夏宵ヘルタースケルター

滑らかに自動ドアが開いて来客を告げる電子音が鳴る。いらっしゃいませーと店員の平坦な挨拶に迎えられて足を踏み入れた先は有栖の自宅マンションに程近いコンビニだった。
「はあ、涼しい〜」
 蒸し暑い中、最寄り駅から歩いてきたせいもあって火照った躰にはコンビニ店内の冷気が気持ち良かった。Tシャツにジーンズという、珍しくラフな格好の火村も――相変わらず碁石ファッションであるが――同じらしく、汗ばんだ肌を撫でる冷風にほっと躰を緩めていた。
 有栖はカゴを手にすると店の奥に進み、ずらりと並んだ飲料の冷蔵庫の前に立つと視線を彷徨わせて吟味する。やや遅れて彼の隣に立った火村は扉を開けると迷わず烏龍茶のペットボトルを手に取った。
「なんや、うち来て飲みなおさないんかい」
「ああ、俺はもう充分だ」
 先刻まで新しくオープンしたスペインバルで小料理に舌鼓を打ちながらワインを飲んでいたのだが、火村は大して飲んでいなかったし、お前んに寄って行くと言ったので有栖としてはのんびり自宅でビールでも飲むものだと思っていたのだが。
 げっ――有栖はカゴの中に放り込まれたものを目にして頬を攣らせた。
 烏龍茶のペットボトルの横に。黒い小さな箱。銀色に光る0.01の文字。これがなんであるかなんて判り切っている。
「お、おまっ、なんてもんを……っ」
 人目がなかったら盛大に喚いていたであろう。有栖は声量をどうにか抑えながら顔を顰め、呑み込んだ言葉に口をぱくぱくと開閉させた。一方、火村は涼しい顔色で「もう無かっただろ」思春期の子供のような反応をするのは大人としてどうかと思うぜ――冷ややかな目を恋人に向けた。
「いや、そらそうやけどっ」
 そこで漸く思い至った。火村が酒量をセーブしていた理由を。家に寄りたいと言った訳も。彼は始めからそのつもりだったのだ。有栖とて全く考えなかったわけではないけれど。食事をして酒を飲んでいるうちに恋人らしいデートというより、いつもの、気の置けない友人同士の付き合いといった気安い雰囲気にすっかり馴染んでしまっていたのだった。
「一服してくる」
 火村はバックポケットから財布を抜き取ると有栖に押し付けるように手渡し、踵を返して店を出て行く。有栖は半ば呆気に取られながら真っ直ぐな背中を見送ると、溜息をひとつ吐いて冷蔵庫の大きな扉を開けてコーラのペットボトルを手に取った。流石にもう酒を飲む気は失せていた。
 ちらと硝子越しに店の外を見遣ると喫煙スペースで煙草を吹かしている火村の姿があった。どこか遠くを見詰めるような目付きは気怠そうで、何とも形容しがたい色気があった。――ほんまなんでもいちいち様になる奴やな。と、目が合った。硝子の向こうで火村はにたりと意地悪そうに笑う。有栖は慌てて顔を背けると商品を探す振りをして適当に棚を見て回った。ある棚の前に立った時、ふと目に止まったものをカゴの中に入れてレジへ向かう。当然のように会計は全て火村の財布から出した。

 ◆◆◆

「――それで。何が悲しくていい大人が児童公園で花火をしなくちゃならねぇんだ」
 火村は呆れたように言いながら有栖に持たされた手持ち花火をつまらなそうに眺めた。彼の問いは尤もである。
 彼等はコンビニで買い物した後、近くの公園に立ち寄った。というより、有栖が問答無用で火村を引き摺って行ったという方が正確であろう。火村としては有栖の部屋で涼みつつ、恋人同士らしい時間を過ごすつもりでいたのだが。
 午後九時を過ぎているせいか、児童公園は人気が皆無だった。ぽつんとブランコの傍に佇立する街灯が詫びしげに光を放つ様が夜の寂寞を深めていた。
 有栖は火村から借りたライターで付属品の蝋燭に火を着ける。風が無いせいか、すっかり夜の帳が降りても蒸し暑い。花火をするには好条件ではある。 
「コンビニで見かけたらなんか懐かしゅうてな。ほれ、学生の頃、飲み会の後に皆で花火したやろ」 
「そう言えば、そんなこともあったな」
 大学生時代、有栖と出会ってからはそれなりに人付き合いをして楽しんでいたように記憶している。飲み会だ合コンだと何かと誘われることも多かったが、その時は大抵有栖も一緒だった。良く二人でつるんでいたせいか“火村と有栖川はデキている”という、とんでもない噂が立ったこともある。今となってはそれも事実なのだが。当時、根も葉もない風聞を面白半分に舌へのせていた者達が現在の自分達の関係を知ったら、どんな顔をするのだろう。やっぱりとしたり顔で頷くか、目を剥いてフリーズするか。人によっては卒倒するかもしれない。――何がともあれ、懐かしい昔の話だ。
「これは過ぎ去った青春をもう一度、という趣向なのか?」
「別にそういうことやないけど。たまにはええやん。夏っぽいことしようや」
「夏っぽいことね」
 他にもそれらしいことはあると思うが――とは言わず、火村は有栖の傍に身を屈めると付属品の使い捨てのバケツに説明書き通りに薬品を投じ、園内の水道で水を入れた。固形消火剤の出来上がりである。
「昔はこんな使い捨てのバケツなんて付いてなかったのにな。便利になったもんだ」
「せやな。俺等の時はいちいちバケツ用意して誰が持ち帰るかでじゃんけんしたりしてな」
 有栖は過去を思い出して小さく笑うと手に持った花火の先端を蝋燭に近付けた。火が移り、鮮やかな翠緑の火が勢い良く噴き出た。もうもうと白煙が夜陰に漂い、火薬が燃える特有の匂いが鼻先を掠めていく。火村も手にした花火に火をつける。目に沁みるような火明かりは皓々と夏夜を彩った。有栖は燃えて弾ける花火を万年筆のように漆黒の虚空へ滑らせる。
「今、なんて書いたと思う?」
「さあな。ちゃんと見てなかったから判らねぇよ」
「じゃあもっかい。――これはどうや?」
「有栖川有栖は天才、か?」
「お前それ、適当に言ってるやろ」
「心外だな。俺はいつだって大真面目だぜ。――じゃあ、愛してる、とか?」
 途端に有栖はおかしそうに噴き出した。
「あ、愛って。火村の口から愛は似合わんなあ」
「失礼な奴だな。大体、こういうのは“愛してる”というのがセオリーだろ」
 腹を抱えて笑う有栖に対して火村は面白くなさそうに口許を歪める。ほんま君は見かけによらずえらいロマンチストやなあ――まだ笑ってやがる。この野郎。
「有栖川先生ほどじゃねぇよ」
「なんや、怒ったんかい」
 有栖は燃え尽きた花火をバケツの中に放り込むと傍らにあったベンチに腰掛けた。火村も花火の残骸をバケツの中に突っ込むと溜息を吐いて有栖の隣に座った。
 華やかな火明かりが消えた夜闇は元の静けさを取り戻す。微風そよかぜに蝋燭の火が揺らめいて、ふっと消えた。昏い街灯の光が二人を照らす。夜空に月はなかった。
「――好きや」
 唐突に呟かれた言葉に、視線を落としていた火村は目を見開いた。
「は」
「――って書いたんやけど」
 右隣に目を向けると恋人は俯いていた。こちらを見ようとしないのは羞恥心故か。光源が乏しいせいもあって良く判らないが、顔が赤い――気がする。
「真逆それを言うために」
「それはちゃうわ。さっきも言うたやろ。店で見かけて懐かしゅうなっただけや。で、花火しとったら色々と思い出してな。俺はやっぱ火村のこと、ずっと前から好きやったんやなって」
 友人から恋人という関係に至ったのは火村の告白による。いつものように近況報告をしながら酒を飲んだ帰りだった。
 底冷えするような寒い、冬の日。
 天に掛かった満月が火村の肩越しで蒼く燃えていたのを有栖は良く憶えている。
 ――好きだ。
 つまらない冗談はよせ――そう、笑い飛ばすつもりでいたのに。できなかったのだ。彼が今にも泣き出しそうな表情かおをしていたから。あんなに切なそうに、濡れた瞳を眇めて真っ直ぐに見詰めるその眼差しに。有栖は霹靂にたれたようになって文字通り動けなくなってしまった。
 何か言わなければ。何か、何か、今すぐに。そうしなければ、火村はこのまま。
 あらゆる語彙が吹き飛んだ頭で考えた末、結局有栖は何も口にしなかった。無言のまま、強引に火村の頭を引き寄せてキスをした。初めて交わしたキスは薄らと煙草のフレーバーがした。
「流石にあんなところで告白されるとは思わんかったけどな」
 火村の場合、想いを告げるならもっとそれらしい場を選んだり、入念に下準備をするだろうと思っていたのだが。それに告白の言葉だってもっと他に言い方があるように思う。そんなことを有栖が言うと「仕方ねぇだろ。あの時言いたくなったんだから。それにお前は鈍感だから、回りくどい言い方だと伝わらないと思って」火村は何でもないことのように告げた。
「鈍感て、お前な」
「だってそうだろ。俺がそれとなくアピールしてんのにちっとも気付きやしねぇ」
「そ、それは火村のやり方が悪いんや」
 売り言葉に買い言葉、勢いでそう言ってしまった手前、一体いつ何をどうやってアピールをしていたのか、有栖は訊くに訊けなくなってしまった。じゃあそういうことにしといてやるよ――火村はベンチから立ち上がると地面に広げた手持ち花火から線香花火を一つ手に取る。
「俺はお前のように多くの言葉を知らない。だから」
 長年募らせた想いは、どうしたって“好きだ”としか言い表すことができなかった。胸の裡に渦巻き、時として嵐のように逆巻く激情。誰かを想うことがこんなにも激しさを伴うとは予想だにもしなかった。好意も憎悪も殺意すら、ただベクトルが違うだけで想いの激しさは皆同じなのだと身を持って知った、青い春の日。
 有栖も火村の横にしゃがみ込むと線香花火を手に取った。
「――けど、火村のあの告白はぐっときたな」
 やや驚いた表情を浮かべている火村に有栖はにんまりとした笑みを向ける。
「気障ったらしい言葉をあれこれ並べられるよりもずっとええ。真実味があるやろ」
 時として言葉は重ねすぎると真実から離れていく。何か安っぽく、嘘臭くなるのだ。
 火ぃ着けてくれ――促されて火村はライターで差し出された線香花火の先端に着火する。同じように自分の分にも。パチパチと繊細な火花が散る。
「お前が寄越した言葉があまりにも衝撃的だったもんやから、俺はあの瞬間、全部の言葉を忘れてしもうた」
「だからいきなりキスしたのか?」
「まあ、そうやな。言葉より判り易いもんて言うたら、ああするのが一番やなって」
 実際はそこまで考えてはいなかったけれど。
 火村がどうしようもない衝動に駆られて告白をしたように、有栖もまた抑え難い衝動に突き動かされて行動をしたのだ。雰囲気も何もあったものではない。だが、あの始まり方は友人の期間が長かった自分達には相応しく、またそうでもしなければ恋人同士にもなれなかっただろう。ずっと燻る想いを抱えたまま。本人すら予期しない勢い――ある種のバグが人生を変えるのだ。
「俺が突然キスした時の君の顔、傑作やったわ」
 ――これ以上ないくらいに目を見開いて。
 呆然としていた。
「あれが正真正銘、鳩が豆鉄砲を食ったような顔て言うんやなあ」
 今思い出しても笑えると有栖は含み笑いをする。
 やがて線香花火は激しく火花を散らす松葉から、しなだれるように細くなる柳へと変わる。火花が尽きたら最後は火球――散り菊へ。
「どっちが長く保つか、競争や」
 有栖は楽しそうに告げると極力手元を揺らさないようにしてじっと身を固くする。息すら殺して。子供の遊びのような――事実遊びだが――勝負事に本気になっている姿がおかしいやら可愛いやら。自然と火村の頬が緩んだ。自分も大概だ――と思う。どうにも恋愛は人を莫迦にさせるらしい。それならば。
「――アリス。愛してる」
「あ゙」
 ぽたりと有栖が手にした線香花火の先端から火球が落ちた。
「俺の勝ちだな」
 火村が涼しい顔で言うと有栖は心底悔しそうに口許を歪めて「火村! お前なんか、こうやっ!」強引に彼の頤を捕らえて唇を塞いだので。
 瞠目する火村の手の先で静かに燃えていた火球は音もなく地面へと落下し、潰えた。

(了)
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