庭園の造花
肉の潰れる音がした。
赤い雨が降って、若草が彩られる。ぼとぼとと溶けたように崩れた肉がばらまかれ、すぐ側で悲鳴が上がった。
そちらを見れば、右腕を失った男の姿がある。馭者だ。馭者の男は痛みに正気を失ったように悲鳴を上げ、涙と唾液で顔面を汚し、のたうち回る。その度に腕を失った肩口から血が振り撒かれ、若草が染められていった。
「うるさい、なぁ……」
うるさいし、汚い。でも丁度いい。動いてるってことは、まだ壊れてない。壊れてないものは壊せる。
音素が震えて、意思を汲むように男の体を持ち上げた。足が地面を離れ、まるで首を掴まれているみたいに不自然に首が伸びる。もがいて動く左腕を真横へ引かせた。それから雑巾を絞るみたいに徐々に捩っていく。
みしみしみし、と骨が軋んで。ぶちぶちぶち、と筋肉繊維が切れて。その音が、感触が、伝わってくる。心地よい。
「あ」
一際大きな悲鳴が上がって、左腕が捩切れた。血が一斉に溢れ出し、ぼとりと肉の塊が落ちる。血の雨。まだ足りない。まだ欲しい。それを手放し地面に落とす。眼を離して立ち上がろうとした。
「……ああ、もう。すっごい頭痛い」
頭が内側で殴られてるみたいにガンガン痛んで、体の方は不自然に熱を持って上手く力が入らない。立ち上がれそうにはない。
代替案として音素を集めた。集束させ背に羽を編む。音素の集合が光の帯のように揺らめくと、自分の体が浮いた。動かないなら、運べばいい。
「それで、なんだっけ」
見やる。視線の先には二人の人間。片方は緑の髪に仮面をつけた少年。もう片方は赤い髪に橙色の眼をした青年。そうだ、青年だ。
地面には剣と肉塊が落ちている。赤い雨の痕が随分あって、青年は右肩を押さえていた。当たり前だ、馭者とお揃いで右腕が弾けとんだのだから。大事なモノを傷付けようとする悪い腕は、要らないもの。
「今凄い苛々しててさ。頭痛いし、体は変だし、状況もよく分かんなくて。だからせめて、気持ち良くなりたいんだ」
快楽。脳に送り込まれる作り物めいた安い刺激が、余計に燗に障った。コレじゃない。もっと壊して。心行くまで。その方がずっと気持ちいい。
中途半端に刺激された快楽が、本当に欲しい快楽に体を疼かせる。幸い、壊していいものはもう一つ残っている。だから、ねぇ。
「『ボク』を手伝ってよ───プレスト」
*****
第三音素を叩きつければプレストの体が舞った。人間の体なんて簡単に浮く。声が上がったけど全然だ。もっとちゃんと鳴いて欲しい。
「アリア!」
名前を呼ばれる。そちらを見れば、仮面の少年。五体満足で、大事な人。でも、なんだっけ。上手く記憶が接続しない。分かるのに分からない。別にいいか。生きてるし。
「ゴメン。今頭の中ぐちゃぐちゃで。アレ壊したら多分ちょっとはスッキリするから、待ってもらっていい?」
そう言ってボクはプレストを指差す。要らないもの。まだ左腕も両足も、胴体も首も無事だ。壊せる部品が沢山ある。さっきの馭者の男は捩切ったけど、今度はどうしよう。
起き上がったプレストはボクを憎むように睨み上げた。
「汚れた魂が……あと少しで浄化が成っていたというのに!」
ケガレタタマシイ。頭が痛い。体が半端に疼いて、変な渇きに本能が快楽を求める。気持ち悪い。気持ち良くなりたい。壊したい、壊したい、壊したい。
それがボクに向かって大きく吠えた。
「何故なのです!? 幾度も浄化を拒み、貴女は私の愛を受け取ろうとなさらない! 貴女には使命がある……『神託の御子』なのに!」
ぱちくり。瞬きをする。コレは何を言っているのだろう。浄化、愛、使命、御子。知らない。全部知らない。どうでもいい。
まずはあの言葉が邪魔だから舌を抜こうかな。舌がなくても悲鳴は上がるし。ああでも、人間は舌を抜くと死ぬ可能性が高いのだっけ。壊し甲斐がなくなるのはちょっと惜しい。困った。
「落ち着いて。今すぐその力を引っ込めるんだ」
仮面の少年がボクの傍へやって来て厳しい声音で告げる。表情は仮面越しで見えないけれど、そうして恐れず近くへ来てくれることが嬉しい。横合いから手が伸ばされ腕が掴まれる。不快感はない。
それはそうだ、だって彼は……彼は、なんだっけ。
「どうして?」
「危険だからだよ。その力はアンタを蝕む。あんなゴミのためにアンタが身を削る必要はない」
バチバチと頭のどこかで火花が散る。記憶が接続しない。回路のエラーに視界が明滅して、どうすればいいか迷いが生じる。ボクの中の何かが渇きを訴えた。
「そんな……こんな……何故……」
上手く言葉にならない様子でプレストが呟く。体を震わせる彼に、仮面の少年が口を開いた。
「厄介なことにしてくれたね。お前が余計なことをしたせいでこっちは大迷惑だよ、本当に」
「何を言っている! 御子様がこのようなお姿になったのはお前達のせいだろう! お前達が御子様に汚れた手を伸ばすから───」
「自分の手はオキレイだって? 随分自信家じゃない。ご自慢の手は吹き飛んで、騎士の誇りも握れなくなったみたいだけど。お似合いだよ」
「───!」
プレストの顔が怒りに染まる。頭に血が昇っている。仮面の少年の言葉の通り、右腕が無事で剣を握っていたなら今頃飛びかかってきていそうな様子だ。動かないなら、あの足もう壊してもいいかな。
「えっと。お話、終わった? そろそろ我慢できないんだけど……」
疼く。欲しい。渇く。満たされたい。
壊して、快楽を知りたい。
頭にかかろうとする靄が凄く邪魔で、不快で、多分頭痛はそれを無理矢理追い払ってるせいで起きている。異物が体の中にある。偽物の快楽。嫌いだな。
「御子様! 目をお覚ましください! そこにいる者こそ御子様をたぶらかす悪魔! この世から消すべき不要品です!」
「………………」
仮面の少年は何も言わない。でも分かる。消すべきとか、不要品とか、そういう言葉が彼によくないことは分かる。
同時に、それをいつまでも呈示する世界にも、それを否定してくれない少年にも、怒りが湧いた。ボクがこんなに要るって言ってるのに。誰も分かってくれない。
「悪魔だったら何……? 要らなくない! たぶらかすならそれでいいよ! みんなが消せって言ったってボクは消さない! 代わりなんて利かないんだ! ボクにとって、大事な……」
大事な。何だろう。分からない。言葉にならない。何でもよくて、どれでもない。的確な言葉がない。
思考にノイズがはしって眩暈がする。ボクは───ボクって、何だっけ?
「……もう、いいよね。壊そ。少しは手伝ってよ。君が好きに弄ったせいで体がおかしいんだ。責任持って、最後まで……アイシテよ」
音素が踊る。体に吸い付いて牙を剥こうとする。バラバラに、ぐちゃぐちゃに……ああ、でも少しでも苦しみが続く方がいいかな。いっぱいいっぱい可愛がられて、愛されて、ゆっくり腐っていく方がシアワセだよね。気持ちいいんだよね? ボクに、しようとしたみたいに。
「……御子様。必ず、私が貴女をお救いします」
まるで主人公みたいに強い眼で宣言すると、プレストは何かを懐から出して地面に叩きつけた。音素の塊が唐突に起こって、譜陣の輝きが目に入る。爆発的な膨らみ───
「ダメ!!」
「!」
慌てて身を翻して仮面の少年を抱き込む。地面に伏せ、背の羽を音素に戻すと二人分の体を庇った。
音素が大爆発を起こして爆風と衝撃が襲った。至近距離で受けたそれに体が痺れる。でもそれだけだ。ダメージは全て防いだ。
「何が……」
音素の繭を解いて頭を上げる。
背後、プレストのいた場所を中心に爆発の痕跡があった。ボク達のいる場所を含んで広範囲に円形で地面が抉れている。プレストの姿はない。
「……自爆? らしくないね」
ボクの下で少年が呟く。
自爆。果たして、そうだろうか。彼が叩きつけた何かは多分小瓶だ。途端に音素が爆発的に溢れ出したから、それを詰め込んでいたのは間違いない。
彼が残した最後の言葉は終わりを予感させるものではなかった。あの時輝いた譜陣は、本当に自爆するためのものだったのだろうか。
「……で?」
「え?」
「いつまでアンタはボクを押し倒してるの?」
「へあ!?」
指摘されてびっくりする。咄嗟に庇うためとはいえ、図的には確かにボクが少年を押し倒している。こんな開けた場所で大胆に。密着する体に一気に羞恥が上がって来て、慌てて身を引いた。けど、
「う、ぁ……」
ぐわんと頭が揺れて、視界が気持ち悪く回る。頭に一斉に靄がかかって、塞き止められていた血流がやる気を出したみたいに体中に熱が広がった。息が上がって、体が疼く。渇く。
「アリア!?」
「……ごめ、ちょっと、むり……」
動けないどころではない。体を起こした少年の胸にもたれ掛かる。自分の体が自分の物じゃないみたいで意識が朦朧とする。少年の体温も分からない。
「……薬か。性懲りもなく……!」
少年が舌打ちをして、体が抱え上げられた。目蓋は持ち上がらない。暗い世界に伝えられる温度はないし、聞こえていた音も遠くなる。ああ、やだな。折角会えたのに。
(……だれに?)
分からない。回路がショートしている。ノイズがはしって、大事な部分に届かない。でも多分、もう大丈夫だから。
背を支える腕には確かに安心があって、怖くない。ボクはゆっくりと、繋ぎ止めていた意識を手放した。
*****
目を覚まして最初に見たのは緑色の瞳だった。綺麗な千歳緑。大きくて、丸くて、澄んでいて。真っ直ぐにボクを見下ろしていた眼が、驚きに大きくなる。
「アリア! 目が、覚めたんですね」
「あ……うん」
瞬きをする。頭が重い。熱があるようで、でも靄は随分なくなったようだった。体の変な怠さや熱さ、疼きもない。比較的、いつも通りだ。
体を起こそうとすれば背を支えられ、枕を挟まれる。とても甲斐甲斐しい。
「ありがと」
「いえ。気分はどうですか?」
「んー、ぼちぼち」
うっかり曖昧に答えれば彼は安心したように笑った。白い法衣の緑髪の少年。───誰だっけ。大事な人なのは、分かるんだけど。
「───は向こうで休んでいます。怪我はありません」
意識にノイズがはしって音が一部かき消える。眉を潜める。なんだろう。今、何か変だった気がするのだけど。怪訝な顔をしたからか、少年に心配そうな顔をされる。
「アリア?」
「なんでもない。えっと、何がどうなったか聞いてもいい?」
問えば少年は頷いて、ボクが気を失った後の話をしてくれる。バチカルの王城に運び込まれて三日が経ったらしく、その間ボクは意識を取り戻したり眠ったりを繰り返していたらしい。当然記憶はないし、彼らとしても朦朧としていたのは把握済みだという。
「ジェ──の話では自浄作用のようなものが強く働いて、薬を追い出すことに集中しているのではないか、ということでした。フォンスロットからやり取りされる音素量が一時的に増えているそうです」
まただ。また何かのノイズが割り込んだ。気にはなるけれど話が分からないわけではないので、一先ず聞く。
「普通の人間であれば、音素をどれだけ取り込んで出しても関わりないのですが……アリアが音素に愛される体質だからか、レプリカだからか。体を構成する音素を入れ換えて、無理矢理異物を排出しているそうです」
「えぇ……」
げんなりすれば苦笑が返る。流石にやってることがおかしい。人間離れは結構前から始まっていたけれど、遂に体を音素単位に分解するようになったということだ。ますます意識集合体みたいになってきてしまった。
「完全に排出されるのも時間の問題ということで、すぐに症状もなくなるだろう、という話です」
「そっか……プレスト達は?」
問えば、少年の表情が曇った。終わりに心残りがあるのはすぐに察せられたので、大人しく言葉を待つ。
「コモドは重要参考人としてキムラスカに協力しています。ですが殆ど何も聞かされていなかったようで、プレスト達が起こした問題を証明することは難しいのが現状です」
拉致監禁の経緯や手筈、薬の入手ルートや「神託の御子」過激派との繋がりなどが、コモドからは追えないらしい。グランコクマにいた過激派とも連絡をとっていたのは彼ではなく、カルマートに言われていた場所に行ったら迎えられたような形だったという。
「なら、グランコクマの過激派からカルマートへの線は繋げられないの?」
「それが、彼らはカルマートを知らないと言っているんです。プレストのことも、コモドのことも……ただ、啓示があったのだと。それに従って行動していただけだというのが、彼らの主張です」
「……どういうこと?」
よく分からなくて問うけれど、少年は首を横に振っただけだった。分からないということだ。それ以上は本当に何も情報が出てきていないし、整理もついていない。これだけ色々なことがあったのに、話の全容が掴めていなかった。
「カルマートも厳重注意に留めることしか出来ていません。組織的な繋がりも、薬の所持や使用も証明できていないため、罪に問うことが出来ないんです。導師補佐役の拉致監禁についても、証言出来る人間がいないため『保護していた』という主張を崩せずにいます」
つまり、見事に逃げおおせているということだ。話に聞く限り性格が悪くて頭が回る印象だったが、その通りのようだ。証言出来るのは「何も知らされていないコモド」と「薬漬けで記憶をなくしていた被害者」しかいない。そんな人間の証言にどこまで信憑性があるだろうか。客観的な物証が必要だ。
「プレストは……見付かっていません。唯一、貴女をバチカルから馬車で連れ出し、その……乱暴を働いたということで罪に問えたのですが……」
言いづらそうにする。あの爆発で死んだと判断されているのだろう。個人的には違和感があるが、何の根拠もなく証明も出来ないため、その判断が妥当だとは思う。
つまりキムラスカ王国は、今回の件に関して「何も掴めなかった」ことになる。事を公にするわけにもいかないので、威信に関わる大事にはならないだろうが……よくはないだろう。それはマルクト帝国もボク達教団も、同じことだ。
「……アリア」
「ん?」
少年に名前を呼ばれて顔を上げる。と、体が近付いて抱き締められた。びっくりして息を飲む。体が強張って、でも優しくて温かいだけのそれに、ゆっくりと力が抜ける。大丈夫、この人は怖くない。思い出せないけど、それは知ってる。
「怖い思いをさせてしまいました。本当に……申し訳ありません」
「なんで君が謝るの?」
「貴女が『始祖ユリアの生まれ変わり』として見られるようになったのは、僕のせいですから。僕が貴女を……側に望んだから」
すみません、と落ち込んだ声が耳に届く。それは本当に悔やんで聞こえて、胸が締め付けられる気がする。そんな風に責任を感じる必要なんてないのに。ボクは、いつだってボクのしたいことをしている。
「貴女を助けたかった。自分の無力が嫌で、無力ではないと言ってくれた貴女に、出来ることがしたかった。貴女が傷付かないように、どこかへ行ってしまわないように……貴女に手を伸ばした」
それは、どこかで聞いた話。ノイズがはしる。白い景色。一面の銀世界の隅で、二人きりの部屋だった。
あれはいつだっただろう。どうしてそんな話をしたのだったか。分からない。繋がらない。記憶がバラバラだ。
「ダアトで貴女と過ごす時間は、僕にとって大切なものでした。けれど同時に、ずっと思っていたんです。貴女を僕の側に縛り付けたのは、間違っていたのではないか、と……」
背に回された腕に少しだけ力がこもる。緊張があって、迷いがある。それが胸の締め付けに何かを差して、何かを言いたくなる。
何を? 分からない。でも、そうじゃないから。
「ボクは……君が帰ってきてくれて、凄く嬉しかったよ」
ボクの言葉に、少年の体が震えた。
分かる。大丈夫。怯えなくていいんだ。ここにある温もりは本物で、夢じゃない。誰が間違ってるって言ったって、今ある結果が事実だ。この世界に、神様は要らない。
「君に望まれて、ボクは居場所が出来たんだ。根無し草が根を生やした。最初はそりゃ違和感だったけどさ……今も、違和感はあるけどさ。でも、ボクは自分で望んで導師代理になったんだ。君を待って、迎えに行って。今も、好きな場所にいる」
言葉が出ていく。バラバラの記憶。でもそれより先に感情が動く。脳が保有する事実を参照する必要なんてない。全部、君の悔しさに締め付けられる胸の内に、あるから。
「いなくならないでよ。今更、手離さないで。君がいないと、どこにいればいいのか分からない」
抱き締め返す。温かい、生きている音が聞こえる。それがいい。そうしていて欲しい。君には帰る場所でいて欲しいんだ。陽だまりのように、そこに在って欲しい。君がいないと───君は、ボクの大事な人だから。
「……困って、しまいました」
「え?」
本当に困ったように笑う息が耳にあって瞬きをする。どうしたのだろう。首を傾げて彼の表情を見たいけれど、抱き締められていて叶わない。声は続く。
「アリア。僕も、聖人君子ではないんですよ」
「???」
何の話だろう。彼はとても信頼しているけれど、だからって聖人君子だとは思っていない。思っていない……つもりだ。
戸惑えば体が離された。去り際に頬に唇が触れる。驚いて少年の顔を見れば、よく見慣れたいつも通りの穏やかな微笑みを向けられる。
(……違う。あの、眼だ)
優しい、温かな眼。見守るような、慈しむような、ボクの好きな千歳緑の瞳。でも、今は熱がある。どこかで知った、不思議な温度のある瞳。───どこだっけ。
「アリア。何度でも伝えます。僕には貴女が必要です。貴女が僕に意味をくれた時から、僕の代わりはどこにもいない。貴女の、代わりも」
「……うん。ボクもそう思ってる。君だから、居て欲しい」
告げれば、彼は少し寂しそうに微笑んだ。どうしてだろう。ボクは本当の気持ちを口にしているし、君の言葉だって受け取れている筈なのに。何が、そんなに。
「貴女の護衛役が起きてくるまで……」
少年はベッドの脇の椅子に座り直すと、そう口にした。手を伸ばし、ボクの手を取る。優しく包んで握る。触れる温度はボクと変わらない、人間のもの。
「……こうしていても、構いませんか?」
躊躇いがちな問い。遠慮をするように控え目に望みが伝えられる。
いつだっただろう。その手を振り払いたいと感じたのは。繋ぎ止められることを恐れた。優しくされる度、温かい感情を向けられる度、全てを壊したいと衝動に駆られた。
でも今は大丈夫。何が変わったのだろう。何がボクを変えたのだろう。「ボク」を形作っているのは、術式だけだろうか。
「勿論。心配かけて、ごめんね───テセ」
ああ、そうだ。音が舌を転がって、思い出す。
彼はテセ。テセレマ。ボクが初めて持った友人で、勝手に死んだ酷い人。教団の最高指導者で……「汝の意志することを行え」と、ボク達の胸に刻み続ける名の人だ。
*****
それから。双子以上にそっくりなボクの被験者に感動のタックルをくらって、大佐とナタリアとも顔を合わせた。ナタリアはまだしも大佐なんて凄い久しぶりだったけれど、だからって何かがあるわけでもない。仲間なんてそんなものだ。お小言はあった。
「全く。貴女は何故問題を起こさずに過ごすことが出来ないのでしょうねぇ」
「今回の件は予想できないやい」
「そもそも夜更けに一人で宿を抜け出すからこうなるんです。己の力を過信し過ぎないように」
「はぁい……」
そこを刺されれば何も言えない。バチカルで行方不明者が出ている話は聞いていたし、それを甘く見ていたから拉致監禁に遭ったのは事実だ。いやでも無理じゃない?
「ご迷惑お掛けしました……」
「ええ、本当に。ですが、今回の件で水面下にあった問題へ光を当てられたのは、こちらとしても助かりました。その点は感謝していますよ」
「そのために捕まった訳じゃないです!」
「ははは。ま、次は無いようにしてください。こちらも対策を講じますので」
「……ありがとう」
素直にお礼を言いたくなくなる物言いで、しかしアフターフォローもバッチリな言葉を寄越される。手の平で転がされる感じが本当に変わらなくて、この人性格悪いなと思わされる。
イオンやカルマートも性格良くなさそうだし、ですます調の物腰が柔らかい男性はみんな性格が悪いのだろうか。その法則だとテセの性格も悪くなるので本気でやめて欲しい。
「ナタリアも。ごめんね、いっぱい迷惑かけちゃった」
「そんなことは御座いませんわ! 寧ろ我が国の不全に貴女を巻き込んでしまいました。謝罪するのはこちらです。本当にごめんなさい」
王女殿下の謝罪を軽く受け取る程ボクも能無しではない。慌てて頭を上げてもらう。こちらからすれば「神託の御子過激派問題」はボクが悪目立ちし続けた結果であり、狙われたのは自業自得だ。
けれど事は預言のことも絡んでいるし、それぞれの国に立場がある。発端がどこにあるかは明確には問えないのが現状だ。
「暫くはダアトを離れないで、きちんと療養なさってくださいませ」
「こちらでも何か動きがあれば報せます。ガイなら喜んで使いっぱしりになるでしょう」
「仮にも伯爵家なんだけどなぁ……」
その扱いでいいのだろうかと思いつつ、まぁ知らない人が来るよりは余程こちらも動きやすい。これもまた適材適所ということだ。
(ガイといえば……ダアトも気が重いな)
テセの代わりに置いてきたというイオンに一抹の不安があるし、何よりアニスとアリエッタが気になる。守護役としてカモフラージュにアニスを置くしかなかったらしいのだが、イオンに関してはアリエッタが譲らないのは眼に見えている。絶対にバチバチに喧嘩をしている自信があった。
(まぁ、お師様は面倒見いいし、なんとかしてるよね。うん)
無責任に一人で頷いて心配をやめる。最悪、教会に穴が開いているかもしれない。驚かないようにしよう。
そんな風にして、ボク達はダアトへ向かう船へと乗り込むことになった。大佐はまだ少しナタリアと話すことがあるようで、バチカルに滞在するようだった。
二人に見送られて、船が出る。ただのアドリビトム視察が大変な騒ぎになってしまったなぁと、どこか他人事のように感想を漏らした。
*****
船室でベッドに転がる。すっかり対応が厳重になってしまって、個室な上に部屋の外に見張りまでいる。そこまでしなくてもと思うのだけど、今回の事件を起こした身としては強く言えない。と言っても、ハッキリとした記憶があるわけでもないので実感もなかった。
(プレストを探して夜のバチカルに出て……変な誘拐集団に拐われて)
何を言われたのだっけ。
ノイズ。
分からない。
「神託の御子」がどうの、導がどうのと言われた気がする。体を無遠慮に触られた感覚が蘇って不快になる。そこで気を失って、次に目覚めたのはプレストの屋敷だ。
(でも、記憶を失ってる間のことって曖昧なんだよね)
なんとなくは思い出せる。凄い熱が出て朦朧としてて、プレストがよくしてくれた。コモドはよく見舞いにきてくれて、本を読んだり何でもない話をしたりしてくれた。
(……コモド、大丈夫かな)
少しは何も思わないでもない。記憶を失っている間、多分一番親しくしていた人だ。その感覚はフィルターがかかったみたいに他人事だけど、少しは気になる。
プレストやカルマートとは幼馴染みだったし、そのカルマートには散々利用され、プレストは死んだと見られているのだ。胸中は想像も出来ない。
「プレストをお願い」と言われた時の顔を思い出す。アレは仕事の依頼ではなかったし、頷いたのはボクであってボクではない。正直、今のボクにとっては「お願いされる筋合いはない」が心情だ。
でも、人間の剥き出しの感情に何も思わないのは、ボクには無理だから。
(……プレスト)
特別な感情は浮かばない。名前を呼んでおかしな熱に煽られることもないし、姿を正しく思い浮かべることさえ難しい。声も温度も匂いも、全てが曖昧だ。
それが正常で、渇きもなくて落ち着いている。薬の影響が強かった間の記憶が今は曖昧だというのと、きっと関連しているのだろう。それとも防衛本能だろうか。
(気持ち悪い)
思い出そうとすれば思い出せなくもない。フィルターがかかって鮮明とは言えないが、されたことは覚えている。体を触られて、薬で理性を溶かされて、息が。
「………………」
思考をシャットアウトする。気持ち良くなんてなかった。嫌だったし、今思えば抵抗できなかったことが屈辱的で、結果的にあの右腕を吹き飛ばせたのは僥倖とも言える。二度と触れられたくない。二度と見詰められたくない。
(───怖い)
どんなに記憶にフィルターがかかっても、感覚が遠退いても、その感情だけはなくならなかった。怖い。体が震え出したりはしないけど、それでも怖い。
記憶をなくしている間、再会したプレストにボクの体は動けなかった。とても怖くて、そんなに人を怖いと思ったことはなかった。何も出来なかった。されるがままで、抵抗は無意味だった。
助けが遅かったらどうなっていただろう。記憶は戻った。今ならもっとちゃんと抵抗出来る筈だ。でも、もし出来なかったら。死んだとされてるプレストがもしも生きていて、再び現れたら。「ボク」の体は動いてくれるのだろうか。
(怖い……)
ゆっくりと息を吐く。自分の吐く息が震えているのではと錯覚さえする。気を落ち着かせて、目蓋を閉じた。
少し眠ろうか。どうせダアトへ着くまで時間はある。一人きりの船室でベッドに転がり、耳を澄ませる。すると小さな話し声がした気がして、足音が遠ざかっていく。見張りがいなくなった……のだろうか。
何かと思えば、扉が開いた。目蓋を持ち上げてそちらを見れば、人の姿がある。千歳緑の髪を鶏冠にしてる、黄色い嘴みたいな仮面を着けた少年。
「邪魔するよ」
「ん」
短く応えれば彼は扉を閉じて、ベッドまでやってくる。ボクは身を起こして迎えた。
「どうしたの?」
「人騒がせなトラブルメーカーの様子を見に来たに決まってるだろ」
呆れた様子で言いながらベッドに腰掛けて、手に持っていたものを触り始める。注意を向ければ赤い林檎で、小さな果物ナイフで器用に皮を剥いていた。戦慄する。
「……まさか、それボクに剥いてくれてるの?」
「ボクがわざわざ林檎を食べにここまで来たって思うなら、潮水を頭からかけてやるよ」
「洒落にならないからやめて」
水を被って反省するのは分かるが、潮水は普通に嫌だ。やったことはないけどベタベタしそう。
それはさておき、彼が林檎の皮剥きとはどういう気紛れか。別の意味で怖い。とはいえ重ねて尋ねて機嫌を損ね、本当に潮水を被ることになるのも勘弁したい。様子を見ることにした。
「あのお節介焼きだよ。アンタの様子を見に行くって言ったら『見舞いなら林檎』とか言い出して持たされた。持って帰るとうるさいのが目に見えるからね。食べろ」
「あっはい……」
どうやら発端は被験者らしい。彼女らしい発想だと思うし、彼への強制力も相変わらずだ。それでも林檎をこの部屋に置いていくという選択肢もあるわけで、剥いてくれる必要性はどこにもない。分かっていて剥いているのか、気付いていないのか、判断はつかないけど黙っていることにした。林檎、食べたいし。
「はい」
剥けて綺麗に切り分けられた林檎をひと欠片差し出される。ぱくりとかぶりついて、咀嚼する。飲み込んだ。甘くて美味しい。
「………………」
「ん? どーかした?」
「受け取ってから食べろ」
「あ、ごめん。丁度いい高さにあったから、つい」
うっかり手ずから食してしまった。お行儀がよくなかった自覚くらいはある。まぁ行儀なんて基本気にしていないし、お陰でこういうことが起きるわけだが。
溜め息が吐かれて、皿ごと林檎がサイドテーブルに置かれる。林檎を置く程呆れなくてもいいだろう、と思った、直後。
「わっ」
急に体が引き倒される。一瞬目を瞑って、視界を戻せば真上から見下ろされている。仮面で表情は見えないけど、真面目な瞳が見えるようだった。冗談の気配ではない。
「……ぁ」
声が上手く出ない。体が強張って、体温が上がる。心臓の音が気になって、手が触れている肩が意識される。
何故。こうして彼に視界を塞がれるのは、何度目か。彼がボクに馬乗りになることなんて、今まで何度もあった。そのどれも、こんな風には緊張しなかったのに。何が違う。何が変わった。
(変わったのは───ボク?)
分かっていない、わけではない。屋敷でプレストがしようとしていたことを。馬車で自分の体に起きた変化を。知らなかった頃には戻れない。あの疼きは、まだ体のどこかにある。
(で、でも、アレは……そういう人達だったって、だけで)
頭の中で言い訳をする。現状に対する言い訳。でも何の役にも立たない。彼らがそういう人達だったとして、目の前の少年が同じでないと、何故言える?
熱い眼を知っている。プレストが向けてきたものに少し似ている眼。身に覚えがないとは、少しも言えなかった。
「覚えてる? 記憶が戻ったら覚悟してって言ったこと」
「え、とぉ……」
我ながら下策だったと思う。曖昧に誤魔化して視線を反らすなんて、覚えてますと言っているのと同じだ。当然彼は見逃さない。それどころか予想を超えて厳しい。
「逃げるな」
「ぅ……」
ぴしゃりと強い口調で責められる。肉体的にも逃げ場などない。彼はボクの上にいて、押し退けるのも難しい。……いや、言い訳だ。彼は決してボクを拘束したりはしていない。強い力で押さえ付けられたり、脅されたり、そんなこともない。追い払いたければいつでも出来る。
でも、そう出来ないのは。
そうしたいと、思えないのは。
「アンタが消えて、ボクがどんな気持ちだったか分かる?」
「……とてもお怒りだったかと」
「正解。見付けたらただじゃおかないって思ってたよ」
不機嫌そうな声に萎縮してしまう。いや、やっぱりそうだよね、という感じだ。彼が怒るのは予想できていた。それから多分、自分の力不足を責めた筈だ。何のために護衛役として近くにいたのかと。そう思わせてしまったのはボクなのに。
申し訳なくて何かを言おうとして、それより先に言葉が降ってくる。予想外の言葉。
「それから───ボクにも説明がつかない感情が、あった」
「……え」
「知らない感情だよ。ぐちゃぐちゃで分からない感情。でも、全部アンタに向いてるモノなのは分かった」
頭が追い付かない。話が抽象的過ぎるせいだけれど、言葉にしている彼も的確な言葉が浮かばないでいるのだ。曖昧なまま、でもゆっくりと話は進んでいく。
「あの裏切り者の腰巾着から、全部聞いてるんだ。馬車で何があったかも大体は想像できる」
声に怒りが混じる。命を拾う前の彼は、感情が剥き出しみたいな人だった。拾ってからの彼は、あまり人前で感情を出さない。不愉快とかは隠さない、けど、本当に大切な部分は見せない。
彼がそういうところを見せる時は、いつだってボクの視界をこうして塞いでいる時だった。他に誰もいない時。彼にも、ボクにも、お互いしかいない時。
「───グランコクマで、ボクが触れた時。どうだったの?」
問われる。声が少し震えた気がして、小さな恐れを見付ける。でも、そんな必要はなかった。君とプレストは別の人間だから。
「怖く、なかったよ」
「………………」
「あの時、ボクは記憶がなくて君も知らない人だった。でも怖くなかった。だって君は、ボクを傷付けない。優しく、掬い上げてくれたでしょ」
覚えてる。様子のおかしくなったボクに手を差し伸べた君を。あの時きっと、彼はボクが覚えてなくて平気じゃなかった。でも大事に扱ってくれた。彼のためのボクを、強いなかった。への字に曲げられた口が開く。
「ボクは聖人君子じゃない」
それは、聞いたばかりの言葉だった。テセの口から、同じ声で、けれど違った響きで届く声。苦しげな、声。
「ボクの手がアンタに触れていいなんて思ってない。生きる価値を知らない薄汚い手だ。『欲しい』なんて、分不相応な望みでしかない」
何も言えない。彼の手が薄汚れているとか、分不相応だとか、そうは思わない。でも「触れていい」って言えるかと問われれば、まだ分からない。
嫌じゃなかった。安心があった。でも、触れることの意味はまだ分かっていない。知識では分かる。そういうものを向けられることを、身をもって知った。でも、理解が出来ない。想像できない。同じものを、向けられない。
だから、軽々しく言葉を返すことは出来なかった。
「言ったよね。いい加減懲りたって」
「……うん」
───手を伸ばさなきゃ、夢のままだってことにだよ。
声が蘇る。眠りに落ちる寸前、確かに耳に残った。その後、首筋に残った感触も覚えている。なかったことには出来ない。
夢のままという、その言葉がどこから来たのか、ボクは知らない。でも彼は、きっと何かの夢を見ていて。まるでテセがいない日々を、夢心地で過ごしていたボクのように、実感がなかったのだ。そこに居る、実感。
「ボクの手はアンタを汚す。あの男が言ったみたいに。でも、もう見てるだけは出来ない。アンタが繋いだ手に任せてたら、今回みたいなことが起こる」
伸ばし返さなければならないと言うように、手が伸びる。頬に触れて、かかっていた髪が外される。手袋越しの感触でも、触れているのが彼の指なのだと意識する。
ゆっくりと様子を見るように頬を撫で、首筋へ下りた。それがくすぐったい。
「アンタが嫌がっても……ボクは『欲しい』んだ」
嫌がってもと言いながら、ボクの反応を気にする様子はとても彼らしくて。ボクも手を伸ばす。嘴型の仮面を掴んで、そっと外した。
仮面の下から覗くのは知っている顔。幼さのある整った顔で、テセやイオン、フローリアンに似てるけど違う顔。ボクの好きな千歳緑の瞳と目が合う。
痛みと恐れのある瞳。不思議な熱を、帯びた眼。
(欲しい、なんて。よく分からない)
コモドの言葉が思い出される。特別で、全部が欲しい。そういう存在の話をしているのだと思う。
ボクにとって彼は特別。側にいて欲しいし、側を望みたい。でも───「欲しい」は分からない。どんなに考えてもその人はその人のものだ。ボクがボクのものであるように。
でも……折角伝えてくれた望みを断つことなんて出来ない。よく分からないなら、分かるようになりたい。そのための時間を持つことは出来ると思う。
「……触れる、だけ?」
我ながら声に怯えが出てしまった。狡いと思う。でも、それが正直な感情だ。
プレストにされたようなことを、されてもいいとは思えない。分かっていないから。まだ難しいから。時間を、目の前の彼はくれるだろうか。
見上げた先の瞳は細められて、唇が薄く開いて吐息が漏れた。
「それでいいよ。アンタが分かるまで、ゆっくり待たせてもらうから」
くしゃり、と頭が撫でられる。それは犬猫にするような愛想のない触れ方だったけど、ボクを緊張させないためにわざとそうしたのだと思う。千歳緑の瞳が意地悪に笑う。
「───それまで。ギブアップはナシだよ」
ああ、とんでもない約束をしてしまった。気付いた時にはもう遅くて、でもはね除ける選択肢は最初からなかった。そんなことが出来るならとっくにしている。
今分かるのは、嫌じゃないってこと。他の人は嫌だったってこと。彼がボクに向けるモノが何かは分からないけど───
(───君の特別になれたらいいな。シンク)
今はもう、君の名を呼べるから。
頬に触れる熱を、そっと受け入れた。
*****
潮風と波の揺れを甲板で感じる。天気は良くて、ダアトに着くまでに荒れる話は聞いていない。順風満帆、先行きに不安は何もない。でも、私の胸には暗雲がある。
バチカルでの誘拐事件。「神託の御子」過激派の動き。プレスト達と、グランコクマでのこと。頭のおかしい連中の話と片付けることは出来る。何の繋がりも見付からなくて、ただ神の啓示があってその通りに動いただけだ、なんて。
それが滅多にないアリアのアドリビトム視察と重なるなんて、そんな都合のいい話があるだろうか。
(偶然じゃない。これはアリアを狙った動きだわ)
証明は出来ない。点を線で繋ぐのが難しい出来事だった。でもどこに焦点を合わせてこの絵を見るかと問われれば、私はアリアと答える。
それもまだ終わっていない。何が目的か全く分からないけど、きっとこの一連の流れを生んだ誰かはまだ目的を達成していない。これは始まりで、きっとこれから起こることの一部でしかない。
流れの大本は、アリアに何を望んでいるのだろう。
アリアで、一体何をしようとしているのか。
(貴方は───教えてくれないのでしょうね。イオン)
ゆっくりと近付く、私の育った優美な牢獄。
貴方にとって、この世界は今も変わらず箱庭で。
造花と生花の違いなど、本当にないのかもしれない。