短編:sideテセレマ
僕の始まりに、僕はなかった。
でも、僕に僕を求めてくれる人と出会った。
当たり前のように僕を見る瞳。
優しくて、温かくて、可愛らしい人。
繋がりなど持たないと冷たい隔たりを作りながら。
僕が踏み込めば、不安に応えようとしてくれた。
(───甘い……)
甘い、甘い、蜜の香り。
虫を寄せる花のように。
僕をどろどろに溶かすような甘い誘惑。
知りたい。
話がしたい。
声が聞きたい。
瞳に映りたい。
───側に。
(ああ……)
望んではいけないと、なんとなく分かっている。
レプリカ体は人の体よりも長くはもたない。
そうでなくても導師の力を使いすぎた。
虚弱な僕の体はきっと長くはない。
でも、望んではいけない理由はそれではなかった。
僕が彼女を側へ望む理由が、あまりに身勝手だから。
(僕は、彼女に……)
人の優しさに触れたことはあった。
一人の人として気遣ってくれた人だっていただろう。
何も彼女が特別というわけではない筈だ。
それなのにどうしてか、僕は彼女に惹かれてしまう。
花の香りに誘われる虫のように。
自分の前に無防備に在る蜜に何かを駆られる。
その蜜がとても甘いと知ってしまっている。
その甘い誘惑に……抗えない。
(……これが恋ならば)
人に恋をする感情は、優しく、甘く。
同時に、とても残酷な現実を突きつける。
*****
「君に愛称を贈りたい。友人らしく」
その言葉を貰った翌日には、僕は六神将に引き渡されてタルタロスへ乗せられていた。向かう先はザオ遺跡にあるセフィロトのようで、シュレーの丘の時のようにダアト式封咒を解くことを要求されるのは分かっていた。
それでも不思議と怖くはない。この体が死へ近付くことも、頼れる人間が側に一人もいないということも。今の僕には何も影響しなかった。
(寧ろ、僕の胸には安心がある)
昨日温められた心臓がまだ温かいようだった。そこに宿った熱が、僕を孤独に凍えさせない。
きっと僕の不在に気付いたアニスはルーク達を頼るだろう。迷惑をかけてしまうのは申し訳ないが、迎えに来てくれると信じている。そして、
(愛称をまだ、僕は聞いていないから)
途中で投げ出すことを好まない少女が、宣言を保留にして僕の前から消えてしまうとは思えなかった。もし今日和平が成って彼女の契約が終わったとしても、僕を見付けて約束を果たすまではいなくならないと信じられる。
(きっと、彼女は僕を見付けてくれる)
根拠もなく、そう期待できてしまった。
*****
「注意してって言ったのに、たった一日も待てないで拐われるんだから」
「すみません……」
「拐われたらまた捜し出すから、いいよ」
呆れながらも当たり前のように彼女はそう応える。それは和平が成っていないからか、それとも僕を友人だと思ってくれているからか。どちらにしても、そうして渡される「当たり前」に胸が震えた。
「どういたしまして。それで、例の件なんだけど」
「愛称……の、話ですか?」
その話題を切り出した時の彼女はどこか緊張して見えて、普段はあんなに頼もしく映る少女が急に年相応に見えてしまう。体が弱く臆病な僕よりも、余程不安そうに視線が彷徨う。
それだけ真剣に考えてくれたのだろうと予想が出来てしまって、可愛らしい。
「あんまりネーミングセンスには期待しないで欲しいんだけど……」
前置きをして緊張と不安を緩和させようとする。僕は答えを急がせないで、彼女が口にしてくれるのを待った。
本当は心臓が鳴っていた。期待か、緊張か。
彼女が僕に与えてくれるものは、僕だけの持ち物だ。「導師イオン」でない僕だけのもの。だから今から渡される愛称は、僕の名前と言って過言でない。僕が……僕で在るための呼び名だから。
「テセ……は、どうかな」
「……テセ、ですか?」
「そう。正しくはテセレマ。そのままじゃイオンより長くなっちゃうから、ボクはテセって呼ぼうかなって」
由来を聞いて、僕は呼吸を止めてしまった。
それは古代イスパニア語で「汝の意志することを行え」を意味する言葉だ。人々の、自由な意志を願う言葉。
(汝の意志することを行え……)
その意味を何度も胸に刻み込む。
彼女が呼び名に含めた僕への祈り。
「導師」でない僕に願われたこと。
名前は呪縛だ。「導師イオン」として望まれたからこそ、それが分かる。
でも同時に祝福にもなり得る。こう在って欲しいという温かな祈りを感じられる。
(呪縛でも、祝福でも構わない)
ただ彼女の祈りに応えたい。
その名に相応しい人になりたい。
状況に流されるだけではなく。
「導師イオン」として在るだけではなく。
アリアが求めてくれる、僕を。
「……僕は、テセレマ」
「うん。導師イオンでありながら、それと一緒に……君に、君でいて欲しい」
甘い、甘い誘惑だ。その願いが、僕のためだけに捧げられた祈りが、どれだけ尊いものか彼女は知らない。
親に名を与えられる、という当たり前の祈りすら僕は持たなかった。作られた命にそんなものは必要なかった。僕も何も思わなかった。
けれど、今は。
「ありがとう、アリア。僕がどう在りたいか、今ようやく見えてきたような気がします」
胸の奥が温かい。目の前の少女が浮かべる柔らかい微笑みが、僕の表情まで柔らかく変えてしまう。
祈りに込められた感情が……優しさが。
人形である筈の僕に、新しい感情を芽生えさせる。
「僕は───僕の意志することを行います」
この時から「祈り」を意味する名の少女は。
人々の導として望まれた僕の、唯一の導となった。
*****
アクゼリュスへの同行を希望した理由は、伝えた通りピオニー陛下にアクゼリュス救出についても話がしたいと思ったからだった。それが「導師イオン」として親書を任された、僕が出来ること。
けれどアリアに名を貰って、少し僕の心の持ちようは変わったように思う。戦争に、障気に……そうして苦しむ人々に、僕は「導師イオン」として心を揺らす。
(その心を少しだけ、自分の痛みだと思ってもいいのかもしれない……)
彼女の祈りに「僕」としての許しを得られたように思ってしまう。「導師イオン」以外の持ち物があってもいいのではないかと錯覚する。
そしてその夢のような現実を、簡単に見失ってしまうことがないように……僕はまだ、アリアを側で見ていたかった。
「そういや、この傷をつけたのはシンクだったけど、まさかあいつが術者かな」
「おそらくそうでしょうね」
カイツール軍港へと向かう船の上で、ガイの疑問に僕は肯定を返す。ここまでの邂逅で、僕はもうシンクの正体に気付いていた。
初めにケセドニアで覚えた既視感に、ザオ遺跡へ連れられる中で短い時間でもすぐ近くで彼の様子を見た。それでも確信するには情報が足らず、それがガイのカースロットの話で補強される。
(僕以外にもイオンレプリカがいたなんて)
自分の前に六体のレプリカが作られたことは知っている。だが僕が代用品として決定したことで、全て廃棄されたと聞いていた。生きて、それもこんなに近くにいたなんて思いもしなかった。
(……僕が人形でなかったなら、もっと早く彼に気付くことが出来ただろうか)
最初に思ったのは喜びではなかった。自身の怠慢を悔いる声が胸の内から湧く。自分が最高指導者である筈の場所のことすら、僕はよく知らない。
彼に気付いたとして、自分に何が出来ただろう。分からない。少なくとも人形である自分には、きっと何も出来なかった。
僕が作られたことで廃棄された存在なのに……唯一選ばれた「導師」でありながら、僕はあまりに無責任だ。
「ね。カースロットってテセには解呪出来ないの?」
不意に船上でアリアに問われる。
彼女はいつも、目敏く情報を取り零さない。
「出来ます。というより、僕にしか出来ないでしょう。ただ……今は消耗しているので……」
「そっか。無理はダメだね」
「すみません……」
「気にしない気にしない! 全部終わったら考えよ」
「はい」
必要以上に優しい言葉に、僕の頬は勝手に緩む。彼女に自覚はあるのだろうか。きっとないのだろう、と心の中で答えを出す。
彼女が僕に向ける感情は、「友人」という言葉を使う前と後で大きく違っていた。それは身体的な距離感にも表れていて、アリアは自然と僕の側に立つ。
僕の側を居心地よく思ってくれているなら嬉しい。あの街道での陽だまりの時間以来、僕も彼女に同じように感じているのだから。
「テセって……なに?」
「僕の愛称です。アリアが考えてくれたんですよ」
僕とアリアの会話が聞こえていたらしいアニスの問いに、僕はすかさず答えた。誇らしい、なんて表現すれば大袈裟かもしれない。それでもその言葉が僕の心境には当てはまってしまった。
「導師イオン」ではない、僕だけの持ち物。初めて得たそれは、僕にとって何にも代えがたい価値がある。
「えーっと……」
愛称を贈った理由を問う視線を受けて、アリアが困ったように視線を泳がせる。誤魔化したいと顔に書いてあるようなぎこちない笑みが、僕の胸を温める。
(返答に困ってくれるんですね)
温かい。僕にとっては当たり前に価値のある名前だ。アリアも同じように価値を感じてくれていると思うと、自然と嬉しい気持ちになる。
旅の初めはお互い、それ程関心がなかった筈だ。けれど今は全く違う。アリアは僕に僕であることを望んでくれて、僕はそれを受け入れた。その名に相応しい自分で在りたいと思っている。アリアの傾けてくれる想いが面映ゆくて───僕は自然と浮き足立ってしまう。
「内緒です」
腕を引き、ルーク達の側から彼女を引き離す。
公然と秘密を持つことが、なんだか子供の悪戯のようで楽しかった。子供時代なんてなかったから、余計にそう思うのだろうか。
(……ああ、でも)
この手が引く存在は、僕にとって代母ではないと思う。母を恋しく思う子の気持ちは、きっと僕には分からない。それでも想像するしかないそれは、少なくとも今の僕の内面には重ならなかった。
(それなら、この気持ちは何なのか)
その答えは僕にはまだ難しい。
ようやく自分がどう在りたいかが見えてきたばかりだ。それも具体的に何がしたい、とかではなく、ただ漠然と「僕」の持ち物を増やそうというだけのもの。
まだ赤子のように、僕の歩みは遅い。
(でも、焦らなくていい)
僕の体が長くはないとしても、年内に消えてしまう程ではない筈だ。死を迎えるまでの時間はまだ多く残されている。その間に答えを探せばいい。
少なくとも僕にはアリアがくれた呼び名がある。彼女がいてくれれば……答えはいつか、自然と見付かるような気がした。
僕が少し強引に引いたその腕は。
振り払われることなく、僕の歩調で歩いてくれた。
*****
デオ峠へ着けば、その道程を予想してか隣にいたアリアが僕を見た。その瞳が僕の体調を気遣ったものであることは、もう理解している。
「頑張ります」と決意を込めて頷き返せば、彼女は小さく嘆息する。きっとどうなるか、彼女の瞳にはすでに見えているのだろう。正直僕にも見えている。
それでも変わらず気遣って、結果の分かりきった僕の決意を黙って受け入れてくれる事実に安心する。僕が僕として決めたことを、彼女は否定しない。
「ちぇっ……師匠には追い付けなさそうだな。砂漠で寄り道なんかしなけりゃよかった」
道中、ルークがつまらなさそうに呟く。
それに申し訳ない気持ちになる。
寄り道をさせてしまったのは事実だ。アクゼリュスへ向かう親善大使となったことを知らなかったとはいえ、無責任に迎えを期待してしまってもいた。
そして彼を、信頼する師であるヴァンから離す形にしてしまったのも僕だ。きっと、ルークは彼との道行きを楽しみにしていた。
「寄り道って……」
「ルーク」
険のあるアニスの声を、アリアの平温の声が遮る。
僕が諌めるよりも早かった彼女の対応に、内心驚いてしまう。彼女が誰かの言葉を強引に遮るところは初めて見た。
何を彼に伝えるのだろうと思っていれば、その会話の流れに更に驚くことになる。
「テセが……導師イオンが拐われた状態で放置したら、それこそキムラスカは立場を悪くしていたよ。ルークは、必要なことをしたの」
「でも別に俺が行かなくてもよかっただろ。伯父上達に任せときゃよかったんだ」
「国王陛下にお願いしてたら、多分間に合ってないよ。ルークの判断は正しかった。アクゼリュスまで後少しだし、きっとヴァン謡将は待ってくれてる。落ち着いて進もう?」
「……分かったよ」
アリアの言葉の全てを飲み下せたわけではないだろう。それでもルークは頷くと、居心地が悪そうに先頭へ移動した。その背を眺めながら、側で行われる会話が自然と意識に入り込む。
「……凄いわ。ルークが大人しく従うだなんて」
「アリアおっとな~! アニスちゃんはぷっちーんしちゃうところだったよ」
「なんか、ルーク焦ってるみたいだからさ。ずっと屋敷の中で育ったからか、人付き合い上手くないし。これから学んでいけるように、ちゃんと付き合ってあげたいなって思うんだ」
「そう言ってもらえると助かるよ。あの通り坊っちゃん育ちだからな。態度が悪いところは、少しずつなんとかしていくからさ。な?」
ガイの言葉に同意が得られる様子を見ながら、僕の胸は少しだけざわついた。どうしてだろうか。アリアは何も変わっていない。僕を気遣ってくれることも変わっていないし、バチカルでルークを気遣う様子も見た。何もおかしなことなどなかった筈だ。
「テセは……」
隣から僕を気遣うアリアの声が聞こえてハッとする。正体の分からない感覚に付き合う時間は今ではない。頭の中を切り替えて彼女へ応える。
「僕は大丈夫です。寄り道をさせてしまったことには変わりありませんから」
「そんな! 今日の平和は導師イオンに両国が敬意を払っているからこそあるものです」
「いいえ。両国はユリアの残した預言が欲しいだけです。本当は僕なんて必要ないんですよ」
その言葉は自然と僕の口から滑り出て行った。言葉にする際に抵抗を覚えることも、その音が意識に固く響くこともない。ただどこか……以前より、その事実を他人事のように感じられるようになったと思う。
預言が欲しいだけで、僕も「導師イオン」も必要ない。代用品のレプリカであろうと、預言に詠まれた被験者であろうと、世界にとっては関係がない。関係がないなら……僕の選びたい道を選んでしまってもいいのではないか。
(僕が描く「導師イオン」の在り方を……そして、彼女が求めてくれた僕を……僕は探したい)
作られて二年も経ってから、ようやく僕はそう思うことが出来た。「導師イオン」という漠然とした像に僕が近付くのではなく、僕が「導師イオン」という像を作り上げる。結果的には同じ場所に辿り着くのかもしれない。それでも、その違いを小さな差だとは感じなかった。
だからその感覚を信じて、僕は僕に出来ることを探す。僕の持ち物を増やし、僕であることを考える。そうして己の在り方と向き合うことが出来るようになったのは、間違いなくアリアがくれた呼び名のお陰だった。
(彼女の祈りに、応えたい)
彼女が……僕に、「僕」を許してくれたから。
*****
峠越えの途中、アリアの声がルークの足を止めた。
その時にはもう僕の体は無理を訴えていて、彼女がルークを呼び止めた理由は聞かずとも分かっていた。上がっていた息を整え、音叉の杖で重くなった体を支える。
「テセ。もう少し頑張って」
休憩を取り付け、アリアが僕を誘導する。その声に従って休めそうな岩影で体を休めた。隣にアリアも座り、まるで街道の時と同じだと思えば、自然と気も休まった。
「イオン様……!」
「酷い顔色……申し訳ありません。浅慮でした」
「……いえ。体力がなくてご迷惑をお掛けします」
心配を向けてくれるアニスと、悔いるようなティアの様子に申し訳なくなる。実際、僕以外は誰も疲弊していない。魔物との戦闘がある分、僕が一番楽をさせてもらっている筈だ。歳の近いアニスだってダアトを離れたことはなく、決して旅慣れているわけではない。
……虚弱な体を、好きにはなれない。
「もしかして、休憩を提案なさったのは……」
「ボクが休みたかったからだよ。ボクも体力ないからねー。そろそろ膝が上がらなくなるところだった」
それが明らかな嘘であることは分かりきっていた。街道で休憩を提案した時も、バチカルで観光を希望した時も、アリアは自分を理由にする。
「あー疲れた」
「……ふふ」
わざとらしく続けられたぼやきに笑ってしまう。その僕の様子を見て、アリアの瞳が少しだけ柔らかくなる。仕事だから僕を気遣ったのではなく、僕の体調を心配してくれていたのだときちんと伝わる。
感謝の言葉は自然と形になった。
「ありがとう、アリア」
「んー? 分かんないけど、どーいたしまして」
わざとらしい様子が、器用なのか不器用なのか分からない。彼女は普段から表情を繕っている。でも、そこにある感情までは繕っていないように感じられる。きっとそれが、僕と彼女の決定的な違いだった。
「少しルークの様子を見てくるね」
そう言ってアリアは先へ歩いて行ってしまった。
動くことの出来ない体でその背を見送りながら、僕はまた胸のざわつきを感じていた。どうしてだろうかと考えても答えは出ない。アリアはきっと、彼女にとって必要と思うことをしているだけなのに。
(……僕の側には、アニス達もいるのに)
どうしてかこの隣が寂しいと、感じてしまっていた。
*****
「この世界は預言に支配されている。何をするにも預言を詠み、それに従って生きるなどおかしいとは思わないか?」
道行きを遮ったリグレットの言葉を、僕は間違っているとは思わなかった。預言に頼り、預言に縛られている。そういう風に表現することも出来る。
(実際に、モースは預言の通りに戦争を起こそうとしている)
それを正しいと僕は思えなかった。
だからダアトを飛び出し、今ここにいる。預言は絶対ではない。人が正しい道を進むための道具に過ぎない。
人は……自分で未来を選択できる筈だ。
「ティア! 私達と共に来なさい」
「私はまだ兄を疑っています。あなたは兄の忠実な片腕。兄への疑いが晴れるまでは、あなたの元には戻れません」
「では、力ずくでもお前を止める!」
そう言ってリグレットは二挺拳銃を引き抜いた。
戦うことの出来ない僕は後方へ下がり、すぐにアリアも僕の側へ下がってきた。手が足りてしまっている分、僕を気遣ってくれるようだった。
「ありがとう、アリア。頼もしいです」
「え!? あ、うん! 任せて」
少し慌てて返事をする様子も可愛らしい。ルーク達が戦っている最中に緊張感がないかもしれないが、そんなことを思ってしまっていた。
(僕が「導師イオン」でしかなかったなら、きっと胸を痛めてこんな余裕は感じられなかっただろう)
隣にアリアがいてくれるから、僕は無用な不安を感じる必要がない。きっと彼女なら誰よりも早く危険を察知して、対処してしまう。チーグルの森で出会ってからずっとそうだったように。
彼女は度重なる不意打ちに反応して見せた。理由は分からないが、彼女は音素の動きに敏感さを示す。
(体外で音素を操ることが出来ることと、何か関係があるのだろうか)
アリアは譜術を扱うことが出来ない。フォンスロットが不出来だと言っていたが、それは具体的にどういうことなのだろうと思う。
僕は彼女のことを何も知らない。預言に頼らず生きてきたということは聞いているが、その程度だ。
それは自分の意志で未来を選択する生き方であり、僕がそうあって欲しいと世界に願う生き方だ。それを当たり前に、アリアは体現する。
「采は投げられたのだ。死霊使いジェイド!」
戦いが終わり、リグレットはその言葉を残して立ち去った。フォミクリーの話に触れようとしたジェイドを制したのは、ルークが自身をレプリカと知ることがないように祈ったからだ。知らなくていいことも、この世界には確かにある。
「───失礼、取り乱しました。もう……大丈夫です。アクゼリュスへ急ぎましょう」
ジェイドの言葉に僕は同意を示し、率先して歩みを再開した。これ以上この話題に触れてしまわないように「導師イオン」として彼らを先導する。けれどそうして背後を振り返ることが遅かったから、僕は気付くことが出来なかった。
(アリア……?)
隣に並ばない彼女の姿を探して、ちらりと視線を向ければ離れた後方に見付ける。ルークと何かを話しているようで、その歩みは中々再開されない。視線を前へ戻す。
(……まただ)
胸の奥がもやもやとする。ざわついて落ち着かない。その感情が何かは分からないが、焦らなくていいと答えを出した筈だった。それなのにその感情は僕を焦らせようとする。何故なのか、その理由も分からない。
(……貴女のことをもっと知ることが出来たなら)
何か変わるだろうか。この気持ちに答えが出て、僕の描きたい「導師イオン」の像もハッキリするのだろうか。そんなことを考える。
(アクゼリュスの人々を助け、和平が成立したなら)
この旅が終わった時には、僕は彼女と話がしたいと思う。彼女のことを尋ね、知らないことを知っていきたい。些細なことから重要なことまで、なんでもいい。自然に話がしたいと思った。
(僕の話も聞いてくれるだろうか)
何も面白いことなどない、ほんの一文で済んでしまいそうな薄っぺらな僕の過去。
「僕は導師イオンの七番目のレプリカです」と告げたなら、彼女は何と言うだろう。どんな顔をするだろうか。「既に知っていた」と困った顔で返されてしまうかもしれない。
想像の中でも、彼女は僕の心臓を温める。
(モースも、和平が結ばれたなら不用意な動きは避けるだろう)
一先ず戦争は回避できる筈だ。
六神将の目的がモースの目的と重ならないことに疑問は残るが、それもダアトに戻ってから僕が対処すれば解決する筈だ。
「導師イオン」として、僕がそうしたいと望む。
だから時間はある筈だった。
和平が結ばれ、ダアトへ戻る時間……アリアのことを知るための時間が、僕にはあると思っていた。
それが思い違いであることを、僕は唐突に現実に突き付けられる。冷水を頭から被せられるように冷ややかに、それは覆らない「結果」として目の前に顕れた。
(───どうして)
ヴァンの謀略でアクゼリュスは落ち。
導の少女は、僕の前から姿を消してしまった。