アウリスの話。
この辺にあった気ぃするんやけどなあ――火村がコーヒーを淹れて戻って来ると有栖が棚を漁っていた。勝手知ったる何とやらで彼はあちらこちらの抽斗を開けたり閉めたりしている。
「なに探してるんだ?」
背後から声をかけると有栖は振り返らないまま「なんや耳ん中が痒くて。綿棒か耳掻き探しとるんやけど」答えて、ここやったか? と今度は隣の棚の抽斗を開ける。
「そんなところにはねぇよ」
火村は両手に持ったマグカップを座卓に置くと一旦部屋を出、半ば書庫と化している別の部屋からペン立てを取ってきて「ほら、ご所望のものだ」有栖に差し出した。
「ありがとう。てかなんでペン立てに耳掻きが入っとんねん?」
「なんとなく」
「君も結構ええ加減なとこあるよなあ」
有栖がどこか呆れたように告げると「なにを今更。家主の俺が困ってなきゃ別になんだって良いんだよ。いい加減なところがあるのはそれこそお互い様だろう」火村は大袈裟に肩を竦めて見せた。
居室として使用している六畳間は相変わらず大量の本で溢れ、そこかしこに本の山が築かれているが、火村なりの法則性があって並べられていることを思うと彼の頭の中を覗き見るようでなかなか興味深いと有栖は感じていた。そしてふと、またもや自著が逆様に本棚に突っ込まれてるのを目の当たりにし、入れ直そうと手を伸ばしかけたところで、片手に握った耳掻き棒をひょいと取り上げられた。
「なんや?」
「せっかくだから俺がやってやるよ」
「えっ」
思わぬ申し出に有栖はぎょっとしたように鳶色の瞳を大きく見開くと「なんだよ、その反応は」火村は心外だと言わんばかりに口角を下げる。
「え、いや、だって、なんや恥ずかしいっちゅーか……、」
耳掃除をして貰うということは体勢的に膝枕をして貰うことになるわけで――想像をしてカッと耳が火照った。有栖は狼狽えて赤面を隠すように俯く。すると彼の胸裡を察した火村は微苦笑しながら「普段もっと凄いことしてるのに、こんなことで照れるなんてアリスは可愛いな」血汐が透ける耳殼にそっと手を触れた。親指の腹で摘んだ耳殼の表面を撫でると有栖の肩がぴくりと跳ねた。耳を撫でる指先は特別な意図を持たなかったが、しかしその感覚は情を交わす時のそれで、堪らず有栖は息を詰めた。火村は恋人のそんなささやかな反応すら見逃さず「可愛い」耳元へ唇を寄せて含み笑いで囁いた。湿度を孕んだ声音は有栖の心臓を乱すには充分だった。
「……火村のスケベ、」
「俺は耳を触ってるだけだぜ?」
「触り方がやらしいねん」
「おっと、そりゃ失礼」
火村は口先だけの謝罪をしてぱっと手を離した。解放された耳は火村の体温を吸ったように熱を持って酷く熱かった。
二人の間に落ちた束の間の沈黙を寸断するように飼い猫の瓜太郎が一声鳴いた。彼等は窓辺で陽向ぼっこをして寛いでいる瓜太郎を同時に眺めて、顔を見合わせた。と、有栖は「しゃあないなあ」
「耳掃除するだけやで?」
有栖は半ば己に言い聞かせるように釘を刺す。これ以上、どうにかなってしまっては敵わない。何せまだ陽が高く、大家である“婆ちゃん”も在宅なのだ。流石にそんな状況で不埒な行為に耽るのは憚られた。火村は「
「君のそれ、久し振りに聞いたわ。初めて出会った時はけったいな奴やなあと思ったけど」
有栖はどこか遠くを見詰めるように眸を眇める。ゴールデンウィーク明けの新緑が眩しい季節。初夏の陽射しを受けて輝いていた横顔を今でも鮮明に憶えている。――きっとあの
「けど?」
「今でも割とそう思うとる」
「よく言うぜ。そんな“けったいな奴”と付き合ってるのはどこのどいつだよ」
「俺やな。世界中探しても火村と付き合えるのは俺くらいやろ。口が悪いし、性格も捻くれてるし。なんぼ面が良くても普通やったら途中で愛想尽かされて終いや」
「それはそれは。懐の深い恋人に感謝だな。有難くて涙が出るぜ。――耳はこっち側で良いのか?」
火村は有栖の左耳の小さな穴を覗き込む。
「あ、うん。頼むわ」
気恥しさを振り切るように努めて平坦に答えると耳が軽く引っ張られてかさりと小さな音がした。あんまり汚れてないけど――火村は耳穴に耳掻き棒を差し入れて慎重な手付きで動かす。思いの外、人にして貰う耳掃除は気持ちが良いものだと羞恥心が薄れた頭で有栖がぼんやり思っていると「私の耳は貝の殻から海の響ひびきをなつかしむ」唐突に火村が告げた言葉に瞠目した。
「それ――」
「ふと思い出したんだ。確かに耳の形は貝に似てるなって」
火村が諳んじたのは彼の有名なコクトーの詩の一節だ。『カンヌ』と題された六篇の詩の第五番目に当たる。火村はもう一度詩を口にする。
私の耳は貝の殻から
海の響ひびきをなつかしむ
「君がコクトーを読んでるなんて少し意外やな」
「大学生の頃に読んだんだ。今でこそ読まないけどな。しかし、耳が貝殻とは言い得て妙だな。貝殻を耳に当てると波音が聴こえるっていうロマンチックな俗説もあるが――実際は自分の血流の音が聞こえてるだけだけど――それとも結び付くし」
「確かに。それに耳ん中にも巻貝があるしな」
鼓膜と耳小骨の奥に身を潜ませている小さな巻貝が。
「巻貝というか
「ええやん、間違うてないやろ。蝸牛も貝類の仲間やし。――貝と言えば海やけど、ヒトの躰の中にもちゃんと海があるんやなって感心したわ。ようできとるなあって」
「海? どこに?」
火村はふと手を止めて不思議そうに首を傾げる。そんな恋人の姿を視界の端に捉えて有栖は片頬に笑みを浮かべる。
「胸骨の奥にある。――心臓や」
眠っている時でも決して動きを止めないそれは絶え間なく波打つ海に等しい。穏やかに、静かに、時には激しく逆巻いて荒れ狂う。命ある限り続いていく鼓動、心音、濤声、波音。已むことなく響く。――願わくばその音を一番近くで聴かせて欲しいと切望する。
「時々想像すんねん。火村の中にある海を。見たこともないような色をしてるか、それか夜の海やろなって」
彼の眸のように黒々とした海を有栖は幾度となく思い描いた。荒涼とした海はこの世界の終わりか、あるいは始まりか――深遠な海景は付き合いが長い有栖でも踏み入ることが敵わない火村の内面のイメージそのままだった。有栖は束の間、月も星もない漆黒の夜の海に佇む様を夢想する。
「へえ。流石作家先生だな。それは考えたことなかった」
止まっていた手を動かしながら火村は小さく頷く。耳掻きの先端で皮膚を掻く。と、有栖は気持ち良さそうに目を細めた。まるで猫みたいだなと火村は密かに笑みを零す。
「寺山修司は人間の涙を一番小さな海ですて言うてるけどな。因みに羊水は海とほぼ同じ成分らしい」
「なるほどな。母なる海というのはあながち嘘ではないわけだ。そういえば、フランス語も海と母の発音は同じだな」
海の綴りは
「痒みは治まったか?」
はいおしまいと仕上げに白い綿――梵天で軽く耳穴の入口を拭うと有栖は身を反転させた。――もう少しだけ、このまま。寝心地が良いとは決して言えない男の膝枕だが、離れるのが惜しかった。
「ついでに反対側も頼むわ」
「はいよ」
乞われるままに火村は耳にかかった髪を払うと「あっ」有栖の唇から悦を含んだような声が零れた。みるみるうちに晒された有栖の耳が朱に染まる。
「……お前なんつー声出してるんだよ」
「こ、これは、不可抗力や! 火村が急に触るから……!」
引いたはずの熱が再びのぼってきて顔が火照った。どうにも恥ずかしく、しかし誤魔化すこともできず、有栖は己の迂闊さを恨めしく思いながら小さく唸った。膝の上で頭を抱えて悶えている恋人を見下ろす火村は内心で北叟笑むと「はいはい、俺が悪うございました」何でもないように告げて「ほら続きするぞ」顔を隠している腕を掴んで退かした。それから先程と同じように慎重な手付きで小さな耳穴に耳掻き棒の先端を差し入れ、外耳道の表面を優しく掻いた。
「あれ、なんの話だったかな。猫の耳を切符切りでパチンってやりたいとかなんとかっていう奴」
ふと思い出したように火村が呟く。
「切符切り? ――ああ、えっとあれや、あれ。梶井基次郎や。確か『愛撫』っていう作品ちゃうかな。猫の耳は引っ張っても圧しても痛がらない、でもある時猫の耳を噛んでみたら痛がって悲鳴を上げたっていう」
おい急に動くなよ危なねぇだろ――火村の言葉を無視して有栖は座卓の上から手探りで携帯電話を取ると画面をタップして検索ワードを入力する。――梶井基次郎、愛撫。
「『猫の耳というものはまことに可笑しなものである。薄べったくて、冷たくて、竹の子の皮のように、表には絨毛が生えていて、裏はピカピカしている。硬いような、柔らかいような、なんともいえない一種特別の物質である。私は子供のときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくて堪らなかった。』――これやろ?」
画面に表示された『愛撫』の冒頭を読み上げた。
「ああ、それだ。ぱっと作品名が出てくるのは流石だな」
「読んだのは随分前やけどな。猫の耳を切符切りでパチンとしたいて、けったいなこと考える奴やなあって思うたから印象に残ったんやろうな。てか君も読んでたんか」
「猫の話だからって人から聞いてな。俺も読んだは子供の頃だけど。子供ながら酷いことする野郎だなと思ったよ」
「そやね。まあ梶井基次郎の作品は全体的に結構残酷というか、陰鬱やからなあ。子供がほいほい読むような内容やないかもな。有名な『桜の樹の下には』も想像するとホラーやし。――で、この話がどうかしたんか?」
「別にどうもしない。ただ思い出しただけで。だけど、そうだな。アリスの耳はパチンとやってみたいかもな」
そう言いながらそっと耳朶に触れる。耳の中で一番柔らかいその場所はずっと触っていたくなるような触感だ。指先に馴染む大きさも丁度良い。ふにふにと触っていると「もう辞めや」擽ったいのか、手を払い除けられてしまった。
「パチンて、切符切りでか?」
「真逆。ピアッサーでさ。ああ。そうだ。穴を開けたらピアスを買ってやるよ。お前が好きな奴を」
どこか楽しそうに言う火村に対して「そんなもん、要らんわ。ピアス開けるのも嫌やし」有栖は素っ気なく応じる。
「元々アクセサリーに興味あらへんし。大体アラサーのおっさんがピアス開けるて変やろ。タレントとかやったらともかく」
ピアスを開けて着飾っている自分の姿を想像してみるが、どうにも上手く像が結ばない。想像できても違和感しかないのだが。
「ふうん。確かにアリスがなにかアクセサリーを身に着けてるのは見たことがないな」
「身に着けるもなにも持ってへんし。それは君もやろ」
「うん。だからそのうち買いに行こうかと思って」
さらりと告げられた言葉に有栖は我が耳を疑った。――なんやて?
「真逆ピアス開けるんか?」
「違ぇよ。なんで俺が態々ピアス開けなくちゃならねぇんだよ。先に言っとくけど、お前も一緒に行くんだからな」
「へ? なんでや?」
「なんでってそりゃ、薬指に嵌める指輪を買いに行くからさ」
はああ!? ――有栖は盛大に叫びながら勢い良く身を起こして「それどういうことやねん!?」俺は何も聞いてへんぞ――火村の肩を掴んで詰め寄った。有栖の声に驚いたのか、寝そべっていた瓜太郎が弾かれたように身を立てて部屋から出て行く。
「アリス、声がデカい。――聞いてないもなにも今初めて言ったからな」
「そうやけど、いや、そうやなくて、えぇ?」
「落ち着けよ、アリス。お前との関係は形にとらわれなくても良いとずっと思ってたけど、考えが変わった。俺はアリスとの目に見える約束が欲しい」
火村は真っ直ぐに鳶色の瞳を見詰める。あまりにも真剣な眼差しに有栖は目を逸らせなくなってしまう。
「えーと、それは所謂婚約とか結婚とか、そういう約束のことか?」
判りきっていることを訊ねながら混乱している頭を落ち着けようとする。一方、火村はどこまでも冷静な態度を崩さない。
「ご名答。今はこの通り、なにもないし、準備もしてないけどな」
「……いや……火村お前、急すぎん? なんだっていきなり……普通はもっとこう、なんかあるやろ? 場所とかそれらしい台詞とか、色々」
有栖はがっくりと項垂れて見せる。――こんなプロポーズの仕方ってあるか? やたらロマンチックなシチュエーションでも困るけど。
「確かに自分でも突然すぎるとは思ったし、雰囲気もなにもあったもんじゃねぇけど、でも言うなら今だと思ったんだよ。俺とお前の仲だろ、判れ」
「判らん、なにも判らん」
「本番はちゃんとする。――なあ、アリス」
火村は有栖の左手を恭しく取るとMe laisseras-tu entendre ton océan ?――薬指にキスをした。その仕草に図らずもドキリとしてしまう。が、それは火村も同じようで、よく見ると僅かに頬に赤みが差していた。
「格好つけるところそこちゃうやろ」
それなりに彼も照れているのだと知って有栖はおかしそうに笑った。可愛いところもあるものだ。
「なんて言うたん?」
すると、とんと人差し指で軽く胸を突かれた。心臓の真上。それで有栖は察した。――ほんまにそういうとこは可愛ええな。思わず頬が緩んでしまう。
「どうせやったら本番は海が綺麗なとこがええなあ」
「時期は春が良いな」
「お互い誕生日やし?」
「それもあるけど、アリスのは春の海みたいだから」
放たれた言葉に有栖は搏たれたように息を呑んだ。
「……やっぱ君、ロマンチストやね」
「作家先生ほどじゃないさ」
「よう言うわ。――火村」
有栖は腕を伸ばして恋人の頭を抱き寄せ、そのまま床に転がった。火村も一緒に倒れ込み、丁度胸に耳を押し当てる形になる。
「アリス?」
「心配せんでも
「……そうか」
火村は薄く瞼を閉じて衣服越しに微かに聴こえる心音に耳を澄ます。穏やかな鼓動に鮮やかな碧瑠璃を想起する。改めて生涯共にあることを誓う時は有栖が言う通り、海が綺麗なところが良い。春陽に輝く美しい海の傍で。もう一度。
――これからも貴方の海を聴かせてくれますか? と。
(了)
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