火アリSS

fragment

――あゝ! あたしはたうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン、お前の口に口づけしたよ、お前の脣はにがい味がする。血の味なのかい、これは? ……いゝえ、さうではなうて、たぶんそれは恋の味なのだよ。恋はにがい味がするとか……でも、それがどうしたのだい? どうしたといふのだい? あたしはたうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン、お前の口に口づけしたのだよ。
(サロメ/オスカー・ワイルド 福田恆存訳)


 火村がソファで寛ぎながら缶ビールを呷っていると床に座って爪を切っていた有栖から「痛ッ」鋭い声が上がった。
「あーやってもうた」
 有栖は顔を顰めながらティッシュを取って血が滲んだ指先を拭う。大丈夫かよ――火村は缶ビールを手放して有栖の向かいに腰を下ろすと見せてみろと右手を掴む。
「随分短く切ってるな。切りすぎじゃねぇか、これ」
 出血している薬指も含め、既に切り終えている左手の五指全て爪先の白い部分が無く、深爪になっていた。と、有栖の目が泳ぐ。
「……この間思い切り背中やら腕やら引っ掻いたやろ。だから、」
 有栖が言っているのはベッドでのことだ。前回のセックスの最中にそのつもりがなかったとはいえ、火村に怪我を負わせてしまったことを気にしていたのだ。
「別にあれくらいなんともねぇよ。寧ろああいう色っぽい傷は大歓迎だけどな」
 火村がにやけながら言うと「阿呆か」照れ隠しで有栖が毒突く。見れば、Tシャツの袖から覗く右腕にあったはずの引っ掻き傷は綺麗に治癒して跡形もない。それが少し口惜しいだなんて。刹那、兆した独占欲にも似た思いに有栖は内心で自嘲した。――俺もすっかり焼きが回ったもんや。そんなことを意識の片隅でぼんやり思っていると火村が爪切りを手にして「切ってやるよ」中指の爪をぱちんと切り落とした。白い欠片が広げたティッシュの上に落ちる。
「火村も結構爪短いな」
 深爪とまではいかないが綺麗に切り揃えられた爪先はきちんと手入れがされて清潔感があった。
「そりゃ大切な恋人を傷付けたくないからな」
 何でもないように告げる言葉に有栖の心臓が俄に跳ねる。いつも彼が触れる場所は躰の表面だけではない。繊細な裡側まで隈なく触れるのだから爪の短さに拘り、気を遣うのは当然だ。――この手と指が。有栖は改めて火村の手を眺める。自分のそれと比べて少しだけ大きく、長い指を持つ手は形が佳い。どうやら容姿の良さは躰の末端にまで及ぶらしい。力仕事とは無縁そうなやや肉の薄い手だが、手の甲に浮いた血管や筋を見るとやはり紛れもなく男の手だと実感する。と、視線に気が付いた火村がちらと目線を上げて一瞥した。
「なんだよ、アリス。そんなにじろじろ人の手を見て」
「火村の手は格好のええ手やなあと思うて」
「そんなところを褒めるのはお前くらいだろうよ」
 言いながら有栖の親指の爪を切り終えて残骸をティッシュに丸めてゴミ箱へ捨てる。有栖は短く礼を告げてから「まあそれはある意味俺の特権やね」自由になった右手で火村の左手を握った。彼の手の美しさや優しさを知っているのは自分だけで良い――特に後者は。どんなふうに触れて、この躰を愛するのか。誰にも教えたくない。ずっと自分だけのものにしておきたい。そう、ずっと、死ぬまで。
「君の手が好きや。綺麗で勤勉で、慈しむことを知っとる手や。あんまり優しいから時々泣きたくなる」
 有栖の言葉は真摯な響きをもって火村のと胸を衝いた。思いがけない恋人からの告白に瞠目した後、ふと淡い笑みを浮かべる。――すげぇ殺し文句。
「……それは、アリスも同じだろ」
 握られた手を、今度は指を絡めて繋ぐ。この手を喪うことが一番恐ろしいと火村は思う。必死で掴んだ愛しい人の手は命綱に等しい。そして己の暗部に差し込んだ一筋の光でもある。愛を営むその手を他の誰でもない自分だけに差し出して欲しいと切望してしまう。また、いつでも直ぐ手の届くところに在って欲しいとも。
「文学作品で女の片腕を一晩借りる話があるけど、俺も火村の躰からどこかひとつ選んで借りるんやったら腕やね。手だけでもええけど」
「借りてどうするんだ?」
「作品の中の男みたいに自分の腕と付け替えてみたり、添い寝したり、お喋りしたりとか」
「それだったら俺本体で良いじゃねぇか。片腕だけじゃ寂しいだろ」
「寂しいんは君の方ちゃう?」
 有栖がにんまり笑いながら問うと火村は一瞬言葉に詰まってから「そうだよ」諦めたように頷いた。俺はアリスがいないと寂しい――真顔で言うと目の前の恋人は困惑したように眉根を寄せて薄らと目許を染める。有栖はいつもこうだ。自分から仕掛けてくるくせにこちらが真面目に応じると恥ずかしがったり、照れたりするのだ。そういうところも火村の気に入るところではあるのだが。
 火村は繋いだ有栖の右手を無為に弄ぶ。自分のそれより筋張ってなくて血管も目立たないが、それでも女性のものとはまるで違う。肉の薄い、男の手だと思う。この手が背中にしがみつき、腕に縋り付く時の温度や強さを知っている。それから優しく髪をくしけずる仕草も。有栖の手が愛おしかった。そんな思いを巡らせながら、火村は徐に口を開く。
「犯罪に於いても相手の躰の一部を切断して持ち歩くという事例は珍しくない」
「せやな。有名な事件やと阿部定事件かな、やっぱ。映画や文学作品のモチーフになってるくらいやし」
「ああ。あの事件は切断して持ち去った部分が部分だけに強烈な印象があるし、当時もセンセーショナルに報道されたようだけど、でも犯行動機はそこまで奇異じゃない」
 記録によれば良くある痴情のもつれだが、被害者の「俺が寝ている間に首を絞めろ。絞め殺し始めたなら痛いから今度は手を止めてはならない」というやや不可解な証言もあったらしい。
「彼女は局部を持ち去った理由として『私は彼の頭か体と一緒にいたかった。いつも彼のそばにいるためにそれを持っていきたかった』と答えてるけど、俺もどこかひとつを選ぶなら頭部だな。隠し持つにはサイズが大きくて少し苦労しそうだけど」
「理由はなんや?」
「キスできるから」
「思ってたより平凡な理由やな」
「面白みのない答えで悪かったな。――好きな人の顔をいつまででも好きなだけ眺めていられるのは気分が良いし、話しかけたら会話してるような気分にもなるだろ。それに好きなだけキスもできるんだから、最高じゃねぇか。肉が崩れてしまっても骨は残るし、やろうと思えば粘土を使って顔も復元できる」
 火村がつまらなそうに片頬を攣らせると「ふうん、なるほどなあ。けどキスできるからなんて、まるでサロメみたいやな」有栖はふと思い出したように言う。
 サロメは新約聖書を題材に書かれた戯曲である。預言者ヨカナーンに恋をしたサロメが王の要求を叶えた見返りに望んだのが彼の首だった。サロメはヨカナーンの首を手に入れるとかねてから望み、誓っていた口付けをするのだ。
「サロメがヨカナーンに口付けして、お前のくちびるは苦い味がする、それは恋の味だっていうシーンがあるんやけど、ちょっと納得したわ」
 火村とキスをする時は大体薄らと煙草のフレーバーがするので。初めて口付けを交わした時もほろ苦い味がしたのを憶えている。尤も、有栖も極々稀に彼から貰い煙草をして吸うので特に気ならないし、匂いも含めて彼だと思っているから今更禁煙しろと言う気もない。ただ躰のことを考えて少しは減煙しろと思うくらいだ。有栖がそう言うと、じゃあ今は? ――火村の顔が近付いてきて軽く唇が触れた。
「……ビールの味やね」
 有栖が笑いながら答えると「そこは恋の味がするって言うところだろ」火村も小さく笑う。
「そんなら、やり直しやな」
 今度は有栖の方から形の佳い唇にキスをする。――ああ、キスしてる時の表情かおも好きや。
「……アリスの味がする」
「なんやねん、それ」
「なあ、アリス」
 何かをねだるように火村は有栖の指先に唇を押し当て、舌先で舐めた。その仕草にさっと有栖の頬が紅潮する。彼が何を求めているかなんて判りきっている。そのために爪も切り揃えたのだし。有栖は火村を抱き締めるとベッドまで連れていって――耳元で甘く囁いた。

(了) 
 
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