庭園の造花


 温かくて、優しい。そんな夢から目が覚める。

 浮上する意識が音を拾い始め、持ち上げた目蓋から光が差し込んだ。鼻に触れるのは清潔にされているシーツの香りで、程よい重さを体に与えている布団が温い。

 その中でゆっくりと瞬きをし、頭を動かし始める。

(……なんだっけ……なんか……あった気がする……)

 頭が重く、どこかぼうとして曖昧だ。なんだか長い間、眠っていたような気がする。海を越える程……長く。

「目が覚めたみたいだね」

「!」

 誰の姿も捉えていない視界で、声が掛かって急に頭がハッキリし出した。聞き覚えのある声。昨日、そう、このベッドで眠りにつく時に聞いていた声。

 密に触れて感じた体温を思い出して一気に羞恥が上がってきた。慌てて身を起こして、想定外に思い切り頭が揺れる感覚があって目が回る。気持ちが悪い。

「急に起きない方がいいよ。熱があるんだから」

「……その忠告は早めにして欲しい」

「言う前に飛び起きたのはアンタだろ」

 全くその通りなのだけど、恨みがましい眼で見てしまいたくなる。ゆっくり頭を持ち上げて視線を動かせば、備え付けの椅子に足を組んで座っている少年の姿が見えた。千歳緑の鶏冠頭に鳥の嘴のような変な仮面。昨日の、人だ。

「なに?」

「……いえ」

 思わずじっと見てしまえば問われる。それに何と言っていいのか分からず誤魔化してしまった。セクハラ、と批難をすればいいのだろうか。でも嫌だったのかと言われれば、そうではない。なんとなく安心感があって……戸惑っただけだった。

 そもそも、よく分かっていない。知識として昨日少年にされたことが「セクハラ」に分類できることは分かる。でも、少年が何を思って、何のために触れてきたのかは分かっていない。ああして触れる行為に、何の意味があるのだろう。

(セクハラに下心がセットなのは知ってるけど、こう……そういう、下品な感じじゃなかった)

 では何だったかと問われればやはり分からない。それでも触れられた距離は恥ずかしさのあるものだったので、それならもう蒸し返さない方がマシな気がした。頭を切り替えよう。

「えっと……昨日から、そこに?」

 質問してから失敗したと思った。落ち着いて考えてみれば、そんなことがあるわけがない。人間は休む際にベッドを使う。窓から差し込む陽光から、私が眠っている間に夜は明けたわけだし、少年もその時間を休息に当てただろう。

 この部屋には私の使っているベッドしかないわけで、彼は自分の部屋に戻って休んだ筈だ。そう思ったのだけど。

「わざわざ椅子で寝るわけないでしょ。そっちのソファを借りたよ」

「………………」

 想定と違う形で否定をもらって沈黙する。そこにあるソファを使ったらしい。この部屋にある……つまり、少年は昨日の夜からずっとこの部屋にいたということか。

 寝心地はさておき、違和感のある話だ。彼らの話を信じるなら私は長く行方知れずになっていたわけだし、心配をかけていたとは思う。だからといって、一晩中同じ部屋で過ごすだろうか。男女であることを差し引いても常識的な……普通の感覚ではないように思える。

 何か問題があるというわけでもないけれど、確かに何かが意識の端に引っ掛かった。

「あれから、何か変わりました?」

 昨日のことを忘れたみたいに敬語に切り替える。一つはなんだか恥ずかしいから。もう一つは、やはり今の私にとっては知らない人だからだ。親しく話していた可能性は高いけれど、少なくとも今の関係性では無理だった。少年もそれには触れてこない。

「バチカル行きはまだ決まってないよ。でも、アンタに面会を許された人間がいる」

「誰ですか?」

「コモド・ブリッランテ」

 何でもないことのように告げられた名前に驚く。昨日の話で彼がマルクト軍に拘束されているのは聞いている。でも会えるとは思っていなかったのだ。私を解放するのに協力したという話だったけれど、それを考慮しても拉致監禁の実行犯の一人が被害者と話せるとは思えない。

 どういう風の吹き回しかと思っていれば、少年が教えてくれる。

「聞き分けのない被害者が事実を認めてくれなくて困ってるからね。実行犯の一人から直接話を聞けば折れるって期待してるんじゃないの?」

「………………」

 何も言えず視線を布団へ落とした。今、どちらと口にすることは出来ない。何がなんでもプレストに会って話を聞くつもりなので、コモドに会えても納得する気はない。けれど頭ではもう分かっている。彼らの話が正しくて、きっとそれをコモドも肯定するのだろうことが。

(それでも、プレストに会いたいから)

 私は聞き分け悪く、彼らの話に耳を塞がなければならない。この熱も彼らに聞いていた通りにきっと薬の副作用なのだろうし、プレストに会いたい気持ちのどこかに不自然な回路があるような気もする。

 思い出すのは両腕を強く押さえつけられて、強引に口付けをされた光景。あの時の彼の眼は爛々と光って見えて怖かったし、男性の力の強さを実感した。押し付けられる唇に動転する内に、熱い舌が滑り込んできて薬の甘い味が広がった。そこからの記憶は、曖昧だ。

(凄くぼんやりして、夢見心地みたいにふわふわして……体の奥から満たされるような、凄い、気持ちがよくて)

 甘い、甘い痺れが爪先まで支配した。もっと欲しいと思ってしまった。でもその反面で、プレストのしたことを認められない私がいた。与えられる感触も、混じり合う唾液も、境界を無くす吐息も。

 認められない。受け入れられない。薬に与えられる快楽の中で、それを快として受け取らない私の感覚がまだ残っていた。

(……彼なら、どうしたかな)

 視線を上げる。その先にいるのは、退屈そうに本を開いている緑髪の少年だ。昨日触れた温度が、熱が、呼吸が思い出される。

 強引さは感じないのに迷いもない、不思議な触れ方をしてきた。あれはきっと、知っているからだ。彼が私を知っているから、私の呼吸を知っているから、無理強いでない触れ方を判断できる。彼は。

(前から、私をそういう眼で見てきたのかな……)

 コモドが言った熱い視線という言葉を思い出す。どこかで見た覚えのある眼。それは、目の前の少年のものだったのだろうか。昨日は仮面があって、彼の表情は見られていない。

 とても優しく扱われた、気がする。プレストの時とは違って怖くはなかったし、軽蔑する心も湧き出さなかった。そもそも、少年が触れてきたのは私が自分を傷付けたからだ。薬を思い出した私の様子が、おかしくなったから。

(……訳分かんないなぁ)

 何が、と明確に言葉にすることも難しいくらいに訳が分からない。違う生き物としか思えない。男女差や個体差によるものなのだろうか。理解できない。想像できない。分かるのはただ、プレストもあの少年も、私にとっては「普通」ではないということだけだった。

 

 

 

*****

 

 

 

 昨日揃っていた人達が私の部屋に顔を並べて、ようやく兵に連れられる形でコモドが姿を現した。特別痩せたとかはないけれど、ばつが悪そうに視線を外す様子は元気にも見えない。

 兵が茶色の髪の軍人さんに敬礼をして部屋を出ていく。

「あー……えっと。元気? 御子様」

 どうにか普段通りに話し掛けようとして、コモドは声を明るくする。それが状況に合っていなくて、不自然に作られた笑顔が苦しげだ。だからあえていつも通りに応える。特別、作ったりなんかしない。

「熱があって怠いし、頭が揺れて辛い」

「あ……はは。だよね」

 自嘲するような笑みは、分かりきったことを聞いてしまったからか。私に薬の副作用が出ているように、コモドにも副作用が表れていることは聞いている。彼も似たような体調だということだ。更に言えば、彼は私に薬を盛った人達の一味。責任を感じているのかもしれなかった。

「とりあえず座ってよ。具合よくないでしょ」

 そう声を掛けるけど彼は明るい金髪を横に振って拒否した。

「オレはここで」

「でも」

「ダメだよ、御子様。オレは御子様を薬漬けにした、わるーい奴の一人なんだから」

 優しくしちゃダメだと言われて、黙るしかない。そう諭す彼の様子は今までとあまり変わらない。悪い人間だなんて言われても、彼が余計な一言のように私に忠告をしてくれるのはいつものことだ。それを悪意として受け取ることは、いつだって難しい。

「ごめんね、御子様。いっぱい、酷いことした」

「……されてないよ」

「したんだよ。今の御子様には分からないだけだ。記憶を取り戻せば、オレ達のことを許すことなんてなくなる。それが当たり前で、そんな当たり前を奪うような薬を、オレ達は分かっててキミに使ったんだ」

 本当に許されないことをした、とコモドは頭を下げた。許されるとは思っていないし、許しを乞えるとも思っていない、とも言葉が続けられる。それでもやってしまったことは消えてなくならないから、せめて謝罪をしたいのだと。

 その謝罪は、この場にいる他の四人にも向けられたものだった。

「オレはプレストの力になりたくて……勝手な願いに、彼女を巻き込んだんだ。本当に、ごめんなさい」

「……人は過ちを犯す生き物です」

 頭を深く下げたコモドに、もう一人の緑髪の少年が言葉を掛けた。ゆっくりと諭すように、優しく。穏やかに。

「同時に、人はいつだって正しい道へ、己を律することも出来る。そう在ろうとした貴方の強さを僕は知っています。だから、貴方がたがこれから先の未来も、お互いに支え合いながら歩いていけるものと、信じています」

「……ありがとう、ございます」

 噛み締めるようにコモドが声を絞り出す。人は間違える生き物だと、プレストも言っていた。だから正し、導くために自分がいるのだと。

 きっとその想いの始まりは善いものだったのだと思う。思い描く理想も、きっと。でも彼はどこかで方法を間違えた。想いに囚われて、見誤った。それに気付いていたから、コモドは私に願ったのだ。「プレストを助けて欲しい」と。私に、そんな力はないのに。

「御子様。彼らの話は本当なんだ。本当に、オレ達は御子様を拐って閉じ込めたし、嘘を吐いて利用してた」

 コモドが私の眼を見る。それは真っ直ぐに、己の過ちを見詰める眼だ。彼が今ここにいるのは、逃げることを自分に許さなかった証。

「あの堅物で不器用で正直者のプレストでさえ、そうなんだよ。堂々と嘘を吐いてた。それが世界の……御子様のためになるって、本気で信じてるんだ。そんな奴と会って話して、御子様はあいつの言葉を信じられる? あいつを───助けられる?」

 それは勝手な願いだ。以前、コモドが私に願ったこと。でも多分、私はその手を振り払うつもりなんてなかった。自分が慈悲深いなんて思わない。誰かを救う力も身分も持ち合わせてない。でも彼が私に勇気を問うた時、その眼にあった光を私は見落とさなかったから。

「コモドは調子がよくて、いい加減で何でも後回しにする、人としてある程度最低な人間」

「えっ? なんで急にオレ、ディスられてんの?」

 私の言葉にコモドが眼を白黒させる。私の知ってるコモドの話だ。決して人格者というわけではなく、でも悪と断罪するには情のある人。私が落ち込んだ時には飽きるだろうにずっと話を聞いてくれて、でも特別身になる話が出来るわけでもない。ある意味役立たずで、でも意味がある。

「コモドは特別善人ってわけじゃないかもしれない。善悪なんて私にはよく分からないし。それでも、私やプレストに向けてくれてた感情を、見なかったことには出来ないよ」

「御子様……」

「プレストだって同じ。嘘とか、騙してたとか……たったちょっとの関わりだったかもしれないけど、何もなかったわけじゃない。それだけで、会って話したいと思えるんだ」

 だから、私はプレストに会いたい。一番最後の触れ合いが衝撃的すぎて、思い出せば正直嫌な気持ちにはなるけれど。それでも彼の言葉を信じられるかは、言葉を聞いてみなくちゃ分からないから。コモドが俯く。

「……オレは、正直反対だよ。今のプレストは目的のために大事なことを見失ってる。カルマートだって何をするか分からない。……薬の、ことだって」

「私も反対です。貴女は体調が万全でないですし、相手は事件の重要参考人。記憶が戻るまで大人しくここにいて欲しいですね」

 眼鏡の軍人さんがコモドに賛同する。立場はよく知らないけれど、ここはマルクトの王宮だというし彼の権限というのは大きい気がする。彼の許可がなくては国を出る段取りは組めないだろう。

 しかし説得できる材料が何もない。聞き分けの悪い被害者は確かに頭の痛い問題だろうが、それだけだ。

「私も反対よ。自分に都合よく従わせるために危険な薬を使う人間になんて、会わせられない」

 私のそっくりさんも続く。その顔は怒りを表現していて、余程腹に据えかねているらしい。当事者としては実感がなくてよく分からないのだけど。

「……僕は、彼女の意思を尊重したいと思っています」

 反対が続く中で、緑髪の少年がそう口にした。白い法衣を纏った、穏やかに微笑む人。年齢としてはこの中で一番幼く見えるのに、誰もが彼の言葉を待った。

「皆さんの言う危険は分かっています。でもこのままでは彼女は納得しない。彼女の頑固さは、よく知っているでしょう?」

 場に無言の肯定が重なって、複雑な心地になる。記憶を失う前の私は、そんなに聞く耳持たずだったのだろうか……

「このまま様子を見るだけで、彼女の記憶が戻る保証もありません。カルマートを問い詰められればいいかもしれませんが、コモドの証言があったところで彼は逃げ切る道を作り出すでしょう。それなら、彼女が直接話を聞き、プレストがボロを出す可能性を考えてもいいのではありませんか?」

「……確かに、カルマートと違ってプレストは頭に血が昇りやすいけど……」

 コモドが複雑な様子で肯定する。それは私も身を持って知っている。カルマートというのは多分、プレストの屋敷で最後に見た人影のことだろうとは思っている。

 あの時は暗闇で顔は見られなかった。聞こえてくる声にも何の感情も見出だせず、人物像は掴めていない。激しやすいプレストとどちらの方が揺さぶりをかけやすいかと問われれば、当たり前にプレストだ。

 ここで仮面の少年が立場を口にした。

「ボクはあの騎士サマに会いに行くの、いいと思うよ。癪だけどそこの導師サマの言う通りだ。それに、ボクも個人的に用があるからね。丁度いい」

 他の面子は最初こそ驚いて見えたが、後半になると納得のある顔に変わった。個人的な用事というのは何だろう。

「何なら抱えて行こうか?」

「結構です!」

 私を連れていくリスクへの対処として、仮面の少年から冗談が呈示される。人前で子供みたいに抱えられては恥ずかしいから、やめて欲しい。……冗談だよね?

「───分かりました。少し陛下と話をしてきます。今日の内には結論をお伝えしますから、それまでは勝手な行動をしないようお願いしますよ」

 やれやれ、と軍人さんが息を吐く。まるでここには人の話を聞かないで勝手に突っ走る、団体行動や協調が難しい人間ばかり揃っているみたいな言葉だった。実際にそうなのかは、ちょっと今の私には分からない。

「御子様。もし会えたら……プレストをお願い」

「うん」

 私の返答にコモドは少し哀しそうに笑って、兵に連れられて部屋を出ていった。軍人さんも宣言通り話をするからと退室する。

 私のそっくりさんは「気を遣わせるから出ているわね」と記憶にない私を慮ってくれた。法衣を着た緑髪の少年は少しだけ躊躇って、仮面の少年を見てから同様に部屋を出ていく。その交差しただろう視線に何が含まれていたのか、今の私には予想すら難しい。それがなんとなくもどかしい。

 そして肝心の仮面の少年はといえば、唯一部屋を離れる様子を見せなかった。備え付けの机に向かって、その上に置いていた本を取り上げる。私が目を覚ました頃にも読んでいたものだ。予想通りではあるが、やはり腑に落ちないものがある。小さな違和感。

「……言いたいことがあるならハッキリ言ってくれない? アンタの心を読むような力は持ってない」

「言いたいことって言うか……」

 熱心に見すぎてしまったらしい。問われて困る。自分が何を気に掛けているのか、よく分からないのだ。

 例えば、彼がここに留まる理由が分からない。例えば、彼が昨日私にしたことが分からない。そこにどんな感情が、意図があったのか。何を考えて、そこで退屈そうに本を開いているのか。分からないし、気になる。

 気になるけど、じゃあどうして自分がそれを気にしているのかが、分からないのだ。実害があるわけでもない。嫌とか、そういうわけでもない。それでも気になる。ただ、気になる───その、仮面の下が。

「……はぁ」

 少年が溜め息を吐いた。本を閉じて机に置き、席を立つ。煮え切らない私に耐えかねて部屋を出るのだろうか。

 そう思ったのに予想に反して彼はこちらへやってくる。ベッドに腰掛けると顔をこちらに向けた。近付いた距離に思わず動揺する。

「ほ、本は?」

「飽きた。誰かさんの視線がうるさくて集中できないし、いい」

「そう……」

 だからって、何故近くに来るのか。さっきまでより余程困る。どうしていればいいのか分からないし、どこを見ていればいいのかも分からない。何か話があるのだろうか。せめてそうあってくれと祈っていると、仮面の少年は問いを口にした。

「……そんなに会いたいの?」

 少し固い声に、誰に、という情報が欠けていても分かった。私が今会いたいと騒いでいる相手はプレストしかいないし、間違えようもない。会いたくないけど、会わなきゃいけなくて、会いたくもある人。

 息を吸って、その意思を音に変えて空気を震わせる。

「プレストに……会いたいよ」

 複雑な感情を込めて改めて口にすれば、ずくりと何かが疼く。体の奥で何かが熱を持つ。自分の体が自分のものではないようで少し怖い。

 咥内を侵す舌の感触が急に蘇って気持ちが悪い。同時に飲み込んだ薬の心地よさが広がって、感覚がめちゃくちゃだ。触れられたくないのに、触れられたいだなんて。

 私が彼に会いたがっているのは、薬と強く関連付けられたその存在に、飢えているのもあると思う。思考を溶かされるのはとても楽で、心地よかったから。

「アリア」

 耳に触れる声で意識が外へ戻る。不思議な仮面を見れば、手が伸ばされていた。体が強張る。それが男性への恐れから来るものか、予感される温度への緊張によるものかは判断がつかなかった。少年の指先は私の頬に触れて───そのまま思い切りつねられた。

「いっ!?」

 慌てて振り払う。痛い。引きちぎるつもりでもあったのではと疑うくらいだ。批難の意思を込めて睨み付けた。

「な、なに!?」

「気に入らない顔してたから」

「元々こういう顔ですけど!?」

 悪びれもせず答える様子に常識を疑う。なんだというのか。自分の顔は見れないが、特におかしな顔をした覚えはない。もし無自覚でした表情だというのなら、私に責任を求められてもとばっちりだ。急に頬をつねられる覚えはない。

 擦っていれば、少年が欠伸を噛み殺した。そういえば、ソファで寝たと言っていたっけ。睡眠の質が悪くて眠いのかもしれないと思った。

「少し眠られては?」

「必要な睡眠はとってる」

「でも、ちゃんとベッドで休まないと」

「大きなお世話だ」

 言葉で突き放されるが、すぐ近くに留まり続けるので欠片も怖くない。寧ろ駄々っ子のように思えて、なんとか言うことを聞かせなければならない気がしてくる。頬をつねられた仕返しではないけど、少し口うるさくしてみようか。

「少し寝てください」

「寝たって言ってるだろ」

「ソファで、ですよね? 睡眠の質が悪いんです。ちゃんとベッドで寝てください」

「アンタには関係ないだろ」

「関係───、」

 ない。確かにない。少年が眠かろうが私の状態には関わらない話だ。少なくとも今は親しいわけでもないし、お節介を焼く程お人好しになったつもりもない。

 ただ、なんとなく。彼は、プレストと同じように私にとって「普通」ではないから。

「───関係、あります。気になるんです。ちゃんと休んでください」

「………………」

 私の返答に、少年は暫く沈黙する。それからぽつりと溢した。何故この部屋を離れようとしないのかを。

「……寝てる間に、どっかに行かれたら困る」

 仮面の下で表情は見えなかった。けれど、声は拗ねているようにも、困惑しているようにも聞こえた。幼い子供のような素の感情が見えて、うっかり微笑ましい。

「いなくなりませんよ」

「記憶がないっていいよね」

「や、約束しますから!」

「信用できない」

 弱った。つまり目の前の少年がちゃんと休もうとしないのは、回り回って私のせいということだ。私が信用を損なうようなことをし過ぎて、無用な警戒を与えている。

 記憶はなくとも多少責任は感じるし、何より、彼はこの警戒をいつまで続けるのだろうとも思う。当たり前だが、気を張りすぎれば人は擦りきれてしまう。

(休ませないと)

 でも、どうやって? 頭を回す。彼が眠っている間にいなくならないことを証明できなくてはならない。そんな方法があるだろうか。私の眼が、ベッドに置かれた少年の手を捉える。黒い手袋。そうだ。

「こうして繋いでいれば、目を閉じてもいるのが分かりますよね?」

 少年の手を取って問えば、息を飲むのが分かった。仮面越しで表情は見られないのに、少年が凄く驚いているのが分かる。それに私も驚かされる。そんなにおかしなことを言っただろうか。急に触れたから嫌だったのだろうか。自分は散々勝手に触れてきたくせに?

 そう疑えば、意外なことに手を握り返された。仮面から覗く口元が笑う。

「良い夢が見られるから必要……ね」

「え?」

「───で? アンタは一緒に寝てくれるってワケ?」

 問われて、気付く。この部屋にベッドは一つで、それは体調不良で私が使っている。私は仮面の少年にベッドで寝ろと迫っているし、手を繋いで眠るということは至近距離にいなくてはならない。この場合、導き出されるのは同じベッドで寝るという答えだ。

 昨日触れられた時のことを思い出す。

 プレストに襲われた時のことを思い出す。

 無理だ。

「い、いや、あの、えっと!」

 全身に羞恥が回って熱い。はしたないことを要求した気がする。そんなつもりはなくとも、昨日のことを踏まえれば無警戒というわけにもいかない。

 少年とプレストは別の人間だけど、同じように男性だ。同じなら……同じように、怖い思いをすることになるかもしれない。

 慌てる私に仮面の少年はおかしそうに笑って手を離した。

「折角のお誘いだけど、要らないよ。そうやって気にするアンタが見られただけでも十分面白い」

「面白いって……!」

「ボクに構うなってこと。少しソファで横になるから、邪魔しないでよね」

 そう言われれば黙るしかなく、少年はベッドを離れるとソファに寝転んで背を向けた。それがなんとなく寂しくて……いかんいかんと頭を横に振る。あんな人は知らない。記憶にないし、急にセクハラをされただけの関係だ。心配なんて必要ないし、寂しく思う理由もない。

 布団に潜り、私もソファに背を向ける。

(「私」には、関係ない……)

 目蓋を閉じ、訳の分からない世界を追い出した。

 

 

 

*****

 

 

 

 それから日が暮れる頃には、バチカル行きが決まったことを報される。マルクト側の責任者として眼鏡の軍人さんが同行することになり、何かの役に立つかもしれないからとコモドも同船することになる。といっても兵の監視付きで隔離されているので面会は出来ない。

 私の方も薬の副作用がしんどくて殆ど船室から出られなかったので、あまり関係はなかった。そうして船に揺られて数日。私はプレストの屋敷があるという首都バチカルへ戻ってきていた。

「ご無事でしたのね!」

 港で見知らぬ女性に出迎えられる。肩までのウェーブがかった金髪に、聡明そうな琥珀色の瞳。誰かと問えばナタリア王女殿下という話でびっくりしてしまった。記憶を失う前の私の知り合いらしいのだけど、何をどうしたら王女様と知り合いになれるのだろう。

「記憶の件は聞いています。何か力になれればよいのですけど……」

「ありがとうございます……」

 本気で心配されているのがよく伝わってきて、居心地が悪い。結構、感情表現が豊かな女性のようだった。

 私が拉致監禁されたらしい今回の件は、キムラスカでは王女様の管理下という扱いになっているようだ。具体的には何の尻尾も掴めていないということで、市民への情報公開はまだだという。屋敷に監視を置いて度々事情聴取をしているため、「アパシオナート侯爵家別邸で何かあったらしい」という噂程度が周囲の認識のようだった。

「プレストもカルマートも、変わらず容疑を否認しています。物証もありませんし、これ以上の拘束は正直難しいですわ……」

「先に報せていた通り、コモド・ブリッランテの身柄をキムラスカへ戻します。彼の証言があるだけでも多少違うと思いますよ」

「ええ。感謝しますわ、大佐」

 なんてやり取りも経て、私達はプレストの屋敷へ向かうことになった。王女様も面会には良い顔をしなかったけれど、私が会いたいのだと伝えれば「仕方がありませんわね」と頷いた。

 本件の責任者として、また友人として同行する、と言われて不思議な集まりになる。王女様という概念の華が半端ではない。

「アパシオナート侯爵家別邸には事前に使者を送っています。彼女が会いに来ていることは報せていますし、会えないということはないと思いますわ」

「………………」

「大佐?」

「いえ。……杞憂であれば、いいのですが」

 眼鏡の軍人さんが気になることを呟いていて、しかし今更引き返す気もない。監視でついていた兵の間を通り抜けて、正面から屋敷へと踏み入る。屋敷の中には明かりがついていて───私達を出迎えたのは、知らない男性だった。

「お待ちしておりました。ナタリア王女殿下」

 恭しく頭を下げたのは長身の男性だ。薄紫の長い髪が揺れ、上げられた顔には紫眼が光る。誰だろうと思えば、王女様が厳しい顔をして前へ進み出た。

「カルマート・グランツィオーソ! 何故ここにいるのです。貴方にはこの屋敷へ近付くことを控えるよう通達した筈です!」

「ええ。ですが、どうしても仕事の関係で。申し訳ありません」

 飄々と男は答える。この男がカルマートらしい、と見ていれば目が合った。微笑まれる。

「ご無事で何よりです。導師補佐役殿」

 聞き慣れない呼び名で頭を下げられる。困惑していると、法衣を着た少年が私の前に出て尋ねた。その声は固い。

「僕達はプレストと話をするためにこちらへ来ました。彼はどこですか?」

「───奥に。応接間にご案内致します」

 口元に浮かぶ笑みがとても冷たい。信用なんて出来る要素が一つもないけれど、今はついていくしかなかった。

 カルマートの先導に従って歩く。プレストの屋敷は与えられていた部屋以外ほぼ見たこともなかったが、内装がよく似ているので同じ屋敷なのだと分かる。新鮮な気持ちで歩いていれば、不意に足元が僅かに光った気がした。

「え……」

 見下ろせば音素の輝きだ。譜陣が描かれていて───瞬きの間に視界が真っ白になる。名前を呼ばれた気がしたが、それがきちんと名前として耳に届く前に、音は風に拐われる。

 ほんの一瞬で、私は見知らぬ景色の中にいた。

「……え?」

 暗い。冷たさのある空気の流れがあって、閉鎖された環境でないことは分かった。でも屋内というには空間が広く、床も「地面」という様子で、どこかの屋敷でもない。例えるなら、そう、倉庫や工場のような……

「御子様」

 ぞくり、と。声が触れる。

 甘く、真っ直ぐで、熱のある男性の声。

 会いたいと思っていた。話が聞きたいと思っていた。けれど実際に声を聞くと足がすくむのを感じる。暗闇の中で、視界の外から声が囁く。足音が届いて、ゆっくりと気配が近付く。息遣いが、触れるようで。

「お会いしたかった」

 背後から腕が回って、硬直する私の体を包む。蛇が這うようにゆっくりと、徐々に締め付けるように強く。服越しに背に触れる体温に、安心のようなものは少しだって浮かばない。耳の中へ送り込まれる吐息で、私は悟った。

「……おかえりなさい」

 私は男性が怖かったのではなくて───プレストが、怖かったのだと。

 

 

 

*****

 

 

 

「アリア!」

 光に飲み込まれる彼女へ手を伸ばす。だが、その手は宙をかいた。消えてしまった。ほんの一瞬前まで、すぐ傍にいたのに。

「転送用の譜陣……!」

「カルマート! アリアをどこへ!」

 死霊使いが確認をして、珍しく導師が声を大きくした。対してカルマートは表情を変えない。余裕を崩さずに応じる。

「私にも分かりません」

「分からない……? 貴方が用意した罠では御座いませんの!」

 王女の詰問にもカルマートは「はて」と首を傾げる。

「罠とはどういうことでしょうか。元々この屋敷には緊急時に使用する転送用の譜陣があり、たまたま補佐役殿がその譜陣を踏まれ、運悪く誤作動を起こして消えてしまった───不幸な事故で御座います」

 抜け抜けと、という表現が的確な言い逃れだった。怒りに眉を吊り上げた"アリア"が、声を抑えて問いただす。

「いいわ。事故かどうかは後で聞く。今は行き先よ。知らないことはないでしょう」

「いいえ。全く分かりません。私はこの屋敷の人間では御座いませんので」

 埒が明かない。この男は何があっても何も答えない。こうして無駄な問答をさせるためにここにいる。何のためか───時間稼ぎだ。転送用の譜陣は長距離では扱えない。つまりアリアはまだこの街の中にいる。そして、時間を稼いでいる間に連れ出されようとしている。

「死霊使い。そっちの"アリア"と導師と一緒に、ここを任せるよ」

「仕方がありませんね」

「王女サマはすぐに兵を動かして、街中を探させるんだ。アリアはまだ連れ出されていない」

 ボクの言葉に王女が頷く。死霊使いはマルクトの軍服を着ているし、街を一人でうろつかせるべきではない。カルマートを押さえる人員としても最適だ。足りない頭数は兵士で補う。

 すぐに屋敷を離れようとすると、それを導師と"アリア"が遮った。

「僕も行きます」

「私も行くわ!」

「分からないの? アンタ達を護る余裕なんかない。足手まといだって言ってるの」

 苛立ちをぶつければ、予想に反して強い反発があった。

「貴方こそ、分からない? 足手まといになる程、私もテセレマも弱くはないわ」

 初めて、だったかもしれない。"アリア"の怒りがボクへ向いたのは。そこにあるのは意地や虚勢ではなく、根拠のある主張だ。

 "アリア"が導師の予備として教育を受けていたことは知っている。この体の弱い導師サマが、裏技を使ってある程度の戦う力を得ていることもだ。認識を改める必要が、あるかもしれない。

「───港の方を任せた。必ず二人一緒に行動すること。いいな」

「ええ!」

「はい!」

 元気の良い返事を聞いてから屋敷を飛び出す。どこかへ隠れ潜むことが目的ならばお手上げだった。だが、時間稼ぎで連れ出そうとしているなら話は別だ。

 このバチカルで外へ通じる場所は、三ヵ所しかないのだから。

 

 

 

*****

 

 

 

 動けない内に抱え上げられ、馬車へ乗せられる。工場のような場所から直接外に通じていたのだ。馭者は顔も見えない誰かで、あっという間に走り出す。

「申し訳ありません、御子様。馬車では窮屈ですよね。譜術を用いて振動を殆どなくしてはいますが……今暫くご容赦ください」

 当たり前のように赤い髪の青年はそう言って、私に礼を払う。申し訳なさそうな表情があまりにも今まで通りで、理解が追い付かない。彼は、自分が何をしているか分かっているのだろうか。

「プレ、スト」

「はい。どうされましたか、御子様」

 彼の顔には私への心配のようなものがあって、訳が分からない。私が何を言いたいのか、何を思っているのか、本当に分かっていないのだ。

「……プレスト。私は、グランコクマで貴方やカルマートがしてきたことを聞きました。コモドから、全て」

「ああ、よかった! コモドは無事なんですね。カルマートが急に貴女とコモドをマルクトへ移すと言ったので、心配していたんです」

 噛み合わない。話が、会話の温度が。何故。

「でも、城から使いを受けて本当に驚いたんですよ。貴女が私に会いたがっている、と……そうですよね。不安な思いをさせてしまって、申し訳ありません」

 手が伸ばされる。プレストの大きな体が近付いて、体が強張った。動けない。私を見る橙色の瞳が───大型動物が、獲物を捉えた時のように爛々としていて。

「……っ」

 指が頬を撫でる。耳にかかる髪を拾い上げ、そっと撫でる。くすぐったくて、怖くて、気持ちが悪い。うっとりと、私を見る眼が細められる。私の表情など、見えていない。

「もう大丈夫です。もう貴女を手離しなどしない。私がずっと傍にいます。貴女を導き、支え、愛します」

「プレ……」

「貴女が私を想ってくださるように、私も貴女を想っているのですから」

 違う。違う。そんな話はしていない。そんなことは言っていない。どうしてそうなるのか。どこから否定すれば伝わるのか。分からない。追い付けない。

「御子様……」

 囁きが届いて、プレストが距離を詰める。座る私に覆い被さるように動いて、反射的に押し返そうと手が上がるが、強い力で椅子に縫い止められてしまった。

 プレストの顔が近付き首筋へ下りる。熱い吐息が肌を焼いて、湿った感覚が触れる。口付けを落とされている。

「いや……っ」

 暴れようとするが両手は封じられ、足も膝上に乗り上げたプレストの膝に押さえられていた。動けない。口付けが下がり、服の上から触れていく。鎖骨へ、その下へ。

「プレスト……!」

「いけません、御子様。これは必要なことなのです。貴女が使命を果たすために、必要な儀式なのです」

 顔を上げて囁く。それは恍惚とした表情で、瞳には迷いも疑問もない。強い使命感がある。

「本当は手荒なことはしたくなかったのですが……御子様が悪いのですよ。魂の浄化を、拒むから」

 指が頬を滑り、首筋を滑る。ゆっくりと撫でられ触れられる。途端、何かが体にはしった。痺れのような、体を震わせる刺激。

「っ……」

「御子様が『神託の御子』として目覚めるには、人間に汚された魂を浄化する必要があるのです。そうして作り出された完璧な器に、我々信徒の愛を注ぐ……それが、御子様が御子様となるために必要なこと……」

 身をよじる。じくじくと、不思議と痺れが下腹部へ集まっていく。足が震えて羞恥が上がる。それがまた刺激を助長させるように、腹の下が疼く。

「ですが、御子様は魂の浄化を拒まれた。だから、こうするしかないのです。我々の愛を、信仰を。受け取れば、きっと貴女も分かってくださる」

「……や、」

 口付けが下りる。喉に、その下に。指先が這い、襟を開く。外気に肌が触れた。上げられた眼に、視線に、熱い光がある。プレストの屋敷であの夜に見たものであり、今の私には恐ろしいもの。怖い。気持ちが悪い。

「やめて……プレスト……」

 彼は私の顔を見る。懇願する私に、彼はまるで、とても満たされるように微笑んで。

「そのような顔で仰られても、説得力がありませんよ。せめて抵抗くらいはされないと、嘘だと分かります」

 抵抗はしている。ただそれよりも押さえ付ける力が強い。敵わない。与えられる刺激に勝手に震える体では抗いきれない。頭の中は混乱でいっぱいで、恐怖に体が竦んでいた。

「御子様……どうか私を受け入れて下さい。そうすればきっと、貴女にも始祖ユリアの御意志が届く筈です」

「……!」

 嫌だ。触れる指が、息が、許容できない。気持ちの悪い感覚に耐える私の前に、プレストが何かを取り出した。液体の入った小瓶───嗅がなくても分かる。蓋が開いてもいないのに甘い香りが漂うようで、嫌な誘惑が意識を揺らがせた。

「……その顔。御子様も分かっておいでなのです。これが本当に御自身に必要な物なのだということを」

 否定の言葉は形に出来ない。蓋が開けられ香りが漏れ出した。錯覚ではない、鼻腔をくすぐる甘い香り。小瓶が傾けられ、受けた指先が私へ伸びる。唇に触れる感触と、一層意識を冒す香り。

 抗いがたい誘惑がある。息が震えた。

「魂を清めましょう、御子様。貴女を汚す人間からは、私が護ります。貴女を満たすのは私で、貴女はそのために女としてお生まれになったのです」

 唇の端から薬が入り込み、舌先に触れる。甘い。蕩ける。途端に頭が痺れるようで、すぐにふわふわとして、思考が奪われる。不健全な多幸感。それが薬によって与えられるものだと理解していても拒めない。一度触れればハードルは下がる。

(……欲しい)

 もっと。渇いて。満たして。

 小瓶が傾いて、液体がプレストの唇を濡らした。それが近付き、呼吸を奪おうとする。嫌だと、たった一ミリの理性は拒絶する。でも体はその意志を示してはくれなくて。拘束なんてされていないに等しいのに、何も出来ない。熱い吐息が、すぐ側で触れて───

 瞬間、強い揺れが馬車を襲った。

 「なんだ!?」

 庇われる。私には相変わらず世界が分からなくて、体が熱い。呼吸が整わなくて苦しい。

 体を離して、プレストは扉についた窓から外を見る。そして舌打ちをすると私を座面へ横たえた。

「不逞の輩です。すぐに戻ります」

 髪を撫で、プレストは剣を提げると停まっている馬車から降りていく。それを私はぼうと見送って───

「っ……!」

 見送れる、筈がない。

 頭を上げる。世界がぐるぐると回って、やはり体に上手く力が入らない。頭を働かせようとしてもすぐに思考が霧散して、苦しい。渇く。

 それでも、今の私を突き動かすのは「何かをしなければ」という気持ちだ。このまま馬車の中にいて、何かが良くなるとは思えなかった。体を支配する恐ろしい多幸感に、全てを委ねる気にはなれない。

 まだ体は動く。まだ、思考は残ってる。

「は……」

 床を這って、馬車の戸を押す。隙間から差し込むのは、まだ沈んではいない陽光だ。眼を細めて世界を見る。

 馬車は街道から大きく外れ、草地から動く様子はない。そして視界の先に、赤髪の青年の後ろ姿があった。プレストだ。剣を抜き、向けている。剣先を向けられているのは、緑髪の少年だ。鶏冠頭におかしな仮面。

 ここがどこかは分からないが、馬車はそれなりに走っていたように思う。追い掛けて、追い付いたのだろうか。馬車を止めて、プレストと向き合っている。

(どうにか、しなきゃ)

 それぞれがどれくらい戦えるのか、私は知らない。少なくとも酷い怪我をすることにはなるのではないか。動かない頭を無理矢理動かす。状況を変えたい。

 そうして馬車の乗り口でへたりこむ私の姿を、仮面の少年が見付けた気がした。───途端に息が詰まる。

(なに……?)

 すぐに息が戻る。

 錯覚だ。伝播する。少年の怒り。感情。

 何かを言い合っている。正常に働かない頭では拾えない。やがて少年が踏み込み、その打撃をプレストは剣の腹で受けた。戦いが始まって焦りが増す。どんなやり取りがされているかは分からないけれど、仮面の少年に強い怒りがあるのは明白だ。多分、このままでは。

(プレストが、殺されてしまう)

 胸の内で言葉にした途端、不思議なことが起きた。胸にあった焦りがどこかへ行ったのだ。心が凪ぐ。冷たい手が、心臓に忍び寄るような感覚があった。

(……何が、問題なんだっけ)

 薬で頭は曖昧で、体はとても熱くて、でも心臓が冷えて思える。そこだけが冷静さを取り戻したように温度をなくす。どうして、プレストを死なせてはいけないのだっけ。

(だって)

 命は尽きる。放っておいたって人は死ぬ。命は尊くない。壊れた馬車と同じだ。動かなくなって、それで終わり。

(でも、人は人を殺してはいけない)

 戦争や大義があれば殺すけれど、人の命を尊び無益な殺生を厭うことが、人が人であるために大切なこと、だった気がする。どうして、そうなのだろう。どこで、私はそれを学んだのだろう。

(プレストの死は、無益?)

 自分がされたことを思い返す。無害だと言えるだろうか。少なくとも、私は彼が怖い。いなければいいと思う。償いとか、許せないとか、そういうことではなくて。

(ただ、要らない)

 目障りだと何かが囁く。薬に冒された思考の、どこにそんな冷静な声があるのかも分からない。ただ、要らない。要らない。消す。消して。世界の、頁から。

(要ら、な───)

「アリア!!」

 名を呼ばれる。意識が戻る。

 視界の先で、仮面の少年が私を見ていて。

 私の視界に影がかかって。

 誰かがいる。

 誰かが私に近付いて何かをしようとしている。

 でも、その刹那に私が見ていたのは別のものだった。

 私の名を呼ぶ少年に、プレストが笑んで刃をはしらせようとする。

 瞬間、胸にあった冷たい空洞に何かが湧き上がる。

 強い、激しい、波で、感情で。

 この身を焼くのは───「怒り」だ。






 音素のざわめきが、久方ぶりに意識に届いた。
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