短編:庭園の造花後
最近、ボクの部屋に気紛れな猫が現れるようになった。
「ふあ……」
昼下がり、自分の執務室で欠伸を噛み殺す。それで気付くが、随分集中して書類を確認していたらしい。窓から陽の高さを見れば丁度よく、仕事の区切りもついた。
休憩にしよう、と椅子で伸びをする。と、執務室の扉が無遠慮に開いた。
ここダアトには、ボクの部屋の扉をノックしない人間は二人居る。一人は無作法が服を着て歩いてるみたいなお師様で、もう一人はボクに対する遠慮が終始お出掛けしてるシンクだ。ここから更に絞ると、喋りながら入ってくるのがお師様で、ちゃんと入ってから喋るのがシンクだ。
今回は扉が開くと同時に声が掛からなかったので、シンクだろう。当たりをつけて眼を向ければ、緑の髪を鶏冠にした少年の姿があった。正解だ。
シンクと仮面越しに眼が合ったと感じた途端、彼は足を止める。予想が当たった喜びが顔に出ていたらしく、怪訝そうな声が届く。
「なに?」
「シンクかなって思ったらシンクだったから喜んでた」
「………………」
急に閉口される。この瞬間にボクは嫌な予感がしていた。ここ暫くの経験から、一つ学びを得ているのだ。シンクが急に黙った時というのは、決まって「発生した感情の処理が滞った時」ということだ。
そしてボクが誘拐の憂き目に遭って以来、彼はその「発生した感情」を押し殺さずに表現するようになった。それはいいことだ。いいことなのだけど、その表現でボクが困る率がほぼ百%なのは、何もよくない。
(これは……)
まさか、と思う前で彼は小さく息を吐くと、こちらへ近付いてくる。そして持っていた書類をボクの執務机の上に置いた。ちらりと見れば、報告書だ。
「ケテルブルクのアドリビトムから。こっちで目を通して幾つか要点ピックアップしておいたから、後で見ておいてよね」
「あ、うん。ありがと」
「ところで仕事してる様子じゃなかったけど、休憩?」
「うん。丁度今からね」
いつも通りだ。なんだ、構えすぎていたらしい。心の中でほっと息を吐いて気軽に答える。
「ふぅん」とシンクが溢して、机を回り込んで来る。おや?と思うも遅く、ボクの座る椅子の側まで来ると、シンクの体が不必要に近付いた。
右膝が座面に乗り上げて、右手が背もたれを、左手が肘おきにあるボクの右腕を押さえる。つまるところ唐突に椅子に追い詰められた形になり、触れられる距離に入られる。体が緊張に強ばった。
「し、シンクさん?」
「ん?」
「やめてちょっと優しい声作らないで」
どんな顔をしていいか困るではないか。居たたまれなくてそっと肩を押し返そうとするけれど、些細な力で離れてくれる様子はない。仮面から覗く口元が笑う。
「嫌なの?」
「うっ」
試すような問い。嫌と言ってしまえれば話は早い。分かってる。でも……言えない。意識されることが恥ずかしいだけで、嫌ではないから。
「アリア」
「……聞かないで」
「ふぅん……なら、好きにさせてもらうから」
わざとらしい囁きの後、吐息が近付いた。耳に緩く歯が立てられる。生じる羞恥に眼を瞑って堪える。ふるり、と体が小さく震えた。ぎゅ、とシンクの服に掴まるように力を入れれば、再び笑われた気配がある。不服だ。
「……なんで笑うの」
「過去の自分と比較してみたら分かるよ」
「ぐぅ……」
ぐうの音は出るがそれだけだ。自分でもリアクションが大きく違ってしまっている自覚くらいある。笑われるのも分からなくはない。
「意識してるアンタの方が面白い」
「面白くなくていいから───わっ!?」
ひょい、と抱え上げられる。慌ててしがみつけば、彼は構わず歩き始めてしまった。一体どこへと思う間に隣室の私室へ運ばれる。……なんで?
「えっと?」
「休憩するんでしょ」
「いやそうだけど」
答える間にベッドへ下ろされシンクも乗り上げた。あっという間に抱き枕にされる。ジャストフィット。落ち着いてしまう───いや、そうじゃなくて。
「ええと……」
「なに?」
「なに?と聞かれましても……」
聞きたいのはこちらの方だ。ボクが休憩すると言えば大体はお昼寝なのだが、シンクは基本的に昼寝を許してくれない。その彼が、まさか昼寝をしていくつもり……なのだろうか。戸惑う。
戸惑っている間に結い上げてあった髪が解かれ、手櫛で整えられていく。その触れ方が優しいものに感じられてくすぐったい。落ち着かないのに落ち着いて……気持ちがいい。
(……まぁ、いっか)
深く考えることをやめた。休憩するつもりだったし、シンクとお昼寝が出来るのも悪くない。こうして過ごす時間に気恥ずかしさはあるが……触れ合う時間を持つと、約束をしたから。
顔を上げると仮面が見えて、お昼寝をするなら邪魔だろうと思う。手を伸ばして触れると、そっと仮面を取り上げた。千歳緑の瞳が現れる。
「……アンタ、本当に遠慮がないよね」
「え?」
「それ。勝手に剥がすのはアンタくらいだよ」
それ、と示されたのはシンクの仮面だ。言われてみれば確かに、他の人が彼から仮面を剥がしているところは見たことがない。そもそも彼がそれを許す距離に他人を入れるところを見たことがなかった。つまり、
「シンクがボクを警戒してないだけじゃない?」
「そうかもね。アンタを警戒する意味はないから」
肯定すると体を引かれ、互いに空いていた隙間もなくなる。しっかりと腕の中に収められてしまい表情は見られなくなる。逆説的にボクの表情も見られなくなる訳で、ボクはようやく心の中で息を吐いた。
触れ合いの時間は、嫌いじゃない。ただ慣れないだけだ。互いの体温が伝わり合うことに以前なら安心があっただけだと思う。でも今のボクには気恥ずかしさがあって、ちょっと落ち着かない。……どうしていていいか、分からないから。
(シンクは……この時間をどう思ってるんだろう)
触れ合いをボクから望むことはない。定期的にイベントが発生することから、彼が望んでこの時間を持っているのは事実だろう。ボクには分からない、彼の中の「ぐちゃぐちゃの感情」が理由となって。
特別で、全部が欲しい───想像しても分からない。そうして望まれることに違和感しかない。どうしてボクだったのか。ボクはただ身勝手に彼を生かして恨まれていた筈なのに。
戸惑う……けど、一方で嬉しい気持ちがない訳ではない。彼はボクの前では常に無欲で、何かを望んでくれたことなんて殆どなかったから。旅の頃に依頼をされたことを除けば、ボクを生かそうとしたことくらいだ。
ボクに対して何かを望んでくれる。それは「ボクに望まれたから生きている」というのとは少し意味合いが違うと思う。受動と能動の差というか……上手く説明は出来ないけれど。
彼にとって意味ある物事が増えるのはいいことだ。彼に一人の人として側にいて欲しいと望んだ、ボクにとっても。
(……でも。なんだろう)
言葉にならない不安がある。抱き寄せられて安心がある筈なのに、胸の奥が落ち着かない。何かを見落としているような気がして……何かが意識の端に引っ掛かってしまう。それは例えば、記憶を失っている間にグランコクマで感じたものに近しい。
あの時、シンクは頑なに自分の部屋に戻って休むことをしなかった。不自然にボクの側に留まり続けた。それに対して説明の難しい小さな違和感があったのを覚えている。
(シンクは、自分でも説明のつかないぐちゃぐちゃの感情って言ってた。だからきっと、一つの感情で説明できることはないんだとは思う)
例えばここに愛があったとして。ボクは愛もよく分からないんだけど、それは一先ず脇に置く。多分、それ一つでも説明がつかないのだ。独占欲や支配欲でも同じ。色が沢山重なって深まっていく現象にきっと近い。でも───色は、重ねすぎれば「真っ黒」になってしまう。
黒い、黒い感情。それは健全なものだろうか。彼を苦しめるような、閉塞感のある感情ではないだろうか。光が届かず、彼の色を塗り潰すようなものでなければいい。そう思う、けど。
(……時々。シンクはそういう眼をするようになったと思う)
どこか暗い瞳。陰がかかったみたいに複雑になる色。それがボクに害を及ぼすことはない。ただ不安になる。優しく甘やかされる度に落ち着かない。光の届かない場所に居るように思えて。
気になることはもう一つあった。今回の件に対するシンクの態度が、なんとなく変だ。幾度か彼が怒りを示したのは分かってる。でも……それ以外があまりに静かだった。静かに何かが変わってしまった、ような。
何かを……取り零してしまったような気がする。
(……シンク)
寄り添う温度に祈る。
大丈夫だよねと、無くならない不安に重ねる。
眼を閉じても触れる体温に、以前のようには安心できない。君の存在はすぐ傍に在るのに、優しい時間が流れている筈なのに、違和感が胸の内を焦がしている。
それともそれは、普通の人が当たり前に持っていてボクが持っていない、その感情のせいなのだろうか。
(それなら、いいんだけどな……)
眠気の中に意識を溶かす。
君のくれる温度で暖をとる。
どうか君も、温かさを感じてくれていればいいと、願う。