短編:前日譚
僕が自分の死の預言を読んだのは、八歳の時だった。
僕はどうして生まれて来たのだろう。導師になり、導師として死ぬためか。たった四年を預言と世界に捧げるためか。
全てが色褪せ霞んでいく。僕は今まで何のために。これから一体何を目指して。分からない。見えていた筈の道を見失ってしまった。
導師とは何だ。預言とは何か。盲信する人々。終わりは、呆気なく詠まれるというのに。
「イオン様。この世界を壊しませんか」
不意に囁かれる誘惑。僕の前に現れた新たな道。ヴァンは語った。自身はホドの出で、ユリアの隠した第七譜石を詠んだことがあると。そこに書かれていたのは世界の滅びであると。
世界は滅ぶ。僕が何をしようと、何もすまいと。僕が死ぬのと同じように───預言によって定められた未来。
「……いいね。僕が何をしたら、この世界は壊れるかな」
預言に従って生と死を繰り返す世界。僕の死も、見知らぬ誰かの死も、世界の死も。星の記憶の前では等しく無力だ。
死ぬために生まれてくる命。初めから壊れて完成された世界。なら、それを僕が壊そう。下らない命の循環を、未来へ刻一刻と進む針を、僕が狂わせる。世界は気付かない。何も知らないまま、未来の終わりまで歩みを進めるんだ。
これは導師が与える祝福。
世界が与えた祝福に、抗うための───
*****
「ねぇ、ヴァン。僕に婚約者がいるらしいんだけど、何か知っている?」
いつものように二人きりで話をしていて、ふと浮かんだ問いだった。僕の婚約者。会ったこともないそれは、偶然書類上で見付けた存在だ。
モースがどこからか連れてきて、秘密裏に育てているという少女。年齢は僕より二つ上で、僕と同じく生まれた時に教会へ連れて来られていたらしい。話を振られたヴァンは眉を潜めた。
「いえ。そのような話は伺っておりませんが……」
「そう。まぁ、お前の立場なら聞かされていないか」
今のヴァンはまだ詠師の聖職位にない。少しずつ教団内で足場を作っていっているけれど、大詠師であるモースの信を得るにはまだ遠かった。僕にも隠している小鳥の存在を、奴が足元にもない道具に教えている筈もないだろう。聞くだけ無駄だった。
「婚約者がいらっしゃるのですか」
「そうらしいよ。僕は結ばれる前に死ぬけどね」
「………………」
冗談を言ったのに笑いもしない。本当に真面目が過ぎる男だ。僕が笑えない冗談を言っているだけかもしれないけど、そんなことはどうでもよかった。
問題は僕の婚約者。僕に婚約者が出来るなんて───預言に詠まれてはいなかった。
「モースは先代から僕の寿命を聞いていたみたいでね。僕の婚約者は教団が預言を詠み続けるための『僕の代わり』らしい」
「預言に詠まれた導師でなく、導師の力を持つと?」
「そういうことになるね。おかしいだろう?」
僕の促しにヴァンは頷く。世界は預言に従って動いてる。各時代に必ず一人選び出される導師もそうだ。預言によって見出される部品の一つ。なのに、その少女は預言に詠まれた導師ではない。僕の次代は空席だ。
なら何故、彼女は導師の力を持って存在しているのか。
「僕の婚約者に据えたのは、彼女に教団内での立ち位置を作りたかったからかな。一応はモースの養女、ということになっているようだよ」
「……探りますか」
「お前は動かない方がいい。今モースの目に映って計画が台無しになる方が惜しいからね」
「では、イオン様自ら?」
「暇潰しにはなるさ」
預言に詠まれていない僕の婚約者。導師の力を持つ者。モースが、預言を盲信するガラクタ共が預言を詠み続けるための道具。
モースは一体どうやって彼女を見付けたのか。彼女の存在は僕達の計画を乱すのか。それとも寧ろ役立ってくれるのか。使い道を考える余地はあると思う。
(君はこの鳥籠で何を願って生きて来たの?)
生まれた時から教会に囚われていた少女。預言に囚われた僕と同じに。彼女の瞳に映る世界はどんな景色だろう。彼女は何のために生まれて、何のために生きているのか。
未来に希望を抱いているのなら、壊してあげなきゃいけない。だって真実は醜く愚かしいものだから。この世界は滅ぶ。僕らのちっぽけな在り様と、何ら関わりなく。───全てが、無駄なんだ。
窓の外に見上げた青空に、動く心は何もなかった。
*****
少女の居場所を絞り込むことは簡単だった。ここは教会で、僕はたった一人の導師。本来ならば知らないことはない。その僕に隠し通して来たのだから、彼女の生活区画は限られる。
僕の居場所からは程遠く、常に人払いがされ、頻繁に大詠師が足を運ぶ場所───ある立ち入り禁止区域が浮かび上がってくる。
そこは詠師職以上しか立ち入りを許されておらず、人を一人隠しておくには丁度いいスペースだった。自然、詠師達も僕の婚約者であるという少女の存在を知らされていたことになる。
面白くない。何故、当事者である僕にだけ秘されていたのか。
(僕が正しい預言を詠めるから、かな)
少女は表向き、預言に詠まれた婚約者ということになっている。先代の知恵か、モースの浅知恵か。どちらにせよ、僕の詠んだ事実とは異なる。
預言の上で、僕に婚約者などいない。既成事実を作るように周囲に刷り込みがされていて、彼女はその地位に在るだけ。僕が横槍を入れられないように外堀を着実に埋めていた。
別に、彼女を婚約者から降ろしたいと思っている訳ではない。寧ろ預言にないことなら歓迎だ。彼女の存在がどういう風に預言へ影響するのか、興味がある。もしくは、その他のガラクタ共と同じく何の影響も及ぼせないのか。
それならそれでも構わない。所詮はガラクタの一つ。期待なんてしちゃいない。ほんの少し、彼女の存在に興味があるだけ。
人気のない廊下を一人歩く。詠師以上しか立ち入ることの許されないその区画は、白く彩色のない廊下が続くばかりだった。
ちらりと窓から差し込む陽の光を見る。この時間帯はモースも、他の詠師もここを訪れない。悠々と廊下を歩く僕を見咎める人間は誰もいなかった。
───不意に、空気が揺れる。ぱたぱたと足音がして、僕は意識を前方へ向けた。曲がり角。そこから、一人の少女が飛び込んでくる。
「──────、」
最初に見えたのは、窓から差し込む陽光に透けた亜麻色の髪だった。走って来た勢いに揺れるそれは目を引いて、次いで瞳と視線がぶつかる。
きらきらと、湖面のように輝く瞳。空を映した水色は澄んでいて、合った瞳は離せない。吸い込まれるように意識が向いた。瞳が小さな驚きを示して、薄い桜色の唇が音を形作る。
「あ……」
戸惑いと、小さな焦り。どうしてこんなところにと言いたげな表情と、どうすればいいかを考える間。少女の見せた表情の答えは、すぐに提示された。───第三者の足音が聞こえてくる。
「!」
途端、見るからに少女の顔に焦りが増した。飛び出して来た曲がり角の方を気にする素振りを見せて、足音がする方もそちらだ。
追われているのか、と理解して、僕はすぐに行動を決めた。少女の細い手首を掴む。
「え、」
「しぃ」
空いている方の手で人差し指を口元に立て、少女の腕を引く。彼女は抵抗しなかった。躊躇いはあるものの素直なもので、僕に連れられて側の空き部屋へ滑り込む。
静かに戸を閉め、その陰へ二人で身を隠した。
───コツ、コツ、コツ。廊下に足音が響く。扉越しにそれへ耳を澄ませていれば、何かが微かに僕の服を引いた。
そっと視線を向ければ、ぎゅうと少女の手が僕の法衣の裾を握り込んでいる。顔を見れば不安に揺れる水色の瞳が暗がりでも見えて、思わず口元に小さな笑みが浮かんでしまう。
可愛らしい、と思ったのだ。僕に縋るその純粋な様が。
やがて足音は遠ざかる。何かを探すように暫く廊下を彷徨っていたが、諦めて離れたようだった。
そっと潜めていた息を吐くと、少女もまた僕の隣でゆっくりと息を吐いた。心の底から安堵したように。
そこで改めて少女を見る。教団の意匠のある白いワンピースに、緩く一つに結ばれた長い髪。顔立ちは整っていて、眼の端は少し吊り気味だ。年の頃は僕と同じくらい───丁度、僕が探していた婚約者のように。水色の瞳と、ぱちりと視線が合う。
「あ……え、と。助けてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
耳を擽る小鳥の囀り。躊躇いと気恥ずかしさを乗せたまま礼を口にする少女に、僕はにこりと穏やかに微笑んでやる。
その顔は慣れたものだった。新しい導師として、求められるままに作った「僕」の顔。穏やかに、人を愛し、預言を与え、罪を許す導きの存在。ゆっくりと軋んだ僕の歪みなど、そこにはない。
少女は僕の表情を見て安心した様子で、その手がそっと法衣から離れていく。「ごめんなさい」と小さく謝罪が溢されて、それから互いに立ち上がって、少女は改めて僕を見た。
戸惑いながら、問いが渡される。
「……貴方は?」
「通りすがりだよ。散歩をしていたら迷い込んじゃってね」
「こんな所に?」
「そう。何かまずかったかな」
「う、ううん」
慌てて少女は否定するけれど、答えは「まずかった」が正解だ。彼女が余程の馬鹿でない限り、自分が隔離されて管理されていることに気付いている筈だ。生まれてから十年、限られた世界にいるのだから。
そんな場所に侵入者があれば、見逃していい筈がない。彼女は一刻も早く僕を追い出さなければならないだろうに、口にしたのは真逆の言葉だった。
「あ、あの! 少し……お喋りしていかない?」
「いいの?」
「ええ。是非!」
ふわりと微笑んで少女の表情が明るくなる。先程まで誰かに追われていたし、一人になりたくないのかもしれない。もしくは、生まれて初めて会った同年代の「外の人間」に関心が引かれたか。
どちらでも構わなかった。彼女と話し、情報を引き出す機会が得られるなら。僕がこの場所へ足を運んだ理由は、彼女にこそある。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
僕が微笑みの下にどんな考えを潜ませているのかも知らないで、少女は無邪気に僕を招いた。
*****
少女の私室だという部屋に通される。その部屋は少し僕の部屋に似ていた。白を基調とした殺風景な箱。住まう人間の要素が微塵も見出せない、初めに用意されたままの部屋。囚われた僕らに似合いの景色だ。
彼女は僕を椅子に座らせると、すぐに湯を沸かしてお茶を淹れ始めた。その所作は洗練されていて、優美に映る。
「お客様をお招きするのは初めてなの。粗相があったらごめんなさい」
「気にしないで。君がお茶を振る舞う初めての人間だなんて、光栄だな」
「冗談が好きなのね」
「本心だよ」
言葉はすらすらと出て行く。勿論心にもない言葉だ。だがこうして形にすれば、少女が照れた様子で頬を僅かに赤くするので面白い。
この程度が躱せないのは、やはり人と話したことがあまりないのだろう。感情がすぐに表れる表情が、素直で見飽きない。悪戯心を擽られるようだった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
目の前にお茶の入ったカップが出される。薄く緑がかった赤茶色の液体は紅茶とはまた違うもののようだった。カップを持ち上げて鼻を寄せれば花の香りのようなものがする。
少女が先に口を開いた。
「ルイボスティーよ」
「へぇ。珍しいね。もしかしてお気に入りの飲み物かな」
「どうして分かったの?」
「なんとなく」
眼を少し丸くする少女に微笑んで応えてやる。初めての来客に浮かれてる様子に見えたから、素直な彼女なら気に入りの飲み物を淹れるだろうと思った───なんて、正直に答えるつもりはない。そんなことをすれば目の前の少女が拗ねてしまう予感がした。それこそなんとなく。
一口含み、喉を通す。
「うん。美味しい」
「ホント? よかった!」
少女の表情が分かりやすく喜びを伝える。上手く淹れることが出来たからか、自分の好きなものを美味しいと言ってもらえたからか、嬉しいようだった。
本当に表情がくるくると変わって目に新しい。慣れないものを眺める心地だった。
ルイボスティーを美味しいと言ったのは世辞ではなかった。余計な苦みのないさらりとした味わいで、香りを楽しむようなお茶だ。口当たりもよく飲みやすいと思う。気に入らないことはない。
「ねぇ。貴方、誰なの? どこから来たの?」
少女は待ちきれないというように問いを掛ける。その眼にあるのは純粋な好奇心。やはり同年代の子供が唐突に現れたから関心があるのだろう。わくわくして見える様子は、年齢相応に幼く見えた。
僕は微笑んで応えてやる。
「秘密」
「えぇ? 意地悪だわ」
「そう。僕は意地悪なんだ」
「意地悪な人は嫌いよ」
「じゃあ、もう僕とは話さない?」
「……意地悪ね」
ぷく、とあからさまに頬を膨らませて、不満を全面的に主張してくる。可愛らしい。その頬を指先で押して遊びたい心を抑えて、僕は話を変えた。
「今度は僕の番。君の名前は?」
「……秘密」
「そう。じゃあ『君』って呼ぶしかないね」
「もう! 意地悪! こんな人だったなんて!」
不満と文句を包み隠さず伝えてくる少女に、自然と頬が緩んだ。感情を、表情を包み隠さない少女の素直さは、意外なことに僕を楽しませた。
幼少期から大人にばかり囲まれてきたからかもしれない。同年代の子供との触れ合いを経験していないのは僕も同じ。こうして子供らしく振る舞う時間は、少なくとも僕にはなかった。
「いいわ。アリアよ。私の名前」
「教えてくれるの?」
「話がちっとも進まないもの」
尚も不満そうな様子が少しおかしい。
アリア、と小さく口の中で呟いてみる。悪くない。何が、という訳でもないけど、強いて言うなら響きがだ。単純な三音なのに自然と口に馴染んだ。なんとなく、その名を呼びたくなってしまうくらい。
「アリア」
改めて名を呼ぶと、少女は小さな動揺を示した。なんだか少し恥ずかしそうな顔。改まって名を呼ばれるとどう反応していいのか分からないのだろう。さっきまでへそを曲げていたことも忘れた様子で単純だ。純粋、なのかもしれない。僕と違って。
(からかい甲斐があるな)
僕の素の顔を知るヴァンとも違って、彼女の反応は新鮮だ。元より性格が良かったつもりはないけれど、より悪い考えが浮かんでしまいそうになる。
良くないな。頭の中を切り替えて、元々の目的である情報収集へ行動を移す。
「君はここに一人なの?」
「ええ。モース様や、他の詠師様はいらっしゃるけど……」
「大詠師モース?」
「そうよ。色々と面倒を見てくださっているの。私がここにいられるのも、モース様のお陰なの」
「ふぅん」
養父と養女、と言ってもその距離は近いものではないらしい。敬称で呼んでいるのがいい証拠だ。モースはいい父親ではないようだ。それでも少女の様子から、慕われているのは確かなようだが。
モース様のお陰、という言葉に笑ってしまいそうになる。彼女は生まれてすぐに教会に連れて来られた。どういう経緯かは知らないが、モースと恐らく先代導師エベノスの思惑によって。
その方法が穏便なものであったと何故言えよう。少なくとも僕は、奴らが目的のために何をしたのか想像がついている。家族との当たり前の人生を奪われてそう自覚できないのは、可哀想にも思えた。
「他の詠師は何をしに?」
「勉強を教えてくださっているの。モース様はご多忙だから」
試しに名を聞けば、間違いなく現詠師の名が並んで推測が事実に変わる。詠師達は僕と違って彼女を知っていた。それも勉強を教えるなんて形で繋がりさえ持って。
僕一人が除け者で、面白くない。
「勉強か……具体的にはどんなこと?」
「教会や世界のこと、歴史とか……音素の扱いとか、色々よ」
「第七音素も扱える?」
「ええ。才能があるって、エベノス様も褒めてくださったわ!」
褒められた時のことを思い出してか誇らしげに語る。その様を眺めながら僕は事前に得た情報に間違いがないことを確かめていた。先代導師であるエベノスの名まで出れば確定だ。
(導師が直々に音素の扱いを教えていたなんて、導師の力でもない限り有り得ない。やっぱり彼女は「僕の代わり」なんだ)
書類にあった情報が補強される。預言に詠まれた導師でもないのに、その力を持って生まれてしまった少女。先代とモースの操り人形。本来の居場所を失い、鳥籠に閉じ込められて一人きり───僕と同じに。
何かが、胸の内に引っかかるような感覚がした。
「……ねぇ、アリア。君の話をもっと聞かせて。君のことが知りたいんだ」
どんな感情からそう口にしたのか、僕は自分でも分からなかった。初めは微かな興味が理由で、会ってみればくるくると変わる表情に目が離せなくて。
暇潰し。そう、これはただの退屈凌ぎだ。預言の通り進む毎日に、ほんのひと匙放り込まれた異物。いない筈の婚約者。灰色で、飽き飽きしていた僕の景色に、彼女は華やかに色付いて映ったから。
花のように笑う少女の笑顔が、僕に気紛れを起こさせたんだ。
*****
その退屈凌ぎは案外長く続いた。少女から得られる情報は大したものでなく、日常の雑談に等しい。頻繁に会いに行く理由などない筈で、忘れてしまってもいい程だった。
それなのに僕は週に何度も彼女の部屋へ足を運ぶ。モースの目を避け、詠師達とも出会さないように慎重に。
自分がどうしてそうするのか、確かなことは分からなかった。ただそうしたいと思うから行動する。少女の部屋へ赴き、何の変哲もない話に耳を傾ける。時折彼女の話に口を挟んで、からかってやれば大袈裟なくらい反応があって。
大人のように言葉を選ぶのに、その実込められる感情は子供のように落ち着きがなく。僕の来訪を目に見えて喜んで見せる。可愛らしい小鳥。
(気に入ってしまったらしい)
どこか他人事のようにそう思う。僕が他人を気に入るなんて珍しいことだ。人間は皆預言を求めるだけのガラクタなのだから。世界の一部で、つまらない玩具。僕もまた同じように導師という部品の一つで壊れてしまったガラクタだ。
なのに、彼女のことは違うように映る。
僕にとってのアリアは色付いていて、鮮やかで。触れる感情の全てが目新しく新鮮で。彼女といると僕も感情を持ったように勘違いしてしまう。僕が「僕」であるかのように思い違いが出来てしまう。
僕は「導師」でしかないのに。作られた、用意された人形に等しいのに。どうしてか、僕は彼女の傍では自然に息が出来る。預言を詠んだあの日に、呼吸を止めたと思っていたのに。
「ねぇ。そろそろ名前を教えてくれたっていいじゃない?」
時折彼女はそう不満げに促す。でも決まって僕は曖昧に答えを誤魔化した。「イオン」だと告げたくない。彼女はこの教団のことを学んでいるし、名を名乗れば僕が何者かすぐに理解するだろう。そうして何かが変わってしまうことを厭っている。
僕は今の関係に満足していた。ただの「僕」と「アリア」の関係。間に挟まる関係は何でもなく、婚約者でも、きっと友人でもない。僕らはただ、近しいところに互いが在った。
気付けば僕は彼女に手土産を用意することが増えた。視察で街に出る度に些細な贈り物を購入する。受け取った時、彼女はどんな顔をするだろうか。きっと喜んでくれるに違いない。何の根拠もなくそう感じる。
喜ばせたいと思っているのか、自分でも分からない。分からないけど僕はそうする。彼女の部屋が、僕の贈ったもので彩られていくのが心地よい。
初めは僕の部屋と同じに殺風景に見えた部屋。それが半年も経てば細やかな飾りが幾らか増えて、生活感を増している。
全て僕が贈ったもの。彼女は単純だから、喜んでそれらを飾ってくれる。あまりに素直に、純粋に、愛らしく。
(愛らしい?)
幾度と彼女に浮かぶ表現に一人首を傾げる。可愛らしい少女だとは思っている。見た目にも、その言動にも。でもなんとなく、自分の中でその意味合いが変わってきているような気がしていた。
半年も傍で見守れば情が湧く、ということだろうか。そもそもが気に入ったから様子を見ているのだから、些事かもしれない。そう思うけれど、少しだけその変化が胸の端に引っかかって。
彼女の傍は温かくて、春の日差しのように柔らかくて。居心地がいい。
まるで僕が「僕」であることを許されているようで。自然と呼吸が出来る。それはもしかすると導師になってから、いや、この教会で物心がついてから初めての経験かもしれなかった。
でもいつまでも停滞は選び続けられない。僕は既に選んでしまっているから。
「君はどうやって教会へ来たの?」
「預言によって詠まれていたとモース様は仰っていたわ」
「預言か……」
偽りか、真実か。僕の知る限り「アリア」の預言はユリアの詠んだ惑星預言には存在しない。だが、モースが預言を理由に彼女を連れて来たのなら、僕と同じように預言にその存在が詠まれていた筈だ。
確かな矛盾。預言に詠まれたことが偽りでないのなら、偽りは別にある。
ND2002、彼女が生まれた年。他に目印がないのなら、その年の記述を全て詠めばいい。当然負担はあるだろう。それでも僕は知らなくてはならない。アリアが僕らの計画に役立つのかを知るために。僕らの計画を、彼女という存在が乱してしまわないかを知るために。預言にない僕の婚約者───その彼女が教団へ来ることとなった理由の預言を。
そうして与えられたのは、謎かけのような答えだった。
*****
「ND2002。星の記憶を綴る者、レムの光の下に誕生す。其は盟約の血脈に生まれし希望の祈りなり。祈りはやがて約束の時に捧げられ、失われた福音に春を告げる花と代わろう」
「ユリアの預言ですか」
「そう。僕の婚約者を詠んだ、ね」
僕の私室でヴァンと密談を交わす。僕が諳んじたのはアリアの存在を詠んだと思われる、ユリアの残した惑星預言だ。
正直これが彼女を指したものだという確証はどこにもないが、他にそれらしい記述は存在しなかった。意図の詠み解けないND2002の記述はこれ一つ。ユリアの預言とは思えない程、解釈が難しい。
「不可解ですね。ユリアの預言は他のものに比べ、意味の通じるものが多い」
「でもこの預言は何が言いたいのかよく分からない。まるで、預言に混ざった異物みたいに」
椅子に深く腰掛け両手を組む。ヴァンは机を挟んで立ったままだ。僕らの間にわざわざお茶を出してやるような関係性は存在しない。不可解なことは他にもある、とヴァンは口を開く。
「祈り、という文言は含まれますが、それが彼女を指すとお考えですか」
「言いたいことは分かるよ。でもこれにはちゃんと仮説があるんだ」
「と、言いますと」
「其は盟約の血脈に生まれし希望の祈りなり……盟約って何のことだと思う?」
問えば、ヴァンは少し考えてすぐに思い至ったようだった。ユリアとローレライの契約───同じ結論を口にする。そうだ。もしそれが正しい推測ならば、彼女の出自には秘密があることになる。即ち、
「彼女もまた、ホドの生まれだと……?」
「もしくは、それに連なる者だ。正しい名が『アリア』でないなら彼女を詠んだ預言に行き当たるのが難しいのも納得がいく」
ユリアの縁者。そうであるなら自然とホドに結び付き、ホドでは特殊な名付けが行われていた。例えば目の前に立つ男の本名がヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデであるように。名を省略し、愛称で呼ぶことが常であったと聞く。
なら、「アリア」の名はそのままでは有り得ない。
「星の記憶を綴る者、なんて古代イスパニア語はない。彼女の本当の名はなんていうんだろうね」
恐らく「アリア」の名はこの預言から取られたものだろう。名付け親がモースか先代かは分からないが、希望の祈りから選ばれた。アリアは祈りを意味する言葉だから。
綺麗な名になってよかったと思う。彼女に似合いの響きだ。
「……預言を知っても、どうやって先代とモースが彼女に行き着いたのかさっぱりだよ。奴らはこれをどう解釈して、アリアを僕の婚約者に仕立て上げたんだか」
「レム、といいますと第六音素の意識集合体ですが……魔界にはレムの塔が存在しますね」
「あの寂れた塔に隠れた集落があった、と? 否定はしないけど」
寧ろ場所を指し示す言葉はそれくらいしか思い当たらない。可能性だけならあるだろう。場所の問題はそれでいいとして、なら彼女を連れて来たモースと先代の思惑は何か。
考えられるのは預言の成就のため。彼女が彼女の役割を果たすために保護したというのが妥当か。彼女は導師の力を持っていた。それだけでも教団で保護する理由としては十分だろう。少なくとも、「導師」を失う予定の奴らにとっては。
「約束の時ね……セフィロトに施された封咒が解けるのも『約束の時』と言われているけれど、関係があると思うかい?」
「分かりませぬ。ただし『世界の滅び』という意味であるとすれば、或いは」
「『アリア』は世界の滅びに捧げられる、か」
言葉にすると、何かが自身の胸に立ち込めた。黒い靄のように吐き出しがたい何か。遅れて、少し吟味して、それが「不快」という感情であることに至る。
不快───不愉快だ。彼女は世界の滅びのためのパーツ。預言のために生まれて来た者。奪われる。直感的にそう思った。預言に、世界に。アレは、僕のものなのに。
「……はは」
「イオン様?」
「なんでもないよ」
答えながら、僕は口元に浮かんだ笑みを消せなかった。
僕のもの。そうだ、僕のものだ。世界の滅びにも、預言にも渡せない。僕はアレを気に入っているし、愛らしくも思っていて、他のガラクタよりもよっぽど価値がある。
ああ、そうだ。預言にない、僕の婚約者。預言にないなら───僕のもので間違いないだろう?
「もう一度先代の残したものを調べ直すよ。手掛かりになるかもしれない」
「彼女を計画に利用するおつもりですか」
「さて、どうだろうね。ただ、このまま預言にくれてやるのは面白くないからさ」
彼女に利用価値があるかは分からない。でも世界にとっては価値がある。なら、その価値を奪ってやろう。預言の通りには進ませない。前へ進む針を狂わせるのが僕の意志なのだから。
僕のものを奪うというのなら抗ってやる。世界の与えた祝福の一つが彼女だと言うのなら、それは僕のための祝福だ。
(彼女の傍は、酷く居心地がいいから)
一人分の陽だまりを、僕はまだ失いたくなかった。
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