短編:sideテセレマ
魔界の海に幼い少年の姿が沈む。
助けられなかった。
仕方がないことだったと、残念だと自分の声がする。
どこか冷たい、他の命との間に線を引いたような声。
人の死を悼みながら、本当に自分がそれを理解しているのか僕には分からない。
「導師イオン」として人の死を悼むように学習を重ねただけで、ただ状況に対する反応をしているだけなのではないか。
そんな疑念すら抱く。
───けれど、少年の姿が見知った少女へ変われば僕の心は一転した。
焦燥が胸を占め、近付いてはいけないと分かっていても手を伸ばす。
早く助けなくては魔界の海に沈んでしまう。
沈めば決して助からない。
死なせてはいけない。
亜麻色の長い髪が魔界の泥に呑まれていく。
空を映した水の色が僕を眺める。
早く、この手を伸ばさなければ。
伸ばされた彼女の手を、僕が───
*****
「───!」
呼吸が止まるような衝撃を受けて、僕は目覚めた。
すぐに咳き込むようにして呼吸を取り戻し、浅く速いそれを繰り返す。まるで、酸素のある場所にいながら溺れているかのようだった。
心臓が早鐘を打つ。嫌な汗が滲んで体が重い。頭を起こせば目が回ってしまいそうで、それでも僕はベッドの上で体を起こした。
(……ここは魔界だ)
外殻大地の下にある世界。教団が隠してきた秘密の一つであり、監視者の街が存在する。
ルークがヴァンに利用され、超振動でセフィロトツリーを消滅させてしまった。支えを失ったアクゼリュスは崩落し、その場にいた僕らも今は魔界にいる。
(……大丈夫だ。きちんと把握できている)
頭が混乱していたり、現実が受け入れられないなどということもない。教団の最高指導者として、ユリアシティの市長と話をする責務を全うできる筈だ。
その筈なのに……僕の体は冷たく感じられて思うように動いてはくれない。
(どうして……)
魔界に落ちてしまい、様々な説明が必要になる筈だった。だが実際には「酷い顔色だ」とアニスに心配をかけてしまい、皆がテオドーロから話を聞く間、僕だけが休む場所を借りることになってしまった。
「導師」としてすべきことが出来なかった。
(……寒い)
冷たくなった手で震えそうになる自身の体を抱く。
寒い。胸の奥に穴が開いて、何か大切なものが溢れ出してしまっているかのようだ。そこから焦燥が湧き、落ち着きかけていた心臓のリズムを乱そうとする。
「アリア……」
この場にいない少女の名を呼ぶ。
応えてくれる声はない。当たり前だ。彼女はいない。魔界で目を覚ましてから、一度もその姿を見ていなかった。他の同行者は皆すぐ近くにいたというのに、アリアだけがどこにもいない。
分かっている。僕達が無事に合流できたのは、ティアが譜歌で守ってくれたからだ。あの時、既にアリアの姿はなかった。パッセージリングのある場所へ辿り着く前に彼女とは離れてしまった。
だから譜歌で守られることのなかった彼女の体が、この崩落でどうなったかは……考えなくとも答えが出る。
(違う……きっと、どこかに……)
根拠のない否定が僕を動かした。
状況を考えれば絶望的だ。頭ではより正しい答えが導き出せている。それでも僕の心は否を唱えた。他者の死にどこか一線を引いたような感覚が、焦燥に蝕まれる。それが僕の作った「導師イオン」を蝕む感覚でも構わない。
僕は僕の意志することを行うと決めた。
(アリアは……生きている)
どんなに愚かな期待でも、僕は希望を失えなかった。
*****
ルークとティアを欠き、一時的にアッシュを加えた状態でジェイド達とタルタロスへ乗り込む。セフィロトツリーを再度活性化させ、その吹き上げる力を利用して外殻大地へ戻るつもりだった。
アニスが気遣わしげな視線を僕に向ける。
「イオン様……やっぱりまだ休まれていた方が……」
「……僕は大丈夫です、アニス」
そう応える以外に僕に選択肢はない。
休む心地になどならなかった。一人体を休めたところで気が休まらない。寒さを覚える手足が感覚を失い、体が震え出してしまうだけだ。
それなら、こうして平気そうに振る舞っていられる方がずっといい。顔色まではどうにも出来ないが、「導師イオン」として人前に立つ間は偽ることが出来る。幸い、人形としての自分には慣れている。
「……イオン様。もしかして……」
「……?」
「いえ! ……なんでもないです」
何かを言いたそうにしてから、アニスは慌てた様子でその言葉を引っ込めた。それが何かは気になったけれど、彼女を気遣う余裕が僕には足りなくて問う言葉は作れなかった。
いや、なんとなく分かっている。彼女が何に言及しようとしたのか。
(……誰もが、僕の前でアリアの名を出さないように気遣ってくれている)
僕が休んでいる間に一頻りその話は終え、結論は出たということだろう。そして僕が倒れた理由に、きっとアリアの安否が関係あると思っている。
自分でも異論を挟むつもりはなかった。僕の虚弱な心臓は、アリアの死を思えば凍えてしまうのだから。僕はアリアの死を……認められない。
(きっと、無事でいる筈だ)
最後に彼女を見たのはアクゼリュスの坑道の中だった。超振動で障気を消そうとするルークを止めようと彼女が動き、それをヴァンが無力化した。
あの時、ヴァンはアリアを外へ運び出すよう神託の盾へ命令していた。それが間に合ったのかも、どこまで本当に行われたことなのかも分からない。
それでも信じるしかなかった。アクゼリュスを落とした男が、アリアを運び出せと命じた言葉を。
(……考えるべきことは沢山ある筈なのに)
頭が痛くて正しく回らない。
ヴァンの目的も、それに従う六神将のことも、行動を共にするアッシュのことも。魔界に置いてきてしまったルークやティアのことも気掛かりだ。
モースはどこまで事態を把握し関与しているのか。預言と崩落に関係性はあるのか。何が正しく、何が間違っているのか。「導師」として、僕は考えなくてはならない。
それでも、頭はぎしぎしと痛むばかりで。
(心臓が……冷えて止まってしまいそうだ)
早鐘を打つことすら出来なくなったそれに。
僕は服の上からそっと掌を重ねた。
*****
ベルケンドの第一音機関研究所を訪ね、ヴァンがレプリカ情報を集めていることが分かる。フォニミンが採れるというワイヨン鏡窟では、ディストがフォミクリーの研究をそこへ持ち込んでいたことが分かった。目的の詳細は分からないが、何か巨大な物のレプリカを作ろうとしているようだった。
ワイヨン鏡窟を離れる際に大きな地震が発生し、アッシュが南ルグニカ地方の崩落を懸念する。ユリア式封咒もヴァンには意味を成さないようで、次はセントビナー周辺が落ちる筈だと話がされた。
アッシュは単独行動に戻ると宣言し、僕達をダアトへ送り届けてくれる。「導師」としてすべきことも、考えるべきことも多くある筈だった。それでもダアトへ着いても僕の頭の中は整理がつかなくて、どこかぼんやりとしてしまっていた。
(キムラスカはナタリアの死を口実に戦争を起こすつもりだ。僕が止めなくては……「導師」として……)
「導師として」という考えが頭の中で滑る。「導師」とは何だろうか。どことなく、その言葉が遠くに思える。今の僕から解離してしまったかのように手が届かない。実感が湧いてこない。
それでも足を止めるわけにはいかなかった。放っておけば南ルグニカ地方で戦争が起き、セフィロトツリーの支えがない戦場は落ちてしまう。ピオニー陛下から和平の使者を任された者として、見過ごすわけにはいかない。
ナタリアに願われ、モースに先んじて導師詔勅を発令しようと教団へ戻る。
それが今出来る、僕の最善の選択肢である筈だった。
*****
(それなのにモースに軟禁されてしまうなんて……僕は何の役にも立てていない……)
神託の盾の本部にある一室で、ナタリアと共に軟禁されながら溜め息を吐く。
「導師」としても「僕」としても、何も出来ていない。魔界へ落ちてしまってから、大切な何かを取り零してしまったように物事へ集中できていなかった。
眼を閉じても、開けていても……彼女の姿が意識を掠めてしまっていた。
「導師イオン……」
案じるようにナタリアに呼ばれ、ハッとする。すぐに表情を取り繕い、同じように軟禁されている彼女へ向き直った。
戦争を直前にして閉じ込められてしまっているのは彼女も同じだ。不安なのは、寧ろ僕よりも王女であるナタリアの方だろう。
安心させるように微笑みを形作る。
「大丈夫ですよ。アニスを逃がすことは出来た筈です。彼女ならジェイドに助けを求め、戦争が起きてしまわないよう手を尽くしてくれる。きっと、助けは来ます」
「………………」
「……ナタリア?」
僕の言葉にも表情にも、ナタリアは少しも安心する様子を見せなかった。それどころか心配する色は増すばかりで、それが僕に疑問を抱かせた。応えたナタリアの言葉で、彼女の心配が別のものであったことを知る。
「イオン……こんな時に聞くべきことではないのかもしれませんが……貴方にとって、アリアは……」
「………………」
僕はその時、どんな顔をしてしまったのか。分からないが、それを見たナタリアは言葉を飲んで視線を下へ向けた。謝罪の言葉が耳に届く。
「……申し訳ありません。私の配慮が足りませんでしたわ」
「……いえ。いいんです。僕こそ、皆さんに気を遣わせてしまって申し訳ない」
「そんな! 大事な人を……失えば、誰もが気丈には振る舞えませんわ」
失った、というナタリアの言葉が実感を伴わない。遺体でも見ることが出来たなら、僕はもっと簡単に受け入れられたのだろうか。結果は分からない。
(大事な人……)
ナタリアの言葉は、そちらの方が僕の胸に馴染んだ。大事な人、ともう一度心の中で繰り返す。そこに違和は生じない。僕にとって、アリアは大事な人だった。
そう思った途端、胸の奥に痛みが起きる。その痛みが僕の想いを肯定しているようで、今更に思えて哀しい気持ちになる。僕が彼女に向ける感情が何であれ、僕にとって大事な人であることに変わりはない。大事な人であるなら……きちんと、側に繋いでおけばよかったのだ。
(僕が……曖昧なままだったから)
だから彼女はこの手を離れていってしまった。僕にとっては失えばこれ程までに空虚を感じてしまう存在だったのに、名を与えられて浮かれるばかりできちんと彼女を見ることが出来ていなかった。
アクゼリュスの件が解決したら、なんて悠長なことを考えているべきではなかった。その後悔を、僕は心配してくれたナタリアへ言葉に変える。
「……アッシュのことが気にかかりますか?」
「……ええ。私は彼の……幼馴染みですもの。勿論、ルークのことも同じように思っていますわ。ですが……」
ナタリアの言いたいことは分かった。アッシュは本来のルークであり、彼女にとっては七年間存在を忘れられていた婚約者ということになる。
その想いを理解するには、僕では役不足だろう。けれど、僕がアリアへ向ける感情を彼女が重ねて見ているのは感じ取れた。だから僕は今思うことを伝える。
「きっと、時間が必要なんです。相手を知り、自分を知るための時間が……大丈夫。アッシュは生きていた。貴女も崩落を乗り越えここにいる。今からでも、遅くはない筈です」
「……ありがとう。優しいですわね、導師は」
僕は静かに首を横に振る。優しくなどない。そう考える切っ掛けをくれたのは、そう思わせてくれたのは……僕より余程温かくて優しい心を持った少女だった。
僕はただ、彼女に教わったことを自分のものにしようとしているだけだ。彼女に与えられたものは……「導師イオン」の持ち物ではないと胸を張れるから。
「導師───」
何かをナタリアが口にしようとして、それより先に部屋の扉が開かれた。驚いてそちらを見れば、部屋へ踏み込んだのは期待した助けの姿だった。
そこにルークの姿もあって内心ホッとする。様子は変わってしまったようだったが、僕はそれを悪い変化だとは思わなかった。僕がアリアと関わることで得た変化であるように、きっとルークにとっても意味のある変化となる。
(ルークは元々、とても優しかった。ティアやガイが側にいれば、きっと彼は大丈夫)
自身がレプリカと知らされて、己の手でアクゼリュスを崩落させてしまって……ルークは追い詰められてしまった筈だ。それでも今はここに立ち、戦争を止めようと行動している。その姿を見て、ようやく僕も向くべき方向を見られるようになってきたように思う。
(それとも、ナタリアのお陰だろうか)
僕にとってのアリアがどんな存在であるのか、彼女の言葉のお陰で形が作られたような気がする。どんな言葉を重ねたところで、この胸に開いた空虚な感覚を埋めるに足る言葉は「大事な人」だけだ。
(……アリアはきっと生きている)
根拠もなくそう信じる。盲目的な逃避かもしれない。それでも彼女の死を思うと胸の奥に違和感が浮かぶのだ。ざわざわと落ち着かない感覚が、その判断を腑に落ちないものとする。だから僕は信じる。せめてヴァンの口から彼女の死を聞くまでは、僕は彼女を捜したい。
(そのためにも、今は戦争を回避しなくては)
「導師」である自分がすべきことであり、自分にしか出来ない役目だ。ナタリアがインゴベルト陛下を説得するとして、モースを抑える役割は「導師イオン」にしか出来ない。例えそれが借り物の名でも、今の僕にとっては必要なものだ。
「私はセントビナーが崩落するという話も心配ですねぇ」
ダアト近くの丘に立つ第四石碑の側で、今後の動きを相談する。開戦準備をしているとはいえ、無策でバチカルへ向かって矛を納められるかは分からない。地震のこともあり、先に南ルグニカ地方の崩落に関する兆しがないか、ピオニー陛下の下を訪ねることにした。
アッシュがダアト港に残してくれたタルタロスへ向かおうとした時、不意にジェイドが声を少し大きくした。まるで、姿の見えない誰かへ語りかけるように。
「盗み聞きとは感心しませんねぇ」
「追手か!?」
ルーク達の手がそれぞれの武器へと伸びる。
こういった場所で堂々と追手がかかる筈はないと話したばかりだった。だがジェイドの言葉の通りなら、誰かが僕達の会話を聞いていることになる。
警戒を持って彼の視線の向く先を見れば───思いもしない人物が姿を現した。
「待ってタンマ! 敵意はない、です!」
「────、」
眼を瞠り、息を飲む。
目の前の光景が信じられなかった。遂に僕は幻覚でも見るようになったのだろうかと一瞬思考してしまうが、彼女がルーク達と交わす言葉とその様子を見る内に段々と理解してくる。……幻では、ない。
(あ……)
体が動き出さない。声が出ない。ただ胸に開いた空虚なものが、内側から温められて埋められていくのを感じる。
それにやはり、この感覚の理由は彼女だったのだと改めて実感する。そして、こうして僕の心臓を温めてくれる存在が彼女であるということも。
「一先ず、話はタルタロスに着いてからにしましょう。こちらとしても、時間は惜しい状況ですしね」
「オーケイ、大佐」
ジェイドの言葉に以前と変わらずアリアが応えて、それぞれに歩みを再開しようとする。そうなってからようやく、僕は自分が歩くことが出来ると思い出したように足が動くようになる。
迷わず、その姿に近付いた。
「……信じていました」
手を取って伝える。不自然に力がこもってしまった自覚はあった。そうして触れられることが、まだ信じられなくて。
───不安だからこそ、信じていた。
「無事で良かった。本当に」
「……心配掛けてゴメン」
どうして、とアリアは問わなかった。フーブラス川の時とは違い、自身が心配されるものだと学習してくれている。僕達が伝えてきた言葉は、届いている。
「僕こそ何も出来ませんでした。……すみません」
目の前にいたのに。
あの時、側を離れるべきではなかった。
こうして手を繋いでいるべきだった。
二度と、離してしまわないように。
「二人とも~! 何してるの。早く早く~!」
「あ、うん。……テセ、今は行こう」
「……はい」
テセ、と久方ぶりに愛称を呼ばれる。その音が胸に馴染んで、呼んでくれる人がいなくては意味がないと改めて思う。僕に僕であることを望んでくれる人───僕にとっての大事な人。
繋いだ手を不用意に離してしまわないように、僕はその手を引いて歩き出した。
*****
ケテルブルクで、彼女の首に着けられた装置を外す場に同席する。初めてその装置を見た時から、何故か胸の奥に不快感があった。見れば見る程に胸の奥がもやもやとわだかまりを覚える。
だからそれを外す場に同席し、きちんと外れるところを見たいと思った。それがこのもやもやを晴らすことになる確信はなかったが、なんとなくそれが自分に今必要なことだと感じる。
「あれ。なんでテセも?」
「少し、気になることがあったものですから」
迷惑か問えばアリアは否定して、僕は安堵する。同席を許されて、その様子を見守っていた。
「とりあえず装置を見ましょう。アリア、そこに座って下さい」
「ほい」
アリアがベッドに腰掛け、その白く細い首を晒した。ジェイドの手が伸び首輪に触れる。それを見て、またざわりと胸の奥が不穏に波立つ。
(……?)
分からない。
どうしてか、僕はあの装置が看過できないようだった。同じように、ジェイドの手がそれに触れることにも胸がざわつく。彼はアリアをあの装置から解放しようとしてくれているのに、おかしな感覚だ。
(……もし、僕にあの装置が外せたなら)
そうであったなら、この感覚を味わわずに済んだのだろうか。馬鹿げた考えだ。
僕にあの装置を調べる知識も、外す技能も存在しない。第一外すことが出来たとして、僕が行うこととジェイドが行うことで結果に差など生じない。
おかしな考えを押し出すようにそっと息を吐き、アリアの話に耳を傾けた。
「ボク、レプリカなんだって」
「!」
驚いたのは、僕だけだ。気付いていたのかをアリアが問えば、ジェイドは肯定した。彼は切っ掛けを幾つか口にするけれど、僕の頭の中はそれどころではない。アリアが、レプリカ───
(……あ)
バチカルで、ファブレ邸の中庭で言葉を交わした時のことを思い出す。彼女は最近思い知ったのだと話した。どんなに似ていても同じでなく、絶望する程に自分は自分だと。あれは……彼女自身の話だった。
アリアの様子がおかしかったのは、コーラル城で別行動を取った後だ。それならきっと、あの時に知ったのだろう。自身がレプリカだということを。
自分を人間だと思ってきた人にとって、真実は残酷だと思う。その苦しみを、アリアはあの短期間で乗り越えたのだろうか。誰にも打ち明けず、一人きりで。
僕はまた……何も出来なかった。
「……って訳で、なんか封印術もどきがかけられてるっぽい」
「……ふむ。人為的な術式ですか……」
いけない。今はアリアの話に集中しなくては。頭を軽く振り、その術式がアリアに害を及ぼさないかを尋ねてみる。ジェイドは「恐らく大丈夫でしょう」と答えて、僕は安堵する。
けれど表情を明るくは出来ない。ここへ来る前に、アリアからは「ユリアの預言に自分が詠まれている」と聞いている。
当然聞いた覚えはない。
本来、秘預言はその影響の大きさから秘匿されるような預言を指す。彼女が世界に大きな影響を及ぼすと、先代導師エベノスは───もしくは僕の被験者は、そう判断したのだろうか。
それ故にアリアは……彼女というレプリカは作られたのだろうか。そんな疑念を抱く。
話を聞き出し終えると、ジェイドは簡単に装置を外し退室してしまう。アリアは僕達に口止めだけしてしまうといつもの調子だった。残った僕へ向き直る。
「それで、気になることって何?」
「………………」
僕の眼は自然と彼女の首元へ向いた。白く、細く……ようやく重く無骨な枷から解放されたそれを見ていると、おかしな心地になる。……手を、伸ばしたくなる。
「……テセ?」
促すように呼ばれ、声の主へ近付く。ベッドに腰掛けた彼女はきょとんと僕を見上げていて、僕は自身の感覚に従いその無防備な首へ手を伸ばした。
彼女は何もせずそれを受け入れ、指先は簡単に触れてしまう。振り払われない。今この瞬間、僕の手は彼女の命へ触れてしまってもおかしくはないのに……警戒は、なかった。
(どうして……)
彼女へ手を伸ばした自身の感情が理解できない。
首にあった枷が何だというのか。それをジェイドが引いたからといって、何が変わるというのか。自分が何に引っ掛かりを覚えてしまっているのかが分からない。
ただ、二度とこの首に無遠慮な枷が嵌められることがなければいいと思う。彼女の意志や自由を、妨げるものがなければ───
(───何も出来なかった身で、今更何を願えるというのか)
黒く重い靄が心臓を圧す。
祈るばかりで、願うばかりで何も出来なかった。アクゼリュスで一番近い場所にいたのは僕だった。助けることが出来た筈だ。あと少し考えが、この体に戦う術があったなら……僕が役立たずでなかったなら。
自己嫌悪は、そのまま言葉へ変わった。
「……僕は、無力ですね」
「どうしたの、急に」
アリアが首を傾げる。
僕が何を言い出したのか分からないようで、それが余計に哀しい。彼女は何も思っていない。怒ったり、責めたり……「どうして助けてくれなかったのか」なんて言ってくれはしない。
あんなに近くにいたのに。彼女は何度も僕を助けてくれたのに。何の役にも立たずとも何も思われない。役に立たないと知っているから。期待など初めからされていないから。
───その事実が、何より辛い。
「アクゼリュスで貴女がルークを止めようとした時、僕には何も出来ませんでした。ヴァンに貴女が傷付けられた時も……崩落の時も。捕らわれた貴女に、手を差し伸べることさえ出来なかった」
「テセは戦えなくても、自分に出来ることをしてるでしょ」
「導師という立場を利用しているだけですよ。それに、人々が求めているのは僕ではない。僕を通して、預言を欲しているだけなんです。和平だって……僕の力ではありません」
「んー、でも和平の使者を引き受けて、ダアトから飛び出して、大詠師の追手を振り払って……テセは自分で努力してると思うけどな」
「皆さんのお力をお借りしているだけですよ」
「それはお互い様でしょ」
彼女の言葉にようやく苦笑する。
お互い様などではない。アリアと僕は、決して同じ話をしていなかった。僕はただ自身の無力を嘆いているわけではなく、彼女を助ける力が自分にないという、その一点を責めていたのだから。期待もされない自分に失望する。
(僕は無力だ)
彼女の言葉の通り「導師イオン」として出来ることを出来ていたとして、しかし「僕」としてはどうか。何も出来ていない。目の前でアリアを失っておきながら、張れる胸がどこにある。
その自責の念を遮ったのはアリアの声だった。
「前も言ったけど、テセは導師イオンだからテセなんじゃないよ。テセが、導師イオンなの。オーケイ?」
突然かけられた言葉は以前バチカルで聞いたものと近しく、意図は読めないが気圧されるように一先ず頷いた。何故かアリアの言葉にはぐるぐると考えを巡らす僕を責めるような響きがあり───次いで示されたのは、甘く優しい「許し」だった。
「無力じゃないよ。テセは自分に出来ることをしてる。そんな風に心を動かすことだって、きっと意味があることだよ。テセにとって……もしくは誰かにとっても」
「───、」
恐ろしい言葉だったと思う。
「導師イオン」としては役に立てていても、「僕」としては役に立てていないと……その思考を読んだかのように都合よく甘い言葉が与えられた。
(こんな風に、心を動かすことに意味があるなら……)
それが自分だけでなく誰かにとっても意味があるのなら。僕はその誰かがアリアであって欲しいと思う。
彼女が肯定してくれる「僕」は、彼女がいなくては成り立たない。助けられなかったと責める心も、力になりたいと願う心も。この、期待もされない無力な自分から変わりたいと抱く心も。
(全部、アリアのために在りたい)
そう気付いてしまえば、後は坂から転がり落ちるように簡単だった。僕の口は勝手に開き、彼女の言質を取ろうとする。何も気付いていない彼女を陥れるように、浅ましく。
「そう……でしょうか。僕が何かを思い、考えることは……意味がありますか?」
「あるある。だからもっと主張していこ。テセがテセとして、それから導師イオンとして、思い考えることを」
「……はい」
あまりに無防備だ。
自分がどれだけの甘言を口にしてしまっているのか分かっていない。他者に優しさを与えすぎていることに気付いていない。同情や哀れみでなく、ただ当たり前に渡される肯定がどれ程人を惑わせるかを自覚していない。
この手がアリア自身へ伸びる可能性など、頭の中のどこにも置いていない。だからその首へ触れてしまえた。彼女は無警戒に僕を甘やかすから───この手に転がり落ちてしまう。
「……早速ですが、その言葉に甘えてみてもいいでしょうか」
「う、うん」
彼女の手を取り両手で包む。
大切に想う気持ちが少しでも伝わるように優しく握る。合わせた瞳は僕に戸惑いを向けていた。それでもこの手は振り払われない。触れる理由も問われず、素直に僕の言葉の続きを待っている。
幼子のように、純粋に。
「……僕は貴女に何かがあると、嫌みたいなんです。貴女が傷付いたり、一人で悩んだりしていると、力になりたいと願う。貴女を助けられる自分でいたいんです」
綺麗な言葉で取り繕った。
彼女に少しでも警戒されてしまわないように。彼女が僕の望みを断ってしまわないように。
彼女に、嫌われてしまわないように。
「これは導師イオンではなく、僕としての感情です。貴女の助けになれない自分が、悔しい。貴女の姿が見えないと不安になる。そのまま貴女がどこかへ行ってしまうのではないかと……いなくなって、しまいそうで」
彼女の甘言を利用する。
汚い行いだ。醜い欲求だ。曖昧にせず、きちんと繋ぎ止めておきたいと思っていた。だがこんな風に望むつもりだったわけではない。それでも、もう言葉は止められない。
彼女を側へ望む意志は止められない。
「だから、お願いがあるんです。───アリア。僕と一緒に、ダアトへ来てくれませんか」
「………………」
彼女の水色の瞳にあるのは困惑だ。
僕が何を言ったのか理解できていないと顔に書いてある。僕の望みが想定になかったと正直に示されている。当然だ、アリアは僕に期待していない。僕が彼女を望むだなんて思ってもみていない。
その事実が、心臓を刺してじくじくと痛む。
「勿論、今すぐではありません。事が全て済んだ時でいいんです。モースやヴァン……他の人間に余計なことはさせません。約束します。ですから……考えては貰えませんか」
彼女が驚いてこの手から逃げてしまわないよう、身勝手に言葉を重ねた。戸惑いの表情の中に迷いが生じて安堵してしまう。僕の懇願に彼女が甘く優しいと知っている。それにつけこむように手を伸ばす僕は、きっと悪い存在だ。
(……ごめんなさい。アリア)
彼女が僕に与えてくれた、陽だまりのような温かさを返したいと思っていた。あの優しい時間を、側にいることで安心が感じられる時間を、同じように渡したいと思っていた。
けれど今の僕の想いはあの時から変化し、随分身勝手に成長してしまっていた。彼女と僕は決して同じ話をしていないと分かっていながら、一方的な縛りを求めてしまう。
(彼女は絶対にこんなことは望んでいない)
僕に期待などしていないし、僕の側を特別望んでくれることもない。それでも僕は手を伸ばす。身勝手に、アリアが肯定した「僕の心」に従って繋ぎ止める。
二度と失う思いはしたくないから。
「……すみません。急にこんなことを言われても、困りますよね」
「うん、まぁ……想像もしてなかったからね」
「答えは急がなくていいんです。ただ、出来れば貴女に考えておいて欲しい。お願いします」
「……分かった」
僕の願いに彼女は頷く。戸惑いながら、迷いを生じさせながら、決してはね除けることはしない。出来ないと知っている。彼女はどこまでも甘く、優しい。
(彼女の瞳に、今の僕はどう映っているだろうか)
分からない。だからせめて、彼女を側へ望む身勝手な想いが綺麗なものに映るように……僕は心からの微笑みを作った。
彼女が僕の意志に転落してしまうように、願って。
「ありがとう」
僕は彼女に───貪欲な望みを、抱いてしまった。