火アリSS

I love youの訳し方

アスファルトに硬質な二人分の足音が響く。街灯にあおぐろく投射される並んだ影は時折、輪郭が溶け合う。その影の距離感はそのまま、有栖と火村の関係性を表しているようだった。
 外で飲んだ帰りである。酔い醒ましも兼ねて少しだけ遠回りをして二人は有栖の自宅マンションを目指していた。
「夜は少し涼しくなったなあ」
「そうだな。早く日中も涼しくなって欲しいもんだ」
 アルコールに火照った肌を秋の気配を孕んだ夜気が柔らかく撫でていく。
「お。お月さん、綺麗やな」
 ふと視界に入った欠けた月を見て有栖が呟く。星が殆ど見えない夜空にぽっかり浮いた月は滴るようだ。
「――月が綺麗ですね。これ、火村やったらなんて訳す?」
「なんだよ、藪から棒に」
 火村はやや顔を顰めて悪戯っぽい笑みを浮かべている有栖を見遣った。
「ほれ、夏目漱石がI love youを“月が綺麗ですね”って訳したんは有名やろ? まあそれもほんまかどうかは怪しいらしいけどな。で、我が学者先生はなんて訳すんかなあと」
「またお前はくだらねぇこと考えてるな」
 大袈裟に溜息を吐いてみせると「ええやん、後学のためにここはひとつ」調子良く有栖は笑う。――こいつ、結構酔ってるな。全く、どうしようねぇ。いや、どうしようもないは自分も同じか。
 火村は冴やかな月に目を放ち、瞳に映す。弧を描く月輪の輪郭が微かに蒼く燃えている。それを真っ直ぐ見据えたまま。
「――一生、傍にいたい」
 静かに告げられた言葉に有栖は搏たように瞠目した。その言い方はまるで――どくりと心臓が脈打つ。
「なんやて?」
 有栖が聞こえなかったふりをして再度問うと火村は「だから、一生傍にいたいって訳す。俺なら」どこかつまらなそうに言った。一瞬、張り詰めた空気がほどけていく。
「意外と熱烈やな。文豪も真っ青や」
「で? アリスは? こういうのは作家先生の本分だろ」
「そうやなあ。二葉亭四迷は“もう死んでもいいわ”なんて訳したらしいけど。俺やったら“一緒に生きたい”にするわ」
 どや?と有栖が目で窺うと「作家先生にしては捻りがねぇな」まあお前のボキャブラリーじゃそんなもんかと肩を竦めてみせる。
「失敬やな。そもそも婉曲すぎて伝わらんかったら意味あらへんやろ」
「確かに。お前、鈍いからな」
「――鈍いのはどっちやねん」
 俺はちゃんと答えたで――火村の顔を覗き込むと黒い瞳が僅かに見開かれ、瞬きする。
 火村が告げたI love youへのアンサー。
 ――一生傍にいたいなら一緒に生きてくれ。
「本当にお前には敵わねぇよ、アリス」
 降参だと火村は苦笑いをして。
 夜の底に落ちる二つの影の輪郭が溶け合い、少しの間、静かに重なっていた。
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