外殻と崩落


 何が起きたのか、分からなかった。死ぬつもりで身を投げ出せば、バカが一人飛び降りて来て。

「うっさい! 手を伸ばせ! 離さないから!!」

 神託の盾本部で見たものと、同じ顔をして叫ばれる。また人のことで必死になって、怒りを露に意地になる。僕にはまるで理解できない激情だ。

(離さない───?)

 そんなことある筈がない。有り得ないと知っている。それなのに伸ばされた手は、確かに僕を掴もうとして見える。この場にいるのは頭のおかしい女の他に僕だけで、間違いようもない。

 関係してよ、と言われた時のことが過る。鉄格子ごと握り込まれた手を覚えてる。あの時の、痛いくらいの怒りが思い出されて。

 思わず、吸い寄せられるように手が伸びた。伸ばされる手に触れてみたくなる。どうせ死ぬなら、最期に質の悪い嘘に騙されてみてもいいかもしれない。

 そう思って触れた手は僕の手を強引に掴んだ。離す意志を感じさせない、頑固で……人の話など聞かなさそうな手だ。

「ボクを信じて」

 女の水色の瞳が、自信満々に僕を見下ろす。どうしてそんな眼をするのか分からない。どうせ消えるだけだ。ここは地核で、誰の助けも望めない。今に地核の深部に到達し、僕らは消えるだけ。

(生き残る手段なんてない)

 この存在が終わることは確約されている。捨て駒として死ぬために地核まで来たし、分かっていて身も投げた。なのに、女の眼には抗う光がある。

 周囲の音素がざわつく。普段は微かにしか感じ取れないものが、異様に集うのが分かった。

(……なに、これ)

 ぞわりと背に寒気がはしる。膨大な音素が女の体へ流れ込んでいる。譜歌や譜術に消費される音素の量とは比較にならない。

 女の顔が痛みに歪み、僕の手を掴む力が増した。それに痛みを覚えるが、それ以上に繋がった手から伝わる熱が僕の意識を引いた。何かがおかしい。

(音素が……集まってる?)

 集められた音素が女の周囲で形を成す。どれも第三音素の輝きに見え、あり得ない早さで結晶を生む。それが大小問わず十を超えた頃、女は叫んでいた。

「───シルフ!!!」

 叫びに従い、数多の結晶が目映く輝く。譜もなければ陣もない。だが眼に見えない力場が発生し、途方もない音素が僕と女を包んだ。墜落が止まり、何かを思う間もなく上方へと引っ張り上げられる。

(……!?)

 急激な加速に本能が恐怖を覚えた。上も下も分からない圧倒的な力の奔流。反射的に女の体を引き寄せる。

 景色が目まぐるしく変わり、障気と音素の乱流を抜け、セフィロトの空間を通り過ぎた。汚泥のような魔界の海を突き抜け、その景色すらあっという間に過ぎ去った。

 気付いた時には外殻大地を通り過ぎ、その青い海の遥か上空に居た。空高くから青と緑の世界が見下ろせる。───世界が、広く見える。

「──────、」

 僕らを包む、異様な濃度の第三音素は霧散しない。それどころか意志を持つかのように揺らめき、何かを目指して動き出した。

 速度こそまともになったが、地面のない天空に放り出されるようでぞっとしない。それは「お仲間」が乗るアルビオールを目指していて、背を這う嫌な感覚に襲われる。

 ───この膨大な「風」には意志がある。

 間違いない。これが何で、女が何をしたのか。僕は答えのようなものに気付いてはいた。ただ、有り得ない。劣化レプリカに出来る芸当じゃない。

 腕の中の女は目蓋を閉じ、ぴくりとも動かない。意識があるのかも怪しい。ただ、この状況に至って尚、僕を掴んだ手はそのままだった。

(……なんで)

 理解が出来ない。今すぐ理由を問いたい。何故地核へ飛び込んできたのか。バカじゃないのかと詰りたい。だが水色の瞳は閉じられ、答えをくれる筈の声は聞こえない。

 ───胸の奥に何かが詰まった。重く固いそれを、僕は無視する。風の塊に運ばれるままにアルビオールが近付いた。ハッチが開かれる。暴力的な力の接近に、姿を見せたのは皮肉なことに僕と同じ顔だった。

「アリア!!」

 声を張り上げられる。切実な顔に、そんな顔も出来たのかなんて感想を抱いてしまった。そして同時に、その呼び声に込められた必死な祈りを感じて己を嗤った。

(そうだ。コレは僕のモノじゃない)

 自分は六神将・烈風のシンク。導師イオンのレプリカで、代用品にもなれなかったゴミ屑だ。使い道もなく、望まれることもない。自分の持ち物など何もない空っぽで……この手が伸ばされたのも何かの間違いだ。コレは必要とされた「イオン」のモノで、捨てられる僕のモノではない。

(ハッ……)

 何かを勘違いしそうになっていた。馬鹿馬鹿しい。女の体を離し、アルビオールへ送り出そうとする。風が拐おうとするのが分かる。

 女が離れたなら、空に浮かぶ自分はどうなるのだろうか。分からない。どうでもいい。何かがするりと胸の内から滑り落ちていくようだ。諦めと、小さな満足。掴まれた手が離れようとする。

(アンタが取るべき手は、僕じゃない)

 側にいるべきは僕じゃない。今ならまだ離すことが出来る。僕には要らない。夢でいい。そう思って指の力を抜いた。居るべき場所へ送り出そうとする。それなのに、

「……なんで」

 女の手は離れない。宣言の通りに、繋がれた手は僕を引く。人の話を聞かない頑固な意志が僕の諦めを拒絶する。

 地核に飛び込んだ無茶と、よりにもよって僕に伸ばされた手。他でもなく僕に「シンクで良かった」なんて悪夢のようなことを言った女。

 その体はアルビオールに引き寄せられ、僕の体も導かれる。その意志へ転落する僕に───同じ筈の顔は、泣き出しそうに笑った。










*****










「アリア!?」

 けたたましい声が聞こえて、守護役がこちらへ駆け寄ろうとする。だがその足はぴたりと止まり、瞳が僕を睨んだ。───どうでもいい。

「シンク……!」

 レプリカルークは腰の剣に手を掛け、世話役も獲物へ手を伸ばす。ヴァンの妹とキムラスカの王女も困惑を顔に出しながら武器を構えた。……最初に応じたのは死霊使いだ。

「診せなさい!」

 珍しく慌てた様子で声を上げると、見えていない訳でもないのに僕に構わず女へ寄った。僕の抱える体に触れ、何かを確かめるように眼を細める。次いで眼を瞠った。

「これは……!」

「ジェイド! アリアは大丈夫なんですか!?」

 死霊使いが血相を変える、なんてそうそうあることじゃない。導師の問いに答える時間すら惜しむように指示が飛ぶ。

「ティア、ナタリア! 治癒術を!」

「は、はい!」

「分かりましたわ!」

「ノエル! アルビオールをグランコクマへつけて下さい!」

「了解です!」

 指示を受けた女共はすぐに切り替えたようで、己の成すべきを成そうとする。僕は何も出来ないまま女の体を下ろした。頑固に繋がれた手を無理矢理に剥がせば、痛みすらある。

(馬鹿力)

 心の中で詰って、繋がれていた自身の手をぎゅうと握り込んだ。それにどんな意味があるかなんて知るわけもない。困惑して問う男共の声が耳に入る。

「ど、どうしたんだよ。アリア、やべぇのか!?」

「術式の殆どが消えかかっている。大量の音素が彼女の体に流れ込んでいます。このままでは命の危険さえある───我々の、ですが」

「は……?」

「話は後です。私は彼女のフォンスロットを可能な限り封じます。消耗が激しい分は治癒術で補って下さい」

 ヴァンの妹と王女が頷いた。男共が静かになって、僕もどうすることも出来ずアルビオールの一画に立つ。ここは空の上で、いきなり飛び降りるわけにもいかない。

 ほんの数分前には自ら地核へ身を投げた筈なのに、今更になってそんなことを思うなんて滑稽だ。この手を掴んだ痛みが、まだ僕を縛っている。

「イオン様!」

「大丈夫です、アニス。今のシンクは僕達を傷付けることはしません」

 導師が僕に近付く。何を見てそう思ったのか理解に苦しんだ。ほんの少し前まで命のやり取りをしていた筈だ。お前の手など取れないと叩き落としてもやった。それなのに僕に近付く顔に恐れはなくて、簡単に人を信じようとするお綺麗さに反吐が出そうだ。

「何を根拠にそんな馬鹿げた幻想が抱けるんだか。言った筈だよ。僕はお前とは違う」

「……はい。それでも、貴方は僕らを傷付けないでしょう。貴方を選んだアリアのために」

「──────、」

 知らない。そんなことはないと言いたかった。殺せる筈だ。殺せなくてはならない。計画のためにも邪魔になる存在だ。

 どいつもこいつも隙だらけ。あの死霊使いが僕に無防備に背中を見せているなんて、どう考えてもチャンスだ。その筈、なのに。

(……なんで)

 何度目か。分からない。殺そうと考えるのに体は動かなかった。殺せると口にしたいのに何かが言葉を詰まらせる。

 動けない。僕には目的があって、それ以外は何もない。何も持たない空っぽ。何もない、筈なのに。

「シンク。今は休戦としましょう。アリアが目覚めるまで……僕らが争うことは無意味です」

 無意味なわけがない。あんな女は関係ない。そう思うのに言葉は出ていかない。自分の立場も、役目も、全てが遠く思える。空っぽの筈の手の中で、命を繋いだ痛みが僕を惑わせた。

「……馴れ合う気はない」

「はい。今はそれで構いません」

 向けられた微笑みから眼を逸らす。気持ちが悪い。同情なんて御免だ。向けられる視線に居心地が悪い。

 それでも空の上で行き場などあるわけがなく、僕はそこから女を眺めることしか出来ない。死人のような顔色で、三人もの人間に囲まれて意識はない。自然と拳が握られた。

(───どうでもいい)

 この手の痛みも、温もりも。力強さに転落したことも。何でもない筈だ。僕は何も変わってない。僕には何も作用しない。あの女が死んだって───変わらない筈だ。

 自分が心の中で必死に念じていることにすら僕は気付かず、ただ何かが苦々しくて奥歯を噛んだ。










*****










 グランコクマに着き、女はすぐに王立音素研究所へと運び込まれた。緊急事態として無理矢理に中へ入れ、死霊使いだけがそこへ残る。残った役立たずは宿に向かい、結果を待つことしか出来ない。

(ここは空の上じゃない)

 放って、離れる選択肢だってある筈だ。なのに自分は未だにレプリカルーク達と行動を共にしていて、宿で死霊使いが戻るのを待っている。その理由を考えることはやめた。手の痛みが忘れられない。

「なぁ、シンク。地核で何があったんだ?」

 宿で待つ内にレプリカルークに問われる。奴の眼にあるのは女に対する心配で、僕に対する警戒なんて見えない。それが苛立たしい。頭がスポンジで出来てるんじゃないのか。

「教えてくれ。ジェイドの旦那があんなに慌ててたんだ。余程のことがあったんだろ?」

 答えずにいれば、世話役もそう僕に詰め寄る。聞く限りはヴァンの主君であり、六神将にいたかもしれない男。僕に使い道がなかったら、僕の場所にはこの男が立っていたかもしれない。───どうでもいい。

「勘違いするな。僕はアンタらと仲良しごっこをする気はない」

「あんたねぇ! 私達はアリアを心配してるの!」

「シンク。私達は確かに仲間ではありませんわ。ですがアリアはかけがえのない、私達の仲間なのです。どうか、話して下さいませ」

 使い捨てのレプリカに、親友ごっこの復讐者。イオンのための守護役に、偉ぶる偽物の王女サマ。ああ煩い。なんであの女はこんな環境に居られるんだ。いちいち面倒臭くて堪らない。

「アンタ達に話すことはない」

「それならここから出ていって頂戴。協力が出来ないのなら居るだけで迷惑よ」

 ヴァンの妹の鋭い声に二の句を継げない。「なら出ていく」と言い返せない自分が恨めしかった。地核から引き上げられてから調子が狂いっぱなしだ。これも全部あの女のせいだと思う。舌打ちをして答えてやる。

「……シルフを喚んだんだよ」

「シルフって……第三音素の意識集合体!?」

「有り得ませんわ! 意識集合体は、研究機関が一定の条件下でようやく観測に成功したのです。それを個人が喚び出してしまうだなんて……」

「僕も何がなんだか知らないよ。お仲間だっていうアンタらが知らないならお手上げだ」

 嘲笑ってやれば奴らの眉が寄る。それでいい。仲良しごっこなんて御免だ。その中でふと、導師の顔が目についた。見たくもない僕と同じ顔。だが何かを思案する様子には意味が感じられ、やがて気が付いたように顔が上げられた。

「アリアの預言……」

「え?」

「覚えていませんか。ダアトで彼女が詠んだND2002の預言を」

 突然の話題だったが、それなら僕も覚えのある内容だった。だが何の関係があるのか分からない。仕方がなくお仲間共の話に耳を傾けた。

「星の記憶を綴る者とか、盟約の血脈がどうとか……だっけ? それが今回の件と、何の関係があるんだよ」

「『其は盟約の血脈に生まれし希望の祈りなり』……盟約とは、ユリアとローレライの契約を指す言葉ではないでしょうか」

 導師の思い付きに各々が表情を変える。僕も同様に、導師の言いたいことを理解した。つまり、

「アリアも、ユリアの縁者……?」

 ヴァンの妹が信じられないと囁く。導師が頷いた。

「恐らくは。ユリアに血を分けた存在がいたとは聞いていませんが、いたのでしょう。その子孫がアリアなんです」

 突拍子もない話だが、そう解釈出来ないこともない。よく見ればあの女とユリアの末裔は、髪色と瞳の色が似て見える。それが遺伝によるものだとすれば。

「始祖ユリアはローレライと契約が出来た……アリアがシルフを喚ぶことが出来たのは、それと何か関係していると仰るのですか?」

「分かりません。ですが、そう考えれば彼女がフォンスロットを介さず、音素そのものを扱えることにも納得がいきます。意識集合体に呼び掛けることが可能なら、その一部である音素に呼び掛けることなど、些細でしょう」

 沈黙が降りる。それぞれに考えるような間があって、バカなりに頭を働かせようとしているのが伝わる。そんなにあの頭のおかしい女が大事なのか。分からない。僕には関係ない。

(……苛々する)

 待つ時間が長く感じる。何故自分はここで大人しく待っているのか。落ち着かない。さっさとあの扉が開けばいいと、部屋の扉を睨み付ける。僕をこの場所に縫い止める何かに早く過ぎ去って欲しい。僕には関係がないと吐き捨てたい。

 ───その苛立ちが通じたわけではないだろうが、唐突に扉は開かれた。現れたのは、待ちたくもなかった死霊使いの姿だ。

「ジェイド! アリアはどうなった!?」

「一先ずは落ち着きました。ですが術式と彼女の体内音素が大変不安定で、動かすことは出来ません」

「そんな……じゃあ、アリアはあそこから動けないの?」

 死霊使いの説明に守護役が眉を下げて、僕は顔を顰める。その説明に違和感があった。あの女に掛けられている封印術もどきの話はディストから聞いている。音素の取り込みを阻害する働きをしていた筈だ。それがあの女の状態とどう関わると言うのか。導師が問う。

「アリアの意識は戻ったのですか?」

「……いえ。眠らせているので眼を覚ますこともないでしょう」

「眠らせてって……おい旦那、そりゃ一体どういうことだ?」

「………………」

 死霊使いは答えない。眉を寄せて眼を閉じ、答えられないと意思表示をする。それに怪訝な顔が並んだ。───直後、爆発音が響いて空気を震わせる。

「今のは!?」

 レプリカルークの声を耳に素早く窓から外を見れば、派手に黒い煙を上げる方角が分かる。あの女のいる研究施設の位置だ。

「チッ!」

 窓を乱暴に開け放って飛び降りる。何が自分にそうさせたのかは分からない。ただ、あの女に何かがあっては困る気がした。頭の中で何かの警鐘が鳴る。それが行くべきではないと鳴らされたモノなのか、早く行けと鳴らされたモノなのかも分からない。僕の足は自然と地を蹴った。

「おい! シンク!!」

 お仲間共が慌てたように追い掛けてくるが構わない。速度を合わせる気もなく、寧ろ上げて向かう。警鐘を鳴らして、警鐘を無視して、僕は研究所の前へ辿り着いた。巨大な建物の側面に派手な風穴が開き、そこから砂埃が上げられている。

「派手にやってくれましたね」

「アリアは……!」

 後ろの声は聞き流す。さっさと崩壊した壁から飛び込めば、研究者らしき人間共が負傷して転がっている。見る限り死亡者はない。

「何があった?」

「わ、分からない……壁が急に崩れて……」

「男が、奥に!」

 問い詰めた自分の声が低く思えて気持ちが悪い。何を焦ることがある。関係がない筈だ。どうなろうが知ったことじゃない。だが男と聞いて、一人の人物が脳裏に浮かぶ。自分が奥歯を噛んだのが分かってしまった。

「まさか……兄さん!?」

「ヴァン謡将ならこれだけ派手に壊せてもおかしくはないが……」

「───お喋りしてる暇があるなんて余裕だね」

 どうして責めるような響きが自分の声にあるのか分からない。無視をして僕は奥へ足を進めた。向かう先にそれらしい男の姿は見えず、あの女の姿もない。

「こっちです」

 舌打ちをする。腹立たしいが死霊使いの案内が必要だ。方向転換をし、更に進む。やがて辿り着いた部屋の扉は無惨にも破壊され、室内には研究者らしくない背中がある。その男は何かの機械を外そうとしているところで、死霊使いの鋭い警告が僕を動かした。

「いけない! それを外すな!」

 躊躇いもなく地を蹴り男に殴りかかる。後ろ姿はヴァンではない。ヴァンだったとしても、僕は行動しただろうか。殺すつもりで振るった拳は、しかし大きな掌に受け止められた。

「……っ」

 強い力で握りこまれ、骨が軋む。男が振り返り僕を見下ろした。

 雑に一つにまとめられたボサボサの黒髪に、剣呑とした鋭い紅眼。頭の上に斜めに乗せられた黒い帽子が顔の半分を隠し、その印象を殆ど引き受けて見える。鼻の下の無精髭は男の怠慢をよく表し、薄汚れた衣服に清潔感はない。背はかなり高く体格もいい。年齢は四十代程か。

「なんだ、お前は!」

 レプリカルークが問う。後ろで奴らが獲物を構えるのが分かる。男はその様子を面倒臭そうに眺めると、やがて空いている方の手で自身の首を撫で、口を開いた。

「ガキ共が揃いも揃って、なんでぇ───うるせぇだろうが、あぁ?」

 低く不愉快そうな声に、僕の拳を握る手に更に力が入る。腕を引くことが叶わないどころか、逆に持ち上げられて投げ飛ばされた。

「くっ……」

 宙で回転し、床に着地する。男は一歩も動いていない。感じる圧も確かなもので、只者ではない。場が膠着する前に死霊使いが問い掛けた。

「彼女をどうするつもりです?」

「決まってんだろ。なんとかしてやるんだよ」

 男は気軽に答えを返して、僕は自分の耳を疑った。危険人物だと思った相手が「あの女を助けに来た」なんて訳が分からない。予想外の言葉に他から動揺が示される。

「なんとかって……助けてくれるのか!?」

「さてな。コイツにとってどっちが助けかなんて、オレには分かりゃしねぇよ」

「そりゃまた、どういう……」

「こんな機械に繋いでんだ。分かってんだろ? 死霊使いさんよォ」

「………………」

 問い掛けに死霊使いは答えない。それに胸の辺りがざわめいて落ち着かない。知ったことではない筈なのに、答えを知りたいと声がする。知るべきことを見過ごしているような、そんな錯覚に陥る。

「その赤い瞳……彼女に術を幾重にも施したのは、貴方ですね?」

「おー。よく出来ました、坊。流石は譜眼とフォミクリーを生み出しただけはある。いい脳みそしてんじゃねーか」

「あまり嬉しくはない褒め言葉ですね」

 男と死霊使いのやり取りに苛立つ。そんな話が聞きたいわけではない。それをお仲間共が代弁する形となって、余計に苛立ちが増した。

「何の話をしてるんだよ、ジェイド! 分かるように説明してくれ」

「あちらさんは知り合いなのか?」

「いいえ。ただ、皆さんも話なら聞いたことがあると思いますよ」

 涼しい顔で指摘されても分からない。どういうことか、と視線は自然と男へ注がれ答えが求められる。それを受けた男は怠そうに呻くと、心の底から仕方がなさそうに自己紹介をした。

「オレは旅の何でも屋───アリアの『お師様』だよ。ちゃんと記憶しとけよォ? バカ共」










*****










「……で、なんでアリアの師匠が、マルクトの施設爆破してんだよ」

 場所は移り、先程までいた宿屋だ。何をするにしても一旦は話がしたいと事が流れ、戻ってきた形だ。苛立たしいが飲み下す。施設の方はマルクト軍が対処に追われているだろう。

 男は部屋の中央で堂々と椅子に腰を下ろし、集まった人間をぐるりと見回した。椅子を前後逆にして座っている様子から、育ちがいいなんてことはなさそうだ。億劫そうに口が開かれる。

「決まってんだろ、急いでたからだよ。誰だあんなトコに壁なんか作りやがったヤツ。邪魔だろーが」

「壁があるのは当たり前だし、急いでても普通扉使うでしょ!?」

「あぁ? そりゃじょーちゃんのフツーだろーが。オレにゃあ邪魔でしかねぇんだよ」

「む、無茶苦茶ですわ……」

 型破りなところが似たらしい。何をどうしたらあんなバカが育つのかと思ったが、この師ならば分からなくもない。……いや、分からない。何をどうしたら地核へ飛び込む発想になるのか。ヴァンの妹が溜め息を吐く。

「話が進まないわ。貴方はアリアのお師匠様で、彼女を助けに来たのよね?」

「まァ、一応はそうなるな」

「この際、壁を壊した件は置いておこうや。アリアをなんとかするって言ったな。方法があるのか?」

「なきゃ言ってねーっての」

「どうすんだよ?」

 バカがバカ面を下げてバカらしく問えば、師匠を名乗ったオッサンはバカを見る目で答えた。態度がデカい。

「決まってんだろ。アイツに掛けてた封印を掛け直すんだよ。他にあんのかァ?」

「あれは彼女の譜術を封じているものですよね? 何故それで彼女を救うことが出来るのでしょうか」

 導師の疑問に、オッサンはようやく表情を変える。驚きのある顔で死霊使いを見た。

「オイオイ、こりゃどーいうこった。コイツらなんも知らねーのか?」

「ええ。本人が望まなかったので」

「カーッ! マジかよ、めんどくせぇ! そっから説明するとか聞いてねぇぜ、オイ」

「いいから教えてくれよ! アリアはどうなってるんだ?」

 オッサンは帽子を押さえて天井を仰ぐと、深々と溜め息を吐いた。早くしろと思う間に重い口が開かれる。

「あー……そこの赤い髪の坊主。それからそっちの緑髪の小僧共。オメーらのお仲間だよ。アリアはレプリカだ」

「え……」

「本物は知らねーよ? オレはコイツがレプリカ研究の施設から逃げ出してきたトコを拾っただけだし、後は大したこともしちゃいねぇ。ちょっくら、フォンスロットに網を張らせてもらったがな」

「どうして、そんなこと……」

「───知ってるか? レプリカの作り方」

 オッサンは急に話を変えるように問いを掛けた。つまらないやり取りは時間の無駄だ。面倒になって僕が答えた。

「生物レプリカは第七音素で作るんだろ。でないと暴走する」

「その通り。ソイツは音機関を用いた作製方法だ。つまりなァ、その前身は譜術で作ってたんだよ。そうだろ? フォミクリーの生みの親さんよォ」

 オッサンの投げ掛けた言葉に、死霊使いは眼鏡に触れて肯定を口にする。

「……ええ。当初のフォミクリーは譜術によるものでした。使われていたのは第一から第六までの音素です。しかし実験は失敗しました。その方法で作り出された生物レプリカは、膨大な力を得る代わりに音素暴走を起こし、倫理観や道徳観が失われ破壊衝動にかられる……化け物だったんです」

「倫理観や、道徳観……」

「……破壊衝動?」

 まさか、と言いたげなお仲間共の様子に僕は構わない。その是非なんてどうでもいい。勝手に話を進めることにした。

「つまり、アンタの弟子はその大昔の譜術で作られたレプリカだって言いたいの?」

「惜しいな、小僧。その改良版だ」

「音機関で同様の効果を再現したんですね?」

 死霊使いが問う。かつて譜術で行った第一から第六までの音素を使用した作製方法を、そっくり音機関にやらせた、ということか。だが死霊使いは首を横に振る。

「その方法は私も試しました。上手くはいかなかった筈です」

「そーだな。でもアンタの頃より技術は進んでる。素体がよかったってのもあるんだろーなァ。アリアに使われてんのは、第一から第七までの音素だ」

「馬鹿な……」

 それがどういうことか、死霊使い以外には正しくは理解できない。ただ、あの女が余程おかしな方法で生み出されたことは伝わった。王女が問う。

「それとアリアに掛けられていた術に、どんな関わりがありますの?」

「アンタらはアレを封印術よろしく譜術を封じてると思ったようだが、そんなん結果だ。アレの本当の役割は、体内の音素量を一定に保ち、バランスを守ることさ」

「体内の音素を一定に保つ……?」

「……第一から第六までの音素を使用したレプリカが暴走する原因は、飛び抜けた能力を得る代わりに体内の音素バランスが著しく偏るせいです。つまり、この男の言う通り音素の量とバランスを常に制御していれば、問題は解決される。……理論上はね」

「実際は違うってことですかぁ?」

「ええ。まずそのための術式が存在しません。仮に作り出すことが出来たとしても、行使するには相応の対価が必要だ。アリアの場合は使われている音素が七種類のため、全属性の音素を術式に使用しなければならない。考えても見てください。七属性の使い手なんて、いると思いますか?」

 場が沈黙する。普通に考えればいる訳もない。目の前のオッサンは、それを譜眼でクリアして見せたのだ。死のリスクを冒して───七属性全てが扱えるようになる保証など無いにも関わらず。

「次に、どんなに外部から操ろうとしても音素の乖離は止められません。音素は同じ属性同士で引き合う。音譜帯に引き寄せられ、一定に保つなんて不可能だ」

「素体がよかったって言ったろォ? ウチのバカ弟子は有り得ねーくれぇ音素に愛されてる。それこそフォンスロットが要らねーくれぇだ。コイツはオレとアリアだったから成り立った例外だよ。レ・イ・ガ・イ」

「………………」

 苦虫を噛み潰した、という顔で死霊使いは眉を強く寄せる。七属性のレプリカであるということが、余程気に障ったらしい。守護役が頭を抱えて唸った。

「えっと……つまりアリアは、第一から第七までの音素を使ったレプリカで……暴走の危険があって……」

「それを防ぐために、あなたが術を施して維持していたということですのね」

「そォ。なのにあのバカ、バカみてーにフォンスロットを酷使しやがって! 折角の術が殆ど解けてるじゃねーか! バカか! ……バカだったわ」

 呆れたようにオッサンは肩を竦めた。あの女がバカということには異論はない。どう考えてもバカだ。死んでもバカだと思う。

「大佐が仰っていた私達の命の危険というのは、こういうことだったんですね」

「今は私が施した術で応急処置をして、薬で意識を奪っています。ですが、保たないでしょう。眼が覚めれば彼女は化け物として活動を再開する筈です」

「そうか……だからあんたが来たんだな?」

 世話役の確認にオッサンが退屈そうに頷いた。

「そォ。あんだけド派手に空飛ばれちゃあ流石に気付くっての。機体の飛び去った方角を調べて追っかけてきてやったっつーワケ。このままじゃバカ弟子が殺されるか、殺し尽くしちまうからな」

 お仲間共が表情を暗くし、俯いて黙り込む。下らない。それが何だと言うのか。アレが危険なレプリカだろうが関係ない。僕はまだあの女に用があるし、話が出来ない状態になられても困る。ここまで話を聞く内に、自分が何故この場所から立ち去らなかったのか見当がつき始めていた。

「話は終わった? なら、さっさと術を戻してよ」

「お。なんだ小僧。アリアが心配か?」

「気持ちの悪いことを言わないでくれる? 僕はあの女に聞きたいことがあるんだ。それを聞き出すまで死なれちゃ困るだけだよ」

「おー。そうか。まァいい。……なァ、話は分かったろ? 時間が惜しいんだよ。好きにさせてくれや」

「……分かりました。どのみち、このままでは彼女は暴走する。貴方に賭けるしかない」

 苦い顔で了承を示す死霊使いに、オッサンは笑う。自信に満ちた獰猛な笑みで、揺らがない答えが示された。その有り得ない程の自信と頑固さは、地核で向けられたものに重なってすら思える。

「カッ! バカにすんなよ、若造。賭けじゃねぇ。絶対になんとかするんだよ、バァカ」










*****










 時間をたっぷりかけてから、オッサンは億劫そうに部屋から出てきた。あの女に術が掛け直され、少しずつ体内の音素バランスが戻っていっているらしい。傷んだフォンスロットも取り込む第七音素で自然治癒するだろうという話だ。そこまで聞ければ十分で、僕はお仲間共から離れる。

(あの女が生きてるなら、いい)

 聞きたいことがあった。どうして地核へ飛び込んできたのか。どうして僕に手を伸ばしたのか。どうして「離さない」なんて口にしたのか。僕の今までから考えればおよそ有り得ない事態で、未だに出来事を飲み下せない。

 目的を思えばヴァンの元へ戻るべきで、それなのに僕はまだグランコクマを離れられないでいる。都合の悪い悪夢を見ているようだ。

(……聞きたくない)

 掴まれた手を見下ろす。強引に繋がれた痛みはとっくに過ぎ去って、何もない。だが何となく、この手を引かれた感触が残っているような気がした。

 それを思いながら、聞きたくないと繰り返す。その答えを聞いてしまえば、僕はとんでもない場所へ放り込まれてしまう気がしていた。

 知りたくない。僕は空っぽで、何もない筈だ。僕に利用価値以外の価値を見出だす眼なんて無くていい。

 ───「ここにいる君だよ」。

(……くそ)

 脳裏を女の声が過る。幾ら追い出そうとしてもその記憶は無くならなかった。あの瞬間に僕を見た眼が、僕に掛けられた声が、僕の脳を焼く。

 望んでない。少し気紛れを起こしただけだ。僕と関係したいなんて気が狂ったことを平然と口にした奴に、退屈凌ぎに構ってやっただけ。

(同情なら突き放してた)

 代用品にすらなれなかったゴミ屑。そうして僕を哀れんだなら、掛けられた言葉も差し伸べられた手も切り捨てられた。だがあの地下牢で女が示したのは怒りだった。

 僕を哀れむ怒りでも、道徳を説く怒りでもない。あの女が怒りを向けた相手は僕自身だ。僕が自分を謗る言葉に女は怒った。正しさでも、誰かのためでも、僕のためでもなく───女自身のために。それが僕には理解できない。

(何なんだよ。本当に頭がおかしいんじゃないのか)

 僕が僕を謗って、何の問題があるのか。レプリカの価値が代用品程度しかないことは、女も否定しなかった。預言を信仰もしていないし、報酬次第で寝返りそうで。でも、星の記憶に対する結論は真逆だ。

 アクゼリュスが崩落しようと、お仲間共が生死不明でもケロっとしていた狂った女。それなのに僕には「どうでもよくない」と宣って、自分の命を賭けてまで僕の死を許さなかった。訳が分からない。

(どうせ何かの間違いだ)

 僕に怒りを示したのも、僕を映す瞳も、掛けられる言葉も。地核に飛び込んで来たのだって戻る方法があったからだ。手が伸ばされたのもあの女の勝手で、僕の知ったことではない。身勝手を押し付けられただけ。

 そう思うのに、この手の感触が離れない。自信に満ちた瞳が忘れられない。離さない、という言葉に胸が疼いてしまう。

(……期待なんてしない)

 必死に否定することが、僕の愚かな選択を証明していた。手を伸ばすべきではなかった。言葉を交わすべきではなかった。どうして今になって現れるのか。

 計画はもう動き出していた。僕が二年間栄養を与え続けた憎しみが揺らがされる。預言が憎い。捨てられるだけの生を与えたから。僕が空っぽだから。

 それなら───手を伸ばされた今の僕は、何だ?

「シンク」

 声が掛かる。悪夢から顔を上げれば、そこにあるのはまた別の悪夢だ。僕が作り物であることを、火口に棄てられたただのゴミ屑であることを、丁寧に教えてくれる存在。

 人形のようだった顔が、感情を伴って見える。馬鹿馬鹿しい。僕もコレもただの道具だ。道具に中身など必要ない。

「……話すことなんてないよ。お前に引き留められてやる理由もない」

「貴方に無くとも、僕にはあります」

 ぴしゃりと返された言葉に閉口する。その意固地な話しっぷりが、どこかの誰かと重なってしまった。その隙をついて同じ顔は勝手に話す。

「シンク。貴方が地核へ落ちた時、僕は生まれて初めて涙を流しました。都合のいい人形でしかないと思っていた僕に……貴方に対する感情があったんです」

 何の話を始めるかと思えば、聞きたくもない自分語りが始まった。僕の死に泣くなんて気持ちが悪い。同情なんて御免だ。僕とこいつは同じじゃないし、同時に使い捨てられるだけのレプリカだ。知る必要なんてない。吐き捨てる。

「仲間意識ってやつ? 気持ち悪い」

「分かりません。ただ、貴方の死が、僕はとても哀しかった……とんでもない思い違いをしていたんです。代わりなんていなかった。僕はイオンの代わりだけど、僕の代わりは誰もいない。貴方の代わりも」

 聞きたくない。それではまるで、あの女と同じだ。僕に感情を動かし、自分自身のために言葉にする。暴力的な意志。

「……どいつもこいつも、うるさいんだよ。なんで僕に構うのさ」

 あの女も、目の前のコイツも。僕に構って何の利がある。偽善者ぶって、哀れんで───そうでないなら意味が分からない。

 導師は笑う。答えは分かりきっていると言うように。

「それは、貴方がシンクだからですよ」

「──────」

 空っぽで、何もない。使い捨ての道具。代用品になりたかったのかと問われて、答えることも出来なかった。そんな僕の……どこに、僕が在るのか。

「アリアは、きっと全部分かっていたんです。分かった上で、僕は僕なのだと教えてくれていた。『導師イオン』ではなく、僕を友人と言ってくれた」

 貴方もそうなのではないですか、と。問われる。認めたくない。僕が七番目と同じだなんて。必要とされ、居場所を与えられ、手を伸ばされ。代用品でも捨てられるゴミでもなく「自分」を与えられるなんて、悪夢だ。

 質の悪い悪夢で……現実だって分かってる。

「……前に、あの女に訊かれたよ。代用品になりたかったかって。僕は答えられなかった」

 気付けば言葉が転がり落ちていた。言葉にするべきではない。そうして言葉を交わせばどうなるか、身を持って知ったばかりの筈だろう。なのに僕は、七番目と話をしてしまう。あの女に手を伸ばされた「同じ」として。

「今は……答えられそうですか?」

 緊張の滲む七番目の声に考えてしまう。代用品ですらないことを呪った。捨てられるだけの生を呪った。でも代わりになりたいかと問われれば、それはやっぱり違ったのだ。僕は、僕が欲しかった。例え一時の幻だとしても。

「───どっかのバカのお陰でね。人の話も聞かないでしつこいんだよ。終いには地核まで飛び込んで来てさぁ」

 お人好しも大概にして欲しい───そう理由を決めつけて、僕は逃れようとする。あの女が僕を追って地核まで来た理由を、手を伸ばした理由を、「お人好し」に押し付けようとする。

 でも七番目はそれを許さない。

「……アリアは、お人好しではありませんよ」

「は? じゃあ何だって言うのさ」

「優しくて甘いだけです。彼女の中には基準がある。取捨選択がされ、優先順位がある。誰彼構わず助けているわけではなく……僕や貴方だから、彼女は手を差し伸べてくれたんです」

「……それをお人好しって言ってんの」

「ふふ。そうですね」

 頑なな僕の否定にすら七番目は笑う。何がそんなに嬉しいのか。僕はついて回られて辟易としているのに、こっちの都合なんてお構い無しだ。その能天気で強引な様があの女と重なってうんざりする。どいつもこいつも頭がおかしい。

「お前、あいつに似てきたんじゃない?」

「貴方も、アリアに似ていますよ」

 気持ちが悪くて舌打ちが出る。あの女が僕に与える影響なんて知りたくもない。ただの気紛れだ。伸ばされた手も、在ると渡される「僕」も。

 だから僕も気紛れだ。期待なんてしないし、幻想を信じたりもしない。試してみたくなっただけ。離さないと伸ばされた手が、どこまで僕を連れて行ってくれるのか。

(預言は憎い。こんな世界、消えればいい)

 生まれる時さえ選べず、死ぬことすら叶わない。命の価値なんてものは分からないし、相変わらずクソッタレだ。でも───手を伸ばされてしまったから。捨てられるだけの生も、空っぽであることも、あの一瞬で奪われてしまった。

(……違う)

 自分から、捨ててしまった。手を伸ばしたのは僕だ。伸ばされた手に伸ばし返さなければ、僕は使い捨ての道具のまま死んでいた。今までの生き方も、望んだ結末も。放り捨てたのは僕自身だ。

 空っぽの僕を捨てて、この手には頑固な意志と温かな感触が残った。なら僕は───今更、六神将には戻れない。ヴァンの道具には戻れない。

「……離さないって言ったのは、アンタだ」

 未だに手に残る感触に、呟きを落とす。この世界に平等も公平も正しさもない。あるのは、いつも誰かの身勝手な都合ばかり。

 どうせ利用されるなら、あの女の身勝手に巻き込まれてみよう。何かの間違いで僕を拾った、あの女の都合を押し付けられてやる。そして僕の都合を押し付けるのだ。いつか、拾わなきゃ良かったと言わせるために。

「さっさと目覚めてよね───アリア」

 責任転嫁の呟きは、夜の空へ霞んで溶けた。
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