業因と意志
目が覚めて、ぼうと天井を見上げる。
(……あれ?)
その光景に疑問を持つ。何故天井を見上げているのだろう。もうその必要はない筈なのに。
「……あ、」
声が出て驚いた。手が持ち上がり視界に入る。視界……鼻も利くし、音も聞こえる。体がある。
「なんで……」
消えた筈だ。肉体を失って音素の塊になった筈だ。なのに起こしてみれば、確かに体が起きた。手足があって重力も感じている。呼吸もある。
ベッドから抜け出して両足で立った。それだけが違和感で、信じられない。姿見の前へ移動すれば覚えのある顔がある。どんなに直しても直らない強烈な巻き毛もそのままに、そっくりそのまま自分がそこにいる。ぽかんとする。
(……夢?)
疑うが、それにしてはリアリティがありすぎる。肉体を失ってから、ずっと長い夢を見ていたのだ。どちらが夢かなど真剣に考えなくとも感覚が教えていた。
(分からない、けど)
部屋の中を見回す。知っている。自分の部屋だ。みんなの記憶から消えて、部屋もなくなった筈だった。少なくとも部屋の中に着なれた服も靴もない。今着ているネグリジェくらいのもので、自分が消えた過去が何かの間違いで戻ったわけではないことが分かる。
でも、それなら何が起きたのか。
「……探さなきゃ」
何が起きたのかを知らなければならない。そう思うのに、部屋を飛び出したのは別の理由だった。
(何でもいい。ここに体があるなら)
会いたい人がいる。会わなければならないし、触れて、言葉を交わして、その瞳に映りたい。
(一人でも平気なんて嘘)
強がりだった。姿が見えないだけなんて誤魔化しだ。夢の中でほんの僅かに意志を触れさせることが出来たとしても、そんなものでは満足できない。寂しくて、寂しくて、肉体があるわけでもないのに死んでしまいそうだった。
(どこ?)
走る。見慣れた景色だ。ダアトにある教会の中。同じフロアにある執務室にも私室にも、姿はなかった。素足のままぺたぺたと駆け回る。見付けなきゃ。いて欲しい。生きて、この星の未来に。
「はっ……はっ……」
久しぶりの肉体は、動かし方を忘れたみたいに重くて走りにくい。呼吸が邪魔で肺が邪魔だ。そんな不遜を抱えながら玄関口に降りて、ようやくその姿を目にする。
「ぁ……」
千歳緑の髪に、同色の優しい瞳。白い法衣と頭の上の飾りはそのままで、詠師会が終わってエントランスを通り抜けようとしていたらしい。隣には彼の守護役がいて、でも正直そんなものはどうでもいい。地を蹴って名を呼んだ。
「テセ!!」
彼は声に驚いて、それからこちらを見る。「ボク」を見る。手を伸ばして飛び付くボクを、優しく抱き留めてくれた。
(ああ───優しい。テセの匂いだ)
温かくて安心する。ボクに一番落ち着く場所をくれる人。居場所であって、いつか帰る場所だ。
「目が覚めていたんですね」
君の声が耳をくすぐる。ずっと聞きたかった。夢の中でなく直接、こうして体温を分け合って。
「うん。ただいま、テセ」
「おかえりなさい。アリア」
頭を撫でられる感触が心地よい。久しぶりに溢れ出す愛しさが大変だ。幸福度が高過ぎて、このままもう一度眠ってしまえそうだった。
「ちょ、ちょっと! 誰ですかぁ!? 導師様から離れてください!」
アニスがすぐ隣で慌てているのが聞こえて、どうやら彼女はボクを思い出していないらしいと理解する。理解しながらテセに回す腕に力を増した。
「あ、アリアっ?」
「ん~」
離れろというアニスの指示に従いたくない意志を示す。テセが困惑しながらボクの背を優しく叩いてくれて、代わりにアニスに返答する。
「大丈夫です。彼女は僕の……一番大切な人ですから」
「え!?」
「♪」
アニスが派手に驚いて、ボクは免罪符を得た心地で思い切りテセ成分を摂取する。恥も外聞も投げ捨ててぎゅうと抱き着いていれば、不機嫌そうな声が耳に飛び込んだ。
「アンタ達、玄関口で邪魔なんだけど」
「!」
弾かれたように顔を上げると、やはり見覚えのある少年がいる。テセと同じ色の髪と瞳で、でも鶏冠と目付きの悪さが全然違う。仮面を着けていない姿を見るのは本当に久しぶりで、ボクはテセから身を離すと今度はそちらに飛び付いた。
「シンク!!」
「わっ!? やめろ、くっつくな! アンタここがどこだか分かってるの!?」
分かっている。他の人の目がそれなりにある教会のエントランスだ。でもそんなことは関係ない。こっちはもう半年以上こうして触れることを我慢していたのだから。
遠慮なく抱き着いて体温を貰っていれば、やがてシンクも観念したようで背に腕が回った。溜め息が落ちてくる。
「素足に薄い布一枚って……アンタに生まれた筈の恥じらいはどこに落としてきたんだ」
「んふふ~」
「……聞いてないね」
聞いている。でも聞いていない。シンクの匂いで、心音で、今度は彼の成分を摂取した。二人分の愛を貰って、二人分の愛を湧かせて、ようやくボクは満たされる。想われるだけでも足りなくて、想うだけでも足りないのだ。
「え……えっ!? どーゆーことなんですかテセレマ様ぁ!」
「分かってはいましたが、少し寂しいですね」
「お前が諦めれば丸く収まるんだけど?」
「アリアにフられたのはお互い様ですよ、シンク」
「フられ……ええ~!!?」
三人の会話を聞きながら頬擦りをする。何でもいい。どんな奇跡でもズルだろうと構わない。また彼らの側にいられるのなら、それ以上の幸せはない。もう二度と離れたくない。
「そろそろ離れてくれない?」
「ん~」
「ガキじゃないんだから駄々をこねるな。こっちは玄関口で恥に耐えてやってるんだよ」
「ん~」
「……ああクソ、じゃあ好きなだけそうしてれば!」
投げ付けるようにそう言って、シンクはボクを抱え上げた。余計目立つ状態になったけど、そのまま強制的に場所を変えることにしたらしい。くっついていられるので特に抵抗はしない。テセとアニスもついてくる。
「あのシンクが女の子を抱えてる……!」
「殺すよ守護役」
「アリア。居心地が悪くなったらいつでも僕の方へ来てくださいね」
「♪」
シンクに抱え上げられた肩越しにテセと微笑みを交わす。そのままボクの執務室に運び込まれる。ボクのといっても元であって、備え付けの調度品以外は綺麗に消えている。
ほんの少し寂しさのあるその部屋のソファに降ろされて、右隣にシンクが腰を下ろした。いつもの定位置。でもボクを挟んで反対側にテセが座って、ちょっと違う。
「テセ?」
「シンクばかりズルいです」
そう伝えられればテセの気持ちも分かるもので異論はない。噛み付くように異を唱えたのはシンクの方だ。
「ソファが狭くなるから常識的に座れ」
「なら、シンクが正面へどうぞ」
「は? ボクが先に座ってたんだけど」
ボクを挟んで剣呑とされるが、今はそれさえ懐かしい。こっそり両脇にある二人の手を取っていると喧嘩が止んだ。シンクに問われる。
「……何やってんの」
「手を繋いでる」
「……そう」
話しても無意味と思ったらしく、疲れたように返された。でも手は振り払われない。ボクの握るままにされている。テセはボクの手を包むと握り返して、アニスに声をかけた。
「すみません、アニス。彼女に着替えと……それからルークを呼んできてもらえますか?」
「でもぉ……」
「彼女とシンクを二人には出来ないんです。お願いします」
テセの頼みに渋々とアニスが従って部屋を出る。守護役として得体の知れない人間と主を一緒にしておくことに不安があるのだろう。当然だ。
「そっか、ルーク帰って来てるんだよね」
「知っているんですか?」
「うん。一応夢の中でね」
「夢?」
「あー、えっと。アセリスィアの一部の時にぼんやりこの星の出来事は夢に見てるっていうか」
それ以上の説明は難しかった。そこにいるようで、いないようで、どちらとも言えない状態だったのだ。それはボクとも言えるしアセリスィアとも言える。ボクとアレは同一だし、切り離せない。アイオンとオグドアスのように。
「ならボク達が三人集まって何してたかも知ってるワケ?」
「ううん。なんか集まってるなーくらい。だからなんでボクが今ここにいるのかも知らない」
いつもいつもチャンネルが合っているわけではなかったのだ。そう説明すればよく分からないなりに「ふぅん」と返される。上手い説明も思い付かないし一先ずそれで満足した。
「その話はルークが来てからにしましょう」
「あいつが来たら、アンタはまず着替えろよ。ネグリジェと素足なんて下着姿と変わらないんだからな」
「分かってるよー。流石に二人以外の前でそれはダメって学んだからね」
「ならなんで玄関口にいたんだよ」
「部屋に服も靴もなかったのが悪い」
「確かに、用意しておくべきでしたね」
ボクの述べた理由にテセが申し訳なさそうにして、そもそもとシンクが指摘する。
「ないなら部屋で大人しくしてればいいだろ」
「無茶言わないでよ。体があるって分かったら二人を探しに行くに決まってるじゃん」
「……アンタ本当に悪女だよね」
「その評価本気で納得いってないんだけど」
「そうですよ。もう少し言い方に気を付けてください」
「お前はこいつに振り回されて苛々しないのか」
「しませんよ。可愛らしさが過ぎて……時々、困ってはしまいますが」
「目が腐ってるんじゃないの」
心の底からの好意と心の底からの辟易を、左右から感じ取っておかしい。二人共、前よりも仲良くなっている気がする。多分ボクの「せい」なので、手放しで喜ぶと悪いのだろうなとは思う。
そうして暫く待てばアニスが戻ってきて、ボクは続き部屋の私室で渡された服に着替えた。被験者が着そうなワンピースで着慣れない。執務室へ戻れば、部屋の中にルークが増えている。
「わ! ルークだ。久しぶり」
「なんか、そう普通に挨拶されると拍子抜けするな」
「へへ」
どうやらルークはボクを覚えているらしい。自分の存在を消した時に彼はまだ影響下になかったし、そのせいかもしれない。記憶がないアニスは混乱させてしまうからと、どうにか部屋から出したようだ。この場にいるのは四人だった。
「じゃあちょっと、積もる話をしようか」
テセとシンクに挟まれながらそう言うボクは、多分ちょっとキマってはいなかった。
*****
「そっか……ルークにボクの第零音素が……」
それは本当に考えていなかった。ボクが彼の帰還を願った結果、彼の自認がアッシュでも曖昧な"ルーク"でもなく、レプリカであったルークに寄ったというなら第零音素様々だ。
そしてその結果、彼がボクを諦めない選択をして、テセとシンクをけしかけてボクの体の再構成まで至ったようだった。つまり回り回って、「ボクのせい」というわけだ。
「無茶苦茶するねー」
「アンタの十八番だろ」
「人がやると分かるよ」
シンクの言う通りだ。ローレライの力を借りて肉体の再構成をするズルは、ボクが既に三度もやっている。しかも知らない内に第零音素を混入させて当たり前みたいに延命させたのだから、もっと質が悪い。
「でもボクは星の記憶に飛び込んで消えた筈の音素を持ち帰る、なんて無茶は流石にしてないです。体の中にボクの第零音素がなかったら星の記憶に消されてるよ」
「いちいち自分が消えるかもなんて考えてないよ。どっかの馬鹿に似たからね」
「君とテセはボクを見本にするのやめた方がいいと思う……」
お陰で自分の無茶で周りがどう思うかは実感できるが、実感したところでボクが無茶をやめるわけでもないのであまり意味がない。必要なら、何度だって無茶をする。
「……誰が欠けても帰って来られなかったんだね」
ルークがいなければボクを探すことにはならなかったし、テセがいなければ星の記憶を覗くことは出来なかった。シンクが無茶をしなければボクを構成する音素は持ち帰れなかったし、テセが輝石を介してアセリスィアの意志を届けてくれなかったらシンクも無事ではない。
肉体の再構成そのものはルークとテセがしたわけで……綱渡りみたいだ。運命的でも奇跡でもない、それぞれの意志が成した必然の綱渡り。
「ありがと、三人共。帰って来られて凄く嬉しい」
素直に感謝を伝えれば、ルークが満足そうに笑って、テセが眩しそうに目を細めて、シンクは「ふん」と鼻を鳴らした。それからルークが申し訳なさそうに表情を曇らせた。
「でも前の旅で、俺達アリアにそれだけの負担を掛けてたんだな」
「ああ、まぁ……最初から最悪に向かってたって話だから。気にしないで」
応えれば、逆にシンクとテセの表情が明るくないものに変わってしまった。そういうことが言いたいわけではないので、ちょっと焦ってしまう。
「二人も気にしないで! ボクが勝手に無茶したんだから」
「それには異論ないけどさ」
「いえ……僕の場合はアリアに非はありません。僕の考えが甘かったんです」
シンクはともかくテセの表情は晴れない。何かを言いたくて頭を回す。ボクの行動の責任はボクにしかない。大体、
「ボクが無茶をしなかったら、シンクもテセも生きてない。だから───誰にも後悔されたくないよ」
後悔してない、じゃない。ボク以外の誰にも後悔されたくない。ボクが生きて欲しいと願った二人の命の続きを誰にも否定されたくない……当人にだって。
「……お節介な奴」
「ありがとう、アリア」
シンクは顔を逸らして、テセはボクを見て、それぞれ応えてくれる。「そもそも」とシンクが声を上げた。
「一晩中ローレライの力を媒介するような無茶をしたなんてアンタ言わなかっただろ。自分の体にタイムリミットがあることも、分かってたなら事前に話せた筈だ。アンタは話さないことが多すぎる」
「それは……」
どちらもボクとしては当然の判断をしただけだった。シンクの体を再構成するのを止められるわけにはいかなかったし、タイムリミットは共有したところでお通夜になる。話したところで利点がない。
ただ、彼が言いたいのはそういう正しさではなくて、もっと感情的な部分だったのだと思う。気付いたら手遅れなんて、ボクだって嫌だ。
「……うん。ごめん」
「謝ったら許されると思ってない?」
「思ってないよ。君もテセも許さなくていい。そうやって覚えてて。ボクがすぐ無茶をするバカだって覚えてたら、君達も無茶しないでくれるでしょ?」
「……チッ」
「ふふ。アリアの方が一枚上手でしたね」
左右が賑やかで幸せだ。それからシンクが重い溜め息を吐いて、嫌そうに自分の非を口にした。まるで順番だとでもいうように。
「そこの導師と違って、ボクはアンタの手を離した。馬鹿だった。後悔してる。……悪かったよ」
「……君の意志の在処はもういいの?」
「どうでもいいよ。決めるのはボクだ。……でしょ、導師サマ」
「はい」
何故そこでテセに確認するのかは分からなかったが、シンクがテセの同意を得ようとしたことが珍しい。ボクの知らない間に、やっぱり信頼関係が強まっている気がする。言葉にしたら否定されるのは分かっているので言わないが。
「なぁ。なんでアニスはアリアを思い出さないんだ?」
「星の記憶の上ではボクは消えたことになったままだから」
「ですが、僕とシンクはアリアがいた過去を取り戻しました。何が違うのでしょうか」
聞けば、ボクを呼び戻すその時までは思い出せてはいなかったらしい。呼び戻して姿を見て、ちゃんと自分の記憶を取り戻した。多分、とボクは答えた。
「二人がボクの第零音素を多く保有してるからだと思う。脳じゃなくて記憶粒子、二人の場合は第七音素だね。それに『ボクを思い出す』っていう二人の意志が干渉してるんじゃないかな」
「じゃあアニスやティア達がお前を思い出すことはないのか?」
「んー。関わってる内に思い出す可能性はあるよ。他の人より余程共有した過去が多いし、互いに与えた影響だって残ってるからね。その辺は普通の記憶喪失と似た感じで考えてもらっていいと思う」
「そっか……」
ルークが少し寂しそうに頷いて、今度はテセに問われる。
「貴女がいた過去を星の記憶に戻すことは出来ないんですか?」
「出来ると思うけど、しない。レプリカが意識集合体になったなんて事実を世界に広めたら大変なことになる」
教団も、被験者も、テセやシンクだって。アセリスィアはその成り立ちをすっ飛ばしたから「人の意志を侵す悪」という見方を失うことが出来たのだ。実際にボクが生んできた変化を周りが認識したなら否定的な声が大きくなってもおかしくはない。今のように希望として扱われる方が都合がいい。
「……寂しくはありませんか?」
テセに重ねて問われる。ボクの理屈は分かってくれているのだろう。その上で尚ボクの心情を慮ってくれている。でも、それはしなくていい心配だった。ボクは両脇の手を握る。
「全然! 仲間には出来れば思い出して欲しいけど……でも、自分で選んだことだから。それにここにいられなかった時の寂しさに比べたら、本当に全然だよ。今はここにいて、君達やルークがいる。だから……寂しくないよ」
本心だ。今はこうして触れられて、姿を見て名を呼んでくれる人がいる。それが他でもない君達なら、ボクは幸福だ。
両の手が握り返されて、自分の頬が緩むのが分かる。瞬きの合間にこの幸せな夢が砂のように消えてしまったらどうしようと、こっそり思うくらいだった。
(許されるなら、ずっとここにいたい)
いなくなりたくなんてなかった。彼らの側にいられるなら、その方がずっといい。
大丈夫、と心の内で唱える。時間は沢山あるのだ。今度こそタイムリミットはずっとずっと先で、ちょっとやそっとのことでは死にようもない。アイオンの加護が失われた以上、トラブルの方も遠慮してくれる筈だ。これからは彼らの隣で、怠惰に生きられる。それだけが得難くて……ボクにとっては幸せだから。
もう、ボクはどんな運命も背負っていない。
*****
ルークが帰って行った後、ボクはテセに呼ばれて彼の私室を訪れていた。シンクはそれに不満があるようだったけど、不承不承離れて「部屋にいる」と残して去って行った。二人だけで話したいことがある、というのは彼にも分かるところだったのだろう。
ボクも、ちゃんとそれぞれの今の気持ちを聞きたい。自分がやったことは、分かっているつもりだ。
「アリア」
「ん」
陽が落ちたばかりの時間。真面目な調子でテセに名を呼ばれて、ボクもきちんと向き直った。真剣な瞳に何を言われるだろうと思っていると、彼は思いもしないことを聞いた。
「貴女を抱き締めても構いませんか?」
「へっ? え?」
真面目な話が飛び出してくると構えていたボクには拍子抜けで、上手く頭が対応出来なかった。混乱しながら彼の眼を改めてみれば、真剣な様子に変わりはない。つまりそれだけ真剣にボクを抱き締めていいかを問われていることになる。
それを認識した瞬間恥ずかしさが全身に広がり、落ち着かない心地になってしまう。顔が熱く、絶対赤い。堪え難くて、せめて眼だけでも逸らしながら答えた。
「……ど、どうぞ」
ボクの返答がおかしかったのか、テセが小さく笑った気配がした。それから彼が近付いて両の腕が背に回る。そっと抱き寄せられる。温かい。
(うぅ~! なんでもない、なんでもない……)
緊張と恥ずかしさに誤魔化しを唱える。分かっているのだ。ボクが抱き着く行為にある意味と、彼がボクを抱き締める行為にある意味は全然違う。その違いはずっと前に教えて貰ったし、互いにそれを尊重し合うのがボク達の基本だ。触れ合いそのものにはそれなりに慣れたつもりだったが、そこに含まれる感情にはいつまで経っても慣れないようだ。
ボクの緊張が分かっているようで、彼の手が髪を撫でる。ゆっくりと、落ち着くように促される。
「何から話せばいいのか……難しいですね。貴女に貰った感情が沢山絡まっていて、上手く選び出せません」
「そ、そう」
なんだかまた恥ずかしいことを言われた気がして、ボクは深く考えることをやめる。ちゃんと受け取れた方がいいのだろうけど、彼の感情の全てを追ったら感情が飽和してしまう。今はちょっと腕の中にいるだけで精一杯だ。
「貴女がいなくなったことを、ルークに教えられた時……僕は貴女に会いたいと思いました。毎日どこかに欠けを感じていて、理由もないのに寂しさや苦しさがあったんです。その理由に、ようやく辿り着ける気がしたんです」
「……うん」
ボクは過去を書き換えなかった。みんなの選択や歩んできた道を、そこにあった意志をボクの都合だけでねじ曲げるなんて嫌だった。
だから起きたことは変わっていない。ただ、みんなの中で辻褄が合うように出来事が少しずつ変わっているだけ。誤認している。ボクがいた場所を被験者が補って思い込んでいるだけだ。
「忘れて欲しいって……思った筈なのに。君がそうやって辻褄が合わない感情を持ち越してくれて……正直嬉しかったんだ。代わりなんていないって、証明だから。ごめんね、勝手で」
ぎゅう、と彼の服を握る。怖いのだ。この優しい人が、きっと怒っていると分かるから。ボクは自分がやったことを分かっている。彼が大事に想ってくれていた時間をなかったことにしようとした。怒って、当然だ。
「……貴女を取り戻した時に、僕も同じことを思いました。貴女と過ごした記憶が蘇って、僕はこの胸の痛みを失わずにいられたことに感謝しました。貴女のいない日々に慣れてしまわない自分で良かった。貴女にも、僕にも、代わりなんていなかった」
声音がどこまでも優しくて困惑する。全然怒ってることを教えてくれない。ただただ温かくて、優しさや愛情でボクを満たそうとする。甘やかそうとしている。そんなのダメだと思ってボクは意を決した。責められるべきだから。
「ボクは君に、酷いことをした。嘘を吐いたし、勝手に諦めて手遅れになって、最後には思い出せないようにもした。見えないクセに君が困ってくれるのが嬉しくて……最低、最悪だった」
「……あまり自分を責めないで。僕は貴女を責めるつもりはないんです」
返ってきた答えに息を飲んだ。驚いて少し体を離し、顔を見る。穏やかな千歳緑の瞳がボクを映した。なんで、という問いに彼は答える。痛みのある眼で。
「僕も同じだからです。貴女を側に望んでおきながら、勝手に死のうとした。この名に恥じないつもりで……貴女の本当の祈りを理解していなかった」
「で、でも……」
「貴女が体を維持できなくなった原因は、僕の死にもある。身勝手な僕を助けようとしたその皺寄せで、貴女は人として生きる時間を失った」
「違う! 皺寄せなんかじゃない。ボクが君を助けたかったんだ。君にいなくなって欲しくなかった。君が星の記憶に奪われるのが嫌で、だから……」
間違いだった、みたいに言われることが嫌で必死に言い募れば、テセが笑った。そっと優しく、頬を撫でられる。
「分かっています。貴女はそれだけ、僕を想ってくれていた。分かっていなかったのは僕の方だ。貴女が自分の身も顧みずに僕を助けようとしてくれることも、その結果に嘘を吐かなければならなくなり、黙って消えようとしたことも……自分の存在を消すしかないと思ったことも。貴女の想いを理解するには、僕は遅すぎた」
何を言われているのか分からない。彼はボクの選択の全てを自分の至らなさのように口にする。そんなの優しすぎる。ボクがただ、自分勝手で酷い奴というだけの話なのに。
千歳緑の瞳が優しく問い掛けた。
「嘘を吐くのは、苦しかったですよね」
「そんな、こと」
「黙って消えることも、僕達を手離すしかないことも、貴女が納得していた筈はない。自分が嫌いになりましたか」
「それは……だって」
「自分が消えれば全てが上手くいく。僕もシンクも貴女の死に苦しまずに生きられる。そう分かっていて……忘れられることが、辛くなかった筈がないんです」
「っ……」
呼吸が自然に出来ない。喉が詰まって肺が震える。足の感覚が遠退いていて、自分が弱いと認識する。多分、今ボクは泣きそうなんだ。優しさに溶かされて、許されそうになって、それに感情の堰が決壊しようとしている。
頭を振った。ちゃんと責められようと思ったのに、いきなり許されるなんて甘過ぎる。そんなのダメだ。そう意思表示をするのに、彼は気付いてくれない。いや、気付いていて、許そうとする。それが彼がボクに傾けてくれる、愛情だから。
「───寂しかったですよね」
呼吸が止まった。ああ、もうダメだ。塞き止めていたものが決壊する。だってそれはズルい。それはもう、うっかり伝えてしまっている。今更否定出来ない。声が震えた。
「……寂し、かった。凄く、辛くて、苦しくて……ここが、体もないのに、ぎゅって痛くて」
手を自分の心臓の辺りで握る。鷲掴むことも出来ないから服を握りこんで主張する。体もないのに心臓が壊れそうだったと。痛みで、死ねそうだった。
「ボクもいっそ忘れちゃえばって、思ったよ。でもそんなの出来ない。忘れたくない。なかったことに、なって欲しくない。触れられなくても、話せなくても、気付かれなくても……君達の側に、いたかったから」
ぐちゃぐちゃだ。怒られようとしてたのに、ずっと燻っていた痛みや寂しさが出てきてしまった。膿んだ傷口が掻き回されるみたいに酷い。
こんな醜い独り善がりの感情を、彼に見せるつもりじゃなかったのに。こんなものを見せたら彼は優しくするに決まってる。こんなの、癒して欲しいとねだっているのと同じだ。
「君達が好きだ。一緒にいたい。一人になんかなりたくない。嘘にしたくなかった。忘れて欲しくもない。他の誰かにボクの居場所が譲られるなんて嫌だ。この痛みが……君達が、ボクと同じものを抱えてくれてたらいいって、ずっと思ってた」
最低だ。幸せに生きて欲しいと願っておきながら、ボクの死に痛みを持って欲しいなんて。痛みを持って欲しくないから、痛みで死んで欲しくないから、痛む原因すら奪ったのに。
奪って、見えなくなって、それから知った。君達が違和感を覚える度、無自覚にボクの影を追ってくれる度、自分の中に嬉しさがあることを。ただの意志の一端に成り果てたクセに、手を離したクセに、繋がれていて欲しいと願っていた。
本当に最低だ。そんなに身勝手だなんて知らなかった。
「……泣かないで」
テセの指が頬を撫でる。涙が拭われる。でも多分涙は止まらない。視界は滲んでるし、ぽろぽろと零れる感覚がある。
テセは仕方がなさそうに笑うと顔を近付けた。反射的に眼を瞑ると目蓋に柔らかい感触があって、びっくりして離れると同時に眼を開けた。正面にある彼の顔は微笑んでいて、ボクの涙も止まっている。子供みたいに泣く経験はまだ浅いから、そんな風に止める方法もあるんだなとうっかり感心した。
「迎えに行くのが遅くなって、ごめんなさい」
声は出ない。涙は止まっても喉が引き吊ったままで、震わせようとすると変な音が出そうだった。応えられないボクにテセは額を合わせる。ゆっくりと近付いてボクの様子を見てくれる。それがやっぱり優しくて、気が落ち着いた。
それを見計らったみたいに、テセは何かを取り出す。それは白い貝殻に水色の雫が下がった、ボクだけの髪留め。
「もう一度、受け取って貰えますか?」
テセに必要なのはボクだと、ボクはボクの思うような人でなく、どんなに考えてもボクを連れていきたいと……側にいて欲しいと望まれた証だ。それをもう一度渡す意味は軽くない。もう一度、受け取る意味も。
「───はい」
ハッキリと答えて、彼の手で髪に飾られる。久しぶりのその重みが、きっと気にならなくなるのはすぐのことだ。あっという間に体の一部みたいになって、そこにあるのが当たり前になる。ボクにとっての君みたいに。
見れば、テセはとても幸せそうにボクを見詰めていた。在るべきところに戻った彼の髪留めを着けた、ボクを。
「……君、やっぱり聖人君子なんじゃないの」
恥ずかしさに悪態をつくみたいにそんな言葉が飛び出した。見せるつもりのなかった傷を表に出されて、泣くつもりなんてなかったのに泣かされて、怒られたかったのにいきなり許されて。
優しく甘やかされる不本意さに、拗ねた言葉が出て行ってしまったのもある。可愛げなんてない。でも彼はそれが可愛いとでもいうように眼を細めると応えた。
「聖人君子なら、貴女を困らせたりはしませんよ」
唇に触れるだけの優しさがあって、ボクは目蓋を閉じる。抵抗しない。触れ合いはボクにとって愛情を渡し合う手段でしかなく、それ以外の意味はやっぱり持てない。でも久しぶりに渡し合える愛情は何より甘く、心地好い。
(アイオンはもういない)
縁者だとか伴侶だとか、その繋がりがボクらを繋いでいるわけじゃない。彼がボクを側に望むのも、ボクが側にいたいのも、それが互いの役割だからじゃない。第零音素が引き合っているのだとしても、それは意志を助けるものであって意志を奪うものじゃない。少なくともボクはそう信じる。
「好きだよ、テセ。君に、愛しさがある」
「僕もです。僕の、愛しいアリア───」
───この髪留めの重さは、婚姻のそれとどれ程違うのか。愛しか分からないボクには、ほんの少しだって分かりはしなかった。
*****
次に目が覚めた時には夜中で、なんとなくデジャヴがある。ぼうと天井を眺めて、記憶を意識に繋げた。
(テセと話してて……意識が、落ち始めて……)
多分感情を使いすぎて回路が切れたのだ。眠くなるといえば簡単に聞こえるが、実際には強制的に意識が途切れるようなもので疲労感が伴う。それでも心地よかったのは、意識が落ちる程に手渡された感情がボクへの愛情だったからだろう。まだその余韻がある気がする。
「………………」
目蓋を閉じて息を吐く。ゆったりと自分の中にあるそれを揺らす。満たされていると感じるように、それは水のように重く揺らいだ。体の隅まで、それがある。
実感して心地よさのまま二度寝をしようかと思う。だが、それを思い止まらせたのは違和感だ。右隣がやけに温かい。
(……まさか)
自身の右側をちらりと見る。そこに人間のものとしか思えない温もりがあって、ボクは起きた時にあったデジャヴの理由を把握した。
夜中に右隣が温かかった記憶が一つある。違うのは、前は手を握られていただけなのに今回は抱き枕にされている点だ。顎の下に収められていて顔が見られない。
(でも……シンクだ)
確信があった。根拠の一つはデジャヴだが、もう一つは匂いだ。犬程鼻が良いわけではないが、鼻先にある温もりから届く匂いはシンクのものだと思う。変態のようだが、多分好きな人の匂いというのは動物的に意味がある。多分。
(部屋にいるって言ってたもんね)
彼は彼でボクに話があった筈で、順番をテセに譲ってくれただけだ。なのにボクが寝てしまったから我慢してくれたのだろう。起こさない代わりに抱き枕にされたようだ。
どうしようかと迷って身動ぎをする。腰に回っている腕から少し逃れて体を起こすと、顔を覗きこんだ。あどけない寝顔。普段の表情の険しさが嘘のようで、年齢相応だ。
(年齢……そっか。去年でシンクは十六になるのか)
レプリカの肉体年齢にどれくらい意味があるかは分からないが、一応そういうことになる。テセとボクは半年分の空白もあるわけで、それをどう換算していいかも難しい。そもそも三人共に誕生日がないため、一年の終わりに加算を計算する程度だ。適当の極みである。
(……身長、伸びてるんだよなぁ)
それは最近の話ではなく前からだ。旅をしていた頃は大きく変わらなかった身長が、ゆっくりと離され始めていた。
アドリビトムの視察に出た頃など実質一年前になるのだが、その頃より今の方が身長に差があった。目が覚めて二人に抱き着いた時に気付いていた。多分もう五センチでは利かない。
(なんか置いていかれるみたい)
文字通り永遠に置いていかれる状況にあったことを思えば大したことではないのだが、少し残念に思う。近い視線の高さが好きだった。寝顔も元が元なのであどけないが、年齢相応に変化を得ているのは分かっている。少年から青年に扱いが変わる日も、遠くはないだろう。惜しいような、未来が見たいような、複雑な心地だ。
「………………」
そっと唇を寄せた。触れるだけの口付けで、ほんのちょっと寝息を奪うだけだ。身長を引き離して対等さを奪おうとしている人への、ちょっとした悪戯だった。本人の知らないところで先手を取りたかったのだと思う。でもボクはすぐに自分の浅はかさを知ることになった。
「!」
腰に触れていた手が上がって、ボクの後頭部を押さえる。唇を離すタイミングを失って慌てると、舌が潜り込んできた。そのまま押し倒されるように体勢が変わった。
「っ」
油断していた。寝ているとばかり思っていたのに、途中から狸寝入りだったのか。眼を開けたら絶対に至近距離で深緑の瞳と目が合うので、目蓋は上げられない。本人が知らないから出来る悪戯というものがあるのだ。バレたら恥ずかしい。
「……は、」
舌が離れて呼吸が楽になる。ようやく眼が開けられた。薄闇の中にボクを見下ろす瞳があって、ボクの浅はかさを嗤う色があった。それが悔しくて唸る。
「……意地悪」
「煽ったのはアンタだろ」
「寝てると思ったのに」
「寝てる相手にキスしていいなら、今度からそうしてやろうか?」
「うぅ……」
ごもっともで、顔が熱いのを誤魔化して唸るしかない。どう考えても悪戯失敗だ。襲われたかったわけじゃない。乱れた呼吸を整えていると「それで?」と問われる。
「どういうつもりでボクの睡眠を邪魔したんだ」
「邪魔したつもりはないです……」
「邪魔されたよ。現に起きてるんだから。ボクが起こさないでやったのに、無遠慮にボクを起こしたんだ。納得のいく説明をしてもらおうか?」
そんなことを言われても、という気持ちと、折角の配慮を台無しにした自覚でなんとも言えない。かといって彼を起こすような大義名分があったわけでもなく、口付けをした理由といえば……
「……反省を、ですね」
「は?」
「だからっ……君に置いてかれるみたいで……君を、置いていこうとしたことを実感して…………その、反省です」
言葉選びが死ぬ程下手くそだった。自分でも明確に分かっていて行動に移したわけではない。でも多分そういうことだ。
身長や顔付きの変化で置いていかれる感覚を得て、置いていかれたくないと思った。でもそもそも、彼を置いていこうとしたのはボクの方だ。だからこっそり口付けを贈った。「ここにいる」と示したかった。
シンクが呆れを顔に出す。
「訳が分からないんだけど」
「……だよね」
「もう少し分かりやすく言ってくれない? キスでボクの体を再構成した時みたいにさ」
「! お、覚えて……」
「ないよ。星の記憶で見ただけだ」
一気に顔の熱さが一段階上がった。シンクは茹でタコみたいになってるだろうボクの顔を見て、愉快そうに笑っている。本当に性格が悪い。睨み上げてもどこ吹く風だ。
「あの時は、だって、手が塞がってたから」
「別に好きな時にしてくれていいよ。相応のお返しがあるだけだ」
今みたいにね、と言いながらシンクの指先が唇をなぞる。それにボクは変な緊張があって、不自然に呼吸が乱れる。シンクは眼を細めると、告げた。
「……悪かった。アンタの嫌がることをしようとした」
「え……」
「輝石の紛い物を埋め込まれてた間のことだよ。アンタが待てって言ってたのに、ボクは一言も聞いちゃいなかった」
「でも、あれは精神汚染みたいなもので……」
「それを免罪符にしていいって? お優しいことで。あれはボクの中にあった欲だ。それを知っている以上、ボクの気が済まない」
そう言われてしまえば何も言えなくなる。困って見上げていると、シンクはぽつりと語った。
「あの時、音素バランスが崩れたボクは第零音素の塊であるアンタに引き寄せられたんだろうね。助けを求めたのか、親の一部に戻ろうとしたのかは知らないけどさ」
第零音素は元々星にあって、人もレプリカも干渉している。でもテセとシンクとルークだけは、少し他の人達と事情が違う。
ボクという親になる意志がハッキリしていて、体内に人より多く定着させている。特にテセとシンクは第七音素と第零音素の比率が1:1でもおかしくはない。乱されれば、影響が色濃く出る程なのだから。
「……君は不本意だろうけど、君がボクのところに辿り着けたのが第零音素のお陰なら、ボクは感謝したいよ。お陰で君を失わずに済んだ」
恐らく彼の中に第零音素がなければ、あっという間に音素乖離を起こしていた筈だ。そうでなければ音素暴走を起こして「化け物」になっていたかもしれない。第零音素が音素同士を無理矢理繋いでいた時間があったから間に合ったし、親であるボクのところへ導かれたから再構成が出来た。
(いや、そもそも第零音素があったとしても、意志が足りなきゃダメなんだ)
第零音素が持つ属性は「意志」であり、それがなくては特殊な振動を生むことはない。定着していようと大した作用などない筈なのだ。彼がボクのところまで辿り着くことが出来たのは、彼の意志に違いないと思う。
「……そのお陰でこっちは被験者とアンタを誤認させられる酷い目に遭ったけどね」
「え?」
「次ボクの体を再構成することがあったら、起きるまで絶対にアンタが近くにいろ。イオンに感謝しなくちゃならないなんて二度と御免だ」
「次がないようにして欲しいんですけど」
「念のためだよ。返事は?」
「あ、うん……」
よく分からないけど頷いた。目覚めるまで側にいるくらいはお安いご用だ。あの時だって、起きるまで待つことも連れて行くことも出来なくはなかったのだから。……そうしていれば彼がボクを突き放すこともなかっただろうかと少し考えたが、それは違うなとすぐに振り払った。
知る機会を奪うのは違うのだ。ボクが眼や耳を塞いで彼を側に置いたら、それこそ間違ってしまう。そこに彼の意志はない。
「……ねぇ。アンタには、まだ『ボク』が見えてるの?」
「……どういう意味?」
「アンタが言うボクだよ。神託の盾の地下牢でアンタが『いてよかった』って言ったボクで、依頼を破棄してでも側にいろって望んだボクだ」
そこまで言われれば何を問われているのかは簡単だった。重ねて言うなら、アイオンの縁者であることや第零音素の引き合いで脅かされた「シンク」だろう。ボクから離れてでも、彼が守ろうとしてくれた自己だ。ボクは真面目に見える瞳を見上げ、しっかり見詰め返した。
「うん。君は君で、ここにいる。第零音素は意志を助けるものであって、奪うものじゃない。君の意志は君のものだよ」
「……アンタの眼は変わらないね」
「え……」
「地下牢でも、地核でも、七番目を呼び戻した時だってそうだ。他人を信じるなんて馬鹿馬鹿しいことを、なんでかアンタの眼を見てると選びたくなる」
そうやって一度嘘を吐かれたのにね、とシンクが自嘲してボクは眉尻を下げた。厳密には話さなかっただけであり、嘘を吐いたわけでもなかった。でも受け取り手にとっては同じことだ。それを言い訳するつもりはない。ボクの表情を見てか、シンクは言葉を選び直した。
「別に今更怒る気はないよ。もう謝罪は受けてるし、許さないことも決めてる。アンタの言う通り、今後は鵜呑みにしないし無茶もさせない。定期的に死霊使いのところで体を調べさせてもらう」
「今の大佐はボクのこと覚えてないと思うけど、なんて言って調べさせる気なのさ」
「どうにでもするよ。今のあの男には弱点もあるんだ。脅してやってもいい」
弱点というのはメリズのことだろうか。その辺りはまだ詳しく聞いていないので分からないが、ダアトにいない様子なので多分大佐のところにいるのだとは思う。彼なら六属性の音素を扱えるから、彼女のメンテナンスにも最適だ。
「じゃあ、もう怒らないの?」
テセにもシンクにも怒ってもらえないのでは据わりが悪くて聞いてしまう。怒られたいのだ。自分のやったことの結果が足りていない。シンクは首を横に振った。
「いや。二つだけまだ怒ってることがある」
「二つ?」
「アンタがボクを置いていったことと、記憶をすり替えたことだよ」
不謹慎なことに、少し喜んでしまった。それはボクが怒られたかったことなのだから、仕方がない。でも怒られたって、選択を間違えたとは思っていない。
諦めないで留まれるように努力をしなかったことは反省しているが、連れていかなかったことも記憶をすり替えたことも後悔していない。例え、お互いがどんなに苦しんだとしても。
「なんで置いていったんだ。アンタがボクを連れていってくれるんじゃなかったの」
「……ボクが連れていきたかったのは、未来だから。ボクの側じゃなくても生きて欲しい」
「アンタのいない未来に何の意味がある。少なくともこの半年、ボクは『生きて』なかった。……アンタの影ばかり追ってた」
「………………」
嬉しくて、申し訳なくて、複雑な心地になる。それだけ彼の中でボクに価値があったことが嬉しい。ボクの席が簡単に他の誰かに譲られなくて良かったと思ってる。でも、
「そういう君だから、ボクの記憶は残せなかった。ボクが死んだ痛みで、君まで死んだら困るから」
「………………」
シンクの頬に触れる。涙なんてない。シンクが泣くところなんて見たこともない。でも泣いていると錯覚する程、瞳にある感情の色は鮮やかだった。ボクに沢山の痛みを伝えてくれる。その一つ一つを、ボクは拭いたい。
「君に、幸せに生きて欲しいんだ。シンク」
ボクの祈りに、彼は眉を寄せて表情を歪めた。それは泣き出しそうで、でもやっぱり涙は流れない。彼は泣かない。泣く機能なんてないみたいだ。ただ苦しげな呼吸でボクに要求する。噛み付くように、世界に牙を剥いていた頃のように。
「……なら、二度と離れるな。アンタがいなくちゃ生きてる気がしない。地核で拾われたからじゃない。アンタの側にいることを、ボクが自分の意志で望んでるからだ」
「───うん」
側にいる、と。囁いて眼を閉じた。ボクはアリアで、同時に今もアセリスィアだから。
アセリスィアは人の意志を尊ぶ。そこにボクの私情を混ぜたなら、君やテセの意志を尊重しないなんて有り得ない。君が君の意志と信じるもので、ボクの側を望んでくれるなら、ボクはそれに応えたい。ボクも自分の意志で、君達の側にいたいから。
───望まれる限り側にいる。愛の誓いに、口付けは相応しいと実感した。
*****
それからのボクは、きっと陽だまりで丸くなる猫のように幸せだったと思う。ふくふくと愛され、ぬくぬくと慈しまれる。殊更に愛され、殊更に愛した。これはそういう物語。終わった筈の話にケチをつけて、ズルにズルを重ねた夢のようなお話だ。
でも、良いと思う。今いる現実が誰かの夢じゃないって、誰にも証明できないのだから。胡蝶の夢にも、蝶の羽ばたきは確かにある。
無責任でズルいと、ずっと昔にアニスに言われた。その通りで、ボクは今だって変わらない。無責任に愛されて、ズルをしてここにいる。大佐が今のボクを知ったならどう思うだろう。今のボクは化け物ではないけれど、やっぱり人でもない。でもきっと、見限ったりはしないでくれるのだろうなと思う。
ガイはボクが記憶から消えたことを知ったら怒るだろう。いなくなることの重さは彼の方がよく分かってる。ナタリアも怒ると思う。ガイとは違って積み上げてきたものが無くなることを怒るんだ。彼女は王女として、積み上げるものの価値をよく知っている人だから。
ティアはきっと泣きながら怒って抱き締めるのだろう。自分のことやルークには頑として泣かなかったのに、ボクの代わりに泣いてくれるのは知っている。ボクの前では、彼女は兵士ではないらしい。そんなことを、つらつらと考える。
きっと、この世界に本当に望まれたアリアはボクじゃない。ボクはただの気紛れで、蝶の羽ばたきが連鎖して生み落とされた代替品。
本物にだって彼らは救えたし、星の未来を綴ることだって出来た。繰り返された歴史の中で、うっかり生まれたイレギュラーだ。ボクという特異点は、本当はこの世界に必要ない。
でも、この物語を詠ったのはボクだ。世界を、心を変転させるAriaはボクだった。それは独唱ではなく二重唱だったけれど、確かに春を告げたから。
約束の時に祈りは捧げられた。詠唱歌が届いて今がある。これからもこの星の未来を綴ろう。それが星の記憶を綴る意志となった、ボクの役目。
業因の先に、唯一の共約しえない意志がある。君に贈られた髪留めと、君が抱く痛みこそ、ボクがボクとして生きる証だ。
ND2021・レムデーカンの終わり。月花の加護を受けて、またボクは君達と春を待つ。待雪草の異名のように。
生まれた意味は、君達と共に。
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