短編:庭園の造花後


「じゃ、こっちで処理しとくね」

「はい。よろしくお願いします」

 僕の返答を確認して、彼女は亜麻色の髪を揺らす。部屋を出ようとするその背を自然に追うのは、彼女の護衛役だ。揃って執務室を出ていく姿を見送ると、隣でアニスが口を開いた。

「なんか最近、シンクってばアリアにべったりじゃないですかぁ?」

「そうですか?」

「そーですよ! アリアの執務室は教会上層、シンクの執務室は地下の騎士団本部なのに、上で見ること増えましたもん!」

 彼女の言葉に考えてみれば、確かに以前よりシンクの姿を見かける回数が増えているような気がした。特にアリアといる姿が多い。もや、と胸に何かが広がる。

「あれだけのことがありましたからね。シンクの心配も分からなくはありません。暫くはそっとしておきましょう」

 あれだけのこと、というのは先日のアリアが拐われた件だ。ダアトに戻ってひと月が経ち、すっかり今まで通りに振る舞ってはいるが、アリアが何を思っているか心配に思うのは自分も同じだった。

 シンクに関して言えば護衛役としての役割を果たせなかったことで、余計に考えるところがあるのだろう。少し過保護かもしれないが、きっと時間が経てば落ち着いてくる筈だ。

「うーん……テセレマ様がそう仰るなら……」

「何か、気にかかることがあるんですか?」

 なかなか納得を見せない自分の守護役に問えば、彼女は言葉に困るように眉を寄せて口にする。

「なんか、変な感じがするっていうか……」

「変な?」

「……気付いてました? シンク、戻ってから全然、私達と話してないんですよ。ううん、話だけじゃない。こっちを見ようともしない」

「それは……」

 なんとなく感じ取ってはいた。元々よく話すわけではなかったし、アニスはともかく僕が嫌われているのは分かっている。それでも話そうとすれば話が出来たし、視線が合うこともあった。

 けれどここ暫くは、仕事の上で必要がない限りシンクと話すことはなくなっていた。それも、その時間をアリアへの心配に使っているからかと思っていたのだが……

「思い詰めてるっていうか、周りを拒否してるっていうか……分かるんです。私も、そうだったから」

 ぽつりと溢してアニスが下を向く。その顔にあるのは苦しさで、彼女が何のことを話しているのか分かる。

 一年と少し前、おかしな話だけれど僕は一度死んでいる。僕を構成していた音素をアリアが無理矢理留めたことで、プラネットストームへ飲み込まれなかっただけだ。それをアリアが再構成させたことでここへ戻ってくることが出来た。

(そうして構成された「僕」が、以前と同じ「僕」かの証明は出来ませんが……少なくとも、認識にズレはない)

 この世界やルーク達、シンクやアリアを想う気持ちに変わりはない。だから、それは一先ずいいと思っていた。自分が例え以前とは違う存在だとしても、アリアがくれた僕の意志は今もここにある。

(……僕の死に、アニスは泣いていなかった)

 死の直前を思い出す。彼女は小さな体を震わせて、とても苦しそうに、辛そうに顔を歪ませていた。涙を眼に溜めながら、しかし流すことを自分に許さなかった。それは彼女の自罰であり、僕への贖罪だったのかもしれない。でも。

 向き直り、俯くアニスを見る。

「アニス。戻った際に伝えた通りです。僕は、貴女を責めない……貴女が僕を裏切ったとは思っていないんです。僕は、気付いていましたから」

「テセレマ様……」

 アニスの顔が上がり、大きな茶の瞳と合う。僕はそれに微笑みを返し、言い聞かせる。

 責められた方が彼女は楽なのかもしれない。でもそれは出来ない。あの死は彼女のせいで起きたことではなく、僕が自ら選んだものなのだから。

 僕のせいで苦しむアニスを自由にしたかった。音素の汚染で苦しむティアを救う手助けがしたかった。道に迷うルークに、進める道があるのだと希望を手渡したかった。「汝の意志することを行え」───アリアがくれた僕だけの名前に、胸を張れる選択をした。でも。

「間違っていたのは僕の方だったんです。代わりはいるなんて言いましたが、そんなことはないと誰よりルークに言われたかった。レプリカの価値に揺れる、ルークに。代わりなんていないと、生き汚く足掻いて欲しかった。僕も……足掻くべきだったんです」

 この世界に戻ってきて、最初にアリアの顔を見た。彼女は「おかえり」と笑ってくれて、でも同時に泣いてくれた。僕が死ぬ時には涙なんてなかったのに。

(彼女が泣くところなんて初めて見た)

 それからアニスに、みんなに再会して。沢山怒られて、涙も見たし、笑顔も見た。「自分がここにいることの価値」を、身をもって知ることになった。

 あの時の僕にとっては、惑星預言を詠んで消えることが最良の選択だった。それは今でも変わらない。でもこれからの未来で同じように選択を迫られる時が来たなら、もう少し足掻いてみようとは思う。テセレマの名を贈ってくれた彼女は、誰より諦めが悪い人だから。

「アニス。僕の守護役は貴女だけです。僕が生き汚く足掻くには、貴女の助けが要る。だから側にいてください。僕が二度と勝手な無茶をしないよう……ちゃんと見ていてください」

「……はい!」

 彼女はしっかりと返事をした。監視のためではなく、僕を生かすために顔を上げる。それでいい。そうやって上を向いていて欲しい。暗い顔なんて、アニスには似合わない。

(……シンク)

 不安が胸を過る。アニスの感覚を信じるなら、何かが起きていることになる。それが何かは分からないけれど、あまり良い予感でないのは確かだ。

(何か、僕に出来ることがあればいいんですが……)

 胸に薄く広がる靄に、眼を伏せた。

 

 

 

*****

 

 




「テセ居るー?」

 昼過ぎ、僕の執務室の扉を開けながら声が入ってくる。扉を開けながら声をかける人間はこの教会に二人いて、アリアとその師だ。勿論僕を愛称で呼ぶこの声はアリアでしかないので、考えるまでもないのだけど。

 顔を上げれば、水色の瞳と目が合う。

「どうしました?」

「いやー、朝の件でちょっと確認したいことがあって」

 そう言って彼女は書類をぺらぺらと振る。一応は大切な書類なのだけど、彼女が気を遣う様子はない。指摘をすれば「枕にしないだけ気を遣ってる」と返ってきそうで、おかしい。

「テセ? なんで笑ってるの?」

「いえ、なんでもないです。すみません」

 顔に出ていたらしく、謝罪する。彼女は特に気にした様子もなく、「それで……」と書類に関する確認へ移った。並んで書類を覗きこんで粗方話を終えると、彼女は頷いた。

「オーケイ。ありがと、テセ」

「いえ。僕も幾つか確認が出来て助かりました」

「じゃ、仕事の邪魔だし退散するね」

「あ……待ってください!」

「ぽえ?」

 思わず呼び止めれば不思議そうな顔が僕を見る。彼女を引き留めたのが胸にある靄のような気がして、そっと仕舞い込む。代わりに小さな不安を引っ張ってきた。

「シンクのことです。変わりないですか?」

「変わり……」

 問えば、何かを思い出したようにアリアの目線が泳いだ。それから慌てたように顔の前で手が振られる。

「ないよ! ないない!」

「……アリア」

 いくらなんでも誤魔化し方が下手で、気付かなかったフリも出来なかった。つい名前を呼んでしまえば、彼女は「うっ」と息を詰まらせて、やがて観念する。

「色々……変わったとは思う。ボクもよく分かんない」

「アリアがですか?」

「君はボクを読心の達人とでも思ってるの……?」

 本気で驚けば、アリアに困った顔をされてしまう。そこまでは思っていないけれど、彼女の勘の良さは知っているつもりだ。特に誰かの感情を拾い上げることに関しては、高い信頼を置いている。その彼女が、一番近くで見ている筈のシンクの変化を分からないと言うのが意外に思えた。

「なんか……シンクは元々感情を隠すところがあるんだけど……それは少し、片付いた筈なんだけど……」

 感覚を追うように躊躇いながらアリアが口にする。要領を得ない様子から、本当に彼女もよく分かっていないのだと理解する。

 人差し指を立てて考えているみたいにくるくると回すと、やがてぴたりと止めた。そして表情を少し暗くする。

「眼が、違うんだ」

「眼ですか?」

 確認すれば頷き返される。

「複雑で分からない。でも、なんて言うのかな……物分かりがよくて、静かで、怖い」

 話は相変わらず要領を得ないけれど、彼女の表情は真面目なものだった。自分の感じたものに触れ直しているように、瞳が遠くを見る。

 僕には同じものを見ることは出来ないけれど、アニスが言うように何かがあるのは確かなのだと思えた。問題はそれが何か、だ。

「アリア。何かあれば、きちんと頼ってくださいね。僕は貴女も、シンクも……大切に想っているんですから」

「うん、勿論。ありがと」

 礼が返って、陰がありながらも彼女が少し安心したように頬を緩めたのが分かる。それで彼女が気を張っていることに気付く。彼女の立場に立てば、一番身近にいる存在に不安がある状況とも言える。どこか気が休まらないのだろう。この様子だと自覚はないように見えた。

(何か、出来ることがあれば……)

 考えて、思い付けば僕はすぐにそれを口にしてしまっていた。考えるべきことは沢山ある。それでも彼女に何かをしたいと思ってしまったから、仕方がない。

「アリア。少し、時間をもらえませんか?」

「へ?」

 どこか間の抜けた表情を見せる彼女に、僕は微笑んだ。

 

 

 

*****

 

 

 

「んじゃマァ、オレは下にいますんで」

「何かあったら呼んでくださいね!」

「はい。二人とも、ありがとうございます」

 丘を降りていく二人分の背中に礼を告げ、見送る。詠師エレティクスとアニスだ。今日は僕の我儘に付き合ってもらう形で、護衛としてついてきてくれていた。

 今いる場所はダアトから少し離れた丘で、青々とした緑が広がっている。照らす太陽は春の暖かさで、頬を撫でるそよ風は心地よい。空気が新鮮に思えて深呼吸をした。

「ホントに強行しちゃうんだから。テセって実は結構な頑固者だよね」

「ふふ。見本がいますからね」

「えぇ……」

 僕の返事に複雑そうな顔をしたのは、今日の同伴者だ。勿論アリアで、青空の下で見る彼女はいつもより明るく見える。

 立場上仕方がないとはいえ、彼女も僕も基本的に教会から離れることが出来ない。こうして見れば外にいる方が余程彼女に似合って思えて、少し申し訳なくなる。

「でもびっくりしちゃった。急に外出なんて言うから」

「気分転換がしたかったんです。付き合わせてしまってすみません」

「いいよ。なんかボクも……気持ちいいから」

 伸びをして、アリアは草地へ寝転がった。言葉の通り表情は楽そうで、連れ出してよかったと思う。水色の瞳に青空が映って、色が混ざる様が綺麗だ。

 隣に腰を下ろす。

「お師様達にはちょっと悪いことしちゃってるけどね」

「護衛なしでは流石に出られませんからね。先日の件もありますし」

「うん。分かってる」

 応える声は少し固い。緊張が混じっていて、あの一件がアリアに与えた打撃を想像する。この一年だって、彼女は殆ど教会から離れられないで生活していた。それが「神託の御子」過激派の存在で余計に息苦しいものになるのは必定だ。

 教会内だって安心できる場所とは言い切れない。彼女を始祖ユリアの生まれ変わりとして見る眼は多く、そう在ることを望まれていることは彼女も感じ取っている筈だ。今のダアトは彼女が安心できる場所ではない。

「……不甲斐ないですね。僕は導師だというのに、全然補佐役の貴女を守れていない」

 ぽつりと溢せば、彼女は少し考えるように「んー」と唸ると、やがて否定を口にした。

「テセは守ってくれてるよ。補佐役の立場だって、ボクが他の教団関係者に余計なちょっかいをかけられないために、君がくれたものだ」

「ですが、そのせいで今の貴女は身動きがとれなくなってしまっています」

「それは違うって。ボクがうっかり導師代理になっちゃったからで、なんか有名になっちゃったのもこの見た目が悪いだけだし」

「………………」

 アリアはそう言うが、納得は出来ない。元々は僕が彼女を側に望んだせいだ。その我儘のために彼女は補佐役の立場に就くことになったし、導師代理になって世間の注目を集めることになってしまった。

「……エレティクスは分かっていたのでしょうね」

「……かもね」

 聞く限り、二人で旅をしていた頃からずっと、彼はアリアをダアトに近付けなかった。それは被験者の"アリア"を知っているからこそ、そのレプリカである彼女が教会に利用される身であることを察したのだと思う。

 道具として生まれた命を、道具にすることを許さなかった。広い世界を見せ、自分の足で歩き、生きることを学ばせた。決して教団の目に留まることのないよう、遠ざけてきた。

(でもきっと、それだけではなかった)

 彼は"アリア"を知っていた。元大詠師モースと先代導師エベノスが、彼女を導師の代替品として育てていたことを知っていた。教会の奥に押し込めて自由を許さず、ただ教団の利益のために。

 "アリア"が「導師イオン」の婚約者になった流れは聞いていない。けれど今の世間の様子を考えれば簡単だ。

(「始祖ユリアの生まれ変わり」が導師の婚約者、なんて。彼らにとっては都合の良い話だった筈だ)

 教団の支持はより磐石となり、導師の力を持った「神託の御子」は自分達の思い通りに動く。婚約者として「導師イオン」の弱点になれば、教団の最高指導者を操るにも有効かもしれない。そんな風に考えた可能性もある。今はもう確かめようもないけれど、疑いは晴れなかった。

「エレティクスが今の状況を予想していて貴女をダアトへ近付けなかったのだとすれば……僕はとんでもない愚か者ですね。僕の浅はかな行いが、現状を生んでしまった」

「そこまで考えることないと思うけどなぁ……大体さ、導師代理になるって言い出した時にお師様は何も言わなかったよ」

「……それは」

「うん。分かってる。もし『ユリアの生まれ変わり』って騒がれるのが分かって黙ってたなら、それはお師様がボクの選択を尊重してくれたってことだよね。過保護に守るんじゃなくて、自分の選択の結果を自分で背負えっていう」

「………………」

 アリアが何を言いたいのか、分かってしまう。同じだと言っているのだ。彼女の師が現状の責を彼女に委ねたように、僕が責任を感じるのはお門違いなのだと言っている。

 その理屈も、僕を思いやってくれる感情も理解できる。彼女の理屈は僕に甘く、差し出される手は哀しい程に愛情深い。

「テセ。この前も伝えたけど、ボクは望んでここにいる。始まりは君に望まれたからだし、君がいない間はまるで夢の中みたいで、全然落ち着かなかった」

 甘く、優しい言葉が触れる。胸がざわついて、震えてしまう。そんな風に簡単に、僕の欲しい言葉を渡さないで欲しいと、頭のどこかで声がする。

「教団の導師補佐役って立場はボクの居場所だ。でも、君がいなくちゃ居場所にならない。だから君がいてくれることには意味があるし、君が望んでくれてよかったって、今のボクは思ってる。色々困り事も多いけど……でも、お陰で君が帰ってきてくれたから」

 それで十分なんだ、と彼女は笑う。僕のせいで困り事を沢山背負うことになってしまったのに。僕は側を望んでおきながら勝手に死んでしまったのに。彼女は、僕が戻ってきたからそれでいいと言う。

 「神託の御子」として騒がれ、危険な思想を持つ人間達に拐われ、酷い目に遭ったというのに。これからもそういう危険が、あるかもしれないのに。

 彼女は、僕がいるから構わないと笑う。

「……アリア」

「ん?」

 寝転んだ彼女が僕を見上げる。僕はそれに身を屈めて顔を近付けた。無防備な唇に、触れるだけの口付けを落とす。すぐに離れて顔を見れば、彼女は驚いた顔で固まっていて。それさえも、愛おしい。

「貴女の中に、答えはないのでしょう。どんなにシンクや僕が求めても、貴女は応えることが出来ない」

 見ていれば分かった。彼女が僕達へ向けてくれる感情は、無償の情だ。何があっても手離さない。自分が損をしたって僕達を選ぶ。必要であれば、自分の命だって天秤に乗せてしまう。

 でも、それは恋愛感情ではない。僕もシンクも彼女にとっては「特別」で、同時にそれ以外にはなれないのだ。シンクが探す空席はどこにもない。

(それでも、彼に一番近くを譲るつもりだった)

 彼女の隣に立つ唯一の人に、なって欲しいと思っていた。僕では分不相応だから。僕が望んで、彼女が選んで。すぐ側にいてくれることだけで、十分だと思っていた。十分に、過ぎた幸福だと。

 彼女が手を伸ばした先はシンクだった。彼女を繋ぎ止める役割は、シンクのものだと思った。でも。

「貴女が僕を必要だと言ってくれる温度は、シンクにかけられる必要という言葉と同じ温度なのだと、気付いてしまったんです。バチカルで貴女は、僕がいないと居られないと、言ってしまった」

 アリアは驚いた顔のまま僕を見上げている。僕の言葉を聞いている。きっと彼女にとっては当たり前の言葉だったのだ。

 僕やシンクにとっては特別な言葉を、彼女は当たり前に口にする。それは彼女にとって僕達が「特別」で、でも僕達が望むような「特別」にはなれない、その証だ。

 そしてその証で、僕が彼女を繋ぎ止めているのだと証明してしまった。シンクの役割だと思っていたそれを、僕に渡してしまった。

(だから困ってしまったのに)

 彼女の頬へ口付けを贈って、自分の胸にある感情を誤魔化してしまおうとしたのに。やはり出来なかった。彼女がくれる、甘くて、優しくて、僕やシンクを溶かす全ては……当たり前に、渡されてしまうものだから。

「僕は貴女が好きです。何より大切にしたくて……誰より、愛しい」

 雛が親鳥を追うような、そんな気持ちではない。支配欲とも所有欲とも違って、ただ守りたいと、幸せでいて欲しいと、願ってしまう。理屈ではない。

 ただ彼女を、愛している。

「……わあ……」

 不意に彼女の顔が赤くなり、その熱を抑えようとするみたいに彼女の両手が頬を包んだ。なんとも反応に困ったような声が漏れて、それでも僕が待てば、彼女は言葉を使った。

「あの……えぇ……? すっごい恥ずかしいんだけど……」

「ふふ。そのようですね。顔が林檎のようになっています」

「ホントに? いや凄い熱いもんね。無理無理。当分他の人に顔見られたくない」

 そうやって恥ずかしがる様子は新鮮で、愛しさが増す。でもその感情に行き場はない。彼女が応えられないことを誰よりも知ってしまっている。

 それは彼女がシンクを選ぶからではない。ただ、彼女にはないのだ。その回路が。

「……ボク、なんて言えばいい?」

 手で顔を覆って、ぽつりとアリアは呟く。戸惑いと不安、それからとても申し訳なさそうな声で。

「今回の件で……『それ』がどういうものなのか、ちょっとは分かったんだ。知識じゃなく、感情で。でもどんなに探してもボクの中にはなくて……君やシンクがそういうものを向けてくれても、ボクには同じものが返せない」

「はい。知っています」

「……酷い奴だよね」

「いいえ」

 声に泣きそうな色が混ざって、僕は首を横に振る。酷くなんてない。彼女が僕とシンクへ向けてくれる信頼は……愛情は、最上のものだ。少なくとも彼女にとっては。

 そこに偽りはないし、僕達が「特別」であることも揺らがない。ただその形が違うだけだ。同じものを、抱けないだけ。

(彼女の信頼を裏切ったのは、僕達の方だ)

 理解できないものを押し付けた。困らせて、苦しめてしまった。関係性は変わるだろう。彼女の中に僕達への「それ」がなくとも、僕達が彼女に「それ」を向けていることを、彼女は知ってしまった。

 そしてその知識は彼女にあるのだから。身をもって、知ってしまった後なのだから。

「すみません。困らせると分かっていました。でも伝えたかったんです。無理に同じにならなくていいのだと……アリアは、アリアの持つ感情で僕達を想ってくれている。それは決して間違っていないし、貴女が酷い訳でもない。それでいいんです」

「……うん」

 彼女は小さく頷くと体を起こした。その顔は泣いていないけれど、瞳は潤んで見える。隣に座る僕に向き直って、それから少し困った顔をして問われた。

「……えっと。君に今凄い感謝してて、その気持ちを表したいんだけど……」

「ふふ」

「わ、笑わないでよ! こっちは真剣なんだから!」

「すみません」

 彼女が何に困っているのか分かる。僕の中にある「それ」を知って、遠慮してくれている。分からなくても、分かろうとしてくれている。

 関係性の変化だ。あって当たり前のもの。これからもきっと不自然なやり取りは増えてしまうのだろう。でも、その一つずつを、こうして二人でクリアしていければいいと思う。

 両腕を広げる。

「ハグは親愛を示す方法とされています」

「……ん。ありがと」

 アリアは少し頬を赤くして恥ずかしそうに眼を伏せると、「えいっ」と思い切って僕に抱き着いた。ぽすりと軽い衝撃があって、それを抱き締め返す。温かい。

 今お互いに向ける感情は決して同じものではないけれど、お互いにとっての特別な愛情を渡し合っているのは間違いない。それでいい。そうやって、言葉に当てはめられない不思議な関係を、築いていけたらいい。

「……テセ」

「はい」

 名前を呼ばれる。何かを言葉にしようとして、しかし躊躇うような間が少しあった。そうして言葉を選び抜いてからアリアはそれを形にした。

「ボクはさ。君やシンクが向けてくれる『それ』が分からない。でも、分からないから向けないで欲しいとか、遠ざけたいとか……そういう風には思わないんだ。ううん、思いたくない。君達が抱くものを、否定したくない」

「………………」

「だからね。その……君がボクを尊重してくれるように、ボクも君を尊重したい。……伝わる?」

「……はい」

 優しい、と思う。同時に甘く、心配になる程だ。本当なら逃げてしまってもおかしくはないのに、アリアは僕の腕の中に留まる。それに勇気が必要でないと思わない。彼女は言葉にしないけれど、きっと怖いと感じてもいる筈だ。僕やシンクとの関わりに安心以外のものが入り込むのは彼女の日常を脅かすだろう。

 でも、アリアは受け止めようとする。分からなくとも拒絶しない。変わらず手を伸ばし、繋がりを維持しようとする。いじらしく、愛おしい。例えこの想いに行き場はないとしても───手離すことはできない。

「ありがとう。アリア」

「……うん」

 僕の感謝に、アリアは一瞬何かを言い掛ける。けれどそれを呑み込んで、ただ頷きを返してくれた。彼女がどんな言葉を呑み込んだのかは分からない。でもきっと、優しさの結果だと思う。彼女はそういう人だから。

(……シンクも、分かってくれればいいのですが)

 不安が胸を過る。僕が抱くものと、シンクが抱くものに差があるとは思わない。でも全く同じものだとも思ってはいない。彼の抱く感情は彼だけのものだ。

 だからこそ分からない。この感情に行き場がないと分かってしまった時、彼がそれを受け入れられるのか。どんなに探してもアリアの中に「それ」はない───その現実をシンクが認められなかったなら、アリアは。

(……神様は意地悪ですね)

 腕の中にある、何より大切で失えない温もりに。






 胸の奥にある切なさを、そっと隠した。
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