけど、君がボクに飲ませてた薬。アレなんだか知ってる?」
彼は押し黙ると複雑な顔で首を横に振った。「魂を浄化する薬としてカルマートが手配していた」と答えが返って、これはカルマートを追い詰める時の良い材料になりそうだと思いながら答えをあげる。
「国が取り扱いを禁じている危険薬物に分類される、違法な薬だよ。正常な判断力を奪い、多幸感を与える中毒性の高いもの。記憶が飛んだり人格が壊れたって報告もある、脳を壊す薬だよ」
「な……何を言っているのです。違います! あれは……」
「へぇ。じゃあ記憶喪失で君に薬をねだって喘ぐボクを、君は見なかったのかな」
「っ!?」
直接的に問えば、プレストは一気に顔を赤くして言葉を詰まらせた。気持ち悪い。頭の中とはいえ今この瞬間、プレストがボクに触れていると思うと不快感が半端ないのだが、堪える。そう誘導したのは自分だ。言い逃れは許さない。
「あ……あれは……」
「記憶はあるみたいだね。薬とは無関係って、言える?」
「………………」
追い詰めるように問えば、プレストは沈黙した。今争点にあるのは、あの薬が危険な薬であったか否かではない。あの薬の結果、ボクがどうなっていたかだ。その関連性を否定できなければ、それが脳を破壊していた可能性を彼は否定しきれない。
そして、彼にとっては残念なことに、彼は判断力は失っていないのだ。ただ物の認知が一部裏返っているだけで、呈示された情報を正しく判じることは出来てしまう。
「君は仮にもアパシオナート侯爵家の嫡男だ。教育も高い水準のものを受けていて、地位に見合う能力も培われてる。違和感はあったんじゃない? この薬、なんか変だぞって」
「………………」
プレストは苦しげな表情で視線を下げたまま、沈黙を守る。その様子で十分だった。彼の正常な脳は、ボクの呈示した可能性を切れない。次の話へと移ることにする。
「次だけど、ボクとコモドをグランコクマへやったのはカルマートだったよね? 君は詳しい話は聞いてる?」
「……いいえ。ただ、貴女の身に魔の手が伸びているから一時的に逃がすのだと、そう聞いていました」
「そっか。その時、船を使ったんだけどちゃんと出国と入国の手続きはとってないんだ。コレも薬同様、調べれば分かることだね。君達にとっては必要なことだったかもしれないけど、罪に問える」
更に、とボクは付け加えた。
「君の屋敷にナタリア王女殿下達が踏み込んだ時、カルマートはコモドに全ての罪を擦り付けようとした。コレは確か、君もその場にいて聞いてるんだっけ」
「カルマートは……あくまで王女殿下の間違いだと。コモドを後で救い出すためには我々が捕まるわけにはいかないから吐いた、方便だと……」
「ふぅん。その割にカルマートはコモドにもボクと同じ薬を飲ませたり、牢にいる彼を助ける動きがなかったりだけどね」
「………………」
「で、最後の話。ボクさ、君の屋敷からグランコクマへ行っている間の記憶がないんだよね」
微笑んで、ボクは自分の頭を指差す。それからみんなに聞いた話を並べてやった。知りたくないと、けれど聞かなければならないと、馬鹿みたいに真面目が顔に書いてあるプレストの眼を見ながら。
「カルマートが譜術でボクの脳機能を制限してたんだって。五感も記憶も、思考も感情も、運動も何もかも。息はしてるけど自発的には何もしない人形になってた。それは解呪したマルクトの死霊使いも、ずっと付き添ってくれてた君の幼馴染みも証言出来るよ。───どう? 聞きに行く?」
ダメ押しに問えば、プレストは眉を寄せてその大きな瞳を更に大きくした。これだけのことを並べられ、全くの口からの出任せだと言えなくなっているのだ。それでも、彼は最後の一線を保ち続ける。それは皮肉にも、彼にとって大切な幼馴染み達との絆だった。
「わ、私は……コモドとカルマートのことを信じています! 彼らが私を裏切る筈がない……カルマートが私の意志に反し、コモドを傷付け、御子様を害する筈がありません!!」
「なら、試そっか」
「え……?」
ぽかん、とするプレストにボクは笑む。左手で自身の胸に触れ、右手の人差し指で自身の唇を指す。彼の視線を誘導する。コモドが口にしていた、男の欲求とやらに。
「君の理屈なら、ボクが君に愛されようとしたのは薬のせいじゃなく、君に愛されたかったからなんだよね? 君に触れられることが幸福だったから」
なら、とボクは舌先を唇から覗かせた。蛇の囁きのように、彼を堕落へと誘う。
「一分あげる。君の愛を、証明してみせて」
ボクの誘惑に、プレストはその大きな瞳を揺らがせた。強い責任感や愚直さを表していた眼が、妖しげな欲に色を変えていく。
躊躇いながらも彼は足を踏み出し、ゆっくりとボクへ近付いてくる。そうして縮まる距離に、今度こそ体が震えそうになった。
怖い。他人の記憶みたいにぼんやりしていたものが、鮮明になっていく。自分の体に覆い被さった大きな体に、押さえ付ける力の強さを思い出す。
今ならまだ逃げられる。でも、ボクは踏み留まることを選ぶ。記憶が戻って尚プレストに抵抗できないのではないか、という不安を持つ限り、ボクも決して前へ進めないと思うから。
「御子様……」
目の前に、彼が立つ。手を伸ばさずとも、すぐに相手に触れられる距離だ。熱を孕んだ大型動物の眼が、ボクの眼を捕らえる。
右手がゆっくりと伸ばされた。彼の本来の右腕はボクが吹き飛ばしたので、今は機械の義手をつけているようだった。その冷たい指先が近付くのを、堪えて待つ。
やがて頬に触れ、ゆっくりと撫でられる。それがボクを想う触れ方なのは、今のボクには判断できる。その想いを受け取る気は欠片だってないけれど。
「………………」
プレストの唇が空気を吸うように僅かに開いて、ボクへと近付いてきた。熱い吐息が肌に触れる。身長差で食らい付くみたいに重ねられた。抵抗のないボクの内側へ潜り込む。眼を閉じる。
(一分)
プレストの空いている方の手が、ボクの体を滑る。それは無遠慮に触れて、熱を与えた。安易に送られる快楽の信号に身を捩る。
「……は、」
プレストは一歩踏み込むと、足の間に自身の膝を入れ、体を密着させる。欄干に押し付けられている体に逃げ場はなく、ゆっくりと熱が溜まり始めた下腹部の、その更に下に触れる体温が震わせた。
「っ……」
混ざる。自分と相手の境がなくなる。体は刺激に反応し、与えられる快楽に溺れたがる。四肢の力が弱まり、互いの体温が交換されている。呼吸が、近い。
「……御子様」
唇が離れる。熱い呼吸が触れる至近距離で、橙色の瞳と見つめ合った。妖しい熱のある瞳。そこに映るのはボクで、彼の感情には至福がある。体を指先が這い、溜まる熱へ伸びる。触れようと、距離を詰めて───
───その頬へ思い切り第三音素を叩き付けてやった。
「がはっ……!?」
容赦のない暴風パンチにプレストの体が飛び、地へ叩きつけられる。それを見ながら、ボクは欄干に掴まって体勢を戻した。ケテルブルクで意図せず確認した通り、やはり体が動かずとも意志さえしっかりしていれば音素は動かせるようだ。
乱された衣服を整え、地に伏すプレストへ近付く。見れば少量だが血を吐いた形跡があるので、口の中でも切ったのだろう。ついでに舌も無くなればいいのに。何が起きたのか分からないと言いたげに眼を白黒させる彼に告げる。
「はい、一分」
事の趣旨を思い出させてやれば、プレストは愕然と表情を崩す。信じられないものを見たとでも言いたげだが、起きたことが事実だ。
ああそうだ、とボクを見上げる彼に、さっき伝え忘れた罪状をもう一つ追加して教えてあげる。それは彼がバチカルの別邸や馬車の中でボクに働いた行為。
「強制わいせつ罪って知ってる?」
きっと最高に輝いて見えただろう天使の微笑みに、彼はまるで地獄でも見たかのような絶望を、その瞳に浮かべた。
*****
「……怖い女だよ、あんたは」
合図を出して遠くで見守っていたティアとガイを呼び寄せれば、ガイにそう言われてしまった。何がだろう。
「心外だなー。好きにさせてあげただけでしょー? 寧ろ優しい、慈愛に満ちてる! 男性が、男の欲求とやらに弱いのが悪いんじゃない?」
「そう言えるところが怖いんだって」
おかしいな、急所を狙わなかっただけ随分温情があったと思うのだけど。プレストはすっかり気落ちして地面に膝をついている。ボクとの間に何もなかったことが余程ダメージになっているようだった。
(本当に「神託の御子」って偶像に入れ込んでるんだなぁ……)
その妄想力の強さに最早感心してしまう。そこにある生身の人間にだって熱を上げられないボクには、まるで理解が出来そうにない話だった。
因みに、ティアは少し離れた場所で顔を赤くして震えていた。
「あ、ああアリア! あなっ……貴女なんてことを……!」
「いやー、ハニートラップだっけ。アレの有用性がよく分かったよ。便利だね」
「べっ!? やめなさい!! 絶対にやっちゃダメよ!!?」
「え? 場合によっては……」
「駄目!! 絶対に駄目!! 何があっても駄目だからぁ!」
凄い剣幕で否決されてしまった。余程ティアには刺激になってしまったようで、これは想定外だった。確かに体にとっては快刺激になるとはいえ、精神的には不快指数の方が上回る。好んで取りたい手法ではないが、相手が男性の場合に限り油断を呼ぶにはアリだと思う。
ガイが困った顔でティアに加勢し、ボクを宥める。
「冗談でもやめておけ。あんたは可愛い顔でスタイルも良いんだから、その声で囁かれちゃ男はみんな欲に負けちまうよ。魔性の女にでもなる気か?」
「それはやだけど……でもそこまでじゃなくない? ガイも別に興味ないでしょ?」
胸に手をやり視線を誘導すれば、それを見たガイが唾を飲む音が聞こえた。あれ?
「やめてくれ! 俺は一時の夢でテセレマやシンクに殺されるのは御免だ!!」
ガイはハッとすると、慌ててそう言ってボクから距離を取った。その挙動も殺されるという言葉も大袈裟だ。ちょっとボクがハニートラップを仕掛けただけで、相手を殺したりなんてしない筈だ。……しないよね?
「……あれ? もしかしてボクの認識ってちょっと間違ってる?」
「間違ってるわ!」
「間違ってるよ!」
声を揃えて判子を押されてしまった。それから、何がどう間違ってるのかを聞こうとすれば、テセかシンクに聞くように返されてしまい、話を打ち切られた。
納得できない感情を抱えつつ、いつまでも立ち話をしているものではないし、プレストを引っ立てて宿へ移る。取っている宿の一室に四人で入ると、プレストの今の心境を聞くことになった。
ねぇねぇ、今どんな気持ち?