短編:前日譚


 その日は、朝から体調があまりよくなかった。

 体は特別弱いわけでもなく、寧ろ鍛えてすらいる。それでも病というのは突然やってくるもので、僕はある日突然寝台の上から動くことすらままならなくなった。










*****










(ああ……熱い……)

 全身がじっとりと汗をかいている。呼吸が落ち着かない。熱が高いのだ。意識が朦朧としているのに、そのまま気を失うことも出来ずに苦しみが続いている。

 誰か、僕の脳の電源を落とす方法を知りはしないだろうか。そんなことを考えるくらいには、体調不良に辟易としていた。

(…………いっそ、死なないかな……)

 自身の死期を知るからこそ、そんなことを思うわけだが。不意に冷たい感触が額に触れた。何だろうかと、熱で腫れた目蓋をゆっくりと押し上げ、額に触れるものを確認しようとする。

 視界に入ったのは、さらりと揺れる亜麻色の長い髪。少し無理をして目線を持ち上げれば、水色の瞳が僕を映していた。

(なんで……君が……)

 問おうとして、言葉にならない。熱で喉が腫れ、発話が難しいのだ。頑張れば多少音にすることは出来るだろうが、頑張りたくない。多分、彼女ならこっちの意図を理解する筈だからだ。

 予想通り彼女は僕に「返事」をした。

「貴方が倒れたと聞いたの。心配するのは当たり前でしょう」

(心配なんて、要らないのに)

「迷惑は掛けないわ。貴方の看病をするだけ。それとも……いるだけで、迷惑?」

 僕の婚約者殿の瞳が不安げに揺れる。仕方がなく思えて、そんなことはないと小さく微笑んだ。彼女がほっと息を吐く。

「貴方の婚約者で良かったわ。ここに来るのに何の邪魔も入らないんだもの」

 彼女の言い様に苦笑する。彼女にとっては婚約者であることはついでなのだ。そうでなくてもここへ来ていたと、暗に告げていることに気付いているのだろうか。

「そろそろ起きる頃だろうって聞いてたからお粥を作ってきたの。食べられる?」

(君が?)

「何、その顔。私こう見えて料理出来るのよ。暇な時はお菓子作りだってするんだから」

(それは知らなかったな)

「疑うなら今度何か用意するわ。今はお粥。食べられそう?」

 喉の腫れで頷くのが辛く、目蓋を下げて答える。「じゃあ少し体を起こしましょう」と、彼女が背中に手を差し入れてゆっくりと起こしてくれる。そこで気付いたようだった。

「汗かいてる……それはそうよね。うん」

 何を考えているか、手に取るように分かる。順番があべこべな様子が看病が不馴れだと伝えている。初めて看病する相手が僕というのは、悪くない。

「お粥は冷めないようにしてあるから、先に体を拭きましょう。その前に水分を摂って」

 コップに水を注ぎ、口元まで運ばれる。ゆっくり傾けられるそれを大人しく口に含めば、塩が少量混ぜられている味がした。幾らか喉を通し、ほっと息を吐く。

「ごめんなさい。至らなくて」

「……ううん」

 微かだけれど、声が出る。ああ、やっと彼女に返事をしてやれる。自分から話すにはまだ足りなくて、内心で自身の喉に不満を唱えた。

「汗を拭くわ」

 起こした体の背にいくらかクッションを詰め込まれ、あっという間に彼女は水をとってきて、そこに柔らかい布を浸した。着替えも用意してきたらしい。布の水を絞り、僕の服に手をかける。

(脱がすの?)

「……意地悪な顔をしないで。看病よ」

 ぷくり、と頬を膨らませて。丁寧に服を脱がされる。肌が外気に触れても冷たさを感じない程には、体温が高いらしい。彼女の指が肌に触れて、その冷たさに小さく肩が震えた。それから丁寧に体が拭かれる。じっとりと汗をかいて気持ちの悪かった状態が改善され、心地よい。

 新たに服を着させられて、ようやく一息吐いた。

「疲れた?」

「……少し」

「お粥は無理しなくていいわ。いつでも温め直せるし、水だけ飲んでまた休んでも……」

 彼女の言葉に首を振って応える。どうせ眠れないのだから、彼女にお粥を食べさせて貰いたい。そこまで思考して、ようやく頭が少し落ち着いたのか、自分の思考回路に正気を疑った。

(食べさせて貰いたい、だって?)

 病で気が弱るというのは本当らしい。というより、甘えたくなるのだろうか。体が怠くて腕を持ち上げるのがしんどいという理由なのだけど、それにしたって食べさせて貰いたいなんて願望を僕が抱くとは思っていなかった。全ては熱のせいだ。後のことは知らない。

 ちらり、とお粥を見れば、彼女は意図を察したらしい。お粥の蓋を開け、茶碗に移してスプーンを差し込む。それを手元に動かして掬い、温度を確認するように一口含んだ。

「うん。多分、火傷はしないと思う」

 そう言ってお粥を掬い直し、今度は僕の口元へ運んだ。小さく口を開き、ゆっくりと咀嚼する。喉の腫れの話を聞いていたのか、かなり柔らかくて飲むように食べられる。

 ついでに言えば味も悪くはない。料理が出来るというのはもしかして、本当のことなのかもしれないなと思う。信じはしないけど。

「意外って顔しないでくれる? ……もう」

 不満そうな彼女に美味しいと伝えるために微笑むと、更に複雑そうな顔をして、それでも次の粥が掬われて運ばれてきた。仕事を放り出すつもりはないらしい。

 ありがたく食べていると、いつの間にかお粥が終わっていた。人に食べさせられると行為が反復され、繰り返す内に食事というものが終わってしまうのだと理解した。

 背にあるクッションに寄りかかり、また息を吐く。体力が落ちているのを実感する。

「横になる前に薬を飲んで、熱を測りましょう」

 人に看病をされるのは不思議な心地だ。本来自分でやるべきを他人に委ねるというのは、奇妙な心地よさがある。彼女のすることに従い、病人としてやるべきを終えた。

 熱は相変わらずだった。再び横にされ、少しすれば食後の眠気に襲われた。苦しくて眠りさえ出来なかったのが嘘のように、呼吸が楽だ。この短時間で体調が劇的によくなった、などとは思わない。彼女が傍にいることが、僕の気を楽にしているのだろうか。

「眠いの?」

 優しく甘い声が降ってくる。髪の乱れを直しているのだろう手が、頭部に触れて落ち着く。気持ちいい、と眼を細めると、彼女がくすり、と笑った。何かと眼で問えば、僕を慈しむ眼と眼が合う。

「よく休んでね」

 ああ、いなくなるのだと理解する。一先ず出来ることが終わり、彼女は諸々を片付けるつもりなのだろう。僕が休むのに、自分がいては気を遣わせると思っている。分かっていない。

「……アリ、ア」

 名を呼べば、彼女は驚いた顔で僕を見た。それから用件があると理解したらしく、「なに?」と聞かれるが、僕は無言で左手を持ち上げた。

 暫く迷ってから、彼女はその手を握る。握ったな、と笑って、彼女の柔らかい手を握り返した。病人なので手に力は入らないが、意図を伝えるには十分だ。

「………………」

「………………」

 片付けが出来ないと無言で訴える彼女に、いいからここにいなよと無言で微笑み続ける僕。こうなればどちらの意見が通るかは分かりきっている。アリアは僕に弱い。僕がアリアに弱いように。

 彼女は観念したように息を吐いてから、仕方がないというようにそっと微笑んだ。それから小さく息を吸うと、歌を口遊む。メロディはいつかに僕があげたオルゴールのものだ。

 街へ出る度に買い与えた土産の一つ。アリアは花をあしらったオルゴールを気に入り、そのメロディを気に入って調べたらしい。すっかりそらで歌えるのだから、どれ程気に入ったのか。

 子守唄代わりにそれを聴きながら、ゆっくりと目蓋を下ろす。深く息を吐いて、体全体から力を抜く。寝台に沈み込む体が気持ちいい。

(……金糸雀の、ようだ)

 溶けていく意識の中でぼんやりと思う。美しい声だ。優しい、そっと触れるような、何か。それに包まれていると感じる。僕が彼女に抱くものと、きっとよく似ているものだ。慈しみの先にあるもの。

「……おやすみ、イオン」

 君に呼ばれる僕の名は、その時だけとても柔らかい響きを持つ。自分の名に、感触があるのだと知る。君が僕の名を、これからも呼んでくれれば幸せだと、そんなありふれた想いを抱いた。










「おはよう、イオン」

 眼が覚めれば君は夢の外でも笑っていて。

 何度でも、僕の名前を呼んでくれる。
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