Draw a Heart

2.

 風に乗って熱風が肌を撫ぜた。物が焼ける嫌な匂いが躰を包む。塞がれた視界でも解る。
すぐそこまで火の手が迫っているのを。耳を劈くのは怨嗟と憎悪の声。
 ――ハンマーで全身の骨を折ろう!!
 ――千本の矢を刺そう!!
 ――殺すな……!! ずっと生かして苦しめろ!!!
 容赦なく投げつけられる激しい悪罵と強い殺意に怯えて泣き喚く。
 やめて! みんなやめて! 痛いよ、苦しいよ……! 兄上! 父上! お願い、助けて……ッ!
「……っ!」
 コラソンは大きく目を見開いて勢いよく身を起こした。
「……夢……」
 荒く息を吐いて片手で顔を覆った。どくどくと強く心臓が脈打っている。じっとりと全身に嫌な汗をかいていた。クッソ――小さく悪態をついて、がしかしと蓬髪を掻き毟った。それから隣を見る。ローは小さな寝息を立てて眠っていた。はだけた薄手の毛布を掛け直してやる。あどけない寝顔にほっと悪夢に強張っていた躰が緩んでいく。手を伸ばしてそっと丸みのある頬を撫でた。大分白い痣が広がってきている。それが痛ましくてコラソンは眉根を寄せた。
 ローの病気を治すといって小さな救命船でファミリーを飛び出してから五カ月が経った。大きな病院に目星をつけて行くも、どこもまともに取り合ってくれない。医師達は感染すると騒いではローをホワイトモンスターと罵った。その度にローは泣いて、コラソンは医者達を殴り倒して病院を爆破した。決して褒められた行為ではないが、そうすることがコラソンの揺るぎない正義だった。ローを傷付ける者は決して赦さない。誰であっても容赦しない。自分が彼を守ってやらなければ。だってこんなにも、自分は、ローのことを。
 コラソンは寝床を抜け出し、ランプに火を灯すと鞄の中から地図を取り出すと明日の行動を打算する。今いる山を下りたら町に入る。ここにも大きな病院があるから、そこにローを連れて行く。また散々嫌だと喚くかもしれないが。大粒の涙を零して泣くローの姿を思い出すと胸が痛むが、なりふり構っていられない。ローが口にしたタイムリミットまで時間がないのだ。次こそは、きっと大丈夫。良い医者にあたる――コラソンはそう信じて病院につけた印を見詰めた。

「ロー、起きろ。朝だぞ」
「ん……父様……?」
 ぼんやりと目を開けると真っ赤な口が見えた。にんまりと笑ってこちらを見ているコラソンのふざけた顔にローの意識が一気に覚醒する。今、自分は何て言った。思い出して血の気が引く。だのに、耳が燃えるように熱い。非常に居た堪れない。
「い、今のは違う!」
「ローに父様って言われるのは、悪くねェな。なァ、もう一回言ってくれよ」
「誰が言うか! バカコラソン!」
 ローはぎゃんと吠えてにやけているコラソンを蹴飛ばした。
「痛ェ!」
 大袈裟に痛がってみせるコラソンをローは心底うざったいと思いつつ、良い気味だと嗤った。間抜け面に拍車がかかってらァ。
「あー、悪かったよ。ロー、機嫌直せって。飯、できてるぞ。水汲んできてあるからこれで顔を拭け」
 コラソンはそう言ってローにタオルを手渡すと自分が使っていた寝床を片付け始める。手慣れた動作を眺めていると「ロー? どうした? もしかして、どっか具合悪いのか?」気遣わしげな視線を向けられる。別に何でもねェよ――ぶっきらぼうに答えてローは寝床から抜け出した。それから言われた通り、容器に汲んであった水にタオルを潜らせて顔を拭く。幾分かさっぱりした気持ちになった。降り注ぐ朝陽が眩しくてローは金色の瞳を眇めた。そうしながら前髪が邪魔だなと伸びた黒髪を引っ張る。
 コラソンとの病院巡りの旅は野宿の割合が多い。大抵、新しく入った町で宿を取り、病院で騒ぎを起こして追われるように町を出て、次の町に辿り着くまでは野宿を強いられる。初めは慣れなかった野宿も、今では大分慣れたように思う。色々と不便は多いが、こうして町から離れ、人の目から解放されることにローは安堵していた。
 ローは人目が怖かった。服や帽子を目深に被って隠しているが、日に日に広がっていく白い痣はどうしたって隠しきれない。町中で自分が珀鉛病だと知られてしまったら。白い町の生き残り、ホワイトモンスター――そうやって後ろ指を指され、恐れられ、忌み嫌われて、迫害される。もうどこにも居場所はないのだと思い知らされる。それが怖かった。
 ――前は違ったのに。
 つい数ヶ月前までは怖いものなんてなかった。自分を取り巻く全てを、みんなぶっ壊してやるとしか思っていなかった。
 ローは白い痣の広がった己の掌を見詰めてぎゅっと握り込む。
 ――どれもこれも、全てコラソンのせいだ。
 嫌だと言っているのに病院を連れまわすから。
 大体、意味が解らない。子供嫌いなはずのコラソンが自分を攫うようにしてファミリーを飛び出し、あちらこちらの病院を駆けずり回っている。挙句の果てに医者に暴力を振るっては病院を爆破する。治らない病気だというのに、彼は断固して受け入れない。必ず病気は治るとバカみたいに信じて疑わないのだ。何もかも無意味なのに。彼にとって何の利益もないのに。なぜこんなバカみたいなことをするのだろう。コラソンは意味が解らない。本当に。喋れないふりをしたり、能力者であることを黙っていたり、それにあの変なメイクも。
「おーい、ロー。早く飯食おうぜ」
 背後から呼びかけられて現実に引き戻されたローはとぼとぼとコラソンの傍に歩み寄った。自分の寝床はすっかり片付けられ、荷物もまとめられている。
「ほら、ローの分」
 熱いから気をつけろよ――じゃがいものスープが入った器を手渡された。皿の上には巨大なおにぎりが三つも並んでいる。通常のそれより三倍も四倍もあろうかと思われるサイズである。
「おれ、こんなに食えねェよ」
「何言ってんだ、お前は育ち盛りなんだから遠慮しないでしっかり食え」
「遠慮なんざしてねェ。お前と胃袋のデカさを一緒にするな。梅干しは入ってねェだろうな?」
「お前のは全部魚だ」
「なら良い。――いただきます」
 手を合わせて、ずっしりとした重みのあるおにぎりを齧る。少し米が硬い。だが文句は言わなかった。食事の用意はいつもコラソンがしてくれるので。それが作ってくれた者に対する最低限の礼儀だとローは弁えていた。もそもそとおにぎりを咀嚼しながら向かいに座るコラソンを見遣る。彼は大きな口でおにぎりにかぶりつきながら膝の上に広げた地図に目を落としている。……意外と睫毛が長いな、なんて。
「何だ?」
 ローの視線に気が付いたコラソンが不思議そうに首を傾げる。その刹那、赤い瞳とかち合って、ふいと目を逸らした。何かいけないものを見てしまったような気分に襲われて、ローはそれを拭うかのようにかねてからの疑問を口にした。
「……前から不思議に思ってたけど。お前、どうしてそんな変なメイクしてるんだ?」
「ああ、これ? おれが“コラソン”だから」
「何だよ、それ」
 思っていた答えとは違う言葉が返ってきて眉間に皺を寄せる。
「いかしてるだろ?」
 ニカッと笑うコラソンに「全然似合ってねーよ」吐き捨てて、おにぎりを口にする。やたら大きいものだから、なかなか具材まで辿り着かない。
「ロー、喜べ。今日は宿に泊まるぞ。良さそうな病院も見つけた」
 コラソンは広げた地図をローに見せ、ここから歩いて数時間で町に着くだろうと嬉しそうに笑う。が、しかし彼とは対照的にローの表情は曇っていく。俄かに胸の中が鉛を吞んだように重たくなる。
「病院には行かない」
「駄目だ。引き摺ってでも連れて行く」
「嫌だ! どうせまた感染るとかって大騒ぎされるんだ! おれの病気は治らない! コラソンだって知ってるだろ! おれはもうすぐ死ぬんだ!」
 叫ぶように言うと強く肩を掴まれた。眦を吊り上げてコラソンが迫る。
「バカ野郎! そんなこと言うんじゃねェ! お前の病気は絶対に治る! 諦めるな!」
 怖いくらいに真剣な顔で言われてローは続ける言葉を見失い、俯いて小さく頷くしかなかった。と、ぽんと優しく頭を撫でられる。ちらと目線を上げるとコラソンが淡く微笑んでいた。何だか気まずくて、顔を伏せたままのろのろとおにぎりを食べた。


 コラソンの読み通り、数時間歩いて町に到着した。ローは広い背中に背負われたまま、辺りを見回す。白亜の綺麗な町並みだった。街路樹があり、花が咲き、人々が楽しそうに道を行き交う――ローは不意に失われた故郷を思い出した。フレバンスもこんなふうに美しかった。この町も豊かなのだろう。商店が街路の両脇にところ狭しと軒を連ね、買い物客や通りを行く人々で活気に溢れている。一際目を惹いたのは間近に聳える時計台だった。丁度時計の針が十二時を指して、軽快なメロディが流れ出す。
「ロー、見ろよ。すげーぞ!」
 はしゃいだように声を上げるコラソンが指差す。言われなくても見てるよ。
 時計の文字盤が開いて、中から人形達が現れる。小さなそれらはメロディに合わせてくるくると回ったり、手を繋いで踊った。少女と少年が向き合って口を合わせる。山羊が跳ねる。そしてまた人形達はくるくると回転すると、こちらを向いてお辞儀した。やがてぞろぞろと時計の中に人形達が戻っていく。文字盤が元の位置に戻り、メロディが途切れて、時計の針が動いた。一分間のショーに見入っていたローは「良いもんが見られたなァ」呑気なコラソンの声に現実に引き戻された。
「別に、珍しいもんでもねェだろ」
 素っ気なく応じるとコラソンは「そう言うなよ」眉尻を下げる。
 ――あんなものを見て喜ぶのはガキだけだ。
 常々思うのだが、コラソンは大人のくせして子供っぽいところがある。大体、こいつ幾つなんだ。ドフラミンゴの実弟というが、全然似ていない。ドフラミンゴはもっと大人然としているし、ファミリーのボスに相応しい貫禄と落ち着きがあった。一方、コラソンは挙動が騒がしい。喋らなかった頃からそうだ。ドジって何もないところですっ転んだり、紅茶を噴き出しり、煙草に火を着けて一緒に肩を燃やしたり、食事の仕方だって。
「……どうしようもねェな」
「何が?」
 きょとんとした顔でコラソンが振り返る。
「何でもねェよ」
 赤いコイフの端を引っ張った。ぐぎっと音がしそうなほどコラソンの首が曲がる。
「うおっ!? お前いきなり何すんだ」
「今日は宿に泊まるんだろ。探さなくて良いのかよ」
「ああ、そうだな。大体、目星は付けてあるけど。昼飯はどこかで食うか? あの辺に美味そうな店がありそうだ」
「いい。買って宿で食う」
「了解」
 コラソンはローを背負い直して歩き出す。好い天気だなァ――のんびり言ってコラソンは空を仰ぐ。つられてローも目深に被った帽子の下から見上げた。雲一つない快晴である。陽射しが暖かく、柔らかい。背が高いコラソンに背負われているので、その分空が近くなったように思う。手を伸ばせば澄んだ青に触れられそうだ。気分が良いのか、コラソンが鼻歌を歌っている。どこか調子外れの鼻歌を。聞いたことのない旋律だ。
「コラソン、お前、音痴だな」
 呆れたような、哀れむような調子で言う。
「酷ェ! コラさんだって本気出せばちゃんと歌えるぞ。歌ってやろうか?」
「要らねえよ。――コラソン、あそこ」
 ローはふと目に留まった建物を指差した。何だとコラソンは歩みを緩めてローが指差す方向を見遣る。青空を突き刺す白い尖塔に十字架が見えた。
「教会?」
「あそこに行きたい」
「別に構わねェけど……」
 コラソンは訝しく思いながら教会のある方向へ向かった。
 教会まではそう遠くなかった。教会の敷地に入るとローはコラソンの背から降りて、白い建物を見上げた。薔薇窓が日光を受けて煌めいている。ローは少しの間、ゴシック様式の教会の外観を眺めた後、扉を押して中に入った。勝手に入って良いのかよ――慌てたようなコラソンの声が追いかけてくる。
「別に大丈夫だろ」
 ローはにべもなく告げてゆっくりと歩く。教会には誰もいなかった。整然と並んだ会衆席の間を抜けて祭壇に近付く。色鮮やかなステンドグラスを背景に、中央に安置されたキリスト像を見上げる。磔刑に処され、この世の罪を贖った男は鈍くその躰を輝かせながら沈黙していた。ローは最前列の席に腰を下ろした。その隣に遠慮がちにコラソンが腰掛ける。
「――あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない」
 ローはぽつりと呟く。自然と口を突いて出た言葉。コラソンは僅かに赤い瞳を見開いてローを見た。
「聖書の言葉だ。おれ、昔、教会に通っていたんだ。ラミ……妹も……、町の子供達も皆教会に通ってた。毎週日曜日にミサがあって、出席すると子供達はお菓子が貰えた。おれは真面目に神父の言うことは聞いてなかったけどな。神のことも別に信じてなかった。でも、シスターも神父も、一緒に通ってた友達も皆、優しかった」
 言いながらどうしてこんなことを話しているのかと思う。きっとこの町並みがフレバンスに似ているからだ。ふらふらと教会にやって来たことだって。そこはかとない郷愁に駆られているのだ、多分。
 ちらりと隣に座る大男を一瞥する。コラソンは静かな表情でキリスト像を眺めていた。この男はただの一度でも神に祈ったことがあるのだろうか――ふとそんな考えが浮かぶ。ローは前を見たまま口を開く。
「なァ、コラソン」
「何だ」
「もし――もし、万が一、おれの病気が治らなくて……、死んだら、どうする?」
 時々思うのだ。このまま病気が進行して本当に自分が死んでしまったら、この男は一体どうするのだろうと。何食わぬ顔でファミリーに戻って、それで。今度は兄の暴走を止めるために奮闘するのだろうか。――自分のことを忘れて。そう思って、ぎくりとする。間違って飴玉を呑み込んでしまったように。
 するとこつんと帽子の上から小突かれた。座っても尚背が高いコラソンを見上げる。
「だから、お前は死なねェっつてんだろ。いい加減、解かれ」
どこか呆れたような、寂しそうな口調にきゅうと心臓が縮み上がるような心地を味わう。
「だから、もしもって言っただろ」
「……泣くだろうな」
 コラソンはそっと息を吐くように呟く。大きな声ではないのに、やたらと響いて聞こえた。
「目ん玉が溶けるまで泣く。泣いて泣いて泣きまくって、きっと一生泣いてる」
「だせえな」
 つまらなそうに言うとコラソンが喚く。
「お前が聞いてきたんだろ!」
 コラソンうるせェここ教会だぞ――ローは耳を塞いで顔を顰めた。
 別にそういうことが聞きたかったわけじゃないのだが。彼に上手く意図が伝わらなかったらしい。
「ロー。頼むから、死ぬとか言うなよ。悲しいだろ」
 コラソンは苦しそうに眉根を寄せる。その表情が心底悲しそうだったので、ローの心臓がおかしな音を立てた。思わずぎゅっと服の上から胸を抑える。と、すかさずコラソンが「お前、大丈夫か!? どっか痛いのか!?」焦ったように肩を掴んで顔を覗き込んできた。顔が近い。
「別に何ともねェよ」
 何かを誤魔化すかのようにローは顔を背けて大きな手を押し退けた。
「そっか。良かった」
 ほっとしたようにコラソンは薄く笑うと、そうだ、と明るい声を上げる。
「せっかくだからお祈りしようぜ」
「はあ? 何で」
「別に良いだろ。祈るくらい。お祈りのやり方、教えてくれよ」
 おれ作法とか良く知らねェから――コラソンは期待に満ちた目をローに向ける。無邪気というか何というか。こういうところが酷く子供っぽいのだ、この男は。
 諦念に似た気持ちに囚われてローは溜息を吐くと、居住まいを正した。両手を組む。それを見てコラソンも真似る。目を閉じろとローは静かに言った。記憶にある祈りの言葉を唱える。日曜のミサで毎回唱えていた言葉は、自分でも驚くほど淀みなく唇から零れた。
「……天にまします、われらの父よ、願わくば御名をあがめさせたまえ。御国をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。われらの日用の糧を今日もあたえたまえ。われらに罪をおかすものを、われらの罪をゆるしたまえ。われらを試みにあわせず、悪より救い、いだしたまえ。国と力と栄えとは限りなくなんじのものなり。アーメン」
 閉じていた目を開ける。酷く敬虔な気分だった。
 神などいない。自分の心の中に神は住まっていない。でも今だけは少しだけ、ほんの少しだけ信じて良いような気持ちになっていた。コラソンを見る。彼は大きな手を堅く組んで目を瞑っていた。メイクのせいか何となくちぐはぐな印象だった。――何をそんなに真剣に祈っているのか。
「コラソン、もう行くぞ」
 椅子から立ち上がり、出入り口に向かって身廊を歩く。と、慌てたように長身が追ってくる。
「おれ、ローのことお祈りした。ローの病気が治って元気に育ちますようにって」
 にこにこと笑顔でコラソンは言う。何だかそれがむずがゆくてローは「そうかよ」ぶっきらぼうに答えた。別にそんなこと祈らなくたって。どうせ自分は。また心臓がきゅうとなったので帽子の鍔を引き下ろす。するとふっと躰が浮いた。コラソンに抱き上げられたのだ。初めの頃は猫のように首根っこを掴まれたものだが、今では大事な物を扱うように抱きかかえられる。
「ローがデカくなるのが楽しみだな」
 そうしたら今のように抱えられなくなるけど――赤い目を細めて笑う。自分が成長した姿などローは上手く思い描けない。どれくらい身長が伸びて、どんな大人になるのか。考えたこともない未来だ。
「コラソンよりでっかくなってやる」
「そりゃ頼もしいな。――さて、どっかで昼飯買おうぜ」
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