庭園の造花


 集会所に乗り込む際、私とテセレマは王宮でのお留守番となった。理由は簡単で、手が足りていることと、私達がターゲットになる危険性を考慮したためだ。

 アリアを拉致監禁しているとはいえ、彼らは武装のない「一般市民」に分類される。思想の弾圧も許されない以上、必要以上の武力行使はないと予想できた。だから二人共、王宮で揃ってそわそわ待つことしか出来なかった。

 シンク達が戻ったという報せを受けて、テセレマと玄関口へ迎えに行く。早く顔が見たかった。彼らにもしもがあるとは思わないけれど、それでも心配が勝った。

 廊下でシンクとジェイドの姿を見つける。シンクが女の子を抱えているのが見えて、すぐにアリアだと分かる。

「シンク!」

 声を掛けて駆け寄る。向かってくる私とテセレマに、彼は歩調を変えない。あれ、と思った時には遅く、すぐ隣を変わらないスピードで通り抜けられてしまった。

 振り返って眼でその背を追うが、彼がこちらを見た様子すらない。どういうことか。不安のままジェイドを見上げれば、彼は静かに眼鏡を押さえた。

「……一先ず、アリアを休ませましょう」

「え、ええ……」

 再び歩き出しシンクの背を追うジェイドの、その後に続く。テセレマの顔を見るけれど、目が合った彼が示したのは私と同じ困惑だ。

 良くない予感が胸に広がる。それでも今はついていくしかなく、やがて客間に入る。遅れて入室すればシンクが彼女をベッドへ横たえているところだった。仮面の下の表情は見えない。

「眠ってるの?」

「いいえ。意識はありますよ」

 ジェイドの答えに「えっ」と声が喉まで出かかる。意識がある───なら、何故アリアは静かなのだろう。胸にあった嫌な予感が膨れていく。

 側へ寄る。彼女の顔を見る。その瞳が……ここではないどこかを映しているようにぼんやりと見えて、事情を察した。

「………………」

 言葉が出ない。何を思えばいいのかも分からない。それは隣に立つテセレマも同じのようで、暫く沈黙だけがある。感情が正しく機能する程、事実を受け止められなかった。

 ジェイドが口を開いた。

「私は陛下に報告をしてきます。コモドの尋問もありますし、暫くは戻りません」

 貴方はどうしますか、とジェイドはシンクに尋ねた。それは珍しい問いで、彼なりの心遣いなのだと悟る。作戦に参加した人間として報告義務があると考えてもいいし、マルクト軍のやり方に部外者を入れないと考えるなら同席は不可能だ。

 そのどちらも、選択権は軍人であるジェイドにある。けれど彼はあえてシンクに尋ねた。彼の意思を尊重しようとしてくれた。

「………………」

 シンクは動かない。問いにちらりとジェイドを見たけれど、すぐに視線をアリアへとやった。それが答えだ。

 ジェイドは小さく息を吐くと「では」と部屋を出る。それに……私もついて出た。ついてくる私にジェイドは一瞬だけ視線をやって、しかし何も言わない。部屋の扉をくぐりながら、ほんの少し部屋の中へ眼を向ければ。言葉のない痛みが、私の胸を締め付けた。

 扉が、閉まる。

「……もっとご自分を大切にされては?」

「しているわ。あの子達が自身を諦めないでいてくれたなら、私は嬉しいもの」

「難しいですね」

「ええ。お互いに」

 人気のない廊下を、単純に生きられない者同士で歩く。自分の感情よりも選ぶ理屈がある。己の望みのままには生きられない。

 人間に生まれながら人間として大切なものを持たずに生まれ、人間であることを学び続けるとても人間らしい人。対して、私は人間であることを手離した舞台装置。お互い、「みんな」と同じ歯車では回れない。

「コモドの尋問、私も立ち会っていいかしら」

「構いませんよ。一人くらいは、教団関係者の眼も必要でしょうから」

 その理由付けが事実か建前かは分からなかったけれど、それでいい。私はジェイドの言葉に頷いて、足を前へ進めた。

 

 

 

*****

 

 

 

 手に触れる。少しひやりとした、それでも人肌の温度がある手。柔らかく、脈があり、ゆっくりと僕の手の温度が移っていくのが分かる。それは確かに生きている者の手で……それなら、彼女が動かないのはどのような神の悪戯によるものか。

(……アリア)

 心の中で少女の名を呼ぶ。僕に想うことの、考えることの意味を教えてくれた人。僕が僕であることの意味をくれた人。

 あの日手渡された夢を、僕はまだ信じている。僕が伸ばす手を、今でも貴女が取ってくれると信じている。だから。

「シンク。貴方も休んでください」

「………………」

 返事はない。まるで聞こえていないかのようにしているけれど、それがフリであることは分かっていた。だって彼と僕は同じ人のレプリカで、同じ人を見つめている者同士なのだから。彼の考えを読むことなんて出来ないけれど、今この時彼女に向けられる感情が何なのかは、難しくなかった。

「シンク」

 もう一度、意図を込めて名前を呼べば彼はゆっくりと顔を上げた。仮面越しだけれど、アリアを見ていた眼が僕を見ているのが分かる。口元が動いた。

「ボクはここを動かない」

 触れる者を切り裂くように鋭く、鉄よりも固い意志が伝えられる。続く言葉はなく、それが今の彼の意志の全てと知れる。

 そこにある感情を一言で説明することは難しい。独占欲とも、自責の念とも言い切れない。そう、強いて言葉にするならば……

(……恐れだ)

 元々、シンクはアリアを失うことを強く恐れていた。それは僕が彼女に抱く感情とは違う。依存と言ってしまえば簡単だが、それだけで単純に考えるには背景が複雑だった。

 ずっと「導師イオン」という役割を演じるだけだった自分には、人の感情など難しい。自分の感情すら、まだ雲の向こうにあるようにあやふやだ。それでも拙く手を伸ばす。彼と僕の分岐点を、探るように。

「───夢を」

 気付けば、ぽつりと言葉を落としていた。分からない。分からないけれど、そこに答えがあるように感じた。だから僕は言葉を止めなかった。胸の奥から、まるで呼吸のように上がるその泡を、言葉にする。

「夢を、見ているようでした。アリアと出会って、ベンチで並んで話をして。彼女の理屈は僕に甘く、差し出される手は哀しい程に愛情深い」

 それは時に、自分自身を切り捨てることも厭わない愛だ。彼女に自覚はないのだろうけど、ヴァンの理想のために、その愛のために死を選んだリグレットに、少し似ている。違うのはただ、彼女は信じられないくらい諦めが悪いということだ。

(シンクを追いかけて地核に飛び込み、僕を留めようと命を繋ぐ響律符を叩き割った)

 有り得ない程の感情の爆発だ。その瞬間にあった激情をエネルギーとして数値化出来たなら、きっと僕は一生その数値を超えられないだろう。この網膜を焼くように、それ程彼女は鮮烈に、「生きて」いる。

「夢では、ないんです。シンク」

「………………」

 答えはない。僕は構わず続けた。きっと、彼女の見せる夢を知っているのは、彼の他に僕だけだから。彼にこの言葉を渡せるのは、きっと僕だけだから。

「アリアが居ることも、貴方が居ることも……僕がここに居ることも。一つだって夢ではない。もしこれが間違った史実だとしても、僕達の現実はここにしかない」

 だから。想う。願う。彼女の伸ばす手に理由をつけて、彼女へ伸ばす手に理由をつけて。本当に必要な理由から眼を背け、逃げ続ける彼に。怖がって、小さくなろうとする彼に。どうか、見誤らないで欲しいから。

「───アリアの伸ばす手を、信じてください」

 

 

 

*****

 

 

 

「コモドの尋問が終わりました」

 三人を残した部屋へ戻ると、すぐにジェイドはそう言った。振り返ったテセレマの顔色は良くないけれど、表情は暗くない。対してシンクは、アリアが横たえられたベッドのすぐ傍で壁に背を預けて立っていた。

 私達が部屋を出る前とあまり変わっていないけれど、こちらの話を聞くつもりがあるようには思えたので、良しとしよう。

「彼は、何と?」

「自分達が間違っていることに気付いて、罪を償いたいそうです。許されるなら、直接謝罪したいとも言っていました」

「……そうですか」

 テセレマの表情が曇る。彼の今後を憂いているのだろう。今更改心したところで遅いのだ。やってしまったことの責は問われる。こちらへの度重なる協力でそれなりに酌量されるだろうが、それをコモドが望むとも思えない。彼の幼馴染み達のことも思えば、円満な終わりは有り得なかった。

「アリアの状態については?」

「例の危険薬物の使用を認めましたよ。都合よく監禁し、『神託の御子』として利用しようとしていたそうです」

「でもね。彼、アリアが自由に戻れるように断薬を手伝っていたそうなの」

 頑張ったのは彼女自身で自分は大したことはしていない、とコモドは哀しそうに笑っていたけれど。少なくとも私は、そんなことはないと思った。彼が促したからアリアは断薬を決めたし、彼が助けたから断薬を続けることが出来たのだ。きっとそうだと、私は信じてる。

「彼の話ではもうずっと、アリアは薬を体に入れていないそうよ。禁断症状もなくなって安定してたって言ってたわ」

 私の説明にテセレマが少し表情を明るくして、それからすぐに曇らせた。そう。なら、今のアリアの状態はどういうことなのか。問う視線に答えたのはジェイドだった。

「今、アリアに殆どの反応が見られないのは薬物の影響ではありません。彼女に施された術式が原因です」

「……術式?」

 ぴくり、と。随分久しぶりにシンクが口を開いた。その低い声が何を言いたいのか直感した私は、慌てて否定した。

「イオンの施したものではないわ。別の術式を、バチカルを離れる際にカルマートに施されたらしいの」

「コモドはどういった術が使われたのか、よく分かってはいないようでした。まぁ、今の彼女の様子を見ていれば大体の予想はつきますが……」

 ジェイドの言葉にテセレマの表情が明るくなる。

「本当ですか、ジェイド!」

「はい。元々、コモドがアリアの護送を買って出たのも彼女を見守る他に、マルクト軍に助けを求めるためと、私に彼女を引き渡すためという目的があったようです」

「それは……カルマートの施した術を、ジェイドならば解けるのではないかと考えたから……ということですか?」

「その通りです」

 疑問に答えながらジェイドはアリアに近付いた。そして額に手を触れ、何かを探るように暫く沈黙する。彼はそっと息を吐くと言葉に変える。

「……やはり。仕組みの難しい術ではありません。そうですね……人間の脳は大雑把に分けて、三つの機能に分類できるんです」

 そう前置きをすると、ジェイドは簡単に解説した。

 人の頭蓋骨に収まる脳は、人の脳・馬の脳・爬虫類の脳に分類できる。人の脳は五感や言葉、記憶に思考、そして運動等の高度な役割を担っている。馬の脳は主に感情を司る部分とされ、爬虫類の脳は呼吸や体温、ホルモン調節等の生きるための基本的な働きをする。

「中でも、記憶を司る部分と感情を司る部分は密接しており、相互的に影響がある分野とされています。カルマートの目的はアリアから余計な記憶を奪い、旗頭として都合のいい人形に仕立て上げること……」

「つまり、人の脳を抑制する術式の影響を受けて、今のアリアはまるで人形みたいに感情を失っているわけね」

「ええ。今の彼女には五感は殆どないでしょうし、思考もなく言葉も扱えません。当然運動にも影響が出たため、車椅子で運ばれていたのでしょう」

 ジェイドの話は最低限、知識のない人間にも分かりやすく噛み砕かれていて有り難かった。そしてそのままとんでもないことを口にする。

「いやー、しかし良かったです。カルマートが譜術を用いず直接脳を切除していた場合には、流石に私も何も出来ませんから♡」

「怖いこと言わないで頂戴!?」

「はっはっは。実際、前頭葉の一部を切り取ることで認知を歪め、感情を欠落させた症例は報告されています。ま、逆に狂暴性が増した事例もあったため、カルマートも確実でない方法として切り捨てたのでしょう」

 いとも容易く語られる人体実験の話に体を震わせる。興味や好奇心から行われた施術かは分からないが、人間は随分怖いことをするものだ。アリアが聞いたら……面白そうと言いそうで、少し頭を抱えたくなった。

「アンタなら治せるってこと? 死霊使い」

 シンクのふざけ要素ゼロの声音に、ジェイドは気軽に頷いた。光が差し込んだところに「ただし」と指を立てる。

「本来、人体に直接影響を及ぼす術というのは、『術式を施される人間への影響』を最大限考えられているものなんです。簡単に例えれば、誘眠効果のある譜歌で脳が壊れ、記憶や人格を失うことはないでしょう?」

 彼の言葉に頷く。特別意識をして譜歌を詠っているわけではないが、それは当たり前だ。そんな作用は求めていないし、そんな危険性のある譜歌は使用しない。

 そこまで考えて思い至る。他の二人もジェイドの言いたいことを理解したらしい。テセレマが確認した。

「つまり、カルマートが今回アリアに使用した術は、アリアの脳にかかる負荷───脳を壊す可能性を考慮していない、危険な譜術ということですか?」

「はい。ゴムが熱で溶けて表面に張り付いている状態を想像して頂ければ早いかと」

 カルマートの術式が遠慮なくアリアの脳に張り付いている、ということだ。途端に不安になるけれど、さっきジェイドは術式を解くことは出来ると示した。問題はリスクがあるということであり、それを覚悟しろと私達に言っているのだ。

 どちらにせよ、このままにして事態が好転することはないし、解呪は必須だ。覚悟を促すのは、彼なりの配慮か。

「……分かったわ。覚悟する」

「ジェイド……頼みます」

 私とテセレマの言葉に、ジェイドは頷いた。シンクは何も言わなかったが、ジェイドを止めないのだから結果を待つ気持ちがあるのだろう。他に方法はないのだし、彼がアリアの回復を望んでいないわけもない。

 ジェイドは再びアリアの額に触れ、眼を閉じる。小さな譜陣のようなものが額に触れる指先に現れ、次から次へと文字や線が追加され、入れ替わり、書き換えられて目まぐるしく変わっていく。封印術の解呪を視覚化したらこんな感じになるのかも、と場違いな感想を持つ光景だった。

 やがて小さな譜陣は二重にも三重にも展開され、その全てが全く違う音素の流れを指示し、異なる速度で回転し、それぞれに輝く。

(……凄いわ)

 毎秒入れ替わる譜陣の全てを追うことは出来ないが、おおよその動きは分かる。繊細に織られる指示に、音素が正確に応える。譜陣が増えたのは並列処理を求められたからだ。その一つ一つが、脳というデリケートな部分に丁寧に触れていく。

 そしてその高度な処理に目を奪われ、時間も呼吸も忘れる中で不意にジェイドは譜陣を消した。解呪が済んだのだ。思わずジェイドの背に飛び付く。

「凄い! 凄いわジェイド! 速度も的確さも例を見ないわ! 本当に頭がいいのね!」

「光栄ですが、私のような男に無防備に飛び付いては婚約者殿に言い訳が立ちませんよ。レディ」

「あ! ご、ごめんなさい……」

 慌てて体を離し、下がる。うっかり下がりすぎてテセレマの背後にまで回ってしまったので、そのまま彼の背に隠れることにした。淑女としてはしたないことをしてしまったと反省する。

 テセレマは私の様子に苦笑すると、ジェイドに向き直った。

「アリアは……」

「出来る限りのことはしました。あとは目覚めてみなければ分かりません」

 彼の言葉に、全員の視線がアリアへ向く。すると、視線の分だけ気配を察知したのか、目蓋が震えた。吐息が漏らされ、ゆっくりと水色の瞳が世界を映す。

「ん……ここ、は……?」

 光が眩しいのか彼女は手を翳し、疑問を漏らす。ジェイドの話の通りなら、この時点で運動も言葉も戻っていることになる。思考や五感も言わずもがな、感情もだ。

 よかった、回復したのだ。アリア、と名を呼んで駆け寄りたい衝動を堪える。最初にあの子の瞳に映りたいのは……映るべきなのは、私ではないから。

「えっと……」

 まだ寝惚けているように、曖昧に世界を見回す。そして、その眼がすぐ傍らに立つシンクを映した。それを理解してか、シンクが手を伸ばす。その手を見て───アリアは声を上げて後ろへ身を引いた。

「触らないで!」

 全員の動きが止まる。上がった声に理解が追い付かない。視線の先にいるアリアの様子が、おかしい。彼女はベッドの上に起き上がっていて、まるで私達を恐れるように身を小さくしていた。自分の体を抱き、僅かに震えて見える。

 何が起きたのか。彼女は体を震わせながら、私達を見上げる。意志の強い瞳。私達の知っているアリア。でも、その口から出てきたのは、私達の知らないアリアの言葉だった。

「誰、ですか。プレストの、知り合いの方ですか?」

 

 

 

***** 










「信じません。プレストに会わせてください」

 ここまでの事情を、全て聞いた後のアリアの返答だった。何をどう説明しても受け付けてもらえず、話し方や態度が違えどこの頑固さは間違いなくアリアだと思う。そういうところも私にとっては可愛い妹なのだけど、流石に今ばかりは頭を悩ませることになった。

「プレストから直接話を聞けるまで、何も信じません」

 私が(便宜上)姉であることや、彼女が与えられていた薬の話などをしてみても、全く受け付けない。それどころか「プレスト達は記憶のない私を保護してくれていた。拉致監禁なんて話はどこにもない」ときたのだから、どうにもならない。何がなんでもプレスト達を庇うつもりのようで、どうやってでも本人に会おうとしている。

「ちょ、ちょーっと作戦会議……!」

 召集をかけて一時退却をすれば、テセレマとジェイドが廊下へ出て来てくれる。シンクは部屋の中に残るようで、どんなメンタルをしているのか想像出来なかった。アリアに拒否された上に記憶もないということで荒れるかと思いきや、今のところ静かだ。どこか、怖い。

「ジェイド。貴方の見立ては?」

「コモドの話にあった通り、あれは薬の効果で記憶を失くしていた期間のアリアでしょう。カルマートの術式の後遺症か、それとも……」

「それとも? 何? 不安だから早く教えて!」

 お願い、と手を打ち合わせて必死に祈れば、彼は少し困った顔をしてから口を開いた。そういえば、憶測を口にするのを嫌うのだっけ、と思い至る。

「……薬の影響が今もあるのかもしれません」

「しかし、コモドの話ではもう一週間体に入れていない上に、禁断症状も落ち着いていたと……」

 テセレマの言葉の通りだ。コモドは常にアリアの様子を見てくれていたようだし、食事を自分の物とすり替えてまで警戒してくれていたのだ。今更彼の話に虚偽があるとも思わない。

 しかしジェイドは、素晴らしい可能性を無情にも呈示してくれた。

「アリアとコモド。二人共の食事に薬が混入されていれば、何の意味もありません」

「………………」

 開いた口が塞がらない、ような心地だった。カルマートはコモドの裏切りに気付いていたらしいし、全ての罪をコモドに押し付けて口封じをしようとしていたと考えられている。つまり、コモドは用済み。そしてアリアが薬を体内に入れないよう、浅知恵を絞るのも分かっていたのだ。

 食事の交換を行うかもしれないと判断したカルマートが、監視につけた同志に何を指示したか。二人共の食事に薬を入れてしまえば、全てが解決する。幼馴染みに情はないのだろうか。

「しんっじらんない……」

「なら、アリアもコモドも、薬を体外に排出する必要がありますね」

「ええ。ですが、それでアリアの記憶が戻るかは、まだ何とも言えません。カルマートの術式の影響も考えられますから」

 ジェイドの言葉になんとか頷く。頭の中がしっちゃかめっちゃかだ。薬の影響であれば、記憶を取り戻す可能性が高くて理想的だ。その反面で、カルマートがアリアと幼馴染みの両方に薬を盛っていたという仮説が証明されなければいい、という気持ちもある。

 コモドは自分がスケープゴートにされることまで分かっていて、それでも二人を慕っていたのだ。これでは、あまりに救われない。

「一先ず今は様子を見ましょう。明日になって禁断症状が出始めればある程度方針を決められますし、アリアの気も変わるかもしれません」

「本気で言ってる?」

「希望ですよ」

 ジェイドは呆れたように笑って肩を竦めると「夜が明ける前にお二人も休んでください」と立ち去っていった。窓の外を見ればまだ暗闇で、しかし遠くの空が白み始めるのも時間の問題のようではあった。

「……なんだか、上手く頭が回らないわ」

「疲れて当然です。ジェイドのすすめに従って、僕達も休みましょう」

 促されて、ふと気付く。記憶がないとはいえ、アリアが目覚めたのだ。テセレマはその側にいて言葉を掛けたいのではないか。薬の影響にしろ術式の影響にしろ、不安や心配があるのではないか。部屋に残ったシンクに気を遣って、離れようとしているのではないか。そんな風に思ったのだけど。

「───、」

 見上げた、婚約者によく似た彼の顔は、まるでいつも通りだった。柔らかく微笑んでいて、焦りもない。深刻さなど欠片もなく、うっかりびっくりする。

 驚いた顔で見つめる私に、気付いたテセレマはきょとんとした。

「どうしましたか? 僕の顔に、何か?」

「あ……ええと」

 聞いてみてもいいことだろうか。指摘していいことだろうか。一瞬悩む。迷って、すぐに吹っ切れた。私は、私なりにはテセレマを知っている。その経験と信頼が告げていた。何故そんな風に笑えるのか、聞いていいと。

「……なんだか明るく見えたから」

 私の言葉に、テセレマは少し眼を大きくすると、数度瞬きをしてから、くすりと笑った。それがこっそり楽しんでいる人間の微笑みで、我慢ならず聞く。

「な、何よ?」

「いえ……ふふ。すみません。安心、したんです」

「安心?」

 テセレマの言葉に首を捻る。アリアの状況は決してよくない。記憶はないし、薬の影響も術式の影響も疑いがある。カルマートも幼馴染み相手に非情で、脅威レベルが上がった。それなのに、どこに安心する要素があったというのか。

 彼は私の想定の斜め上の回答をくれた。

「アリアですよ」

「え……」

「確かに、記憶はありません。今後戻るかも分からない。他に体に異常がないかも心配です」

 ですが、と。テセレマは眼を細めて微笑む。それはとても優しくて、とても愛情深く私の眼に映った。

「眼が覚めたアリアは、間違いなくアリアでした。だから───安心、してしまったんです」

「───、」

 言葉が、浮かばない。虚を突かれた、と言うべきか。だって、それは。その言葉は。

(……最上の、愛じゃない)

 アリアが自分のことを覚えていなくても、アリアをアリアとして愛し続けるという、無自覚の。

 そして遅れて気付く。テセレマが、私の指摘に笑った理由に。

 私の胸にも、もう焦りはなかった。

 

 

 

***** 

 




 

 眼が覚めると知らない場所だった。知らない人達に囲まれていて、おかしな話を聞かされる。

 プレストやコモドが私を拉致監禁していたなんて、荒唐無稽だ。有り得ない。ここがグランコクマの王宮内という話も怪しい。寧ろ彼らに拐われて今ここにいる、という方が納得が出来た。

(……勿論、分かってる)

 彼らの言葉に、信憑性があること。薬や記憶のことなど、筋が通っている。元々、プレストの屋敷での生活に疑問は沢山あったのだ。ただ考えないようにしていただけで。考えれば、気付いてしまえば、体が、渇くから。

(でも、それなら尚更頷けない)

 プレストから直接話を聞きたい。私を騙して利用しようとしていたのなら、その真意をちゃんと問いたい。本人の口から真実へ突き放されたい。そのためには、プレスト達を庇うのが一番だった。

 「被害者」が容疑者を庇えば罪の証明は難しい。それでは当然彼らは困るだろうし、言って聞かない様子を見ればうんざりして、プレストに会わせろ、という要求が通る可能性が高い筈だ。

 記憶のない今の自分では、単身でプレストの元へ行けるとは思えない。これが最良の手のように思えた。

「ちょ、ちょーっと作戦会議……!」

 私の姉を名乗るそっくりさんが、宣言して部屋を出ていく。背の高い茶色い髪の男性と、平均的な身長に見える千歳緑の髪の少年が、それに従って去っていった。

 それにホッと息を吐く。体の震えを抑えていた手を自由にする。我ながら情けない。思っていた以上に、男性が近くにいることに怯えが起きるようになってしまっているらしい。

(それもこれも、プレストが悪い)

 あの晩のことを思い出せば気分が悪くなる。プレストの顔を見たいなんて思わなくなるし、名前を聞くのも腹立たしい。でも、心のどこかで彼を求める気持ちがある。不安が先行すると真っ先に浮かぶのはプレストの存在だ。それが彼に飲まされていた薬の影響だと言われると、事実かもしれないとは思う。私がプレストに向ける感情は、どこかおかしい。

(……まるで、すがらされてる)

 彼がいないと成り立たないように、心理が向けられているように思える。ある地点まで思考を進めると、そこで曖昧に止まってしまう感覚がある。不安が湧き出して落ち着かなくなり、あの薬の甘い香りが鼻先を掠める。

 薬を体内に入れた後の、体中が満たされたような甘い痺れに。蕩けるような多幸感に。渇きに、飢える。

「………………」

 うっかり思い出して、意識がくらりと揺れた。渇く。飢える。あの幸せに、心地よさに。包まれたい。満たされたい。支配されたい。次々に膨らむ欲求に自身の肩を抱く。不安に、焦りに、渇望に。プレストの声が、表情が、浮かんで。

(……嫌だ)

 自分の吐息が熱くなって、肩に爪が食い込んだ。その痛みを───何かが、横から拐う。

(え……)

 肩に爪を立てていた指が、そっと外される。それは布越しの感触だけれど、人の手だった。驚いて俯いていた顔を上げれば、てっきり他の三人と一緒に部屋を出ていったと思い込んでいた人の姿が、目の前にあった。

 千歳緑の髪をまるで鶏冠のように立てている、おかしな仮面を顔に着けた人。体格から多分少年だ。彼はベッドの上に乗り上げ、私の両手を取っていた。皮膚を傷付けようとしていたのを諌めるように。

(……あれ?)

 その手に、特別強い力は加えられていない。ただ自然に手を取られただけ。大人しく従うほど弱い力で爪を立ててはいなかった。なのに私の手からはすっかり力が抜けていた。そうして握られる手の温度が、伝わるような気がして。

 仮面の下から声が届く。

「爪、立てないでよ。傷がつくだろ」

「……うん」

 特別強くもない、平温の声。何がなんだか分からない。少年に見覚えはないし、従う義理もない。なのに手を振り払う気にもならないし、うっかり素直に頷いてしまう。胸にあった不自然な焦りが、少年の声で宥められる。それがまた訳が分からなくて困惑する。どうして、こんな。

「……アリア」

 彼が何かを口にする。名前だ。誰の。私の? 分からない。プレスト達は私を御子様って呼んでた。私は私の名前を知らない。でも、多分そうだと思う。多分、それは私の名前で。

「アリア」

 もう一度呼ばれる。確証がなく、返事をしていいものか分からない。代わりにその仮面を見つめる。その下の顔は見えないけれど、何かが分かるような気がして。

 その仮面が近付いた。ゆっくりと目の前に迫って、やがて脇へ逸れる。呼吸が肌に触れて、自分の露出した肩に湿った熱が降りた。

(……え)

 舌───舐められている。体が強張って、しかし少年は構わない様子で、そのまま呼吸をした。

「ほら、血が出てる」

 その言葉に、先程爪を立てた際に皮膚を破っていたらしいことを知る。痛みを拾い上げようとするけれど、分かるのは少年の吐息の温度と、舌が触れた後に触れる外気の冷たさだけだ。血が出ているかなんて分かるわけがない。

「……普通、舐めないよ」

 何故だろう。体の強張りが解けない。両手を取ったままの手を振りほどけない。肌に触れる吐息が気になる。体温が上がるような気がして、言葉が詰まる。自分の心臓の音が気になって、何かが疼く。

 少年が身動ぎをして、耳元に息が触れる。

「じゃあ、普通じゃなくていいよ」

 囁かれた声に体が震えた。甘い声。誘うような、ねだるような、溶かす声。声が出ない。動くことが出来ない。これは何だろう。何をしているのだろう。彼は何をしたいのだろう。彼は何故それをするのだろう。彼は。

「今のアンタに言っても、分からないんだろうけどさ」

 首筋に息が触れる。私は身動ぎをして、でも自由にはならない。気付けば体が密着していた。確保されていた両手が、指と指の間に彼の指が侵入して握られる。

 それは決して、押さえ付けるような強い力ではなかった。強引さは一つもない、それでも迷いだって一つもないような、触れ方で。

(……誰?)

 誰か、いた筈だ。頭の中に。すがらなきゃいけない相手が。会わなきゃいけない相手が。その人は「とても幸せ」で、「甘く」て、「渇き」を「満たし」て。

 ───触れた指先の、温度が思い出せない。

 今ここにある温度が、鮮明で。

 ───耳元で囁く声が、思い出せない。

 今ここにある声が、潜り込んで。

 ───愛撫した舌の熱が、思い出せない。

 今ここにある熱は、私を冒さない。

「記憶が戻ったら覚悟してよね。今回の件で、ボクもようやく懲りたんだからさ」

 少年に抱き留められるように密着したまま、お互いの温度を分け合う。体が触れているから、声の響き方が不思議だ。骨振動とはよく言ったものだと思う。

 少年とはいえ男の人なのに、私の体は震え出さない。怯えが起きない。それはきっと、少年の触れ方がどこまでも優しいからだ。

「何に……?」

 問う。温かい。心臓の音が、とくん、とくんと、体に響いて。息遣いが、匂いが、意識を占めていく。指が離れ、代わりにそっと頭を撫でる感触があって。

(気持ちいい……)

 意識が落ちる。目蓋なんて当に開いていない。分かるのはここが「安心の中」だということで。同時に、体の奥で何かが疼くのも感じていて。

「───手を伸ばさなきゃ、夢のままだってことにだよ」






 柔らかい感触が、そっと首筋に落とされた、気がした。
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