亡霊と希望


 ボクのケテルブルク行きが決まった数日後には、一時的な護衛と共にダアトを発つことになっていた。それまでの間に、ボクは何度もテセに抗議をした。

 「アレくらいなんでもない。今のダアトから離れる方が不安だ」というボクの主張は、しかし彼には通じなかった。それどころか「なんでもないと言ってしまうから、貴女をここへ置いておけないんです」と哀しそうに言われてしまった。まるで意味が分からない。

 「せめてお師様の帰還を待つべきだ」という意見にも「その時間が惜しい」と返されて、聞く耳も持ってもらえない。ダアトを離れる船の時間まで、護衛という名の監視を部屋の外につけられて自室で過ごした。

 そして出発前にボクの部屋を訪れたのは、予想外であり懐かしい人だった。

「久しぶりね、アリア。無事で良かったわ」

 通る綺麗な声で本心からそう笑った女性は、ボクより色の濃い栗色の長い髪を揺らす。細められた青い眼は気遣うように優しくボクを映した。随分長い間、会っていなかったと思う。

「……ティア」

 名前を呼べば、彼女はゆっくり頷いた。一緒に旅をして、ボクとなんでもない雑談をしてくれたり、意外と面倒を見てくれたりした、姉か従姉妹かみたいな距離感の仲間だ。唯一、旅が終わってからもよく手紙のやり取りをしていた相手。

「なんで、ダアトに?」

 彼女の所属は変わらず教団にあるが、ユリアシティでの仕事が主だ。報告だって書類でされるため、ダアトへ来る必要なんてない。この場所にいるのは不自然だった。

 彼女はボクの顔を見てどこか哀しい顔をしてから、それを引っ込めて居ずまいを正した。団員の、顔だ。

「トリトハイム詠師旗下治安部隊、ユリアシティ支部長。ティア・グランツ響士。今より導師補佐役殿のケテルブルクへの護送任務に就きます」

 ああ、成る程。納得した。今の教団は誰を信用していいか難しい。ボクを「ユリアの生まれ変わり」として見ている人間は団員に少なくない。

 護衛役であるシンクは謹慎で動けないし、アニスは守護役としてテセの側を離れられない。そうなればテセが安心してボクを任せられる教団関係者なんて、彼女くらいしかいない。手を打つのが早くて何よりだ。

「……アリア」

「大丈夫。ちゃんと行くよ。わざわざごめんね、ティア。よろしくお願いします」

 頭を下げてそう伝えれば、ティアはやっぱり哀しそうな顔をする。なんでだろう、なんて考える気にもならない。今はとにかくケテルブルクへ向かわなくては、テセの気遣いを無駄にしてしまう。

 部屋の出口へ向かう。

「荷物は?」

 ティアに問われる。それにボクは必要最低限だけを詰めた、簡単で小さなウエストポーチだけを見せて答えた。

「コレで十分だよ。ボクが持っていきたいものは、他にない」

「……そう」

 それ以上何も言い募らないティアを後ろに控えて、ボクは自室を出た。ボクの部屋は元々殺風景で、あまり持ち物と言えるものがない。例え当分この部屋に戻れないとしても、持っていきたいものなんてなかった。

(本当に必要なモノは、このダアトに置いていかなきゃならない。なら、何も要らない)

 ボクの両手は何も持たず自由で。

 その久しぶりの身軽さが、少し寂しく思えた。

 

 

 

*****

 

 




 ダアトからケテルブルクへ船で運ばれる。その船での時間を、ボクは船室のベッドに転がって過ごした。折角ティアに会えたのだし、何かを話したい気はする。でも何を言えばいいのか分からないし、ケテルブルクへ着くまでの時間を意識したくなかった。

(寝てる間に着いてしまえばいい)

 余計なことは考えない。考えても仕方がない。今のボクは教団の悩みの種で、危険を呼び込む存在だ。テセにあんな風に謝罪をさせて、シンクにあんな風に人を殺させた。

 何も永遠にダアトから遠ざけられるという話ではない。数ヶ月もすれば落ち着いて、きっと呼び戻される。だからそれまで、あまり長くない筈の、たったそれだけの時間を閉じた雪国で過ごせばいい。

(……ケテルブルク、か)

 頭を重くする怠い眠気に身を委ねながら、目蓋を閉じて思う。そういえば、テセに側を望まれ、シンクに使って欲しいと言われた場所がケテルブルクだった。その場所に今から、ボクは二人のどちらもがいない状態で向かう。

(趣味が良いんだか、悪いんだか)

 やがて眠りに落ちて、気付いた時にはケテルブルク港だった。起こしに来てくれたティアと共に、一面の銀世界へと降り立つ。

 仮にも春の筈なのに、ダアトと違ってこの場所が暖かくなることはない。この辺りにある大地のフォンスロットの影響らしいが、詳しくは知らない。

「ティア・グランツ響士です。こちらを」

 対応に出てきたマルクト兵にティアが名乗り、書簡を渡す。本当なら立場が上のボクが代表になるのだけど、今は内密に護送されている立場なので後ろで大人しくするしかない。

 兵はそれを確認すると、暫くしてから入国の許可が降りる。ボク達の来訪を事前に報せる時間的余裕はなかったし、恐らく身元が証明出来たから教団への信用の下、入国許可が出たのだろう。

「行きましょう」

「うん」

 ケテルブルク港からケテルブルクの街までは、あまり遠くない。護衛を名乗り出てくれたマルクト兵に丁寧に断りを入れてから、街道へ出る。

 ひらひらと舞い落ちる雪に、一面の銀世界がボクを迎える。一年前の旅以来訪れていない、思い出のある懐かしい景色だ。ずぶ、と雪を踏んで前へ進む。

「寒いなぁ……」

「ダアトとは気候が違いすぎるものね」

「うん。急に春から冬に戻っちゃった」

 他愛もない話をしながら、街へ向かう。やがて程なくケテルブルクに到着した。入り口を守る兵ともティアはやり取りをして、すぐに街へ入れる。

「とりあえずネフリー知事と話さなきゃね」

 ボクの確認の意を込めた言葉を、ティアは首肯する。ネフリー知事は大佐の実妹で、既婚者でありオズボーン子爵というファミリーネームと爵位を持っている。個人的に話をしたことはないが、普通に話しやすい人だったと思う。

 知事邸を訪ねれば、見覚えのある茶の髪を纏めた眼鏡の女性と再会した。相変わらず実兄に似て美人だと思う。兄に似て、という認めがたい事実に一言物申したい気もするが、やめておく。

「貴女がたは……」

 ティアとボクの姿を見て彼女は驚いた顔をして、それにこちらは挨拶を返す。それから簡潔に事情を説明した。一通りを聞くと、彼女は書簡と共に確認して「分かりました」と応えた。

「緊急要請として仮受諾します。本国にて教団よりの親書の確認が済み次第、正式に対応させて頂きますね」

「お願いします」

 ティアと一緒に頭を下げて礼を払えば、ネフリー知事と目が合った。それは国家同士の対外的な顔ではなく、顔見知りであるボクを気遣う表情だった。

「……ケテルブルクではアリアさんを『神託の御子』と見ている人も少ないわ。過激な思想も聞かないし、ゆっくりしてくださいね」

「ありがとうございます」

 礼を告げれば、ネフリー知事は何かを言いたげだった表情を引っ込めて微笑んだ。短くやり取りをして知事邸を出る。

 その足で宿へ向かおうとすれば、ティアに引き留められた。

「少し歩かない?」

 寒いのに?と聞こうとして、やめる。これは船室から出てこなかったボクへの気遣いであり、同時に何か話したいことがあるのではないかと思ったからだ。その優しさを上手く受け取ることは今のボクには出来なかったけれど、その誘いを断らないくらいの判断力はあった。

 了承して、並んで雪の中を歩き始める。特に目的地はなく、とりあえず足は公園の方へ向けた。

「………………」

「………………」

 暫くティアは何も言わなかった。何か話したいんじゃないかと思ったけど、無理に言葉を作ろうとはしないようだった。

 ボクの方も特に話は浮かばなくて、ゆっくりと景色や空気を感じて歩き続けた。そうして実際に公園が見えてきた頃、彼女は口を開いた。

「……テセレマ様は、アリアのことをとても心配していらっしゃったわ」

「うん」

「今回のケテルブルク行きは貴女の安全を第一に考えてのことよ。貴女を厄介払いしたわけではないわ」

「うん。大丈夫だよ。急にどうしたの? ティア」

 重ねられる言葉に問えば、彼女は小さく息を飲んで少しの間沈黙した。それから声を落ち着けて普通に話をする。

「……最後に会ったのは一年前だったわね。手紙で色々聞いてはいるけれど、この一年をどんな風に過ごしたか、貴女の口から聞いてもいいかしら」

「勿論。ボクもティアの話、聞きたいな」

 そう応えたボクの言葉のどこまでに本心があったのか、自分でもよく分からなかった。彼女と話したいのは本当で、彼女を好意的に思っているのも事実だ。でも、なんだろう。なんとなく、大事なものをどこかへ置いてきてしまったみたいに言葉と思考が意識を滑る。

(気のせいだ)

 その感覚を振り払って、ボクはティアと話をした。彼女と街を見て歩いて、宿で別れて眠り、そしてまた彼女と朝の挨拶をする。そんな風に時間を過ごす。日を過ごし、誤魔化す。

(誤魔化す? 何を?)

 ボクはやるべきことをやっている。今やれる最善を選んでいる。望まれる役割をこなしている。これでいい筈だ。これが正解の筈だ。ボクはただ待てばいい。雪の中で、春がやって来るのを、静かに。

 雪の白は、とても綺麗だ。

 







*****










 それから一週間が経った頃、それはやってきた。雪の中で変化を待つボクの下へ、雪の白を汚す色が落とされる。

 それはティアと街を歩こうと宿を出ようとして、うっかりボクが上着を忘れてきた時だった。ティアは「すぐに取ってくるから、大人しくロビーで待っていて」と強く言い含めて戻って行った。ボクも馬鹿ではないので指示に従ってロビーで待っていた。

 暇だからと何とはなく窓の外を眺めていると、不意に気になるものが視界に入った。

「……?」

 白い雪が舞い落ちる雪景色の中に、それは黒く染み出した。長い外套を纏った人影。寒さを避ける厚い布地に体格が隠され、フードを被っていて顔も見えない。

 ここは北国で、寒さ避けに厚い外套を着ることはおかしくない。だが、それはボク達みたいに外から来た人間のとる行動だ。現地の人も温かい格好はするが、ある程度は寒さに慣れていて外部の人間よりは薄手の物を使う。

(……外から来た人?)

 ざわり、と胸の内が騒ぐ。何かが起きたわけではない。だがこんな時だからか、外からの来訪者が気になってしまう。その上、相手はフードを被っていて顔が見えない。雪を避けているだけかもしれないが、顔を隠しているとは言えないだろうか。

 嫌な予感があって、ロビーを見回す。ティアの姿はまだない。窓の外へ視線を戻せば、人影は知事邸の方へ向かっているようだった。このままでは見失う。

(もし、アレが「神託の御子」過激派だったら?)

 ボクがケテルブルクへ移動したことをどこかから聞きつけ、ボクを追ってココまで来て、ボクを探して街を歩いているなら。

 バチカルでのことを思い出す。ダアトでのことを思い出す。同じように、この街に何かをしないと何故言える。

(勘違いなら、それでいい)

 普通に宿に戻ればいいだけの話だ。何の問題もない。ボクは窓から身を離すと、温かく明るい宿を出た。上着もなしに雪の中へ出れば流石に寒さを覚えたけれど、別に死ぬわけでもない。そもそも、ちょっと音素の力を借りれば寒さも暑さも軽減できるのだ。

 第四音素で体を薄く覆う。寒さが気にならなくなった体でさっきの人影を追った。

(確かこっちに来た筈だけど……)

 知事邸の方へやって来るが、誰もいない。見間違えたかなと思うが、そんな筈もない。誰も入れ違ってもいないし、絶対にいる筈だ。

 と、知事邸の近くに横道があることに気付いた。

(そういや、皇帝陛下が幼少期を過ごした屋敷がこの辺にあるんだっけ)

 観光地気分でそれを眺めているのかもしれない。立ち入りは出来なかった筈だが、観光で眺めていく人はいるだろう。

 ボクは身を返して横道へ逸れる。そのまま一本道を急ぐ。この辺りは当時の「殿下」が軟禁されていた場所だけあって、大通りからは見えない道になっているようだ。

(さて、人影は……)

 やがて封鎖されている屋敷が見えてきて、ボクは周囲を見る。しかし誰の姿もない。おかしい、と思って、まさかテンションが上がって立ち入りが禁止されている屋敷に入っていってしまったのだろうかと思う。入り口が開いているかどうか確かめようと屋敷に近付く。

(開いてないな)

 扉の前まで来てみたが、しっかり錠がされている。それなら先程の人影はどこへ消えたのだろう。そう思った時、足元に影が重なった。ボクの影を覆う、別の影。

 途端、背中に何かを感じる。触れてはいない。これは気配だ。誰かがいる。ボクの後ろに、ボクを建物との間に閉じ込めるみたいに。

(……誰?)

 まるで遅い警戒が、ボクを緊張させる。影の重なり方は、十分に距離が近いことを示している。手を伸ばせば、なんて距離ではない。ボクが気付いたその時に、何でも出来たような距離だ。

 知り合いではない。それなら声を掛けてきた筈だ。なら、ボクの後ろに立つ、この気配は。緊張で動けないボクの耳に、呼吸が触れた。

「───御子様」

 その声を耳に入れた途端、記憶が鮮明に蘇る。誠実そうな、真面目で固く、どこか怪しい熱を帯びて聞こえる声。

 足元から這い上がるその感情に、ボクは抗おうとして身を返そうとする。でも上手く足が動いてくれなくて、扉を背に尻餅をついてしまう。それが失敗だった。体を支えることを忘れてしまった足は震えて、もう力が入らない。

「………………」

 見上げた先には、本当にすぐ近くに人影があった。窓から見た不審者が、フードの下からボクを見下ろしている。

 人影は身を屈めて、その場に片膝をついた。そしてボクと目線の高さを合わせると、その顔を隠していたフードを下ろした。

 現れたのは、予想通りの人物だった。明るい赤の短髪に、橙色の力強い瞳。真っ直ぐにボクを見る眼は、彼の熱誠を伝えるように曇りがない。

 その眼に「至福」の色が混じる。

「お迎えに上がりました。御子様」

 ボクを拐い、薬を使って鳥籠に閉じ込め、凌辱しようとした。ボクがこの世で、今一番遭いたくない青年。

 プレスト・アパシオナート、その人だった。

 

 

 

*****

 

 

 

(失敗した)

 ぶち込まれた牢の中で繰り返し思うのはそれだった。失敗した。まんまと策略に乗せられてしまった。少し立ち止まって、落ち着いて考えれば分かったことだろうに、自分にはそれが出来なかった。それが自分の未熟さだとしても、許すことは出来ない。

(失敗した)

 殺してやりたい程に憎い、歪んだ笑みを思い出す。最初からこれが狙いだったのだ。最初───最初とは、どこだ? 思考に音が割り込む。

 それは足音で、この地下牢へ降りてくる何者かの存在を教えていた。そちらを向く。現れる姿に予感があって、無条件に睨み上げる。果たして、現れたのは。

「やぁ。元気? ───シンク」

 名を呼ばれて唾でも吐きかけてやりたい気分になる。ただでさえ最悪だった気分が更に最悪になる。現れたのは今の今まで頭に浮かんでいた、気持ちの悪い笑みだ。

 僕と同じ色の髪と眼を持った、同じ顔と声の存在。でもその醜悪さは、自分の汚さをよく分かっている僕でも敵わない。敵うつもりもない。

「……何しに来た」

「嫌だな。可愛い弟が人を殺して投獄されたって聞いたから、顔を見に来てあげたんじゃないか」

 低く唸れば、奴は抜け抜けと不愉快極まりない親愛を示す。自分の奥歯が強く擦れて音を立てた。奴は変わらない微笑みで僕を見下ろし続ける。その眼にあるのは、愉悦だ。

「満足か」

「まさか。まだまだこれからさ」

 その回答に慌てるのはこちらだ。一気に緊張と焦燥が僕を駆り立てて、思わず体を前へやる。しかしその動きは固い金属音に阻まれた。

 僕は今教団地下にある牢に入れられている。そして、その上で両の手首に枷をつけられていた。頑丈な鎖は背後の壁へ強固に繋がれている。牢の向こうに立つ奴へ、近付くことすら許されない。

「お前っ……アリアに何をする気だ!?」

「さぁ? 僕は知らないよ。知っているのは『神託の御子』が大好きな愚かな大衆……そうだろう?」

「貴様───!!」

 足に力を込めて、しかし鎖に留められて動けない。近付けない。今すぐあの吐き気を呼ぶ顔を殴ってやらなければならないのに、何も出来ない。

 冷たい金属が手首にめり込み、擦り、皮膚と肉を削っていく。痛みがある筈なのにそれが分からない。どうでもいい。僕の体なんて、どうでも。

 その様を眺めて奴は更に笑みを深める。本当に愉しくて仕方がないというように。それから奴は何かを取り出した。それが牢の鍵だと気付くことは難しくなかった。

 奴は牢を開け、中へと入ってくる。暴れようとする僕の前へ立つ。視線だけで殺せたなら、と思う程に睨み上げる僕を見下ろして、片足を引いた。

「がっ……!」

 鳩尾へ靴先がめり込む。大きな動作ではなかったのに、内蔵が潰れたみたいに酷い痛みが襲った。自分が血を吐いたのが分かった。

「お前は確か、我慢強かったよね?」

 問われる。いや、それが問いかは怪しかった。奴は僕の返答など待っていない。ただいたぶるために言葉を選ぶ。

 顎を膝で蹴り上げられ、脳が揺れる。仰向けに倒れたところへ、骨を砕く勢いで靴裏が落とされる。それが肺を圧して、呼吸が邪魔される。

「───ああ、いいね。その眼、僕を殺したくて仕方がない眼だ」

「っ……ぐ、」

 呼吸が邪魔されるように、言葉も出ていかない。両手は鎖に繋がれ、この邪魔な足を退かすことも出来ない。ただ僕と同じ、欲に塗れた醜い顔に見下ろされることしか出来ない。

 爪先が肋骨を砕くようにねじ込まれ、弱まったと思えば踵が鳩尾の内蔵を圧迫していく。せりあがる吐き気に、しかし吐くことも出来ない。今の状況で胃の中身を戻せば、吐瀉物に気道を塞がれる可能性もある。吐き気と共に生理現象で視界が滲む。

「ふふ。僕はなんて恵まれているんだろうね。自分と同じ顔をした壊してもいい玩具を、なぶることを許されているんだから」

 ぐぐ、と呼吸を圧迫する足へ体重が掛けられていく。明らかに肋骨が折れた音がしたし、痛みもある。だが酸素の足りなさが深刻になってきた脳ではそれに構う余裕もない。滲む視界で頭が働かなくなる。

 だが、それでも睨むことはやめない。今ここで殺される可能性などひと欠片だって考慮してはいなかった。ただこいつを、目の前の醜悪な存在を、殺してやりたくて思考が埋め尽くされる。

「お前はここで、大人しく僕になぶられておいで。我慢強く『待て』が出来たらご褒美をあげる。お前の大事な大事なアリアを、生かしてここへ連れてきてやるよ」

 足が離される。途端肺が呼吸を取り戻して、しかし傷付いた内蔵からの出血で気道を邪魔されて盛大に咳き込む。痛い。折れた肋骨が周囲の筋肉や肺へ刺さるように、鋭い痛みを生む。

 血の味なんて今更だ。ひゅー、と掠れた呼吸が自分の喉から出る。視界にある人型の悪意が、それに心底の愉悦に浸って、笑む。

「さぁ……出来るだけ意識は保っておいで。お前にはこれから長い長い時間、僕の暇潰しに付き合ってもらうんだからさ───」

 歪んだ笑みに、支配される。

 

 

 

*****

 

 

 

 大型動物のような橙色の瞳。ボクを見るその眼に、何も出来ない。怖い。理屈ではなかった。感情が思考を凌駕して、上手く呼吸も出来ない。

「御子様……?」

 表情が怪訝そうに変わる。ボクはその瞳から眼を離せない。怖い。足が震えて、体の全てが地面に縫い止められたみたいに動かせない。手が伸びる。手袋に包まれたその右手が、ボクに触れようとして。

「いやっ!!!」

 叫んだ。ようやく動いた感情に、腕が動いて身を守るように顔の前に翳す。けれどそれと関係なく、プレストの右手はボクに届かなかった。甲高い音が響いて、視界が瞬く。

「!?」

 プレストの橙色の瞳が驚きに見開かれる。手袋が裂けて、その下の黒い機械の義手が現れる。弾かれた。弾いていた。

 何が、という問いにボクの視界に入ったのは音素の輝きだった。音素がボクの周りで酷く震えていて、乱雑に、無秩序に暴れる。屋敷の壁を傷付け、雪が舞い上げられ、プレストの皮膚を裂く。

「ぁ……」

 ダメだ。いけない。大気中にあった音素達がざわめいている。ボクの「拒絶」を受け取って暴風のように暴れ回ろうとしている。音素はいつだってボクの意を汲んでくれる。でも制御が出来るのは「制御が出来る時だけ」だ。感情に呑まれてしまえば、ただの暴力にしかならない。

(止めなきゃ)

 今のボクは教団のお荷物だ。出来るのは精々この雪国で大人しく時を待つことだけ。なのに、こんな風に問題を起こしてはいけない。このままでは街を壊してしまう。街の人にもきっと被害がいく。それはダメだ。テセに迷惑がかかる。

(でも、どうやって)

 怖い。感情がコントロールを邪魔する。暴風のように集まり出した音素に、プレストがたじろいでいるのが見える。彼を殺したら収まるだろうか。ボクの感情を乱しているのは彼の存在だ。アレがいなくなれば恐怖もどこかへ行く筈だ。

(ころ、せば)

 チカチカと何かが明滅する。視界だ。記憶が断裂する。動かない筈の右腕がいつの間にかプレストに向けられている。殺す。殺せば。消せば。アレは。ボクに。

「アリア!」

「!」

 意識の外から名を呼ばれて、瞬間的に意識が戻る。

 そちらを見ればティアの姿があって、それを認識した途端集まっていた音素が拡散された。巻き上げていた雪と一緒にきらきらと輝いて降り注ぐ。

 彼女は投げナイフをプレストへ投擲する。彼はそれをかわして、劣勢と見て退却を決めたようだった。

「御子様! どうかシェリダンへ、お一人で!」

「待ちなさい!」

 身を翻したプレストへティアが声を上げて追い縋るが、あっという間に駆けて行ってしまった。ボクの護衛を引き受けている身である彼女は追うことをやめ、ボクの方へ来る。駆け寄って、側に膝をつく。

「アリア……」

「……大丈夫。平気」

 応えた声は隠しようもなく震えていた。恐怖というよりは混乱だった。今の今まであった出来事に、脳が追い付けていない。吐く息が震えて、ボクは自分の胸を拳で勢いよく叩く。

「何をするの!?」

「けほっ……なんでも、ないよ。大丈夫」

 今度の「大丈夫」は震えていなくて安堵する。ほら大丈夫。何もない。いつも通りで、何もなかった。今の衝撃で手足に血が巡ったみたいで、足も動く。歩ける。なら宿へ戻ろう。

「ごめん、ティア。宿に……」

 戻ろう、と言おうとして、でも最後までは言わせてもらえなかった。抱き締められる。つい最近同じことがあったことを思い出す。でもテセと彼女は違う。別の人だ。知らない体温にざわざわと胸の奥が騒ぐ。

「馬鹿!! 大丈夫じゃないじゃない!」

「だ、大丈夫だって。どうしたの?」

「どうしたのじゃないわ! 自分に聞きなさい!!」

 叫ぶように涙声がぶつけられて、眼を白黒させるしか出来ない。困惑する。なんだろう、この状況は。

 ケテルブルクの片隅でティアに涙ながらに激怒されて抱き締められている。状況も推測できる感情もぐちゃぐちゃで滅茶滅茶だ。困ってそのまま抱きすくめられていた。彼女はそのままの体勢で呟く。

「……どうして、泣かないの?」

「え……」

「どうして怒らないの? どうして何もなかったみたいに笑うの? どうして……何も言わないの……?」

 彼女が何の話をしているか分からない。でもその問いはボクの胸をざわつかせた。どうして。そんなの、ボクの方が聞きたい。どうして───

(───どうして、ボクを手離したの?)

 問いが胸の内に湧いてしまって、呼吸が止まった。間違えた。それじゃない。ダメだ。波立つ感情を抑えようとして、でももう遅い。薄氷にヒビが入ったみたいに、それは連鎖して広がる。壊れる。溢れる。やめて。言いたく、ない。

「…………だ」

 やだ。

「やっ……」

 嫌だ。感情の波が呼吸を乱して、発声を邪魔する。ちゃんと言葉にならなくて、でも「それ」が自分の口から出ていっていることを認識していた。痛い。痛い、痛い、痛い。

「───痛い……っ」

 胸の奥が、ひび割れたみたいに痛む。軋んで、苦しい。なんで。どうして。

 こんなところにいたくない。ここに君達はいない。ここにいる意味なんてない。君がいなくちゃボクはいられなくて、君がいなくちゃボクは誰の手を引けばいいの?

 寂しい。納得なんかしてない。ただ待つなんて。そんな風にしてて事態が良くなったことなんて、一度だってないのに。

「アリア……」

 体が離される。ティアの顔が見える。彼女は涙で潤んだ瞳をしていて、でも笑ってもいた。優しい微笑みがボクに温かい眼差しを向けている。───それは、彼女がボクに向けてくれる親愛。

「帰りましょう。ダアトへ」

 その言葉は。

 きっと、ボクの望みを代わりに音に乗せてくれていた。










*****

 

 

 

 ティアと共に宿に戻り、少ない荷物を回収する。チェックアウトをしようとロビーへ降りたところで、声が掛かった。聞き覚えのある、少し気障ったらしい男性の声だ。

「なんだ、もう出ちまうのか?」

 声の方を見る。金髪と青眼が眼に入って驚いた。それは舞踏会で見たきりの仲間の姿だった。旅装束に身を包んでいて、なんでここにいるのか分からない。

「ガイ!」

「よっ」

 ティアが名前を呼んで、彼は人差し指と中指を立ててウィンクと一緒に振った。気障だ。色合いといいコモドを思い出してしまう。彼の方がずっと軟派だったけれど。近付く。

「どうしているの?」

「皇帝陛下の命令さ。あんたの護衛を任された」

 ジェイドの旦那も心配してたぜ、と言われてまた驚く。事実だったら槍でも降りそう、と思ったが以前死にかけた時に言われたことを思い出す。

 そういえば、ボクは大佐にとって「生きていて良かった」存在なんだっけか。裏を返せば死なれたら都合が悪いということで、それならボクの身を案じられても普通かもしれなかった。

「ガイがついてくれるなら安心だわ」

「嬉しいね。俺も二人みたいに華のある女性と一緒にいられるのは光栄さ」

「女性の価値をそうして限定するのは感心しないわ」

「待て待て!? 悪かったよ! ちょっとした挨拶じゃないか……」

 前言撤回。軟派さでもコモドといい勝負だと思う。これでまだ女性恐怖症が完治したわけでもないのだから、まだまだ苦労はしそうだと思う。他人事だからいいけど。

「で。荷物まとめてどこに行くつもりなんだ?」

 ガイが話を戻して、ティアが答える。即答するにはまだボクの心情は複雑な場所にあった。

「ダアトよ」

「なんだ。じゃあ俺は無駄足だった感じか?」

「あら。華のある女性二人の顔が見られて良かったでしょう?」

「勘弁してくれよ……」

 ティアの追撃に、ガイは困ったように眉を下げながら苦笑する。その、見様によっては情けなくも見えるいつも通りの様子に少し気持ちが楽になる。慣れた空気の方が吸いやすい。

「テセはなんて?」

「『神託の御子』過激派がダアトの教会を襲ったって話と、シンクが拘束されてる話、詠師会から導師補佐役殿の安全確保を望む声が上がってるって話は聞いてるよ。アンタも随分人気者だな」

「好かれようともしてなかったんだけどね」

 気軽に返しながら、考える。どうやら粗方情報は共有されているらしい。シンクがやったことまでは隠蔽する内容なので伝えていない筈だが、色々と話す手間は省けて有り難い。

 ガイに不思議そうに問われる。

「しかし、ダアトに戻って大丈夫なのか?」

「それは……」

 口ごもってしまって答えられない。全然大丈夫ではない。押し込めていた感情を外に出してようやく頭が回り始めたが、その冷静な部分がダアトへの帰還を悪手として判断している。

 何も解決していないし、糸口も掴めていない。戻ったところで迷惑でしかないだろう。でも……

「……戻りたいのよ。アリアが」

 答えられないボクの代わりみたいにティアがそう伝えてくれる。それを受けて、ボクの顔を見ていたガイは居心地が悪そうに自分の頭をかいた。

「……そう、みたいだな。いや、俺が悪かった。顔を見りゃ分かるよ。あんた、そんな顔出来るようになったんだな」

「え……どんな顔?」

「そうだな……『恋しい』って書いてあるみたいな顔、かな」

 恋しい。それはよく昼寝をしたい時に思うことだ。布団が恋しい。でもそれは本心でありながら、どこか冗談の響きもある言葉だ。少なくとも意図せず顔に出るような、強い感情ではなかった。それも人物に向かうなんて、想定出来ない。不思議だ。

「だが、それじゃ俺の持ってきた情報も無駄になっちまいそうだな」

「情報?」

「死んだとされてるプレスト・アパシオナートに、似てる奴の目撃証言が上がってきてるんだ」

「あ。それ本人だよ。さっき会った」

「ん? そうか。じゃあ改めて調べて───なんだって?」

 ボクの返答にガイがびっくりした顔で問い直す。それにさっき起きたことをとても簡潔に情報を削除して共有した。主には音素を暴走させかけたことと、弱音を吐いてしまったことなのだけど、まぁ必要ないだろう。

 ガイは「ふむ……」と顎に手を当てて考えた。

「プレストはシェリダン、か。なぁ、あんた。それ放っておいていいのか?」

「え?」

「いや、安全を考えたら行かない方がいいんだがな。でも手詰まりなんだろ? ダアトに戻ったって何も変わらない」

「ガイ!」

 諌めるようにティアが声を上げて、でもガイは黙らない。プレストを追う。そのメリットは考えればあった。彼は「神託の御子」過激派であることを明確にしている。そちら側の情報を持っているし、あの性格からして聞き出すのも難しくはないように思える。

 ガイは真っ直ぐにボクの眼を見て、語りかける。大事な問いをくれる。

「こういう時、何もしないでのんびり待つのがアリアだったか?」

 試すような問い。でもその顔にあるのは柔らかい微笑みだ。何かを期待していて、ボクの回答を最初から知ってるみたいな顔。それもきっと、彼からの親愛の形だ。

(何もしないで待つ……)

 ダアトに戻ってお荷物になる。それじゃ事態は変わらない。話は前に進まない。あそこにいても情報は増えなくて、ボクを守れないからテセもボクを国外へ出したのだ。

 シンクだって拘束されていて動けないし、お師様はいない。アニスは立場があってボクを助けづらい。でも、そもそも。ボクは誰かに助けてもらわなくちゃ前に進めない程、弱かったっけ。

(自分一人で何もかもは出来ない)

 今だってガイに助けられてる。さっきはティアに助けられた。そうやって今までもこれからも、誰かに助けられて生きていくことにはなるのだろう。でも、だからってずっと助けられっぱなしというのは違うだろう。

「……ボクが何を選ぶか」

 大事なことを思い出した。望まれる役割なんかじゃない。聞き分けよく、大人しく鳥籠に入ってるのがボクじゃない。誰かにすがって、助けてもらうために大事な人達のところへ戻るのがボクじゃない。

 ボクはただ、ボクの邪魔をする全てをぶち壊すためにいるんだ。許さないために、ここにいる。

「───ティア、ガイ。ごめん。ちょっとシェリダンまで付き合ってくれない?」

 ボクの選択に、ティアは頭が痛そうに溜め息を吐いて、ガイは嬉しそうに笑った。ああもう、本当に優しい。まるで一年前の旅の頃に時間が戻ったみたいに体が軽い。

 いや、軽いのは体だけじゃない。この世界は最低最悪で、ぶち壊さなきゃいけない運命様が沢山ある面倒臭い場所だ。でも前へ進むための力だけはくれるから。いつまでだって抗ってやる。






 ボクは春を待つ花ではなく、春を告げる花でいたいもの。
4/4ページ
スキ