Draw a Heart

3.

 宿の近くで食料を買い込んで部屋で食べた。コラソンはキャベツとサーモンのパスタ、ローは焼き魚の弁当だ。ワノ国の料理らしい、筍が入ったご飯が物珍しくて選んだ。美味いと零すとコラソンは良かったなと笑いながら「おれもワノ国は行ったことがねェからな。いつかローと一緒に行ってみてェ」そんなことを言った。
「コラソンはずっとノースブルーにいたのか?」
「まあ基本的にはそうだな。サウスブルーとかも良さそうだよな。ここより暖かそうだし。飯も美味そうだろ?」
「今飯食ったのにもう飯の話かよ」
「飯は大事だろ。飯を食うのは生きることだ」
 食後の一服とばかりにコラソンは煙草に火を着ける。ローに気を遣っているのか、窓辺に寄り、硝子戸を半分ほど開けて紫煙を吐き出す。そうしながら長い指で前髪を弄ぶ。
「結構伸びてきたなァ」
 ローも帽子を脱いでちょいちょいと自分の前髪を引っ張る。今朝、邪魔くさいと思ったのが思い出された。ローは部屋の隅に置いてあった荷物を漁る。確か鋏は持っていたはずだ。
「お前、何してんの」
「前髪が邪魔だから切る」
 目的のものを取り出し、前髪を引っ張って刃を当てる。と、横から腕を掴まれた。
「おい、危ねェだろ」
「待て待て! 自分じゃ上手く切れねェだろ? おれが切ってやるよ」
「嫌だ。お前、下手そうだから。ドジって失敗される」
「はっきり言うなよ。コラさん傷付くぞ。――まあ、任せておけって。悪いようにはしねェから」
 ほら貸しなと手を出されて渋々鋏を渡す。コラソンは煙草を灰皿で揉み消すとタオルを鞄から取り出してローの首に巻いた。それから手際よく椅子の下に読み終えた今日の新聞を敷くと、ローを椅子に座らせて黒髪に手櫛を入れる。
「んー、お客さん、今日はどうします?」
 コラソンは美容師になりきっているのか、唄うように告げる。楽しそうだ。
「そういうの要らないから」
「何だよ、ノリ悪ィな。――じゃあ、切るから動くなよ。目ェ瞑ってろ」
 言われて大人しく目を閉じた。髪に指先が触れて軽く引っ張られる。しょりっと微かな音がして髪を切られたの知った。髪がぱらぱらと落ちる。毛先を切る鋏の音はリズミカルだ。案外こういうのは器用な男なのかもしれない――そう思ったら「痛ェ!」悲鳴が上がった。どうしたんだよ。薄く目を開ける。
「指切っちまった」
 言わんこっちゃない。
「ドジ」
「仕方ねェだろ。ドジは生まれつきなんだ」
「開き直るな。――もう良いよ」
「いや、もうちょっと」
 コラソンは鋏を動かす。ぱらりと髪が一房落ちた。まあこんなもんだろという声がして伏せていた瞼を上げる。視界は先程よりすっきりしていた。椅子から降りて洗面台に駆け込み、備え付けられている鏡を見た。おかしな切り方はされていなかった。そのことに一先ず安堵する。
「な、格好良くなっただろ?」
 得意げに言われたのが何となく癪で、ローはテーブルの上に置かれた鋏を持つと「お前のも切ってやる」ニヤリと嗤った。てっきり嫌がるかと思えばコラソンはぱっと目を輝かせて「じゃあおれのも頼むよ」椅子に座る。こうなったら後に引けない。首元のタオルを取ってコラソンに手渡す。もう一脚の椅子をコラソンの前へ持っていってよじ上った。被っていたコイフを取る。
「動くなよ。目を閉じろ」
「おう、頼むぜ」
 目の前の金髪を一房掴む。自分の髪とは違ってふわふわとして柔らかい。急に緊張が上ってきて鋏を持つ手が震えた。ローはふうと息を吐くと鋏を握り直す。これは蛙の解剖と同じだ。ゆっくり慎重に。髪に鋏を入れる。しょきっと音がして金糸が落ちた。ここを切って、あっちも切って。こちらももう少し。バランスを考えてこっちも。もう少し短い方が良いだろうか。しょきしょきと髪を切る。ぱらりと髪が落ちて、しまったと思った。だがもう遅い。切った髪は戻らない。
「ロー?」
「……終わった」
 力なく言うと「ありがとうな!」全力で微笑まれた。それがあまりにも、あんまりだったので。ローは俯いて肩を震わせる。
「どうした?」
「何でもねェよ」
 鋏をテーブルの上に置く。なるべくコラソンの顔を見ないようにして。
「そうか?」
 コラソンは不思議そうにローを見るとタオルを外して洗面所に行く。すぐさま素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「ロー! これ……!」
 ざっくりと切られた前髪。あまりにも短く、不揃いに切られた髪は笑ってしまうほどにおかしかった。ローは耐え切れず噴き出した。なんという間抜け面。
「いくらなんでも、これは切りすぎだろ……」
「仕方ねェだろ。おれだって初めて人の髪の毛切ったんだ。お前でけェから切りにくいんだよ」
「えぇ、そういう問題かよ。ううん、コイフ被ればちっとはましになるか……?」
 コラソンは椅子の上に置かれたコイフを取り上げて頭の上に乗せる。多少ましに見えなくもないが。
「変だな」
「お前がやったんだろ!――まあ良いや。どうせそのうち伸びるし」
 この男の切り替えの早さは何なんだろう――ローはたまについていけなくなる。唖然としているローを他所にコラソンは長身を屈めててきぱきと後片付けをしている。
「……怒ってねェのかよ」
「ん? いや、別に。これくらいのことで怒らねェよ。ローは一生懸命やってくれたんだし」
 何でもないことのように言われて居心地が悪くなる。普通だったら、もっと、こう。椅子の傍にぼんやり突っ立っていると、じっと赤い目が見詰めてくる。
「何、お前。もしかして落ち込んでんの?」
「そんなんじゃ」
 ねェよ、と言い切る前に大きな手が伸びてきて、わしゃわしゃと頭を撫でられた。そしてぎゅっと抱き締められる。
「わっ! 離せ!」
「お前、可愛いなァ」
「おれは可愛くなんか」
「いーや、可愛いよ。髪のことは気にすんな。ありがとうな、ロー」
 何がそんなに嬉しいのかコラソンは朗らかに笑う。その笑顔に心臓がまたおかしな音を立てた。何だ、これ。
「いい加減、離せ! バカコラソン!」
 足を乱暴に振り上げて蹴りを入れる。
「痛ァ!」
 コラソンはバランスを欠いて尻餅をついた。窮屈な腕から解放されてせせら嗤う。
「ふん、ざまァみろ」
 ローは帽子を目深に被ると部屋のドアノブに手をかけた。
「ロー! どこに行くんだ!」
「どこだって良いだろ」
 じゃあなと捨て台詞を残してローは部屋を出た。

 宿を飛び出して街道を走る。あまり人目がないところを目指していると、先程訪れた教会に辿り着いた。はあはあと息を切らして教会の扉を押し開ける。中は相変わらず無人だった。ふらふらと身廊を歩きながら、最後列の長椅子にちょこんと腰掛ける。
 コラソンと一緒にいるのが気まずくて咄嗟に出てきてしまった。あのまま二人きりでいてはいけない気がしたので。だと言うのに意識は彼に引っ張られてしまう。
 ――お前、可愛いなァ。
 抱き締められた感触を思い出してカァと耳が熱くなる。――何だこれ。ローは困惑してしまう。これまでもコラソンに抱き締められたり、寒さを凌ぐためだといって寝床を共にしたこともあった。それなのに。今になって腕の温かさや、彼の声を思い出すと心臓がどきどきする。それに今日見た、とても悲しそうな顔も。
 それこそ最初、コラソンは病院を嫌がる自分を連れまわす酷いやつだと思った。おれに構うなと刺々しい気持ちでいた。それがどうだろう。一緒にいるうちに段々と解かってきた。解かってしまった。本当は解りたくなかったのに。子供嫌いのくせに彼は優しいのだ。見当違いで不器用なところもあるけれども、コラソンはいつだってローに対して優しくあろうとした。食べ物を分ける時も、必ずローに大きい方を寄越した。慣れない野宿で眠れない時は彼の能力で防音壁を張ってくれた。少しでも具合が悪そうにしていると過剰に心配をして騒ぐ。歩き疲れれば事もなげに背負ってくれる。病院で医者達からローが酷い扱いを受ければ「てめェら全員ブッ殺してやろうか!!」物騒な台詞を叫んで容赦なく暴れて。辛くて泣けば大きな手で慰めてくれる。ローが不機嫌になって黙りこくっているとコラソンは明るく振舞って笑いかけて。どうせもう死ぬと言えば本気になって叱る。ガキ扱いするなと理不尽に怒れば「だってお前ガキだろ」と正当に子供扱いをするのだ。――こんなの。こんなのって。
 コラソンとのあれこれを思い出して心臓がばくばくとうるさく騒ぐ。心臓がどうにかなってまるで壊れたみたいだ。
 ローはぎゅうと服の上から胸を抑えた。
「……コラソンのくせに」
 呟いた言葉の先が見つからなくて、ローは大きな溜息を吐いた。


 日没前にローは宿に戻った。コラソンはベッドに腰掛けて夕刊を広げていた。ついでに適当に夕食を買ったのだと帰ってきたローに言って、包みを出した。コラソンが握るよりずっと小さいおにぎりと、ローストした豚肉。それらと一緒に宿の主人にお湯を貰って作った簡易スープで食事にした。あまり食欲はなかったが、ローは何とか完食した。それから数日振りに風呂を使った。野宿の時は沸かしたお湯に潜らせたタオルで躰を拭く程度しかできないので、その分風呂を堪能した。入れ違いにコラソンが風呂に入り、彼は風呂場で洗濯もしていたのか、随分時間がかかった。荷物の中からロープを取り出して室内に渡すと二人で洗濯物を干した。それから仲良く洗面所に並んで歯を磨いた。コラソンの顔を見る度に笑い出しそうになるのをローは堪えた。あんまり笑っては相手に失礼だと思ったので。何より自分のせいなのだし。眠気を感じて早々にベッドへ入った。ローは窓際、コラソンが出入り口に近い方を選ぶ。
「ロー、おやすみ」
「おやすみ、コラソン」
 コラソンも疲れていたのか、すぐ寝入った様子だった。ベッドで眠るのも久し振りだ。ふかふかと温かい寝床はあっという間にローを夢の中へと攫っていった。

 ふと物音にローは目を醒ました。まだ室内は暗い。
「……兄上……父上……」
 苦しげな声が聞こえて身を起こす。
「コラソン……?」
 隣のベッドを見る。コラソンの白く、メイクを取った顔が辛そうに歪んでいる。
「おい、コラソン」
 ローはベッドから降り、コラソンの傍に寄った。揺り起こそうとしてその手が止まる。
「……兄上……やめて……」
 小さな呟きと共に、閉じられた目からつぅと涙が落ちたので。
 ――コラソンが泣いている。
 ローは信じられないものを見たというように目を見開いた。きゅうっと心臓が痛くなる。彼はどんな夢を見て泣いているのだろう。兄上、と言っていたから、ドフラミンゴのことだろうか。思い返してみれば、ローはコラソンのことを良く知らない。どこで生まれたのか、どんな家庭に育ったのか、誕生日も、年齢すらも。
「……コラソン」
 考えるより先に躰が動いていた。コラソンのベッドに潜り込む。無造作に投げ出された大きな手を握った。
「コラソン、大丈夫だぞ。おれがいる」
 かつて怖い夢を見たと怯えていた妹にしてやったように。いつもコラソンが泣いているローにしてくれたように。そっと寄り添う。と、僅かに手を握り返された。ちらとコラソンの顔を見る。眉間に刻まれた皺は消え、安らかな寝顔に戻っていた。ローはほっと胸を撫で下ろして、そのまま目を閉じた。
 それから違和感を覚えて目を醒ましたのは三時間後だった。夜が明けたばかりの早朝。
「……何だこれ」
 下着が濡れている。コラソンを起こさないようにベッドから抜け出して、トイレに駆け込む。下着を引き下ろして、一瞬、思考が止まった。――白い汚れ。それが意味することくらい、子供のローにだって理解できた。なんたって自分は医者の息子だし、ドフラミンゴのところで開いた医学書にもちらとそんな記述があるのは見たことがあった。
 とにかく汚れた下着をこっそり始末しないと。コラソンに知られたらと思うと恥ずかしさで卒倒してしまう。足音を立てないように部屋に戻り、新しい下着を取り出して着替え、汚れたものを風呂場で洗った。
 ――何だってこんな時に。
 苛々と石鹸を泡立てながら水につけて擦り洗いをする。手を動かしながら、下着を部屋に干したら結局ばれるかもしれないと絶望的な気分になってくる。ばれるのは困る。とても。非常に。どうしよう。濡れたまま鞄に突っ込むわけにもいかない。タオルの間に挟んで、鞄に奥まで仕舞ってしまえば。よし、これでいこう。
「ロー? お前そこで何やって……」
「うわあ!」
 驚いて思い切り叫んでしまった。後ろを振り返りたくない。どうしてこんな時に限って早く起きるんだ。バカコラソン。冗談じゃない。どうやって誤魔化せば良いんだ。どうしよう。何て言えば良い。何て。どんな言い訳を。ぐるぐると混乱した頭で考えていると、ひょいと後ろから手元を覗かれた。一瞬で血の気が引く。それなのにカッと顔が熱くなる。
「……これは……」
 絞り出した声は引き攣っていた。もういっそのこと泣きたい。コラソンは寝乱れた頭をばりばりと掻きながら、あーとかうーとか唸っている。事態を正しく理解したらしい。それから彼はわざとらしく咳払いをして穏やかに告げる。酷く真面目な声だった。
「その、なんだ。お前としては恥ずかしいかもしれないけど。でもおれは安心したよ」
「……何が」
「だって、それってお前がきちんと大人へと成長していて、躰が生きたがっている証拠だから」
「そんなの……」
「だからお前の病気は治るよ。――何か困ったことがあったら、ちゃんと相談しろよな」
 ぽんとローの頭を撫でると、朝飯買ってくると言い残してコラソンは立ち去った。
「……畜生」
 思い切り下着を絞って水気を切る。恥ずかしい。居た堪れない。そして照れくさいような気持ち。コラソンからあんな言葉をかけられるとは思ってもみなかったので。面白おかしく揶揄われるだろうとすら予想していたのに。実際は全然違った。彼はきちんと大人として対応してくれた。それがあまりにも意外で。むずがゆい。落ち着かない。
 ローは大きく息を吐いて白い痣に覆われた手を見た。
 こんな躰になっても自分は、この躰は、生きようとしているのか。
 それがとても不思議に思えた。
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