火アリSS

聲 -the color of your voice puts me to sleep-

 脇の下に挟んでいた体温計が小さな電子音を立てる。取り出してみると表示された数字は37.6だった。
「微熱だな」
 ベッドの傍らに立っていた火村が有栖の手元を覗き込むと体温計を取り上げてケースに仕舞う。
「気持ち悪いとか、頭痛がするとか喉が痛いとかは?」
「大丈夫や。どこも痛くあらへんし、気持ち悪いとかもないわ。ちょっと熱あるせいか躰は怠いけど」
 躰に若干の違和感があったが、それは敢えて言わずに伏せていた。原因は判りきっていたので。すると火村は眉根を寄せて「やっぱりお前に無理させちまったみてぇだな」ごめんとしおらしく謝罪を口にする。彼に犬の耳と尻尾があったなら、力無く垂れ下がっているだろう――有栖はそんな想像をして密かに微苦笑を漏らす。
「謝らんで。別に君のせいちゃうやろ。慣れないことしたからちょっと躰がびっくりしただけや。一晩寝たら熱も下がるやろ」
 昨夜。
 初めて有栖は火村に抱かれた。準備は入念にしてあったし、火村も決して乱暴にはしなかった。寧ろ有栖が驚くほど丁寧で優しかった。あんまり優しくされたので思わず泣いてしまったくらいだ。いい歳をした中年のおっさんが、乙女じゃあるまいし、と思わないでもなかったが、しかし確かに愛されているという感動は否定できなかったし、したくなかった。それを否定することは火村の想いまでも否定することになり兼ねない。
 有栖としては心も躰も充分に満たされた行為だったものの、どうやら身体的には違ったらしい。今朝、目が醒めてみると妙に躰が怠く、もしやと思って熱を測ってみたら――というわけである。風邪らしい症状が一切ないので、思い当たる原因といえばやはり昨晩のセックスくらいしかない。どれだけ優しくされても、また相手を受け入れるために幾ら躰を慣らしても、肉体的な負荷がゼロになることはないのだと今更のように思い知って男同士の性愛の難儀さをまざまざと見せつけられた気分だった。火村も有栖と同じことを考えていたのか「今後はお前にはもう、」語尾を濁して神妙な面持ちで呟いた。有栖に負担を強いてまですることではないと判断したのだ。すると「それ本気で言うてる?」鳶色の瞳が射竦めるように火村を見た。強い視線を放つ瞳が濡れてるのは微熱のせいだろうか。それとも。
「アリス、俺は――」
「うん、君が考えてることは判っとるし、それも優しさやと思うとるけど。だけど俺はまた火村としたいし、抱いて欲しい。恥を忍んで言うけど、昨日めちゃくちゃ気持ち良かったし、それ以上にえらい幸せやなって。大体、もうせぇへんて、火村は我慢できるん? 俺は無理やぞ。君のこと押し倒して襲ってまうわ」
 有栖は火村の深刻そうな顔色を拭うように努めて明るい口調で告げる。
「それに――」
「それに? なんだ?」
「――いや、やっぱなんでもないわ」
「なんでもなくないだろ。良いから言えよ」
 火村はベッドの傍に膝をつきながら言葉の先を促す。と、有栖は布団で口許を隠すように引き上げて視線を惑わし、躊躇いがちに言った。
「……えっと……その、肉体関係が無くなったら、またただの親友に逆戻りしそうで嫌やなって……」
 十年以上、彼に懸想して晴れて恋仲になったのだ。親友だった頃には赦されなかった距離をやっと手に入れたのにそれをみすみす手放すのはあまりにも悲しすぎるし、報われない。だって好きなのだ。世の中には性を含まないプラトニックな恋愛関係も存在するが、しかし有栖が求めているのはそれではない。好きだから慾情もするのだ。切り離すのは無理だ。――ニーチェだって言うてるやないか。愛は慾情することも赦すて。そんなことを有栖が布団の下でもごもご言えば「流石に俺だって好き合って一度寝た相手とただの親友に戻るつもりなんざねぇよ」火村は淡く微笑んでみせる。
「アリスの気持ちは良く判ったよ。また次も楽しみにしてる。とにかく今日はゆっくり休め。リビングにいるから、なにかあったら呼んでくれ」
 くしゃりと髪を撫でて立ち上がったところで火村待って――手を掴まれた。
「どうした?」
 穏やかに問うと「ちょっとでええから、本読んでくれへん?」気恥しいのか有栖は僅かに視線を逸らしたままねだった。
「本を?」
 まるで子供みたいだな――思いがけない恋人のお願いに目を丸くする。
「駄目やったら、別にええけど」
「駄目じゃねぇけど。理由は知りたいかな」
「俺な、君の声好きやねん。ええ声しとるなあって。講義しとる時の張りのある声も、フィールドワーク中の真剣な声も、犯人を前にした時の厳しい声も、昨日みたいな……優しくて、甘い声も。なんや聞ぃとって安心するんや。そうやなあ、喩えるんやったら火村の声は深くて綺麗な青色やね」
「そこまで作家先生にお褒め頂き光栄だな」
 火村はぼんやり考えてみる。――アリスの声は淡い檸檬色かな。相手を包み込むような優しい色をした声。
「それで。――なにを読んだら良い?」
「なんでもええよ。適当に選んでくれ」
 火村は本棚の前に立って物色する。ミステリー作家らしく、自分の本棚とは違って小説類が多い。趣味なのか資料なのか、古今東西の推理小説のトリックを集めた本や実際の殺人事件に纏わる本まである。それは火村も一度読んだことがあるものだ。有栖はなんでも良いとは言ったが、流石にこの手の本は朗読には向かないだろう。何かそれらしい本はないかとあれこれ見ていると文庫本が並んでいる棚にお誂え向きのものが見つかった。火村はその本を取り出してページを捲る。
「お前もこういうの読むんだな」
 火村が手にしているのはサン=テグジュペリの『星の王子さま』だ。言わずと知れたフランス文学の名作である。
「ああ、それか。前に久し振りに読みたくなって買うたんや」
 以前、書店で棚を見て回っていた際、『星の王子さま』を偶々目にしてふと火村が子供の頃、天体望遠鏡が欲しかったという言葉を思い出したのだ。少年の彼がどんなふうであったのか有栖が知る由はないが、何となく“星の王子さま”のイメージが重なるような気がした。――そんなことを言えば変な顔をされそうなので黙っているけれど。
「ふうん。懐かしいな」
 火村は本を片手にベッドの傍に腰を下ろすと適当にページを開いて読み始める。
「『……王子くんがねつくと、ぼくはすぐさま、その子をだっこして、またあるきはじめた。ぼくは、むねがいっぱいだった。なんだか、こわれやすいたからものを、はこんでるみたいだ。きっと、これだけこわれやすいものは、ちきゅうのどこにもない、とさえかんじる。ぼくは、月あかりのもと、じっと見た。その子の青白いおでこ、つむった目、風にゆれるふさふさのかみの毛。ぼくはこうおもう。ここで見ているのは、ただの〈から〉。いちばんだいじなものは、目に見えない……』」
 金色に透き通る秋の陽光が差す部屋に穏やかなバリトンが落ちる。有栖は目を閉じ、耳を欹てて火村の声音に身を委ねた。時折、本のページを捲る音がする。とても静かで満ち足りた空間。酷く心地好く、有栖の意識を睡りに誘う。
「……『これは、ぼくにとって、せかいでいちばんきれいで、いちばんせつないけしきです。さっきのページのものと、おなじけしきなんですが、きみたちによく見てもらいたいから、もういちどかきます。……』」
 紙面に視線を落としていた火村はふと、微かに聞こえる寝息に顔を上げてベッドを見た。恋人は安らかな寝顔を晒していた。本当に子供みてぇだな――頬を緩めながら心做しか少しだけ幼く見えるその顔を眺めて本を閉じると、白い額に唇を落とした。
「おやすみ」

(了)
 
 
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