庭園の造花
その日は朝から最悪だった。雑務を済ませて部屋に戻る途中、この世で最も嫌っている存在に出会してしまった。それはボクや導師と同じ顔の、存在すべきでない異物。奴はボクを見付けると、機嫌良さそうに微笑んだ。
「やぁ」
この廊下に他に人気はなく、ボクが挨拶を求められていることは明白だ。だからと言って挨拶をするつもりはない。殺してやりたいくらいだ。視界にすら入れたくなくて、見えないフリをして通り過ぎる。
「……ふぅん」
すれ違った背後で、小さく声が漏らされる。含みのある声音に警戒はするが、構うつもりはない。さっさとこの場を離れてしまおうと足を動かす。だが、奴はボクの弱味を知っている。
「アリア」
ぴたり、と正直に足を止めてしまう自分が恨めしい。無視して行ってしまいたいのに、そうは出来ない。せめてもの反抗で首だけで振り返れば、奴は嗤う眼でボクを見ていた。
「分かりやすい奴だね、お前は」
思惑通りなのは疑うまでもなく、返事をするのも嫌でただ睨み付けた。視線だけで話の続きを促す。話す気がないのなら今度こそ立ち去るだけだ。その考えを汲み取ったように奴はくすりと笑うと口を開いた。
「何もしていないよ。僕が『アリア』を害する筈がないだろう?」
「……よく言うよ。あいつを『アリア』だなんて認めてないクセに」
善人ぶった顔が気に入らなくて、唸るように返す。こいつの顔が嘘だということは最初から分かっていた。自分が生み出された経緯と奴の浮かべる微笑みを見れば簡単だ。
こいつもまた、ボクが気付いていることに気付いていたのだろう。今みたいに他人の眼がない時には高慢な態度が表へ出る。それは親しさなどではない。ただ、ボクを見下しているからだ。
奴はボクの指摘に、微笑むだけで答えなかった。それが答えだ。ボクの言葉を肯定も否定もせず、しかし隠すつもりもない。性格の悪い証拠。
「視察。今日発つんだろう? ついていくのはお前一人だっけ」
答える気はない。雑談に付き合わせたいだけらしいと判断して、ボクは無視を決める。再び歩き出そうとして、しかし掛かった言葉に阻まれた。
「守れるかな。出来損ないのお前に」
出来損ない───今更傷付く繊細さなんて持ち合わせてはいない。ただその言葉はボクの痛いところを突いていた。
自分が出来損ないだということは、誰よりボク自身が知っている。不安がない訳ではない。目の前で死なせたことだってある。だが、そんなことを素直に教えるつもりもない。
「羽虫がブンブンと煩いな。お前は自分のお気に入りの『アリア』のことだけ考えてろよ」
「酷いな。僕は可愛い弟の行く先を案じてあげているのに」
「……どの口が」
人を食った様子に腹の底から嫌悪が込み上げてくる。奥歯を噛み締めてそれを抑えた。奴がボクで遊んでいるのは明らかで、挑発に乗れば思い通りだ。ボクはこいつを楽しませるためにいるわけではない。いっそ殺してしまえたらどんなに気分が良いか。
「怖い顔をするね。僕を殺すかい?」
分かりきっていることをわざわざ聞く神経に吐き気がする。こいつの性格の悪さに、周囲の人間はどれだけ気付いているだろうか。
甘ちゃん導師はこいつが敬語を崩すところを知っているのだろうか。アリアは警戒こそしているようだけど、実際にこういうやり取りはしていないように見える。もう一人の、被験者のアリアはどうだろうか。きっと知っているのだろう。知っていてこいつを選んでいる。そう思えば、彼女の正気も疑わしいものだ。
「冗談だよ。お前に僕は殺せない。そんなことは分かっているからね」
ボクに目の前の異物───イオンは殺せない。奴の存在がボクの弱味に繋がっているからだ。こいつを殺せば、ボクはボクの導を失う。
「あのレプリカが正気でいられるのは僕のお陰。僕が死ねば、術式は効力を失って彼女は自我を失くし、化け物となる。……可哀想にね。お前が役立たずじゃなければ、彼女を生かすのはお前だったかもしれないのに」
ぎり、と奥歯が音を立てた。自身の内で膨らむものが殺意であることは間違いない。変わらない微笑みが神経を逆撫でる。それでも殺すわけにはいかず、踏みとどまるボクに奴が近付いてくる。
微笑みが目の前に寄り、ボクに手が伸ばされた。それをぴしゃりと払い除ける。
「触るな」
ぱちり、と瞬きをして。
「痛いな」
一言、届くと同時に再び奴が動いた。手が伸ばされ、ボクは反射的にそれを払う───払った筈だった。
払った腕が更にいなされ、体の重心をずらされる。ほんの少しのズレだ。実戦ですら問題にならない程度の誤差。なのに、次の瞬間には体が大きく振られ、壁に背を打ち付けていた。一瞬呼吸が詰まる。
「っ……!」
「あれ、声をあげないんだ。我慢強いね」
間近でイオンが笑う。振り払った筈の腕は奴に掴まれていて、背の壁に押し付けられている。抵抗を試みるも想定外に力が拮抗して押し返せない。こちらは体勢を崩しているとはいえ、どこからそれだけの力が出るのか。
出来るのは、精々気持ちが悪い微笑みを続ける顔を、睨み上げることくらいだ。
「教えてあげるよ。お前は彼女を守れない。出来損ないだからだ。欠陥品のクセに欲をかくから、取り溢す」
「……うるさい」
唸る以外に出来ることのないボクに、奴はくすりと笑う。それは小さな虫が地を這いずる姿を見て愛でるような視線だった。気持ちの悪い慈愛を湛えた眼。ボクを見下す傲慢な顔。
「そっちこそ、こんなところでボクなんかに構ってていいワケ? 大事な大事な『アリア』がお前を探して泣いてるかもしれないよ」
「ふふ。可愛いね」
本当に微笑ましそうに奴は頬を動かして、それがまた燗に障る。その評価はもう一人のアリアに向けられたものか、何も出来ないボクに向けられたものか。
満足したように離され、せめて一発殴ってやりたい気持ちに駆られるが堪える。それが賢い選択でないことくらいは分かる。
「じゃあ。精々彼女を守ってみせなよ。こんなところで死なれたら、僕がわざわざ生かしてやってる意味もなくなるからね。期待してるよ」
ひらひらと手を振ってイオンは離れていく。それにボクは早々に背を向けた。いいように操られる感情に苛立ちながら先へ進む。奴は結局、最後まであの微笑みを崩さなかった。
*****
シンク。僕の可愛い六番目の弟。今さっき別れた、僕を殺さんばかりの鋭い殺気を思い出して気分がよくなる。からかいがいのある道具だ。直情的で利用もしやすい。それでも、僕に似て頭は回るようだったけど。
(気に入っている)
自分の代わりにと作り出したレプリカ達。目覚めてみれば、そのそれぞれが面白い存在に変わっていた。ただの人形かと思えばまるで人間のような顔をしていたのだ。道具のクセに人の形を与えただけで、自分という個を持ったように勘違いをしている。これが面白くないわけがない。
想定外の結果に口許が緩んだ。所詮は偽物。代替品で、人間ではない。使い捨てることが許されている便利な玩具。でも、ただ使い捨てるなんてつまらない。「僕のレプリカ」なんて特異なモノ、きちんと相応しく遊んで壊さなきゃ。
(アリアにバレないようにバラさないといけないのが面倒だけど)
まぁ、婚約者を悲しませないためには必要な配慮だと理解する。彼女は何故かレプリカ達を気に入っている。否、彼女らしい。
彼女にとっては彼らと人間に差などないのだ。そこに意志があるように見えれば、彼女はそれを尊重する。慈愛が形を成したような子だ。
(問題は、彼女のレプリカで遊ぶことが難しいということだね)
アリアはレプリカ達を気に入っている。その中でも、群を抜いて自身のレプリカを可愛がっていた。お陰で下手に手を出せない。僕のレプリカ達は彼女のレプリカに懐いているようなので、彼女をどうにかするのが一番効果的なのに。
動くなら慎重に、だ。今更何があったところでアリアが僕から離れることなどないだろうけど、だからといって彼女が僕を許さない可能性はあるのだから。
それはそれで興味深いけれど、下手は打ちたくない。なんて考えていれば、目的の扉へ着く。そっとノックをして名乗れば、中から呑気そうな声が応えた。扉が開く。現れた顔は、僕の婚約者によく似た偽物の顔だ。
「いらっしゃい、イオン」
「お邪魔します」
にこり、といつも通りの微笑みを貼り付けて会釈をする。中へ入れば殺風景な部屋が迎えた。それだけで愉快な心地になれる。
被験者とレプリカには近い傾向がみられる。例えばアリアも、そのレプリカも、自ら部屋を飾ることはしない。わざわざ物を買ってきて置こうという発想にならないのだ。けれど、アリアの部屋には幾つかの物が飾られている。
(僕が贈ったからだ)
僕が贈ったものだから、アリアは飾る。彼女はとても素直な人間だから、当然の結果だろう。そして、それを見越して僕も物を贈っている。僕にとってどんな意味があるかなんて、今更考えるまでもない。
独占欲や所有欲の表れ───それなら、一つとして色のないこの部屋はどうか。被験者とレプリカは似た傾向を持つ。テセレマの方は少し様子が違うようだけれど、シンクの執着は明らかだ。もし彼の抱いている感情が僕の抱くものに近いのなら、それを飲み込み続ける苦しみはどれ程のものだろう。
(僕なら絶対に選択しない)
気も狂う程に欲しておきながら、大切だから手を伸ばさないだなんて。その全てを自分の物にしてしまえば苦しむ必要なんてない。手を伸ばすなんて簡単だ。誰かの人生を自分の方へねじ曲げるなんて容易い。
それなのに、シンクは選ばない。自身が「アリア」に釣り合わないから……「アリア」の輝きを、自分が汚してしまうと思っているから。いじらしくて、愚かしくて、可愛らしい。
「ごめんね、来てもらっちゃって。出発前に術式の様子を見ておいてもらいたくて」
そう言って、水色の瞳が僕を映す。アリアとよく似た偽物の顔。被験者とレプリカが別物だということを実感したのは、このレプリカを見た時だった。彼女は僕のアリアではない。同じ顔、同じ声でも、雲泥の差がある。この代替品に心が動くことはない。微笑みを維持する。
「構いませんよ。僕も心配ですから」
様子を見るからと促せば、彼女は大人しく椅子に座る。目を瞑るように伝え、素直に従う姿に笑みが浮かぶ。
目の前のレプリカは勘がいいようで、会った初めから僕を警戒している。それなのに馬鹿正直に指示を聞くのだからおかしい。彼女の白い首へと目が向いた。
(ほら、手を伸ばすなんて簡単だ)
触れて、その首をへし折ることも容易い。どうしてシンクはただそれだけが出来ないのか。彼が手を伸ばさないなら、僕が伸ばしてやろうか。それも面白いかもしれない。手を伸ばさないように我慢を続ける駄犬の目の前から、奪ってしまうのも一興だ。大切にしているレプリカに僕の烙印が押されたなら、あの可愛らしい玩具はどんな顔をするだろう。
「……大丈夫です。この調子なら特に問題はないと思いますよ」
翳した手から自分が施した術式の様子を見て、僕は伝える。レプリカは目蓋を上げて、ありがとうと礼を口にした。
「ただし、力の使いすぎには気を付けて下さい。限界を超えて音素を取り込めば、術式は歪みます。その術が効力を失えば……」
「分かってる。無茶はしないよ」
「そうして下さいね」
それは心からの願いだった。化け物になって討伐される、なんて結末ではつまらない。彼女達には僕の遊びに付き合ってもらうつもりなのだから。より楽しい遊びを思い付くまでは、退屈な終わりなんて迎えてもらうわけにはいかない。
だから今回の旅も、単なる余興だ。ちょっとした刺激でしかない。この程度で壊れるような玩具なら、期待外れだ。
「無事の帰りを祈っています」
偽りのない言葉で、僕は彼女を送り出した。
*****
「テセ、いる?」
不意に扉が開くと同時に声が掛かる。僕をそうして愛称で呼ぶのはただ一人で、勿論声でも分かるのだけど、彼女の来訪で間違いなかった。
顔を上げてそちらを見れば、予想の通り扉から覗くように亜麻色の長い髪が揺れ、水色の瞳と目が合う。僕は驚いて彼女の名を呼んだ。
「アリア。準備はいいんですか?」
「平気平気。術式の様子も見てもらったし、もうやることはないよ」
部屋に入ってきて、あとは船を待つだけ、と彼女は簡単に口にした。ただそれだけの時間が、僕は惜しくて寂しさを感じているというのに。アリアは何も気にしていないように見える。それがまた少し、寂しい。
「本当にシンクと二人だけで大丈夫ですか?」
「大丈夫だって。それについては散々話したでしょ」
彼女の言葉の通りだ。各アドリビトムの視察は基本的に詠師エレティクスの仕事であり、勿論彼の部下も動いている。今回はその彼がアリアに視察をさせたいと提案したのだ。
建前は「教会を離れられない導師の代わりに、目となり耳となるのが補佐役の役目でもある」ということで、たまには違う視点や感性で評価をする必要があるという話だった。そして本音の部分では、アリアを心配したのだと思う。彼女は長く教会に留まっていて、それによる過剰な負荷が彼女に掛かっていないかと。
簡単に言ってしまえば、気分転換に違いなかった。
「お師様は忙しくて論外。お師様の部下とか他の導師守護役とか、案は色々あったけどさ。大人数じゃ動きづらいし。部下を持つとかも向いてないし。ついてこられた方がやりづらいよ」
「それは分かりますが……」
実際、代々の導師も導師付きの守護役を一人指名して行動を共にするようにしていた。僕の場合は事情が事情だったので少し話は変わるけれど、その方が動きやすいという主張は理解できる。理解はできるけれど、納得はできなかった。
「……やはり今からでも護衛を……」
「直前過ぎだよ。一度決まったことを覆すのは、組織のトップとして良くはないんじゃないかなぁ」
アリアの指摘は尤もで、護衛をシンク一人にすることは詠師会でも合意が取れている。幾ら僕が導師だからといってこのタイミングで覆せば職権乱用に違いない。「導師は公私を混同し、補佐役を特別扱いしている」───そう囁かれれば、噂の的になるのはアリアだ。それは望まない。
「そう……ですね」
「でしょ? それに、元々ボクの護衛役はシンク一人。ボクも戦えるわけだし、十分だよ」
宥めるようにそう言われれば、重ねられる言葉はない。ただ、「シンクがいれば大丈夫だ」と受け取ることも出来る言葉に少しだけ引っ掛かってしまう自分がいる。
(アリアを守りたいと思った)
簡単にどこかへ消えてしまいそうな気配は、今の彼女にはない。きっとここへ戻ってくると、説明のつかない予感があった。それは嬉しい。けれど、その反面で歯痒さも感じている。
僕の力で、立場で、彼女を守れているのだろうか。肝心な時に何の役にも立てていないのではないか。彼女をここへ繋ぎ止めることは、彼女の自由を奪ったのではないか。僕の側にいて欲しいと、望んだことは間違いだったのではないか。
(……いけませんね)
頭の中を占めていく疑念を振り払う。アリア達は今日旅立つのだ。今から出来ることがないのなら、せめて笑顔で送り出さなくては。目線を上げれば、僕を覗きこむ水色の瞳とぶつかった。
「何考えてたの?」
「いえ……大したことではないんです。すみません」
心配をかけたことを申し訳なく感じて謝罪を口にすれば、彼女は首を横に振った。それから再度間近で見詰められる。
「なんでもいいよ。テセ、ボクらは暫くここを離れることになる。君が気にかかることがあるなら、ボクは聞きたい」
「アリア……」
そうして僕を見詰める瞳に揺らぎはなくて。彼女は気付いているのだろうか。その手が差し出す無償の優しさに。彼女の好意に理由はない。打算がない。
あえて言葉にするなら、損をするとしても彼女は僕らに手を伸ばす。何も考えていないのだ。思うままに行動している。想うままに、手を差し伸べる。それがどれ程得難いことか。
誰にでも、というわけでないことが、よりその甘さを際立たせていた。ルーク達の持つ優しさや甘さと、彼女の甘さは何かが違う。それは蜜のように、僕らを解かす。
(だからこそ、甘えてはいけない)
僕は彼女を助けたい。守りたい。彼女が与えてくれた名に恥じない在り方をしたい。一度死んでおきながら彼女に引き戻された身なのだから、余計に。
彼女を守るためには、彼女に守られるだけではいけない。その甘さに溺れてはいけない。僕は僕に出来る方法で、彼女の居場所を整える。それが彼女を繋ぎ止める僕の責任で、僕が彼女に望むことだ。
「ありがとう。もう少し自分で考えてみたいんです」
「ん。分かった。無理には聞かない」
彼女の気持ちが嬉しくて微笑みながら答えれば、彼女はあっさりと頷いた。それが彼女なりの僕への信頼であることも分かる。だからこそ余計に心配になるのだけど、今度はその感情を飲み込んだ。代わりに口を開く。
「アリア。何かあればすぐに連絡をして下さい。必ず力になります」
「うん。頼りにしてる」
そっちもね、と彼女は応えて。やがて彼女は旅立ち、僕はそれを見送る。その隣に僕は居られないけれど、きっと離れた場所からでも出来ることはあるから。
彼女が戻った時に、何かを変えることが出来ていればいいと思う。
*****
みんなに挨拶を済ませて、ボクは教会の玄関口へと向かった。船が出る時間にはまだ余裕があるけれど、油断ぶっこいて乗り遅れる方が問題だ。まぁ誤差の範囲なのでそれでもいいのだけど。
ボクはよくても相棒はよくないだろうと思う。玄関口へと辿り着けば、やはりというか相棒の姿は既にあった。
「遅い」
「気が短い」
第一声で飛んできた文句に文句で返す。見るからにムッとした気配が届くが取り合わない。たまには言い返されっぱなしの気持ちを味わえばいい。
「忘れ物は?」
「アンタ、ボクを幾つだと思ってるの」
「幾つになっても忘れ物ってするじゃん」
「なら自分の心配をしなよ」
「ボク持ち物少ないから」
忘れ物をする程、私物がない。そう伝えれば、目の前の彼も同じことを口にする。お互い物は増やさない性質だ。最低限でいい。手の届く範囲でいい。体を重くする荷物は、基本的には要らない。
そんなことを言いつつ両手を塞いだ奴もいるけれど、まぁきっと手の届く範囲なのでセーフだろう。手は二つあるわけだし。
と、目の前の彼にじっと見られていることに気付く。
「なぁに?」
こういう時、決まって彼はなんでもないと答える。今回も同じだろうかと思いながら問えば、意外なことに今日は問いが投げ掛けられた。
「術式の調子はどうなの」
「良好だよ。イオンにも見てもらったし、大丈夫」
イオン、という名前に分かりやすく彼が動きを止めた。不快感が表れ口がへの字に曲がる。それから彼は、ボクの予想と少し違うことを口にした。
「……何もなかっただろうな」
「えっ」
問う声が鋭くて驚く。確かにイオンはまともな人間ではないと思うけれど、何をそんなに警戒する必要があるというのか。少なくとも彼がボクに危害を加えてきたことはない。一応、まだ。
答えの遅れるボクにシンクは更に問いを重ねる。
「何かされたのか」
「されてない、されてない!」
物騒な色を持ち始めた声音に慌てて否定する。彼のイオン嫌いは相当だと思う。道理だけど。誤解で出発前に要らぬ諍いを起こされても困るので、念のためきちんとフォローをしておくことにした。
「さっきも言ったけど術式の調子は良好だし、他に体に変化はないよ。保証する」
以前の封印術もどきと違って、今の術式は外付けだ。その分柔だしセキュリティやセーフティもがばがばだけど、自身の体内音素の具合が読み取れるという利点もあった。封をしていたから読み取れなかったわけで、パイプを通して外へ力を流すだけなら障害は何もない。
その理屈は何度もシンクに伝えてはいるのだけど、彼の纏う気配は剣呑としたままだ。こうなれば純粋に、ボクの自己申告に関する信用の低さに由来するものだと思えるので、こちらに出来ることはない。実際、今だって伝えていないことはあるのだ。彼が疑い深いだけ、というわけでもない。
「はい、この話はおしまい!」
両手を打って宣言する。これ以上の掘り下げは危険だ。シンクとイオンの不仲は永遠に変わらないだろうし、こちらも余計な藪をつつきたくはない。
そんなことより、今は旅支度の話だ。と言っても、ほんの一年前くらいはボクも旅をしていたわけだし、不足があるとは思わない。そこまで考えて、不意に感慨深くなってしまう。
「一年かぁ……」
うっかり溢せば、シンクの視線がこちらをちらりと向いた。話すなら中途半端にしないでちゃんと言葉にしろ、という無言の苦情を受けたような気がする。
それを可愛らしく表現すると続きが気になるから話して欲しい、になるのだが、この可愛いげのない護衛役にそんなフィルターは搭載されていないので、前者であっているだろう。口を開いた。
「旅。単なる視察って言われればそれまでだけどさ。一年ぶりにダアトから離れられるんだなぁって思ったら……なんか、こう……」
感慨を言葉にしながら、過去を振り返る。ルーク達と出会って、仕事をしながら自分のことを知って、うっかり人一人の命を拾っちゃったりして、自分のこれからを決めて……
みんなとの旅は約一年に及んだ。世界中を渡り歩いた。時には海も空も行った。世界の命運とかいうものを唐突に背負ってしまった、あの激動の一年は今も褪せない。それでも、二度と戻ってこない日々だった。そしてそれと同じだけの時間を、ボクはこのダアトで過ごしていた。同じだけの……
「……いや!? 一年間も大人しくしてたなんて、ボクえらいんじゃないの!?」
「その程度も大人しくしていられないなら、いっそ猫にでも生まれ直せ」
「やだよ。ケージに入れっぱなしにする気でしょ」
「よく分かったね」
思わず自画自賛をしてしまえば、シンクから辛辣な言葉が飛んでくる。反面、猫に生まれ直したところで面倒を見る気があると言っているようなものなので可愛い話なのだが。多分自覚はない。猫はさておき。
「ダアトは好きだけどね。やっぱ元が根無し草だからなぁ」
「ここにいたってふらふら姿を消されて迷惑してたんだ。今回の視察、間違っても余計なことはするなよ」
「えへへ」
「誤魔化すな」
そんなやり取りをしながら、二人並んで教会の扉をくぐる。容赦なく降り注ぐ陽の光が少し眩しくて、頬に触れる風は温かい。
ダアトにいる間、教会の外に出ることすら稀だった。立場上、仕方のないこととはいえ、そこに不便さがなかったと言えば嘘になる。息は多分、詰まっていた。
(今度の旅は、期間限定)
きっと、ルーク達とした壮大な旅とは比較にならない程、小さな出来事になるだろう。世界の危機なんて、そう何度も来て欲しくはないし。
ただ仕事で視察をして帰ってくるだけ。それでも……これは、貴重な「外」だ。ボクの歩みの続きだ。続きを描く時、隣にいて欲しい存在は、今確かに隣にいてくれている。一緒に、未来を歩こうとしてくれている。少なくとも、そう信じられるから。
「シンク」
少し先を歩いていた少年が、足を止めてボクを振り返る。風に煽られて揺れる千歳緑の鶏冠も、同じ色の瞳を隠す仮面も、何も変わらない。一年前、共に旅をした頃と。一年間、共に過ごした期間と。
ボクが今、世界で一番信頼している相棒。きっと、この旅でも、彼以上に頼れる存在なんて居はしないから。
「───よろしくね」
君と歩める時間を、尊く思おう。