記憶の彷徨、赤い糸の行方

 人には決して言えないが、おれには前世の記憶がある――。
 一番最初の古い記憶は多くの海賊達が大海原を荒らし回っていた時代だ。おれはこの時代に世界貴族として生まれ、人々から迫害を受け、家族を喪い、養父となる男に拾われて海兵になり、海賊となった兄と対峙し、そして五発の鉛玉で殺された。享年二十六歳。短い人生だったが、悪くない一生だったと思う。たくさんのものを喪い、センゴクさんまで裏切ってしまったけれど、でもそれで良かったんだ。センゴクさんには悪ィけど。あの人ならきっと判ってくれると思うから。だっておれの父上だし。
 ただ一つ悔いがあるとしたら、ローを独りで放り出してしまった点だ。おれのとても大切な、愛し子。大好きで目に入れても痛くねェくらい、可愛い可愛いロー。隣町で落ち合おうってできもしない約束をして、彼を宝箱の中に隠した。あいつが生き延びる方法はそれしかなかったとはいえ、我ながら随分と酷い嘘を吐いたもんだ。ローのことだから、きっと激しく怒っただろうな。嘘吐きコラソンって。ずっと待ってたのにと聡い金色の瞳を怒らせて。詰られても殴られても文句は言えねェし、おれはただただ謝ることしかできねェ。ロー、ごめん。ごめんな。おれはお前にたくさん嘘吐いちまったけど、でも愛してるのは本当だ。あんなに誰かを強く愛しく思ったのはローが初めてだったし、お前だけだ。絶対に嫌われたくないって恐れていたのも。恋というには激しすぎて愛と呼ぶにはあまりにも我が強すぎた。それでも確かにおれはローを愛してた。ローは愛そのものだったから。
 なァ、ロー。おれの愛はお前に届いていたか? お前をちっとでも救ってやれただろうか。人が人を救うことは口で言う程、簡単なことじゃねェくらい、判ってる。それでも尚、訊ねずにはいられない。今際の際、この世に生を受け、最期まで生き抜いて良かったと笑えただろうか。お前の生が生きるに値するものであったことを願わずにはいられない。
 おれは降り頻る雪の中で息絶えた。そうしてふと気が付くと暖かな光を浴びていた。一瞬、夢を見ているのかと思った。そうじゃないことはそよぐ風を感じて理解した。
 生きている。新たな人生のスタートだ。生まれ変わりって本当にあるんだなァ――しみじみと感謝したのは束の間。おれは人間ではなかった。草地に咲く一輪の花だったのだ。
 前世の行いの報いなのか、何なのか、おれは物言わぬ花として存在していた。人語も持たなければ、自ら移動することも適わず、ただ頭上から降り注ぐ陽光を受けているだけの。前回の壮絶な人生とは程遠い。単調、平坦、平和。一体誰が予想しただろうか。想定外すぎるだろ、これ。やっぱたくさん嘘吐いたのが良くなかったのかな。いや、その辺は一切関係ないのか。良く判らない。
 おれができるのは空に向かって草地に立っていること。ただ、そこにあること。存在することだけだ。この生に果たして意味はあるのだろうか? それも良く判らない。大体、前世の記憶があること自体、謎すぎる。
 移ろいゆく雲と太陽をぼんやりと眺めていると青草を踏み締める音が聞こえてきた。おれはさっと身を硬くして――実際には微風そよかぜに揺られているだけだが――様子を窺った。不意に小さな手が伸びて来て、葉に触れた。その刹那、手の主の顔を見、おれはとても驚いた。人間だったら、盛大に叫んで腰を抜かしていたところだ。だって、だっておれに触れたのは他ならぬローだったから!
 ロー! 
 聡い金色の瞳、薄らとのった隈、やや不機嫌そうな、気難しそうに引き結ばれた口元、目深に被った白い帽子。記憶に鮮明に残っている、あの頃と同じ姿の。唯一違うのはかつて命を脅かしていた白い痣がないことくらいだ。服から覗く肌色から彼は頗る健康なことが知れた。良かった、良かったなァ、ロー。そう思ったら、彼を抱き上げる腕がないことが酷く口惜しかった。抱き締めて、笑いかけて、言葉を交わしたいのに。
 ローは草の上にちょこんと座ると抱えていたスケッチブックを広げて鉛筆を握った。どうやら花のスケッチをするらしい。ロー、コラさんのこと、格好良く描いてくれよ。おれは姿勢を良くして生真面目な表情を作った。っても、ローには伝わんねェだろうけど。でも、それでも良い。ローが目の前にいる。あんなにも愛した彼がいる。一番大事で、とても大切だった、一生涯の宝物。おれの中に射し込んだ光、愛。
 ローは真剣な眼差しでおれを見ては紙面に筆を走らせた。そういや、ローが描いた絵は見たことがなかったな。どんなふうな絵を描くのか見たかったが、花は動けない。ちらっとでも見せてくんねェかな。おーい、ロー。届かないと判っていてもつい話かけてしまう。
 ロー、おれだぞ、コラさんだぞ。憶えてるか? こんな姿になっちまったから、見る影もねェけど。お前が元気そうで良かったよ。会えてすげェ嬉しい。本当は前みたいにお前を抱き締めたいんだけどな。
 なァ、ロー。今は幸せに生きてるか? 家族で食卓を囲って、学校でたくさん勉強して、大勢の友達と笑い合って。お前がそんなふうに日々を過ごしてたら良いなって願うよ。おれがいなくても、ローはちゃんと幸せに生きていける。前とは違うから。でもなんだろうな、それはとても喜ばしいことなのに、喜ばなくちゃいけないのに、少しだけ寂しい――そう言ったらお前は呆れるだろうか? ローごめん。おれはこんな姿になってもまだお前に必要とされたいみてェだ。
 ただの花であるおれには涙を拭ってやることも、励ましの言葉をかけることも、大丈夫だと抱き締めてやることもできない。でも、今でもあの頃のように、お前を愛してる。ずっと愛してる。ローが生きる世界が少しでも美しいものであるように、おれはここにいる。ここで、咲いている。――祝福を。
 ……そうしておれは短い生を終え、また別の生き物に生まれ変わった。はっきり言って、落胆した。己が人を害し、また人から恐れ忌み嫌われる存在であったから。どういった因果か、おれは鋭い牙を持つ獰猛な肉食獣に生まれ変わっていたのだ。これではもしまた奇跡的にローと巡り会えたとしても、彼は逃げ出してしまうだろう。最悪、人間に仇なす害獣として駆除されるか、それとも獣の本能のままにローを食い殺してしまうか。それだけは絶対に厭だ。彼を襲うくらいなら、死んだ方がマシだ。
 おれは用心深く人里離れた、生い茂る樹木で鎖された森でひっそりと暮らした。人の気配を感じたらより深く森の奥へと逃げ込んで身を隠した。そうしながら、あれはローかもしれないと抑えがたい思慕を持て余した。一目で良いから彼に会いたい。でも、だけど。おれの心はいつもちぐはぐで、混乱していた。いっそのこと記憶がなければとさえ思った。けれど、やっぱり今までの記憶は捨てられなかった。宝箱の蓋を閉じる瞬間に見た笑顔が尚のことおれを引き留めるのだった。
 ――ローに会いたい。
 想いは募るばかりだ。
 おれがこの世にいるのなら、きっと必ずローも存在しているはずだ。不思議と確信があった。
 哀しいかな、ドジは死んでも治らなかったようで、ある時、おれはうっかり脚を滑らせて崖から落ち、右の前脚を折ってしまった。しかも運の悪いことは重なるのが定石とばかりに、転落した場所は岩だらけの荒地だった。喉を潤す水も無ければ、空腹を満たす食べ物もない。本当に、何も無い。折れた脚では自力で立ち上がることはできず、また自分で怪我を手当することも敵わない。動けるようになるまで回復するのが先か、飢え死にするのが先か。恐らく後者だろう。
 おれはまた、たった独りで死んでゆくのか。
 それならせめて会いたかった。
 彼に、会いたかった。
 ロー。お前、今どこにいるんだ。
 おれはここにいる。
 ここで、待っている。
 なァ、ロー。
 昇りかけた満月に向かって吠えた。ローの瞳の色と同じ金色の月に。
 毎日少しずつ月が欠けていくのを見ながら、おれは徐々に衰弱していった。眼を開けているのも懶ものうく、呼吸いきをするのさえ気怠い中にあって、慰めになるものは幾度も反芻し、思い返したローとの病院巡りの旅だった。辛いことも多かったが、あの半年間はかけがえのない日々だった。もう何も要らない。だから、最期までローの記憶を抱き締めさせてくれ。一緒に連れて逝かせてくれ。忘れたくない。忘れなくない。ローを憶えていたい。愛を、憶えていたい。
 事切れる瞬間、黄金色の光を見た。眩い光にか細い白い月が滲んでいた。意識が薄らいで、ほどけていく。
 ――ロー、愛してるぜ。
 
 それからおれは何度も生まれ変わった。時には草原を駆け回る野兎として、空を羽搏はばたく海鳥として、路地を彷徨うろつく野良猫として。前世の記憶を携えて命の限りローを探した。しかし彼は容易に見つからなかった。愛し子と巡り会えぬまま、おれは人間より短命な種族として生き、次こそはきっと――願いながら土に還った。
 そして、今世。
 おれはドンキホーテ・ロシナンテとして生を受けた。姿形も一番最初の記憶とほぼ同じだった。優しい両親、ドフィもいた。尤も、兄は前世のように極悪人ではなく、ごく普通の人間だった。頭が良いのは変わらねェけど。んで、おれのドジも現在だ。本当に死んでもドジは治らないらしい。自分でもびっくりだ。でもこれは福音だと思った。今度こそ絶対にローに会えると確信していた。
 二十三歳になったのを切っ掛けに、おれはローを探し始めた。何十億といる人の中から、たった一人の人間を見付け出すのは針の穴に駱駝を通すような話だったが、しかしこれまでの人生を思えば屁でもない。ローに会って、もう一度、愛を伝えたい――激情にも似た想いに駆られて彼が居そうな場所を片っ端から訪ね歩いた。学校の付近にある公園や方々の図書館、遊園地や水族館、教会まで。今日が駄目なら明日、明日が駄目なら明後日、それでも駄目なら明明後日。不首尾が重なるほど、ローを見付け出すという決意は益々揺るぎないものへと変わっていった。
 運命はある。きっと、ある。
 おれの存在はローへと必ず繋がっている。
 切に、信じている。
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