短編:sideシンク


 ボクの始まりは、肌を焼く熱と照る橙だった。

 死ぬ、なんて概念すらその時のボクには分からなくて、ただその熱を恐ろしく感じた。理由もない生存本能。捨てるために作られた命のクセに、そんな無駄な機能もしっかり備わっていたことに笑ってしまう。そのお陰でボクは命拾いをしたし、そのお陰でボクは生き残るハメにもなってしまった。

 日々死んでしまえばいいと思いながら、死んでやるものかと恨み続けて、ヴァンの駒として生を繋ぐ。

 世界を呪ったのも、預言を憎んだのもボクの意志だ。ボクが確かに存在して、世界へ爪を立てる証。ボクを消そうとしたものをボクが消してやる矛盾。それを現実にして、ようやくボクは何にも執着しなくてよくなる筈だった。

 捨てられるだけの、価値がないと判を捺された命。

 その筈なのに、生にしがみついて憎しみを抱くボク。

 矛盾だらけだ。早く楽になりたかった。本当に価値がないなら、さっさと終わってくれればいい。

 そう願うのに生は続く。世界はボクを殺さなくて、ボクもみっともなく生を繋ぐ。そうして当たり前みたいに時間は過ぎていく。

 与えられるものは、何もなく。










*****










 「導師イオンの婚約者」という存在を知った。

 自分が誰のレプリカであるかは理解していた。被験者が病で死んだことだって知っていた。だが、婚約者の話をヴァンから聞いたことはなかった。資料から見付けたその存在に興味を持ったのは、それが被験者の持ち物だったからだ。

 被験者の持ち物。ボクの物にはならなかったモノ。そして恐らく、七番目の物になるのだろうモノ。

(───どうして?)

 まだ自己を獲得してから浅く、幼い疑問だった。

 その頃のボクの中に明確に在ったのは、空虚な感覚とそれに抗うような憎しみだけだ。自分は何でもないのだという事実と、そんな生を受けた理不尽への感情。その空しさと憎しみが、被験者という存在へと向く。

 ボクは何も持たないのに、与えられないのに、何故お前達ばかりが与えられるのか。強く深い憎しみが、呼吸まで止めるのかと思う程にボクを呑み込む。

 今思えばそれは羨望で、ボクは妬ましくて彼女に手を伸ばしたのだろう。被験者という存在。レプリカとして生まれたボクには決して手の届かないモノ。それ自体に憎しみと羨望を交えて、それを当たり前に与えられていたという自身の被験者にも同じものを抱いた。

(奪ってやる)

 「導師イオン」という存在から奪ってやる。正当に与えられたものを、不当に手にしてやりたい。廃棄されたボクに奪われて、どんな気持ちになるのか。勿論、死者に聞くことなど出来ない。それはただ、ボクを嘲笑った世界をボクが嗤い返してやりたかっただけだ。

 死者は何も出来ない。だからお前も何も出来ない。そう嗤って、誰かの意志を踏みにじりたかっただけ。

 お前と違ってボクは生きているのだ、と。










*****










 彼女は目覚めなかった。

 拐って研究所を爆破したはいいが、死にかけの状態のまま静かに眠るばかりだった。それがどんな原理によるものかは分からなかったが、彼女に与えられた呪いの正体は知った。命を奪おうとその細い首にかけられた鎌が、何者の意志によるものか。ボクは知ってしまった。

(どうして)

 幼い情動に嫌悪が混ざった。

 自分の婚約者を殺そうとする、暗く固い意志。彼女の命は導師にしか伝わらない筈のダアト式譜術に、深く絡めとられていた。それに初めは戸惑いを覚え、その呪いが具体的にどんなものであるのかを理解してから、ボクは嗤った。

(───狂ってる)

 死に行く自分と共に死ぬことを望むなど、気持ちが悪い程の執着だ。ボクは自身の被験者の歪みを感じ、同時にこの女にはそれだけの価値があったのかと思った。それ程までにこの女を求めたのかと。自ら生み出した代わりの「導師イオン」にすら、その存在を与えられない程に。

 不意に優越感が湧く。その命は今、ボクの手にある。理由はどうであれ、衰弱して眠る彼女の死は止まっているようだった。被験者の目論見は外れたのだ。そして目覚めない代わりにその命はボクの側に在る。ボクの意志が届く場所に。

(瞳の色は何色だろう)

 その声はどんな響きで鼓膜を震わせるのか。ボクはその眠り姫に興味を持った。ボクの被験者が死へも道連れにしようと欲した存在。レプリカのボクとは違う被験者という存在。

 その瞳がボクの被験者ではなく、ボクを映したならどうか。その声がボクの名を呼んだならどうか。誰かに共に死にたいとまで望まれる命。それをボクが手にしたなら、その時ボクに何が与えられるのか。

 どうしても知りたくなってしまった。










*****










 どれ程時間をかけても、彼女は目覚めない。

 どれ程手を尽くしても、彼女の状態は変わらない。

 まるでボクの干渉など受け付けないというように、ボクの与える影響など無いのだというように、何も変わらなかった。

 ボクの被験者がボクを嗤う気配がした。

 この世界がボクを嗤う気がした。

 滑稽だと嘲笑が聞こえる。

 この女までボクを嗤うのか。

 ボクを拒絶するのか。

 ボクを───見てはくれないのか。

「目を覚ましてよ……」

 いつの間にか、願うようになっていた。

 被験者を嗤ってやるつもりで、この女がどんな人間か少し興味が湧いたから。そんな理由で目覚めさせようとした筈なのに、どうしてボクはこの女にすがっているのだろう。まるで、この女がボクに価値を与えてくれるみたいに感じる。

 その瞳がボクを映して、その声がボクの名を呼んで、そうして温かな手が差し伸べられて。そんなものを想像する自分が気持ち悪い。理解できない。

 それでも、ボクの被験者でも「導師イオン」でもなく、ボクが選ばれたならと考えてしまう。誰もが価値はないと判を捺した命に、価値を与えて欲しい。捨てられるだけの生と憎しみしか与えられなかったボクに、それ以外のものを与えられたかった。

 それでも彼女は目覚めない。

 時間が過ぎる。

 感情が磨耗する。

 勝手に期待をしては、裏切られた心地になる。

 嘲笑う声が耳にこびりついた。

 嘲笑うようにボクの口が歪んだ。

 馬鹿馬鹿しい。

 被験者が何だというのか。

 望まれた命が何だというのか。

 目覚めないならそれでいい。

 瞳の色を想像するのも、声を探して耳を傾けるのも。

 必要ない。

「ボクには必要ない」

 何も与えられなくていい。

 ボクにはこの下らない生だけあれば十分だ。

 世界を呪い、預言を憎み、唯一与えられたこの最悪な祝福だけがあればよかった。

 どうせ全て消えてしまうのだ。

 全て消すのはボクなんだ。

 世界がボクを殺すのか、ボクが世界を壊すのか。

 どっちが先かの矛盾した競り合い。

 価値がないならそれでいいと諦めながら、価値がないと判を捺された命で何かを成そうとする、その矛盾に。

 ボクは、眼を閉じて。










*****










「───アリア」

 それは、本当に酷い冗談だった。

 眼を閉じて、耳を塞いで。何も考えないようにして、ただ目的のためだけに生きるボクに、無遠慮に放り込まれた現実。

 眠ったままで目覚めない彼女。

 ボクに価値を与えてくれると期待した命。

 それがどうしてか、当たり前のように目の前にいた。ボクが何に驚いているのかも分からない呑気な顔で、無神経にその口を開かれる。

 空のような水色の瞳も。

 耳朶をくすぐる詠うような声も。

 その存在の証は何一つ惜しまれず、あまりにも簡単にボクへ届いた。

「君は───ボクと、どんな関係だったの?」

「────」

 馬鹿馬鹿しくて、自分が嗤ったことすら他人事に感じられた。磨耗した感情が、疲れてしまった何かが、思い出したように顔を覗かせる。

(期待も裏切りも、とっくに捨てた筈なのに)

 自身の執着が失われたわけではないことを、ボクは知っていた。何をしても目覚めずボクを嘲笑い続ける彼女は、今もボクの手元に存在する。処分することが出来なかった。

 どれだけ絶望しても、目障りに思えても。眠るその顔を見ると、複雑な感情が自身の中へ芽生える。眼を閉じ耳を塞いだボクには、それが何かは分からなかった。それでも、そうしている時にはボクがそこに存在しているかのように錯覚できたから。

 目の前にある水色の瞳。

 ボクに問いを掛けた声。

 本物は目を覚まさない。その瞳にボクを映すことも、その声でボクを呼ぶことも拒んだ。こんこんと眠り続け、ボクの望みを踏みにじり続ける。───あの、アリアは。

「教えてやるよ───レプリカ」

 何も知らない顔で、呑気にボクを映した奴へ囁きかける。それがあの女へ抱く複雑な感情によるものか、無遠慮にボクの前へ現れた現実に対する苛立ちかは分からなかった。

 それとも哀れんだのだろうか。期待したのだろうか。

 ボクを裏切り続ける女と同じ顔で、ボクと同じただのゴミ屑のレプリカ。研究所の爆発事故により、被験者もレプリカも失われたものと判断されていた。目の前のこれが、与えられる予定だったものを与えられていないのは間違いないだろう。

 何より価値があると判を捺された女の、その持ち物も継げずに彷徨っていただろう空っぽだ。代用品にもなれなかった役立たず。ボクと同じ、捨てられるだけのゴミ。

 そんな期待を、したのだろうか。










*****










 それは幾度、ボクの名を呼ぶ。

 ボクに会いに行くと、自身のことが知りたいから全てが終わったら聞かせてもらうと。

 呼ばれる度に気に障る。あんなに呼んで欲しいと思っていた名が、今更になって簡単に呼ばれてしまう。

 違う。ボクが願ったのはお前じゃない。

 望まれた被験者でなければ意味がない。

 同じ声でそこに存在して、ボクを認めるのはお前じゃない。

 呼ばれる度に「ここにいる」と何かが証明されているようで。

 ボクにはそれが、苦々しかった。










*****










 アリアのレプリカが捕まった、という話を聞く。

 どういう経緯か、ヴァンの企みを見抜いて全てを台無しにしてくれようとしたらしい。だが結局は詰めが甘く、アクゼリュスは予定通りに落ちた。そしてその邪魔をしようとしたレプリカは、あっさりヴァンの手に落ちて地下牢に入れられている。

(───馬鹿馬鹿しい)

 レプリカ程度に出来ることなど知れている。欠陥品で、代用品なのだから。結局は被験者という存在に敵わず、道具にされて終わりを迎える。使い道がある内は生かされ、使い道がなくなれば廃棄される。そんなものだ。

 ボクと同じで、あのレプリカだってそうなる。そうされる。価値のある女のレプリカであろうと、その程度だ。

 どんな顔をしているものかと足が向いた。コーラル城で現実を教えてやった時、あの顔が見せた動揺はボクの心を凪いだ。

 今はどんな顔をしているだろう。救おうとしたアクゼリュスは落ちてしまった。自らの怠慢で一万の命が失われ、足掻きは徒労に終わった。更に、アクゼリュスの崩落は預言に従ったものだった。一万の命が失われることを国は是とし、この世界こそがそれを望んだ。それを知り、どんな心地になったのか。口元が歪む。

 価値があるものも、価値がないものも、その価値の中身さえも。全て預言に決められている。この星に与えられる価値しかない。その現実に、今度はどんな。

「会いに行くって言ったでしょ? ちょっと斬新だけど実現したよ」

 生意気にそう応えた顔は呑気なものだった。アテが外れて仮面の下で眉が寄った。牢にいるせいで事態の大きさを理解していないのか。つまらない、と嘆息しながらも適当に言葉を返せば、それはボクに礼を言った。前後関係が繋がらず、少し会話を振り返る。やはり分からない。理由を問えば、それは平然と答えた。

「君と話したいと思ってたから。こっちからは会いに行けないから、助かったなって」

 意味が分からない。こいつはこの期に及んで、ボクと普通に話が出来ると思っている。何が起きたのか、ボクらが何をしたのか、本当に分かっていないんじゃないのか。

 まるでアクゼリュスが落ちた現実などなかったかのように、そのレプリカの言動は変わらない。

 だから「つまらない」と口にした。平然とする様に、期待通りに苦しんで見せない顔に、大嫌いな綺麗事を並べて見せないその在り方に。悪意を届かせてやりたくて。

 でも、

「ね、シンクはなんで六神将にいるの?」

 それは何故かボクへ関心を向ける。感情を踏みにじってやろうとしたのに、あっさりと身を躱してこちらを向く。ボクの悪意なんてなんでもないかのように。

「今はシンクの話が聞きたい」

 ボクの話。ボクが作られて、今日まで生き延びてしまった話。誰に聞かせたこともない。誰にねだられたこともない。どうして……どうして、よりにもよってお前がボクに関心を向けるのか。誰より「ボク」を見て欲しいと願った被験者と、同じ瞳と声を持つお前が。

 なんで。

 複雑な感情が渦巻く。さっさと離れてしまえばよかった。でもボクは、ボクを拒絶した被験者とレプリカを重ねてしまった。今更になって現れた悪夢。それに何かが揺らされる。───知って欲しい。「ボク」が生きてここにいることを、例え今更であったとしても。

「代用品ねぇ……シンクはなりたかったの?」

 その問いに、ボクは答えられなかった。眼を閉じ耳を塞いで歩いてきたから。答えを出さないようにして呼吸だけを繰り返してきた。捨てられるだけの生。それしか与えられなかったし、ボクにはこの憎しみがある。それでいい。それだけで十分な筈だ。

「導師の代わりなんかじゃなく、君でよかった」

 ───それは今まで聞いたこともない言葉で、一周回って侮蔑の言葉にすら聞こえた。ボクが導師の代用品に採用されず、烈風のシンクとして生きてきたことに「よかった」なんて皮肉が過ぎる。有り得ない。

 「他の何でもなく君は君でしょう」と存在まるごとの祝福を受けて、ボクの腹が嫌悪と憎悪に煮立った。そんな祝福は与えられなかった。ボクをボクと認める証など、生まれてからここまでの二年間のどこにも在りはしなかった。ボクに与えられたのはゴミの命とこの憎しみだけだ。

 今更認めて欲しいと思っていながら、今更認められることが受け入れられない。

 ───何も知らないクセに。

 そう噛み付いたボクに、しかしそれでもレプリカは引き下がらなかった。寧ろ眉を吊り上げて、空を映した水の瞳に確かな怒りを燃やして、ボクへ噛み付き返した。

 馬鹿みたいに素直に、馬鹿みたいに正直に、馬鹿みたいに真っ直ぐに。嘘も偽りも含みもなく、その肯定はボクへ押し付けられる。

「ボクが話してるのは導師の代用品でもないし、代用品にもなれなかった出来損ないでもない」

 胸の内が震える。馬鹿馬鹿しい。下らない。そんなものは詭弁だ。お前が今口にしたものこそが「シンク」だ。そう思うのに言葉は出ていかない。鉄格子ごと握り込まれた手が体温を伝える。

 ボクの手が、誰かの意志に触れられたことなどあっただろうか。伝わる温度が確かに「ボク」はここにいると示しているようで、同時にボクに逃げるなと意志を突き付けられる。───どうして、この女が怒るのか。

(ボクと何の関係もない存在なのに)

 そう思った側から、関係して欲しいと願われる。既に無関係ではないと、どうでもいい存在ではないと伝えられる。───理解が出来ない。

「……一万人の命がどうでもいいって?」

「まぁ、平たく言えば」

「───は。はは……」

 嗤ってしまう。こいつはヴァンの計画なんて、なんとも思っていなかった。親善大使一行の一人として救援に向かった筈なのに、アクゼリュスの人間が───いや、外殻大地がどうなろうが構っていない。計画をご破算にしようとしたのは、レプリカルークを助けるため。

 絶対に「導師イオン」とは相容れない。

「ボクが運良く脱獄できるまで、話し相手になって欲しい」

 あれやこれやと並べて、そのレプリカはボクに「関係する」ことを望み続ける。それがどれだけ愚かな選択かも知らずに。何も知らないからそんなことが言えるんだ。ボクがお前に誰を重ねてるかを知らないから。ボクがここへ足を運んだのはお前のためじゃない。ボクがただ───起きて、動いている「アリア」を見たかったから。

 手を伸ばした。その頬に触れようとした。目に前に在る「アリア」を認めようとした。でも……その手は触れる前に下ろす。そうして触れることを、恐れたから。

 結局ボクは、そのレプリカの言葉を無視できなかった。










*****










 どうでもいい話を繰り返す。実際、ボクはレプリカの話の殆どを聞き流していた。関係してと願われたからって何故応えてやらなければならないのか。そう思っているクセに……ボクは地下牢に足を運ぶ。

 被験者のアリアと面識がなかったか。問われて嘘を吐く。いや、起きている状態では「会って」いないのだから嘘とも言えないか。それでも本当のことでもない。

 何も知らない呑気な顔を眺めて、適当に受け答えをする。お前が───アンタが全てを失ったのはボクのせいなのに。ボクが研究施設を爆破しなければ、今頃アンタは何の疑問も抱かずに「アリア」を演じていた筈だ。代用品にもなれないゴミなんかに、ならないで済んだ。でも、

「逃れられて良かったかも。婚約者は荷が重すぎるよ」

 そのレプリカは、今の方がいいと言う。与えられた役割から逃れて、何者でもない自分の方がいいと言う。よく、分からない。

「ボクもそんなに長居するつもりないし、話は聞けなさそうかな……」

 その呟きを聞いて、一瞬言葉が出なかった。忘れていた現実を突き付けられたようで、自分が何かを勘違いしかけていたことに気付かされる。そうだ、このレプリカの居場所はここじゃない。ここを出て、いずれ居るべき場所へ戻る……「導師イオン」の側へ。

「例えばアンタにこっちの手伝いを依頼したら、引き受けるワケ?」

 気紛れに言葉にした訳じゃなかった。でもよく考えて言葉にした訳でもない。ただ何かが触れた。一万人の命がどうでもよくて、外殻大地の崩落に構わない頭のおかしい奴。ボクに関係して欲しいなんて言い出した狂った感覚の持ち主。───「導師イオン」には、勿体無い。

「一応考えてみるけど……」

 その場で拒否されないことが既におかしい。本当にレプリカルーク達が死んでいるなら、こちらに来ると言うのか。なら、

(死んでいて欲しい)

 一人残らず……特に「導師イオン」には。それがどんな考えの下に出てきた結論なのか、考えることはしなかった。










*****










 レプリカが牢から抜け出してボクは安堵した。よかった、これでもう牢へ足を運ぶこともない。時間が空く度足を運ぶのは非効率的だったし、時間が潰されて迷惑していた。あの顔を見ておかしな気持ちにさせられることもなくなるし、あの声に耳を傾けてしまう自分とも別れられる。これでいい。これでよかった。

(───そう思ったのにさぁ……)

 呆れて物も言えない。折角ヴァンから逃れたクセに、すぐにモースに捕まるなんて鈍臭いんじゃないか。思っていた以上の馬鹿なのかもしれない。

 ボクは計画の途中で一時的にダアトに戻っただけだった。すぐにここを離れなければならない。計画に差し障る。そう思うのに足は自然とその部屋へ向いた。

 モースがレプリカをどこへやったかは、団員も把握してはいなかった。必要ない。アレを被験者と勘違いしているモースが、どこに仕舞い込んだかなど明白だ。

 以前にも立ち入ったことのあるその部屋に赴けば、それは簡単に見付かった。被験者の部屋に仕舞い込まれたレプリカの姿。───不愉快だ。

 扉を開けて、思わぬ近さにいたせいで転倒しようとしたレプリカの体に手を伸ばす。抱き留める。どうして。分からない。温かい。

「……シンクは、なんで来たの?」

 問われる。水色の瞳。

(知らない)

 知りたくない。考えたくもない。ボクには関係ない。

 このレプリカがボクに見せる感情の全てと同じだ。理由なんて問わないし、理解しようとも思わない。ただボクは、このレプリカがモースの手にあることが気に入らなかっただけだ。被験者の代わりとしてこの小さな部屋に押し込められていることが、吐き気を催すほど気持ちが悪く感じられただけ。それだけだ。

 大した理由でもない、気分屋の言葉。その筈なのに。

 どうしてかボクは、その理由も口には出来なかった。










*****










 被験者の眠る部屋の隣にレプリカを寝かせる。

 同じ部屋の中にあるソファで眠ったことに理由などなかった。仮眠から目覚めてもそれは目覚めず、ボクはダアトを離れる計画を少し遅らせる。

(……知らない)

 自分がそうする理由なんて知らない。どうでもいい。ダアトに居ながら出来ることをすればいい。少し順番が前後したところで、ボクならどうにでも対処できる。

 日中は部屋を離れ、夜にはその部屋へ戻りソファで眠る。朝目が覚めれば視線をやり、起きてはこないかと様子を見る。

 そうして寝顔を眺めてみれば、隣室で眠る被験者と姿が重なった。胸の不快感。滲み出す何かの感情。

(馬鹿馬鹿しい)

 その何かを、頭を振って追い出した。

 でも。

 翌日も。

 その翌日も。

 レプリカは目覚めない。

 ボクのベッドを占領したまま眠り続ける。

(……なんで)

 何でもない筈だ。ボクにとっては、何も関係していない奴。気が向いたから話をしてやっただけで、それ以上でもそれ以下でもない。敵対する立場にあって、どこで死のうが生きようが関係ない。ボクが壊す世界の隅に在る、ちっぽけなもの。

 磨りきれて無くなってしまった筈のボクの感情の、どこかに何かが触れた。分からない。近付いて頬に触れる。体温はある。呼吸もしている。意識はない。被験者と同じに──

「……んん……」

「!」

 ハッとして手を引っ込めた。自分がやったことが信じられない。苦々しくて顔を顰める。目の前のそれはそんなことも知らず呑気な顔で眠っている。変わらず起きてはいない。でも。

(……馬鹿馬鹿しい)

 息を吐く。波立っていた感情を逃がす。

 なんでもない。考える必要はない。放っておいたって、こいつは起きてくる。ボクが何もしなくても───ボクが起きてくれと願わなくたって、勝手に起きる奴だ。

 そうして勝手にボクの姿を見付けて、勝手に名を呼ぶ。頼んだわけでも、何かを許可したわけでもないのに、まるでそれが当たり前であるかのように平然と。

 それが少し、悪くないと思えた。










*****










 何日目か。目が覚めたボクが最初に見たのは、異常に近い位置にある水色の瞳だった。思わず声を大きくすれば、謝りながら距離をとられる。

(顔を見られた)

 苦々しい。舌打ちをして仮面をつけ直す。正体を話してある以上、隠す理由なんてない。それでもボクはこの顔が嫌いだから、見られることに理由のない抵抗があった。起きると分かっていたなら、外して寝たりはしなかったのに。前触れもなく起きてきた奴に苛立ちを覚える。

 何故自分を助けたのか問われる。それにボクは答えなかった。考えたくない。自分の行動の理由を明確にしたくない。結論なんて、出したくない。───自分が、関係しようとしているなんて。

(知らない)

 何度も唱えたその言葉を繰り返して、ボクはレプリカを外の世界へ戻してやった。










*****










 レプリカルーク達が地核の振動を止めるために動いていることを掴み、こちらも阻止に動くことになる。リグレットがシェリダンで失敗し、ボクが後始末にと駆り出された。

 ヴァンがボクに命じたのは、地核へ向かうタルタロスに乗り込みあちらの計画を台無しにすること。乗り込む方法はアリエッタの魔物で解決できる。

(───ハッ)

 その命令に思うことはない。地核へ赴けば間違いなくボクは死ぬが、ボクを使う主人はヴァンだ。どうせ生まれてから今まで、何の価値も与えられなかった命だ。ヴァンの計画こそボクの抵抗で、そのための道具として死ぬことはとっくに選んである。道具として終わることすら出来ないのなら、ボクなど何の役にも立たないゴミ屑だ。

(結局、ボクもアンタもゴミさ)

 脳裏に浮かんだ頭のおかしい奴。ボクと同じで何も背負えず、何も得られず使い捨てられる命。ヴァンに使われるボクと死霊使いに使われるあのレプリカで差などない。被験者の持ち物を継げず、道具として生き、廃棄される。

 ボクの妨害で消える程度の命。ヴァンの計画の途中で踏み潰される程度の存在。今から消えるボクと変わらない。その事実が心地よくて。

 その事実が───少し、ボクの空虚に触れた。










*****










 どうして、と。その顔に書いてあった。

 何がそんなに衝撃だったのか、ボクには分からない。ただ相変わらず馬鹿正直に感情を伝える顔が、あまりに滑稽に見えたから笑ってしまった。

(なんでもいい)

 今からボクは死ぬんだから。アンタを含めて全員殺して終わらせる。そう思えば気持ちは楽で、呼吸もしやすい。ボクは拳を握る。ボクは烈風のシンク。そうして惨めに生を繋いで───そうして呆気なく消えるんだ。

「──────!」

 旋律とも呼べない、澄んだ音が耳へ飛び込んだ。一瞬の煌めきで音素が昇り、視界が白く染められる。譜が女の声に応えるように踊り、合唱のように大気を震わせた。

(ダアト式、譜術───)

 意識が飛びかける。体に力が入らない。ボクに力を貸す音素も活力も奪われた。油断していた。まさか、戦う力を持たない筈の導師が大技を使ってくるとは思わなかった。

(……いや、違う)

 耳に届いた声を思い出す。女のものだった。耳慣れるつもりもなかったのに、勝手に耳に馴染んでしまった声。その声は、聞きたいなんて言っていないのにいつも勝手に耳に飛び込んでくる。

(導師の素質があるからって、学んでもいない譜術を無理矢理使うなんて馬鹿でしょ……)

 あのレプリカが救いようもない馬鹿であることなんて分かっていたのに、笑ってしまう。やっぱり理解できない。頭がおかしい。そしてそのおかしな発想のせいで、ボクは負けた。誰一人殺せないまま、ボクが死ぬ。

「ゴミなんだよ……代用品にすらならないレプリカなんて……」

 どうでもいい。そんなことは分かりきっている。今更、そんな言葉がボクを引き裂く筈もない。お前達の同情に命を買われるなんて御免だ。哀れみなんて冗談じゃない。

 必要とされるレプリカのご託は聞きたくない。

 「同じだ」と差し出される手も叩き落とす。

(同じじゃない)

 ボクが覚えている始まりも。ボクが与えられた生も。ボクが抱いた憎しみも、一度は願ってしまった幻想も。ボクだけのものだ。

 価値がないと判を捺された命。本当に価値がないならさっさと終わってくれと願った。それでも世界はボクを殺さず、ボクもみっともなく生を繋いでここまで来てしまった。

(やっと終われる)

 理不尽に与えられた生。死んでしまえばいいと思いながら、ずっと終わらせることが出来なかったモノ。世界を呪い、憎む意志がボクを生かし続けた。それだけがボクの存在を証明してくれた。

 ボクの価値を用済みにした世界に、ボクが用済みの烙印を押すための競り合い。矛盾した意志。疲れるばかりで、何もなかった。何も与えられず、何も得られず、ボクは終わる。

(……この命がゴミだって、証明してやるよ)

 下がれば、甲板の縁を靴裏が踏んだ。すぐ後ろを庇うものは何もない。お綺麗な理想を口にする奴らに見せてやる。この世界の現実と、ボクが選んだ結末を。ボクの憎しみでこの世界を引き裂くために、ボクは道具として終わることを選ぶんだ。───それが、ボクの意志。

 ───「ボクは、シンクがシンクでよかったよ」。

 どうして、こんな時にそんな幻聴を聞いたのか。分からないまま、後ろへ傾いたボクの体は放り出される。重力に引かれて落ちる。遠ざかる景色に、ボクは。

(世界が選んだのが……アンタで、よかった)

 最後まで眼を向けられなかった存在にぽつりと溢す。






 逃げるなと。力強く触れられた手は、温かかった。
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