不如帰


 ――不如帰は冥府よりの使者。


 国木田は寝間着代わりの白い浴衣姿のまま縁側に腰を下ろして庭先にある桜の樹を眺めた。まだ若いその樹は幹が細く、頼りない風情であったが、華奢な佇まいが彼を忍ばせた。霞がかった天穹に伸びる枝にはぽつりぽつりと膨らんだ蕾が綻び、薄紅色の花を咲かせていた。可憐な桜花を見詰めながら、
「太宰、今年も花が咲いたぞ」
 しかし独言する声音に応える声も気配もない。桜の樹は只、静かにその場に佇立するばかりで。
 暖かな風が柔く国木田の頬を撫でていく。春風に乗って芽吹く緑と日向の匂いが鼻先を擽って何処か懐かしいような思いに駆られた。
 国木田は目線を落として膝の上に置いた『理想』と書かれた手帳を、若さを失った皺が刻まれ節くれだった手でゆっくりと撫でる。そうしながら果たして己は理想通り生きてきたのだろうかと自問した。
 あれから――太宰がこの世を去ってから今年で丁度、六十回目の春を迎えようとしていた。
 六十回――己の年齢を重ねれば八十二回目の春。
 人はそれだけしかひとつの季節を経験しないのだなとふと儚く思う。
 左手を空へ翳す。薄布で濾したような白濁りする日光が眩しくて思わず眼鏡の奥で片目を眇めた。
 薬指が欠けたまま、年老いた手。殆ど世俗と繋がりが切れている彼には最早、黒い手袋は必要ではなかった。
 元々、躰が丈夫だったこともあり、大病せずにこれまで過ごしてきたが、流石に傘寿を超えた今、躰の衰えを感じない訳にはいかなかった。生真面目で几帳面な性格は変わらずだが、日常生活の些事――食事の用意や洗濯、掃除と云ったものが酷く億劫に感じることが多くなった。家政婦でも雇えば良いのだろうが、国木田は頑なだった。この家――青い屋根のこぢんまりとした棲家には誰も入れたくなかったので。
 そう、国木田はあの日、太宰と語り合った夢物語を可能な限り実現したのだ。
 教職を勤め上げた後、それまで棲んでいた家を引き払い、探して見つけた青い屋根の小さな一軒家に引っ越した。国木田が居を構えるのは人里離れた限界集落とも云える鄙びた山間の村である。住居を移す際、K病院から太宰の指の骨と自身のそれを掘り起こして持ち帰った。長い年月を経て永遠の徴は朽ちかけていたが、どうにか形は留めていた。国木田は結ばれた愛の証を小さな匣に大事に仕舞い、位牌の代わりとして設えた仏壇に置いた。仏壇には朝晩と白飯や水、美しい季節の花を絶やさずに供えて太宰に話しかけた。
 このように彼を喪って六十年と云う途方もない膨大な時間の中で国木田にも色々な変化はあったが、変わらないことがひとつだけあった。
 太宰以外、誰も愛さなかったこと。
 ずっと彼の記憶を、残像を心に抱き締めて。
 幸福そうに微笑む彼の笑顔を胸に何度でも思い浮かべて。
 変わらずに愛していたのだ。
 あの日、あの時と、同じ熱量で。
 そんな国木田にも縁談や見合いの話、或いは実際に想いを告げられたことも幾度かあった。しかしそれ等全てを退けて断った。彼の態度に周囲の人間は不思議がっていたが、無論、国木田は理由を明かさなかった。一日一日を淡々とひとりで過ごして、彼は今日まで生きてきたのだった。
「太宰。何時になったら、お前は俺を迎えに来るんだ」
 早く彼に会いたかった。年齢を重ねる度にその想いは高じて、太宰への愛しさもまた堆く募った。彼を愛する気持ちを抱きながら自分は長く生き過ぎたのだと何時尽きるとも知れない生を持て余していた。
 深く息を吐いて目を閉じて硝子戸に凭れかかる。
 何処かで不如帰ほととぎすさえずる声がした。
「――桜が綺麗だね」
「え?」
 耳朶に馴染む柔らかな声音がして国木田は弾かれたように俯けていた顔を上げて、隣を見た。色素の薄い眸を瞠目して言葉を失った。吃驚する視線の先には優美に微笑む愛しい人がいた。求めて已まなかった太宰その人がいたのだ。あの頃と変わらない、白い美貌のまま。
「国木田君、私達の夢を叶えてくれたんだね」
 嬉しい――艶やかな笑顔は大輪の花が咲き綻ぶが如く酷く美しかった。
 夢を、見ているのだと思った。
 彼が此処にいる筈がないから。
 でも、夢でも。そう、夢でも良い。
 彼がすぐ傍にいると思ったら、もう堪え切れなかった。国木田は滲み出す視界に目許を力ませて顔をくしゃりと歪める。恐々と笑みを湛えた滑らかな頬へ手を伸ばした。おこりにかかったように酷く震える手が彼に触れた途端。右目から雫が零れ落ちて頬を熱く濡らした。
「……太宰……ッ」
 国木田は掻き抱くように太宰の肉の薄い背に腕を回した。儚く消え去るかに思えた彼の躰は確固たる輪郭と穏やかな体温を持っていた。確かに太宰は国木田の腕の中に収まって存在していた。
 どれだけ焦がれていただろう。もう一度、この腕に彼を抱くことを。
 夢でも幻でも良い、彼が今此処にいるのなら――国木田は胸を震わせ、滂沱ぼうだする涙に声を詰まらせた。
 太宰もまた国木田を抱き返した。嗚咽に戦慄く己より広いその背を優しく宥める。どれ程彼が喪失の痛みに傷付いていたのか、胸を柘榴の実のように張り裂けさせて無言のまま悲痛に叫んでいたのか――自分を抱き締める彼の腕の強さが物語っていた。強く美しい眸から溢れる涙が太宰の着物に落ちて沁み込む。
「国木田君、ごめんね」
「……謝らなくて、良い。謝らなくて良い、から……ッ」
 あの時、太宰は死を選ぶしかなかったのだ。そうしなければ残酷な現実から逃げることは出来なかった。死を以ってでしか救われる道は他になかったのだ。
「もうそんなに泣かないで。国木田君、笑って。大好きな笑顔を見せて」
 太宰は笑いかけて両の手で愛しい人の顔を包み込む。濡れた睫毛を瞬かせながら国木田は眉間に皺を寄せて不器用に笑みを形作った。
 情愛の眼差しが絡んで互いに笑みが深まる。見詰める鳶色の瞳の中に映り込む国木田の容貌は若かりし頃――太宰と出会った頃の姿に立ち戻っていた。
 国木田君――小さく囁かれて吸い寄せられるように淡く色付いた唇に口付けた。甘く、柔く、淡い口付けを幾度も繰り返す。ありったけの愛しさを込めて。夢ならどうか醒めてくれるなと願いながら。国木田は太宰の細い肩に縋った。
「……ずっと、会いたかった」
「うん、私もだよ。――ねえ、見て」
 微笑んで太宰は左手を国木田に差し出す。綺麗な白い薬指には赫い絲が巻き付いていた。目で絲の行き先を辿ると欠損していた筈の自身の薬指に繋がっていた。運命の赫い絲が其処にあった。
「私が云っていたことは本当だったでしょう?」
「そうだな」
 得意げに笑う太宰に国木田も頷いて薄く笑む。涙はもう乾いていた。
「国木田君。約束を果たしに来たよ。――一緒に逝こう」
 太宰は立ち上がって国木田の手を引く。
 風にざわめく庭の桜の樹は今や満開だった。
「ああ、俺をお前のところまで連れて行ってくれ」
 太宰の細い手と指を絡めて繋ぐ。もう彼と離れることはないのだと国木田は無上の歓びと幸せを感じていた。

「……太宰……、俺を……迎えに……、」
 硝子戸に凭れていた躰が傾いで縁側の上に倒れ込んだ。膝の上から手帳が滑り落ちて土の上に落ちる。その拍子に帳面が開いて中から元は白かったであろう、黄ばんだ封筒が転がり出た。封筒の表には変色したインクで『国木田独歩様』と書き付けられていた。
 手紙が風に吹かれて飛ばされる。手帳の頁が風に煽られて白紙の紙面を晒した。
 国木田は事切れていた。僅かに口元に笑みを浮かべて。
 庭先にある桜の樹に羽を休めていた不如帰は澄んだ声でくと、そらに向かって飛び立っていった。

(了)
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