黒薔薇
「薔薇がお好きですか」
突然話しかけられて押し黙るしかなかった。すると相手は聞こえていなかったのかと思ったのか、再度同じことを云った。形の佳い唇が瑞々しく動く。――薔薇は、お好きですか?
呆けたように眸を見開いて立ち尽くしていると、柵を隔てた向こう側にいる青年は人好きのする笑みを浮かべる。
「何時もうちの薔薇をご覧になっているでしょう。だからきっと薔薇がお好きなのだろうと思って」
「はあ。どうも、すみません」
居た堪れなさに視線が惑う。気まずさに真面に青年の顔を見られなかった。しかし彼は特に気にする様子もなく快活に笑って「良いんですよ。あんなに熱心に見られると私も育てた甲斐があります」腰に提げたポーチから鋏を取り出し、黒赤い薔薇を一輪伐った。濃色のそれは黒真珠という品種で、割合育てやすい薔薇なのだと嬉しそうに青年は語りながら、更に二本三本と花を伐っていく。陽光に照る鋏の刃が眩しく、私は眼を眇めた。閃く銀色の残像が視界にちらつく。彼は器用に新聞紙で伐った薔薇を包んだ。と、それを私に差し出す。
「え?」
「宜しければ、どうぞ。お裾分けです」
眸の前で美しい黒薔薇が三輪、揺れていた。
黒真珠の芳香は薄かった。殆ど香りがしない。花弁の手触りは天鵞絨 の如く、しっとりとしていた。指先に質感を憶えながら微笑する青年の唇を思い出していた。触れたらきっと薔薇の瓣 と同じなのだと。
日光を避けて活けた薔薇を一つ手に取り、あるかなしかの香気を嗅ぐ。脳裏を過るのは青年の姿ばかり。彼は私が薔薇の花を眺めていたと勘違いしていたが、それは好都合であった。私が熱心に見ていたのは薔薇ではない。
窓の外を見遣る。斜め向かいの青い屋根の家。庭先には誰もいない。真昼の陽射しを受けて静かに薔薇が影を落としているばかりである。日光の中にあって、黒真珠はその黒さを深めて漆黒に見えた。艶めいた漆黒は青年の髪色へと擦り替わる。
数日経ったら薔薇は枯れてしまう。三輪の薔薇が語る想い――あなたを愛しています。
「……愛している、愛している、愛している、愛している……」
私は彼を愛している。殊に彼の美しさを愛した。沈黙する彼の美貌は何処までも冷ややかだ。それこそ薔薇のように気高い。冷徹な貌に跪き、額づいて、服従したい慾望があった。美しい彼にあらゆる罪を告白し、赦されたかった。醜悪な己を。
贈られた三つの薔薇は彼そのものだ。枯らしてはならない。
私は襯衣 を脱ぐと鏡の前に立ち、右手に剃刀を持つと心臓の真上を深く切り裂いた。みるみるうちに傷口から赫黒い血が迸り、皮膚を汚していく。更に傷を抉って小さな穴を作った。其処へ黒真珠を一輪、挿した。
「嗚呼……」
薔薇を通して彼の愛情が私の中へと流れ込んでくる。血脈に乗じて彼の想いが全身を駆け巡る。躰が熱くなる。私は両の腕で己を抱いた。そっと、花を潰さぬように。
心臓の上に咲いた黒薔薇は私の血汐を吸って、愈々その色を濃くしていった。薔薇は私が生きる限り咲き続けるだろう。枯れぬ薔薇、黒い薔薇。永遠の愛と云う花言葉を持つ美しい花。
「……愛している、愛している、愛している、愛している……」
――彼を、愛している。
(了)
突然話しかけられて押し黙るしかなかった。すると相手は聞こえていなかったのかと思ったのか、再度同じことを云った。形の佳い唇が瑞々しく動く。――薔薇は、お好きですか?
呆けたように眸を見開いて立ち尽くしていると、柵を隔てた向こう側にいる青年は人好きのする笑みを浮かべる。
「何時もうちの薔薇をご覧になっているでしょう。だからきっと薔薇がお好きなのだろうと思って」
「はあ。どうも、すみません」
居た堪れなさに視線が惑う。気まずさに真面に青年の顔を見られなかった。しかし彼は特に気にする様子もなく快活に笑って「良いんですよ。あんなに熱心に見られると私も育てた甲斐があります」腰に提げたポーチから鋏を取り出し、黒赤い薔薇を一輪伐った。濃色のそれは黒真珠という品種で、割合育てやすい薔薇なのだと嬉しそうに青年は語りながら、更に二本三本と花を伐っていく。陽光に照る鋏の刃が眩しく、私は眼を眇めた。閃く銀色の残像が視界にちらつく。彼は器用に新聞紙で伐った薔薇を包んだ。と、それを私に差し出す。
「え?」
「宜しければ、どうぞ。お裾分けです」
眸の前で美しい黒薔薇が三輪、揺れていた。
黒真珠の芳香は薄かった。殆ど香りがしない。花弁の手触りは
日光を避けて活けた薔薇を一つ手に取り、あるかなしかの香気を嗅ぐ。脳裏を過るのは青年の姿ばかり。彼は私が薔薇の花を眺めていたと勘違いしていたが、それは好都合であった。私が熱心に見ていたのは薔薇ではない。
窓の外を見遣る。斜め向かいの青い屋根の家。庭先には誰もいない。真昼の陽射しを受けて静かに薔薇が影を落としているばかりである。日光の中にあって、黒真珠はその黒さを深めて漆黒に見えた。艶めいた漆黒は青年の髪色へと擦り替わる。
数日経ったら薔薇は枯れてしまう。三輪の薔薇が語る想い――あなたを愛しています。
「……愛している、愛している、愛している、愛している……」
私は彼を愛している。殊に彼の美しさを愛した。沈黙する彼の美貌は何処までも冷ややかだ。それこそ薔薇のように気高い。冷徹な貌に跪き、額づいて、服従したい慾望があった。美しい彼にあらゆる罪を告白し、赦されたかった。醜悪な己を。
贈られた三つの薔薇は彼そのものだ。枯らしてはならない。
私は
「嗚呼……」
薔薇を通して彼の愛情が私の中へと流れ込んでくる。血脈に乗じて彼の想いが全身を駆け巡る。躰が熱くなる。私は両の腕で己を抱いた。そっと、花を潰さぬように。
心臓の上に咲いた黒薔薇は私の血汐を吸って、愈々その色を濃くしていった。薔薇は私が生きる限り咲き続けるだろう。枯れぬ薔薇、黒い薔薇。永遠の愛と云う花言葉を持つ美しい花。
「……愛している、愛している、愛している、愛している……」
――彼を、愛している。
(了)
1/1ページ