短編:本編後


 アリアはいつだって手が触れられる距離にいる。

 当たり前の顔をして、能天気に。

 ボクはその様を見る度に思う。

 無防備にそこに在る存在に、この手が届くのか。

 触れようと手を伸ばせば触れられるのか。

 この手が届く距離にいながら分からない。

 触れることが正しいのかも。

 触れてはならないと思うことが誤りなのかも。

 この手は醜い欲望を宿している。

 欲しい、と望む声が煩い。

 触れればその存在を穢してしまいそうで。

 ───ボクは常に気付かないフリをしてる。










*****










「それでそれでぇ~! シンクとアリアってぶっちゃけどーなのぉ♡」

 耳障りな猫撫で声に眉が寄る。

 場所は導師の執務室で、報告があるからと立ち寄れば部屋の主はいなかった。出直そうとすれば同じように用があって訪れた守護役と鉢合わせ、今に至る。

 やっぱりすぐに部屋を出てしまえばよかった。選択を誤った。向けられた好奇心の不快さに舌打ちをしてやる。

「……別にどうもしないよ」

「水臭いなぁ~。いいからアニスお姉さんに話してみなさいって。こう見えて恋愛相談には何度か乗ってきてるんだから!」

 恋愛。その言葉に不快感が増す。

 この鬱陶しいガキがお節介焼きであることは把握している。三番目と七番目によく構う事実がいい証拠だ。だが、ボクまで構われる覚えはない。まして恋愛なんて戯れ言にも付き合う気はない。

 無遠慮に己の領域へ踏み込もうとする言葉に、自身の声に剣呑さが乗った。

「何を勘違いしてるか知らないけど、下世話な妄想しないでくれる? 気持ち悪い」

「気持ち悪いって何よ! 人が力になってあげようって声掛けてるんだから、素直になればいいじゃん」

「妄言に付き合ってやるほど暇じゃない」

 有り難迷惑ですらない、ただの迷惑だ。煩わしく思ってはね除ければ「ほえ?」と間の抜けた声と表情が返る。ボクの言葉が意外だったというようで、すぐに疑問を渡された。

「二人、付き合ってないの? なんで!?」

「なんでも何もお前の妄言だ」

「でもシンクはアリアのこと好きじゃん」

「は?」

「アリアだってシンクのこと特別扱いしてるしさ。お互い同じ気持ちってことでしょ?」

 お互い同じ気持ち。その言葉が胃の辺りに重く居座る。不愉快が一気に限界値を超えて、ボクはソファから腰を上げた。聞くに耐えない。

「え? ちょっ───」

 無視をして部屋を出る。扉は勝手に閉まるままに任せて足は止めなかった。

 気持ち悪い。耳障りだ。苛立ちが足を進ませる。余程不快が表れていたのか、廊下にいた団員達が勝手に道を空ける中を進む。

(誰が、誰を好きだって?)

 奥歯が軋む。握った拳に力がこもった。吐き気がする。頭の中で守護役の言葉を否定した。不快だ。許容できない。

 愛だの恋だの、そんなものは知らない。分からないし分かりたくもない。気持ちが悪い。

(大体、ボクが生きてるのはアリアが望んだからだ。アリアが拾ったオマケの命───)

 そんなもので何を望むって?

 一度は見殺しにした役立たずが。

 狂人の手に委ねるしか出来なかった劣化品が。

 この手は───醜い欲に塗れているのに。

「……っ」

 与えられることを知った。

 知らなかった頃には戻れない。

 その感覚がボクを蝕む。

 月が欠けるように、時と共に着実に。

(戯れ言だ)

 ボクがアリアを好きだなんて、程度の低い冗談だ。現実であって良い筈がない。生きていることを望まれた。道具でないことを望まれた。必要だと言われ、大切だと言われた。

 でもそれがどういうことか───まだ、ボクには分からない。分かりたくない。

(アリアは導師を呼び戻した)

 死んだ筈の存在。死んでからも影がちらつき、アリアが探し続けた者。アリアはボクだけを選べなかった。───導師の存在が必要だった。

(……分かってる)

 アリアがボクへ伸ばした手。それは、きっと導師へ伸ばしたものと変わらない。同じ温度で、同じだけの重さを伴っている。ボクはアリアの特別じゃない───いや、「ボクだけが特別」ではない。

 アリアにとって、ボクと導師は同価値だ。

「………………」

 足を止める。掌を見詰めた。地核で伸ばし、唯一掴んでしまったその手。たった一つ「与えられた」ボク。そうして価値を与えられて、それ以上を望むなんて貪欲だ。身の程知らずにも程がある。弁えろ。

 でも。

 アリアを見る度に。

 側に在ることが分かる度に。

 その事実がボクを苦しめる。

 手を伸ばせば触れられるんじゃないかって。

 手に入れることが出来るんじゃないかと。

 そんな誘惑が、常に香って。

「シンク?」

 名を呼ばれる。顔を上げればそいつはそこにいる。今も、いつも、当たり前に……何も知らないまま。

「どしたの、なんか落ちてた?」

「……別に」

 応えながら波立っていた感情を逃がす。気付かれる訳にはいかない。気付かれたくない。何も知らなくていい。アンタは……穢れるべきじゃない。

 小さく、息を吐く。

「何か用?」

「いや、特には」

 そう答えてから「あ!」とアリアは声を大きくする。何かを思い出したというように。

「ちょっと仕事の相談事があるんだった。今時間ある?」

「……いいよ。少しならね」

 嘘だ、と思う。正確には言い訳だ。仕事の相談があるのは本当でも、今それを口にしたのは別の理由だ。ボクの様子を見て、放っておけないと思ったから口実を作ったに違いない。

 今のアリアは表情を繕っているから───このお人好しはそういうところがある。一年近く側にいれば、分かってしまう。

「よかった。ありがと」

 礼を言って、アリアは先導するように歩き出す。その後ろ姿を眺めながら足を進める。

 いつも通りに結い上げられた髪。惜し気もなく晒されるうなじに視線が吸い寄せられる。その細い首筋に、簡単に触れられてしまいそうだと思う。

 ボクが手を伸ばしたなら、安易に触れてしまったなら、アンタはどんな顔をするんだろうか。触れることを許すのか、拒むのか。知りたくなくて……知りたくて。

(……ボクとイオンに差なんてない)

 自身の婚約者を死へ道連れに選べる醜悪さ。それとボクの欲は変わらない。心中なんか死んでも御免だ。中途半端な命の結末に付き合わせる気なんてない。

 でもアリアを生かすためなら、なんだって売れる。世界だろうと、相手が悪魔だろうと。アリアが死んだなら、価値がないと自身の命を見限れる。結局心中を望めるのなら、ボクとイオンに大きな差などないと思う。

(アリアならそんなことは望まない。ボクが死んだって……一緒に死のうだなんて思わない筈だ)

 それは導師の存在があるからでもあり、アリアとボクが違うからだ。互いに抱く感情が根底から違う。アレはボクを側に望むし、大切だと簡単に口にする。醜く汚い感情など覗かせない。空のように澄んだ瞳で真っ直ぐにボクを見て、言葉に出来てしまう。

 ───ボクには出来ないのに。

(……くそ)

 眩暈がする。憎たらしい。身勝手な欲を抱く自分へ嫌悪が向く。頭の中でその細い首に手を伸ばそうとする自分が許せない。許せる筈もない。与えられることしか出来ない「欠け」た存在のクセに、唯一与えてくれる存在を自分の手で貶めるなど、愚かしいにも程がある。

 本当に、救いがたい。

(……アンタが)

 たった一人を選べる存在だったら良かったのに、と。






 ボクはまた、現実から眼を背ける。
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