記憶の彷徨、赤い糸の行方
おれには人に言えない秘密がある。うっかり口にでもしたら頭がどうかしていると思われてしまうような。だが、それは紛れもない事実であり、現実だ。だからおれはこの存在を信じる。絶対的に信じて疑わない。左手の小指に絡んだ赤い糸と、遠い昔の記憶と、あの人の存在を。
それは物心がついた時からあった。左手の小指の根元に結ばれた赤い糸。この糸の先がどこに繋がっているのか、当時は想像もし得なかったし、意味も知らなかった。ただ何となく、赤い糸は自分にだけにしか見えず、また実存しないのだと幼心に悟っていた。
この糸の意味を知ったのは妹に御伽噺の本を読んでやった時だった。己の運命の人が赤い糸の先にいるのだと。その瞬間、膨大な映像が脳内に流し込まれるようにして、前世の記憶が還ってきた。
海賊として生き、仲間と世界中の海を航海したこと、自分の運命の意味を探して知り得たこと、珀鉛病に苦しみ、その病によって迫害され、人の手によって消された故郷フレバンス、優しかった両親、明るくてお転婆だった妹のラミ、命からがら辿り着いた海賊団 ドフラミンゴ、そしてコラさん。
あの日、笑顔で愛してると告げて死んでいったコラさん。命と引き換えに、おれに全てを与えてくれた大好きな人。絶対に死んで欲しくなかった人。一緒に生きたかった人。最愛の人。愛そのもの人、コラさん。
おれを生かし続けた彼は確かにおれの心臓だった。胸の奥でいつも彼の心臓が息づき、燃えていた。だから何があってもおれは歩みを止めず、きっと彼ならこうしていたはずだと、前に進めていたのだ。前世での生を誤ることなく全うできたのもコラさんのお陰だ。何もかも、あの人がいたから。
それなのに前世では彼に何も返せなかった。おれも愛してると直接伝えることすら叶わなかった。だからこうして前世の記憶を取り戻したのは、この赤い糸があるのは、きっとどこかでコラさんがおれのことを待っていて、かつて伝えられなかった想いを告げよ、彼の愛に報いよとの前世 からのメッセージなのだ。もっと言えば、隣町で落ち合おう――あの時の約束を果たす時がきたのだ。数百年の時を経て。
今度こそコラさんと再会して、おれもずっと愛してると伝えたい。ずっとずっと、アンタが恋しくてならなくて、夢にまで見て求めていたんだと。
記憶を取り戻してからというもの、おれは狂おしいまでの思慕に突き動かされて、コラさんを探し始めた。コラさんは絶対にいる――おれがこの世にいるのなら、あの人だっているはずだ。だって彼はおれの運命の人だから。もしそうでないと言うのなら、何を捻じ曲げてでも、この手で運命にしてみせる。取るべきイスは必ず奪う。欲しいものは絶対に手に入れる。
しかし、予想に反して現実は厳しかった。左手の小指に絡んだ赤い糸を辿っていけば必ずコラさんに会えると信じていたが、肝心の糸が一体どこまで続いているのか見当も付かないのだ。特にガキの頃は行動範囲が限られているし、家族にこのことを知られる訳にはいかず――妙な心配も疑いも持たれたくなかったので――困難を極めた。
学校が休みの度に図書館へ行くと家族に告げ、貯めてあった小遣いで電車に乗り、市外まで足を伸ばした。長々と電車に揺られ終点で降りて見知らぬ土地を長く伸びながらも決して絡まることない運命の糸を頼りに歩き回った。だが歩けど歩けど、糸の先端に行き着くことはなく、コラさんを見付けることはできなかった。どうやら彼はもっと遠くにいるらしい。もしかしたら、国内にいないのかもしれない。海の向こうにいるのかもしれない。それなら、飛行機に乗るまでだ。
おれは早く大人になりたいと願いながら――そうすれば国内外問わず自由に彼を探しに行ける――前世の記憶を反芻し、彼のことを想って日々を過ごした。
コラさんは今どこにいるのだろう。何をしているのだろう。穏やかに、幸せに過ごしているだろうか。相変わらずドジって煙草吸いながら肩燃やしてんのかな。何も無いところですっ転んだりして。心配だ。
口をきくようになってからのコラさんはとにかく賑やかな人だった。今まで一切喋らなかったのが嘘みてェに。良く喋るし、煙草を吹かしながら、あるいはおれを背負いながら、上機嫌に鼻歌を歌っている時もあった。耳慣れないそれに一体何の歌だと一度ならず訊ねたが、彼はただ微笑むだけで答えなかった。その旋律は今でも耳の奥に残っている。
珀鉛病が進行して酷い痛みで眠れない時も、コラさんはおれの気を少しでも紛らわせようとして、白い痣だらけの躰を優しく摩りながら子守唄を歌ってくれたこともあった。すると不思議と痛みが和らいで眠ることができたのだ。安眠においておれの右に出る者はいないと豪語したのは本当だった。思えばいつも、眠れない時はコラさんが抱き締めてくれていた。ガキ扱いするな、湯たんぽ代わりにするなと怒ったこともあったが、本当は彼の優しさがとても嬉しかった。
おれのために怒って泣いてくれたコラさん。
優しく笑いかけて大丈夫だと抱き締めてくれたコラさん。
愛してると言ってくれたコラさん。
コラさんにも前世の記憶があるのだろうか。おれを憶えているだろうか。もし、記憶がなかったら――それでも構わない。おれが全部憶えているから。少しも色褪せず、優しい温度を失わず、ずっと胸の奥で息づいて愛してると絶え間なく伝えてくる。愛してる。愛してる。愛してる。おれも、愛してる。愛してるよ、コラさん。
季節は移ろい、四季は巡る。
幾度も自分の誕生日を迎えながら、おれはコラさんを探し求め続けた。
街中で背が高い男性を見ればコラさんかと期待し、陽射しに煌めく金糸を視界に捉えたら彼だと錯覚し、懐かしい煙草の匂いを感じたら辺りに視線を巡らせる。長じて医者になってからは患者のカルテの中に彼の名前を探した。ネットでドンキホーテ・ロシナンテと検索をかけたこともある。それが駄目なら彼の兄の名前も。だが何れも、おれが欲しい結果を齎してはくれなかった。しかし微塵も諦めてはいなかった。寧ろより一層、激しくあの人を求める気持ちを掻き立てた。
必ず再会して愛してると伝える――それは殆ど狂的な感情、執念だった。今世伝えなければもうチャンスは二度とない――恐怖に似た感情さえ抱いていた。
そんな焦燥感に苛まれるおれを他所に、左手の小指には変わらず赤い糸が絡んでいた。これが彼に繋がる唯一の手掛かりだと思うと尚更、気が逸った。この糸が切れてしまわないうちに、消えてなくなってしまう前に、絶対にコラさんに辿り着く。おれが再びトラファルガー・ローとしてこの世に生まれたのも、全てはあの人に巡り会うためなのだから。
十二月も終わろうかという時に珍しく雪が降った。二十六回目の冬。コラさんを探し始めて十三回目の冬の日。
雪を見ると胸が切なく、苦しくなる。否が応にも降り頻る純白の中で独り息絶えたコラさんを思い出してしまうから。こんなにも冷たく、寒い中で、たった独りで彼を逝かせてしまったことを前世で何度悔いたことだろう。
街が白く染まっていく中、今日一日の仕事を終えたおれはふと何かに呼ばれた気がして教会へと赴いた。教会を訪れるのは随分と久し振りだった。ガキの頃は毎週日曜日の朝に行われるミサに参加していたが、長じるに連れて自然と足が遠のいていた。
白亜の教会は人気がなく、静かだった。堂内の静寂はある種の懐かしさを孕んで鎮座していた。先刻までミサがあったのか、薄らと香の匂いが漂い、祭壇で蝋燭が燃えていた。おれは真っ直ぐに伸びた身廊を進み、中程に至ったところで椅子に腰掛けた。正面の祭壇を見、掲げられた十字架を見詰める。自らを犠牲にし、全ての罪を贖った神の子にあの人が見せた最期の笑顔が重なった。途端に酷く敬虔な気持ちになり、おれは手を組み、頭 を垂れて、祈りを捧げた。
「天の父よ、御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が天で行われるように、地上でも行われますように」
――コラさんがたくさんの愛に包まれて、幸せでありますように。
ずっと笑っていて欲しい。
彼に涙は似合わないから。
コラさん、コラさん。
アンタ今どこにいるんだ?
今度こそアンタに会いたいんだ。愛してると言わせて欲しい。前世の分まで抱き締めさせて欲しい。コラさんに会えるのなら、もう何も要らない。命すら惜しくない。望んでいるのはアンタだけだ。なァ、コラさん。どうか、神様。
不意に左手の小指が引っ張られるのを感じて閉じていた目を開けた。と、背後で重たく扉が開く音が響く。おれは咄嗟に振り、目を瞠った。心臓が莫迦みたいに慄 えた。
それは物心がついた時からあった。左手の小指の根元に結ばれた赤い糸。この糸の先がどこに繋がっているのか、当時は想像もし得なかったし、意味も知らなかった。ただ何となく、赤い糸は自分にだけにしか見えず、また実存しないのだと幼心に悟っていた。
この糸の意味を知ったのは妹に御伽噺の本を読んでやった時だった。己の運命の人が赤い糸の先にいるのだと。その瞬間、膨大な映像が脳内に流し込まれるようにして、前世の記憶が還ってきた。
海賊として生き、仲間と世界中の海を航海したこと、自分の運命の意味を探して知り得たこと、珀鉛病に苦しみ、その病によって迫害され、人の手によって消された故郷フレバンス、優しかった両親、明るくてお転婆だった妹のラミ、命からがら辿り着いた
あの日、笑顔で愛してると告げて死んでいったコラさん。命と引き換えに、おれに全てを与えてくれた大好きな人。絶対に死んで欲しくなかった人。一緒に生きたかった人。最愛の人。愛そのもの人、コラさん。
おれを生かし続けた彼は確かにおれの心臓だった。胸の奥でいつも彼の心臓が息づき、燃えていた。だから何があってもおれは歩みを止めず、きっと彼ならこうしていたはずだと、前に進めていたのだ。前世での生を誤ることなく全うできたのもコラさんのお陰だ。何もかも、あの人がいたから。
それなのに前世では彼に何も返せなかった。おれも愛してると直接伝えることすら叶わなかった。だからこうして前世の記憶を取り戻したのは、この赤い糸があるのは、きっとどこかでコラさんがおれのことを待っていて、かつて伝えられなかった想いを告げよ、彼の愛に報いよとの
今度こそコラさんと再会して、おれもずっと愛してると伝えたい。ずっとずっと、アンタが恋しくてならなくて、夢にまで見て求めていたんだと。
記憶を取り戻してからというもの、おれは狂おしいまでの思慕に突き動かされて、コラさんを探し始めた。コラさんは絶対にいる――おれがこの世にいるのなら、あの人だっているはずだ。だって彼はおれの運命の人だから。もしそうでないと言うのなら、何を捻じ曲げてでも、この手で運命にしてみせる。取るべきイスは必ず奪う。欲しいものは絶対に手に入れる。
しかし、予想に反して現実は厳しかった。左手の小指に絡んだ赤い糸を辿っていけば必ずコラさんに会えると信じていたが、肝心の糸が一体どこまで続いているのか見当も付かないのだ。特にガキの頃は行動範囲が限られているし、家族にこのことを知られる訳にはいかず――妙な心配も疑いも持たれたくなかったので――困難を極めた。
学校が休みの度に図書館へ行くと家族に告げ、貯めてあった小遣いで電車に乗り、市外まで足を伸ばした。長々と電車に揺られ終点で降りて見知らぬ土地を長く伸びながらも決して絡まることない運命の糸を頼りに歩き回った。だが歩けど歩けど、糸の先端に行き着くことはなく、コラさんを見付けることはできなかった。どうやら彼はもっと遠くにいるらしい。もしかしたら、国内にいないのかもしれない。海の向こうにいるのかもしれない。それなら、飛行機に乗るまでだ。
おれは早く大人になりたいと願いながら――そうすれば国内外問わず自由に彼を探しに行ける――前世の記憶を反芻し、彼のことを想って日々を過ごした。
コラさんは今どこにいるのだろう。何をしているのだろう。穏やかに、幸せに過ごしているだろうか。相変わらずドジって煙草吸いながら肩燃やしてんのかな。何も無いところですっ転んだりして。心配だ。
口をきくようになってからのコラさんはとにかく賑やかな人だった。今まで一切喋らなかったのが嘘みてェに。良く喋るし、煙草を吹かしながら、あるいはおれを背負いながら、上機嫌に鼻歌を歌っている時もあった。耳慣れないそれに一体何の歌だと一度ならず訊ねたが、彼はただ微笑むだけで答えなかった。その旋律は今でも耳の奥に残っている。
珀鉛病が進行して酷い痛みで眠れない時も、コラさんはおれの気を少しでも紛らわせようとして、白い痣だらけの躰を優しく摩りながら子守唄を歌ってくれたこともあった。すると不思議と痛みが和らいで眠ることができたのだ。安眠においておれの右に出る者はいないと豪語したのは本当だった。思えばいつも、眠れない時はコラさんが抱き締めてくれていた。ガキ扱いするな、湯たんぽ代わりにするなと怒ったこともあったが、本当は彼の優しさがとても嬉しかった。
おれのために怒って泣いてくれたコラさん。
優しく笑いかけて大丈夫だと抱き締めてくれたコラさん。
愛してると言ってくれたコラさん。
コラさんにも前世の記憶があるのだろうか。おれを憶えているだろうか。もし、記憶がなかったら――それでも構わない。おれが全部憶えているから。少しも色褪せず、優しい温度を失わず、ずっと胸の奥で息づいて愛してると絶え間なく伝えてくる。愛してる。愛してる。愛してる。おれも、愛してる。愛してるよ、コラさん。
季節は移ろい、四季は巡る。
幾度も自分の誕生日を迎えながら、おれはコラさんを探し求め続けた。
街中で背が高い男性を見ればコラさんかと期待し、陽射しに煌めく金糸を視界に捉えたら彼だと錯覚し、懐かしい煙草の匂いを感じたら辺りに視線を巡らせる。長じて医者になってからは患者のカルテの中に彼の名前を探した。ネットでドンキホーテ・ロシナンテと検索をかけたこともある。それが駄目なら彼の兄の名前も。だが何れも、おれが欲しい結果を齎してはくれなかった。しかし微塵も諦めてはいなかった。寧ろより一層、激しくあの人を求める気持ちを掻き立てた。
必ず再会して愛してると伝える――それは殆ど狂的な感情、執念だった。今世伝えなければもうチャンスは二度とない――恐怖に似た感情さえ抱いていた。
そんな焦燥感に苛まれるおれを他所に、左手の小指には変わらず赤い糸が絡んでいた。これが彼に繋がる唯一の手掛かりだと思うと尚更、気が逸った。この糸が切れてしまわないうちに、消えてなくなってしまう前に、絶対にコラさんに辿り着く。おれが再びトラファルガー・ローとしてこの世に生まれたのも、全てはあの人に巡り会うためなのだから。
十二月も終わろうかという時に珍しく雪が降った。二十六回目の冬。コラさんを探し始めて十三回目の冬の日。
雪を見ると胸が切なく、苦しくなる。否が応にも降り頻る純白の中で独り息絶えたコラさんを思い出してしまうから。こんなにも冷たく、寒い中で、たった独りで彼を逝かせてしまったことを前世で何度悔いたことだろう。
街が白く染まっていく中、今日一日の仕事を終えたおれはふと何かに呼ばれた気がして教会へと赴いた。教会を訪れるのは随分と久し振りだった。ガキの頃は毎週日曜日の朝に行われるミサに参加していたが、長じるに連れて自然と足が遠のいていた。
白亜の教会は人気がなく、静かだった。堂内の静寂はある種の懐かしさを孕んで鎮座していた。先刻までミサがあったのか、薄らと香の匂いが漂い、祭壇で蝋燭が燃えていた。おれは真っ直ぐに伸びた身廊を進み、中程に至ったところで椅子に腰掛けた。正面の祭壇を見、掲げられた十字架を見詰める。自らを犠牲にし、全ての罪を贖った神の子にあの人が見せた最期の笑顔が重なった。途端に酷く敬虔な気持ちになり、おれは手を組み、
「天の父よ、御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が天で行われるように、地上でも行われますように」
――コラさんがたくさんの愛に包まれて、幸せでありますように。
ずっと笑っていて欲しい。
彼に涙は似合わないから。
コラさん、コラさん。
アンタ今どこにいるんだ?
今度こそアンタに会いたいんだ。愛してると言わせて欲しい。前世の分まで抱き締めさせて欲しい。コラさんに会えるのなら、もう何も要らない。命すら惜しくない。望んでいるのはアンタだけだ。なァ、コラさん。どうか、神様。
不意に左手の小指が引っ張られるのを感じて閉じていた目を開けた。と、背後で重たく扉が開く音が響く。おれは咄嗟に振り、目を瞠った。心臓が莫迦みたいに