火アリSS
本を読む人
有栖は壁に背を凭れた姿勢のまま、ちらと広げた本から目線を上げ、座卓の上で広げた本に視線を落としている火村を見る。彼は時折、紙面に付箋を貼ったり、筆記具を手にして余白に何やら書き込んだりしては、常よりもゆったりとした速度ページを捲る。紙面に印字されているのは英文で火村が精読しているのは彼の研究分野に関わる書籍らしい。休日なのに真にご苦労なことだと有栖は思うのだが、本職とフィールドワークで忙殺されている火村としてはそうでもしないと仕事が片付かないという切実な事情があった。
本日は秋晴れ、小春日和の休日。
窓から麗らかな陽射しが差し込み、絶好の行楽日和にも拘わらず、二人揃って火村の下宿先に閉じ籠っているのは部屋主がせっせと学術書と向き合って時間外労働に勤しんでいるせいである。有栖が彼の下宿先を訪れたのは取材旅行先で買ったお土産を届けるのと借りていた本の返却のためであった。火村が忙しそうにしていたので渡すものを渡したらそのまま帰るつもりでいたが「せっかく来たんだから上がって行けよ」と言うので有栖は勧められるまま部屋に上がり込み、一時間ほどお互いの近況報告をした後、現在に至る。邪魔をしないなら居ても良いと火村が言ったので。有栖も暫く振りに恋人と顔を合わせたのでもう少し一緒に居たいのが本音だったから、彼の言葉に素直に甘えたのだった。
「――何だよ、アリス」
有栖の視線に気が付いて火村はふと顔を上げた。
「そんなに熱心に見詰められちゃ、穴が開いちまうよ」
「自意識過剰やな、学者先生は。そんなに見とらんわ」
有栖は努めて素っ気なく答えるが、じっと凝視していたのは事実だったので内心ばつが悪かった。火村は「そうかい」短く答えて再度広げた本に目を落とす。有栖も手元の本に視軸を戻して文章を追った。
室内はとても静かだった。
本のページを捲る音、紙面にペン先を走らせる微かな音、付箋を剥がす音、ライターを使う音、煙草を吸い、白煙を吐き出す密やかな息遣い、長くなった煙草の灰を落とすささやかな音、飼い猫達の小さな寝息――耳を澄ませば瞳が瞬きする音まで聞こえてきそうなほどに穏やかな静寂で満たされていた。この静けさが有栖は好きだった。今ある静謐さは何となく火村が纏う雰囲気と似ているような気がした。彼は決して無口でも寡黙でもないが一種独特の沈黙の色を漂わせている印象があるのだ。それはある種の近寄り難さ、特に大学生時代に彼が醸し出していた空気の残影に近い。
有栖は再び親友兼恋人を見遣る。火村の真剣な表情は時折眉間に皺を立て、何かを考えているのか、いつもの唇を指先でなぞる癖が出る。それから本のページを前に戻って視線が文字列を彷徨い、ふと顰め面がほどけ、筆記具が右手に握られてペン先と紙面が擦れる音がする。伏し目がちな顔、光線を受けて下瞼に落ちる睫毛の影、空気にゆったりと漂う紫煙。火村の膝の上で丸くなっていた小次郎がのそりと身を起こして僅かに開けた部屋のドアの隙間から出ていく。
「――だから見過ぎだよ、お前」
火村はどこか呆れたように言いながら灰皿に置いた吸いさしの煙草を口の端に咥える。
「俺に構って欲しいのか?」
「いや、別にそういうわけちゃうけど……すまん、邪魔した。俺がおったら気ぃ散るやろ。今日はもう帰るわ」
有栖が本を閉じて立ち上がろうとすると「良いよ、もう。俺も少し休憩する」火村は引き留めて「アリス、珈琲」空になったマグカップを顎でしゃくった。普段なら「人にものを頼むならちゃんと言え」と返すところだが、今日は素直に従った。仕事の邪魔をしてしまったことへのささやかな罪滅ぼしと労りの気持ちからである。ミルクたっぷりの珈琲を淹れて戻ると火村は「ありがとう」軽く礼を告げて香ばしい匂いを立てる珈琲が冷めるのを待った。
「なんや難しそうな本読んどるなあ」
有栖は座卓に片肘をついて脇に寄せられた分厚い書籍に目を向ける。タイトルには『Criminological Theory-Context and Consequences-』とあった。――犯罪学-論理的背景とその帰結。
「なかなか興味深い本だよ。知識社会学的観点から犯罪学理論の起源、発展、帰結とを説明する――ってな」
「さよか。小説のええ資料になりそうやけど、俺は君ほど英語が達者やないからなあ。読み通すのは骨が折れそうや」
小説なら英文であっても問題なく読み通せるが、専門書や学術書となると心許ない。
「お前は何を読んでたんだ?」
火村は有栖の傍らに置かれた文庫本を見る。カバーがかかっているので書名も著者名も窺い知れない。
「俺のは仕事に関係ない本や。この間の取材旅行に持っていって、そのまま鞄の中に入れっぱなしになってん。ちょっと前に出版社から送られてきた献本なんやけどおもろいわ。売れるのも判る」
「へぇ。有栖川先生のお眼鏡に敵う本か。それならお前がにやけながら読んでたのも頷けるな」
火村がにやにや笑いながら言うと有栖は「人のこと観察しとったんかい」やや驚いたような、きまりが悪そうな複雑な表情を浮かべる。――あんなに熱心に本を読んでいたくせにいつそんなに見とったんや? いつもながら思う。火村の観察眼には恐れ入る。
「お前だって俺のこと見てただろ」
お互い様だろと火村は涼しい顔で告げて冷めつつある珈琲に口をつける。ミルクの甘さにほっと躰が緩む。
「そらそうやけど、」
「アリスが本を読んでる姿は見てて飽きねぇな。にやにや笑ったり、ちょっと驚いた顔してみたり、眉根を寄せて真剣な顔になったり。ずっと独りで百面相してる」
「え、嘘やろ? 俺そんな顔しとったん? 公共の場所やったらただの不審者やん」
有栖は信じられない思いで自身の顔を掌で触った。顔面にのった表情を確かめるように。勿論、そうしたところで無意味なのだが。嘘じゃねぇよ――火村は先程と打って変わって至極真面目な顔で言う。
「不審者かどうかはともかく、アリスの本を読んでる姿は楽しそうで好ましく思うし、それだけ夢中になってる本がどんなものなのか興味も湧く。何より、可愛い」
「か、可愛いって、」
思わず口に含んだ珈琲を噴き出しそうになってしまう。
「別におかしなことじゃねぇだろ、恋人が可愛く見えるのは。俺は本当のことを言ったまでだよ」
「……いや、ほんま君キャラ変わりすぎちゃう?」
晴れて恋仲になってからというもの、火村の有栖への愛情表現は容赦がない。過剰なまでに――有栖がたじろいで戸惑うくらいに好意や愛情を伝えてくるのだ。嬉しくないわけではないが、友人の期間が長かったせいもあって火村のストレートな愛情表現が有栖にはどうにも気恥ずかしく感じられるのだった。そんなことを有栖が言うと「だってもう隠す必要がないからな。今まで伝えられなかった分、言わせてくれよ」臆面もなく言うのだから堪らない。有栖は半ば頭を抱えながら「ああもう、お前には負けるわ」大きく溜息を吐いた。火村はすました顔色をしつつも向かいに座る恋人を眺める眼差しは優しかった。それから気を取り直して口を開く。
「――アリス」
「なんや?」
「あと二時間できりの良いところまで終わらせる。そうしたらちゃんと構ってやるから、大人しく待っているように」
火村は教壇に立つ時のような表情で言うと作業を再開するべく本を開いた。と、有栖の存在を忘れたかのように直ぐ様本に没頭していく。
有栖は黙って本を読む火村を眺め遣って、やはり本を読む人の姿を見るのは良いものだと思った。――本を読む君が好きや。時には目を輝かせて、時には難しい顔をしながら。いつも真剣な眼差しで文字を追う、その姿が。とても。
午後の柔らかな陽射しが差す静かな部屋に本のページを捲る音が密やかに響いて、二人の間は心地よい静寂と沈黙に満たされていく。
(了)
有栖は壁に背を凭れた姿勢のまま、ちらと広げた本から目線を上げ、座卓の上で広げた本に視線を落としている火村を見る。彼は時折、紙面に付箋を貼ったり、筆記具を手にして余白に何やら書き込んだりしては、常よりもゆったりとした速度ページを捲る。紙面に印字されているのは英文で火村が精読しているのは彼の研究分野に関わる書籍らしい。休日なのに真にご苦労なことだと有栖は思うのだが、本職とフィールドワークで忙殺されている火村としてはそうでもしないと仕事が片付かないという切実な事情があった。
本日は秋晴れ、小春日和の休日。
窓から麗らかな陽射しが差し込み、絶好の行楽日和にも拘わらず、二人揃って火村の下宿先に閉じ籠っているのは部屋主がせっせと学術書と向き合って時間外労働に勤しんでいるせいである。有栖が彼の下宿先を訪れたのは取材旅行先で買ったお土産を届けるのと借りていた本の返却のためであった。火村が忙しそうにしていたので渡すものを渡したらそのまま帰るつもりでいたが「せっかく来たんだから上がって行けよ」と言うので有栖は勧められるまま部屋に上がり込み、一時間ほどお互いの近況報告をした後、現在に至る。邪魔をしないなら居ても良いと火村が言ったので。有栖も暫く振りに恋人と顔を合わせたのでもう少し一緒に居たいのが本音だったから、彼の言葉に素直に甘えたのだった。
「――何だよ、アリス」
有栖の視線に気が付いて火村はふと顔を上げた。
「そんなに熱心に見詰められちゃ、穴が開いちまうよ」
「自意識過剰やな、学者先生は。そんなに見とらんわ」
有栖は努めて素っ気なく答えるが、じっと凝視していたのは事実だったので内心ばつが悪かった。火村は「そうかい」短く答えて再度広げた本に目を落とす。有栖も手元の本に視軸を戻して文章を追った。
室内はとても静かだった。
本のページを捲る音、紙面にペン先を走らせる微かな音、付箋を剥がす音、ライターを使う音、煙草を吸い、白煙を吐き出す密やかな息遣い、長くなった煙草の灰を落とすささやかな音、飼い猫達の小さな寝息――耳を澄ませば瞳が瞬きする音まで聞こえてきそうなほどに穏やかな静寂で満たされていた。この静けさが有栖は好きだった。今ある静謐さは何となく火村が纏う雰囲気と似ているような気がした。彼は決して無口でも寡黙でもないが一種独特の沈黙の色を漂わせている印象があるのだ。それはある種の近寄り難さ、特に大学生時代に彼が醸し出していた空気の残影に近い。
有栖は再び親友兼恋人を見遣る。火村の真剣な表情は時折眉間に皺を立て、何かを考えているのか、いつもの唇を指先でなぞる癖が出る。それから本のページを前に戻って視線が文字列を彷徨い、ふと顰め面がほどけ、筆記具が右手に握られてペン先と紙面が擦れる音がする。伏し目がちな顔、光線を受けて下瞼に落ちる睫毛の影、空気にゆったりと漂う紫煙。火村の膝の上で丸くなっていた小次郎がのそりと身を起こして僅かに開けた部屋のドアの隙間から出ていく。
「――だから見過ぎだよ、お前」
火村はどこか呆れたように言いながら灰皿に置いた吸いさしの煙草を口の端に咥える。
「俺に構って欲しいのか?」
「いや、別にそういうわけちゃうけど……すまん、邪魔した。俺がおったら気ぃ散るやろ。今日はもう帰るわ」
有栖が本を閉じて立ち上がろうとすると「良いよ、もう。俺も少し休憩する」火村は引き留めて「アリス、珈琲」空になったマグカップを顎でしゃくった。普段なら「人にものを頼むならちゃんと言え」と返すところだが、今日は素直に従った。仕事の邪魔をしてしまったことへのささやかな罪滅ぼしと労りの気持ちからである。ミルクたっぷりの珈琲を淹れて戻ると火村は「ありがとう」軽く礼を告げて香ばしい匂いを立てる珈琲が冷めるのを待った。
「なんや難しそうな本読んどるなあ」
有栖は座卓に片肘をついて脇に寄せられた分厚い書籍に目を向ける。タイトルには『Criminological Theory-Context and Consequences-』とあった。――犯罪学-論理的背景とその帰結。
「なかなか興味深い本だよ。知識社会学的観点から犯罪学理論の起源、発展、帰結とを説明する――ってな」
「さよか。小説のええ資料になりそうやけど、俺は君ほど英語が達者やないからなあ。読み通すのは骨が折れそうや」
小説なら英文であっても問題なく読み通せるが、専門書や学術書となると心許ない。
「お前は何を読んでたんだ?」
火村は有栖の傍らに置かれた文庫本を見る。カバーがかかっているので書名も著者名も窺い知れない。
「俺のは仕事に関係ない本や。この間の取材旅行に持っていって、そのまま鞄の中に入れっぱなしになってん。ちょっと前に出版社から送られてきた献本なんやけどおもろいわ。売れるのも判る」
「へぇ。有栖川先生のお眼鏡に敵う本か。それならお前がにやけながら読んでたのも頷けるな」
火村がにやにや笑いながら言うと有栖は「人のこと観察しとったんかい」やや驚いたような、きまりが悪そうな複雑な表情を浮かべる。――あんなに熱心に本を読んでいたくせにいつそんなに見とったんや? いつもながら思う。火村の観察眼には恐れ入る。
「お前だって俺のこと見てただろ」
お互い様だろと火村は涼しい顔で告げて冷めつつある珈琲に口をつける。ミルクの甘さにほっと躰が緩む。
「そらそうやけど、」
「アリスが本を読んでる姿は見てて飽きねぇな。にやにや笑ったり、ちょっと驚いた顔してみたり、眉根を寄せて真剣な顔になったり。ずっと独りで百面相してる」
「え、嘘やろ? 俺そんな顔しとったん? 公共の場所やったらただの不審者やん」
有栖は信じられない思いで自身の顔を掌で触った。顔面にのった表情を確かめるように。勿論、そうしたところで無意味なのだが。嘘じゃねぇよ――火村は先程と打って変わって至極真面目な顔で言う。
「不審者かどうかはともかく、アリスの本を読んでる姿は楽しそうで好ましく思うし、それだけ夢中になってる本がどんなものなのか興味も湧く。何より、可愛い」
「か、可愛いって、」
思わず口に含んだ珈琲を噴き出しそうになってしまう。
「別におかしなことじゃねぇだろ、恋人が可愛く見えるのは。俺は本当のことを言ったまでだよ」
「……いや、ほんま君キャラ変わりすぎちゃう?」
晴れて恋仲になってからというもの、火村の有栖への愛情表現は容赦がない。過剰なまでに――有栖がたじろいで戸惑うくらいに好意や愛情を伝えてくるのだ。嬉しくないわけではないが、友人の期間が長かったせいもあって火村のストレートな愛情表現が有栖にはどうにも気恥ずかしく感じられるのだった。そんなことを有栖が言うと「だってもう隠す必要がないからな。今まで伝えられなかった分、言わせてくれよ」臆面もなく言うのだから堪らない。有栖は半ば頭を抱えながら「ああもう、お前には負けるわ」大きく溜息を吐いた。火村はすました顔色をしつつも向かいに座る恋人を眺める眼差しは優しかった。それから気を取り直して口を開く。
「――アリス」
「なんや?」
「あと二時間できりの良いところまで終わらせる。そうしたらちゃんと構ってやるから、大人しく待っているように」
火村は教壇に立つ時のような表情で言うと作業を再開するべく本を開いた。と、有栖の存在を忘れたかのように直ぐ様本に没頭していく。
有栖は黙って本を読む火村を眺め遣って、やはり本を読む人の姿を見るのは良いものだと思った。――本を読む君が好きや。時には目を輝かせて、時には難しい顔をしながら。いつも真剣な眼差しで文字を追う、その姿が。とても。
午後の柔らかな陽射しが差す静かな部屋に本のページを捲る音が密やかに響いて、二人の間は心地よい静寂と沈黙に満たされていく。
(了)
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