菜食主義の吸血鬼


 4.

 コラソンとの約束の日。
 ローは朝から落ち着かない気持ちで過ごした。流石に患者と向き合う時は普段通りであったが、それ以外の時は気もそぞろ、上の空で看護師のペンギンとシャチは一体どうしたことかと顔を見合わせて「もしかしてローさん、最近いい人でもできました?」ニヤニヤと揶揄い半分でそんなことを言った。
 若いながらも腕が良いと評判のローであったが、その容姿も人目を惹くせいか、どこぞの娘が好意を寄せているとか、未亡人のご婦人がすっかり熱を上げているだとか、ちらほらと色恋の噂も看護師二人の耳には届いていた。知らぬのは当の本人であるローだけ。尤も、これまでローは艶っぽいこととは無縁で生きてきた。幼少の頃より、医者である両親の背中を見て育ち、自分もこの町、否、この国一番の名医になるべく勉学に励み、研究をし、知識を深めて技術を磨いてきた。医学を極めること、ローの頭を占めているのはそれだけで、色恋沙汰には一欠片の興味を持っていないのだ。それを口にすると「モテるのに勿体ない」と返ってくるが、一体何が勿体ないのかローには理解し兼ねた。
「なんだよ、そのいい人って。ただ少し興味深い症例を見付けただけだ」
 コラソンのことをぼかして言うと「そんな患者さん、うちにいたっけ?」ペンギンが首を傾げる。
「……いや、論文で見たんだ」
 変に突っ込まれては敵わないのでローは最新号の医学雑誌を棚から引っ張りだしてペンギンに見せた。彼は特に疑うことなく「へえ、そうなんすか?」雑誌を受け取ってぱらぱらと中身を捲るとローが書き込みをしているページに視線を走らせてから本を閉じた。ちょっと読んだけど難しいっすね――そう言って棚に雑誌を戻す。
「ローさん、恋人ができたらちゃんとおれらにも紹介してくださいよ」
 横からシャチが口を挟む。
「あ? なんでだよ」
「なんでってそりゃあ幼馴染みですし、単純にローさんの恋人がどんな人か気になるっつーか」
「そうそう。カッコ良くてえらくモテるローさんのハートを射止めた相手は見たいじゃないですか」
 なー、と看護師二人は顔を見合わせて悪戯っぽく笑う。それからローさんの好みってどんなふうです? せっかくだから教えてくださいよ、好みに合いそうな人がいたら紹介しますんでぜひ、と彼らはそれらしい言葉を並べるが、下世話な好奇心は隠し切れていなかった。ペンギンもシャチも不思議と馬が合う、気の良いやつらだとローも気安く思っているが、こういう俗っぽい一面には些か頭を抱えてしまう。――いつものように煩ェと一蹴するのは容易いが。ローはひっそり溜息を吐くと「表情が豊かなやつが良い」ぼそりと呟いた。
「えー、それだけですか?」
「もっとこう、ないんですか? 可愛い系が良いとかロングヘアが良いとか、小柄な人が良いとか」
「なんだよ、ごちゃごちゃ煩ェな。てかそれシャチの好みだろ」 
「あ、判ります?」
 ローが顔を顰めて言うとサングラスの下でへらりと笑って気恥ずかしそうに頭を搔く。
「この話はもう終わりだ。それから、今日は残業しないで帰れ。ここも少し早目に閉める」
「え、誰かと逢い引きでもするんですか?」
「ペンギン、いい加減恋愛の話から離れろ。処置室で少しやりたい作業があるだけだ」
「それならおれらも手伝いますけど……」
「いや、おれ一人で充分だ」
「そうですか? くれぐれも根を詰めないでくださいよ」
 目の下の隈またちょっと濃くなってますよ――一つ年上のペンギンは諭すように告げて、その場での話は終わったのだった。
 午後から来た患者を診察して、丁度人が途切れたところで診療所を閉めた。午後五時前だった。片付けや薬品の整理、細々とした事務作業なども自分が引き受けるからと言って看護師二人を帰した。彼らはローの態度に対して少し不思議そうにしていたが、いつもより早く上がれるのを喜んで「お先に失礼します。お疲れ様でした」とぺこりと頭を下げて診療所を出て行った。
 ローも白衣を脱ぎ、一日の業務の後片付けをしてから処置室へ行き、採血に必要な道具を揃えた。それから休憩室で早めの夕食を摂り、手持ち無沙汰になったので、コラソンから渡された拳銃を取り出して矯めつ眇めつして見遣った。
 拳銃はずっしりと重く、手に握っみても馴染まない。試しに装填された弾を取り出してみると細かな文字が刻まれているのが見て取れた。一旦、診察室へ行きルーペを取ってくるとレンズを覗き込んで拡大された文字を読む。
「……いと高き方に祈りを捧げ、 すぐに神の慈悲が私たちに注がれるようにしてください。 ……悪魔でありサタンである竜、すなわち古い蛇を捕らえ……、 縛って底なしの穴に投げ込み 、……諸国の民を惑わすことがないようにしなさい……」
 ヨハネの黙示録の一節である。子供の頃、毎週ミサに出席していたおかげか、教会に通わなくなった現在でも聖書の内容は憶えていた。純銀の弾丸に刻まれている言葉は恐らく悪魔祓いの祈祷文なのだろう。
 この弾丸で頭か心臓を撃ち抜けば、闇に住まう眷属達はその身を滅ぼす。吸血鬼であるコラソンも例外ではない。だが、そこで疑問が生じる。今はローが護身用にとこの拳銃を持っているが、コラソンが所持していたのはなぜだろう。普通なら自分を滅する恐ろしい武器を持つことはしないように思えるのだが。彼もまた“妙な連中”とやらを警戒していつでも対峙できるようにこの拳銃を持ち歩いていたのだろうか。そもそも“妙な連中”とは一体なんなのだろう。人ならざる者だとは容易に想像がつくが、しかし具体的な像は浮かばない。小説や芝居が好きな妹のラミならぱっと思い付くのだろうが。
 拳銃に弾を装填し直し、新しく珈琲を入れようと立ち上がったところで、かたんと物音がした。コラソンが来たのかと逸る気持ちで休憩室を出、物音がした処置室へと向かった。彼が入って来られるように窓を開けておいたのだ。
「! コラさん……!?」
 ローは扉を開けて愕然とした。
「はは、悪ィ、ちっとドジっちまった……」
 床に座り込むコラソンの白いシャツがべったりと赤く染まり、腕から血を流していた。見れば窓の下の壁も血で汚れている。無造作に投げ出された手の周辺には小さな血溜まりができ、かなり深い傷を負っているらしいことが知れた。静脈の血管が切れているのかもしれない。
 ローは我に返るとコラソンを立ち上がらせてベッドに座らせた。本当ならベッドに寝かせたいが彼の身長では窮屈で却って傷に障るだろうと判断してのことである。怪我を手当するべく、てきぱきと準備して血で濡れた袖を捲り上げた。
「これは……」
 現れた傷にローは瞠目した。白い肌をざっくりと切り裂く三つの切り傷。まるで大型の獣に襲われたような。
「あー、見た目は派手だけど、これくらいはなんともねェから大丈夫。おれ吸血鬼だし。二、三時間もあれば綺麗さっぱり傷口も塞がるから。ほんとは血を飲んでれば一瞬で治るんだけど、こればかりは仕方ねェ」
「そうは言っても……出血も酷いし、その様子じゃ痛みもあるんだろう?」
 コラソンは何でもないと口許に笑みを浮かべるが、眉間に刻まれた皺は深い。吸血鬼とはいえ、痛覚などは普通の人間と変わらないのだろう。
「吸血鬼の躰に効果があるかどうかは判らねェが、鎮痛効果のある塗り薬を使う。それと止血だ」
「迷惑かけてすまねェな」
 心底申し訳なさそうにコラソンは俯く。
「気にするな。患者を診るのがおれの仕事だ」
 どうやら静脈までは傷付いていないようだったので血管の縫合は必要なさそうだ。通常のやり方で止血をし、ガーゼに鎮痛効果のある軟膏を塗って患部を覆った。その上から包帯を巻く。
「器用なもんだなァ」
 コラソンは興味深そうに手当された腕を眺めた。それから「なんかこれ人間っぽくて良いな」と呑気なことを言う。一体どれだけ人間に憧れがあるのか――些か呆れたような気持ちになったところで、彼はこれまで誰かに怪我の手当てをされた経験がないことに思い至った。怪我が直ぐ治癒する躰ならば手当ては端から必要ではないし、こうして誰かに世話を焼かれることも今までなかったに違いない。
 ローは汚れた床や壁の後始末すると、さて――コラソンの向かいに座った。
「採血する予定だったが、今日は中止だ。――で、あの怪我はどうしたんだ?」
「ドジって転んだ。おれは生まれつきドジっ子なんだ」
「コラさん、嘘を言っても駄目だ。おれは医者だぞ。傷口見たらどんなふうにして負ったものなのかは大体判る。そもそも転んだくらいじゃあんな傷はつかねェ」
 正直に言えと迫ると吸血鬼はあーとかうーとか唸っていたが、やがて観念したのか「敵にやられた」短く答えた。
「敵? もしかして悪魔祓いのことか?」
 口にしてしまってから、そんなはずはないと思い直す。あれは明らかに獣の爪で切り裂かれた傷痕だ。
「妙な連中がいるって言ったろ? あいつらだよ。狼男」
「は? 狼男?」
 コラソンの口から出てきたワードにローは唖然とした。吸血鬼に狼男、それこそ本や芝居の中の住人だ。一体いつから自分の周辺は暗黒童話の世界になってしまったのだろう。ローの反応を見て、だからあんまり言いたくなかったんだよとコラソンは大きく溜息を吐く。
「まあ信じられねェのも無理はねェけどな。だけど、これは本当だ。狼男はいる。吸血鬼と同じく昔からな。吸血鬼おれたちと狼男は遥か昔から敵対する種族なんだ」
 コラソンによれば、吸血鬼の種族と狼男の種族は闇の世界を統べる者として覇権争いを古代より繰り広げてきたという。人の世に姿を現し、世界を恐怖で支配し、また人間を襲ってその数を増やす。闇の玉座を巡る争いは今も尚続けられており、その帰結は見えない。
「人間でもあるだろ? こういう争い。おれは権力争いとかどっちの種族が偉いとか、まるっきり興味ねェし、どうでも良いと思ってるから狼男と遭遇しても無視するけど、向こうはそうじゃねェ。吸血鬼とあらば殺しにかかってくる」
「殺す? 吸血鬼は不老不死なんじゃ……」
「ローにちゃんと説明してなかったな。吸血鬼が狼男に噛まれると死ぬ。吸血鬼が狼男を噛んだら狼男が死ぬ。きっと違う血が混ざるのが原因だろうな。天敵同士とされているのもそのせいだ」
「人間が異なる血液型を輸血したら死亡するのと似てるな」
「そうなのか? 人間は皆同じ種族なのに変わってるな」
 コラソンは不思議そうに言う。――言われてみれば確かに。
「――それで。コラさんが襲われたのはどの辺りだ?」
「えーと、確か墓地の近くだったかな。夜になるとあの辺は人間もいねェし、吸血鬼を襲うには丁度良い場所だ」
 今日は満月だし――コラソンは窓の外に視軸を転じる。つられてローも窓の外を見た。蒼い月が夜空にかかっていた。狼男の話を聞いたせいか、ぞっとするほどに美しく見えた。
「ローも多少は知ってるだろうが、狼男は月を見て人間の姿から狼に変身する。特に満月の夜は魔力も強くなる。狼っつっても、普通の狼じゃねェ。大きな熊みてェなやつだ。たちが悪ィのはやつらは昼間、人間の姿でいることだ。狼男は太陽の光は平気だからな。昼間人間の姿でうろついて、獲物を探すこともわけねェ。ローのこと連中から守ってやりてェけど、昼間はおれも出歩けねェから……」
 心配だと眉根を寄せるコラソンにローは薄く笑いかけた。
「心配しなくても大丈夫だ。昼間は狼男も普通の人間なんだろ? それなら下手に手出しはできねェだろうし、腕っ節には自信がある。夜はアンタがくれた銃があるだろ」
「そうか? だけど気を付けてくれよ。本当にローのことが心配なんだ」
「判ったよ。――それより、痛みは引いてきたか? 狼男に噛まれちゃいねェようだが、アンタの躰も心配だ」
 ローは怪我をしていない方の手をそっと掴んで両の手で包むようにして握る。コラソンは不意に包まれた体温に驚いたのか柘榴色の瞳を瞬かせた。
「さっきよりは痛みも和らいできたかも」
「薬が効いてきたのならなによりだ。他は? どこかいつもと違う感じがする部分はないか?」
 相手は不老不死の吸血鬼とはいえ、つい問診してしまう。職業病といっても良い。顔色は悪くない。右眼の下の青いペイントも笑みを刻むように引かれたルージュも変わりない。そして長く伸びた黒く染まった爪も。血ですっかり汚れた服を纏っていても、貴族然とした優雅な雰囲気は損なわれていなかった。
 初めて見た時から思っていたが、奇妙なメイクを施していても容姿の美しさは隠し切れない。彫りが深く、精悍な顔立ちは充分に女好きのするそれだ。白皙の肌に月光を集めたかのようなブロンド、純度の高い赤い瞳が一際、目を惹いた。彼が普通の人間であったなら引く手数多あまたであったろう。吸血鬼同士の婚姻があるのかどうかは知らないが、もしあるとしたら彼を欲しがる相手は多いはずだ。ロー自身、二十六年生きてきて彼ほどに美しいと思う男に出会った試しがない。人間でないことがその美しさに拍車をかけているのかもしれない。
 吸血鬼はその麗しい姿で人目を惹き、誘惑するという。妖しい魅力にそれと知らず、魅入られているのか。
「うーん。良く判んねェけど、なんか胸がドキドキする」
「動悸がするのか。心臓……胸が痛むことは?」
「それは治った」
「治った?」
 思わず問い返してしまう。するとコラソンは頷いて「ローに会うまでなんか胸がちくちくずっと痛ェ感じだったんだけど、お前の顔見たらあっと言う間に治っちまった。お医者様ってすげェんだな」これが所謂名医ってやつかと一人合点している。
「コラさん、それは――」
「うん? なに?」
 この間、洋館を訪れた時に彼はずっと独りだと言っていた。いつから一族なかまと離れているのかは知る由もないが、きっとローが想像ができないほどの長い時間を独りで過ごしてきたのだろう。吸血鬼を人間のものさしで考えるのはナンセンスだろうが、孤独というものは思いの外強く心身に影響を与える。 それこそ健康を害するほどに。コラソンが感じていた胸の痛みはまさしく孤独のそれだ。彼は寂しいのだ。自覚しているかどうかは疑わしいけれど。だからつい、こんなことを言ってしまった。
「また胸が痛くなったらいつでもおれのところに来い」
「診てくれるのか?」
「まあ、そうだな」
「ローが診てくれるなら安心だな。死ぬ心配はねェけど、あのちくちく痛ェのは不快だし」
 コラソンは上機嫌に言うと思い出したように懐からある物を取り出した。大きな掌の上にちょこんとのっているのは天鵞絨ビロードの小さな袋。お前にやるよと差し出されてローは柔らかな布地を手に取り、中を覗いた。だが何が入っているのか良く見えなかったので、袋を引っくり返して中身を掌にあけた。転がり出たのは大きな貴石が嵌め込まれた指輪だった。電灯の下で煌めくのは一点の濁りもない黄玉トパーズで、その周りを小さな金剛石ダイヤモンドが縁取り、華やかな輝きを添えていた。金額にして一体幾らになるだろう。恐らくローが見たこともない数字を叩き出すに違いない。
 ローが驚きのあまり声を失っていると「おれが人間になれる方法を一緒に探してくれるって言ったろ。だからそれの報酬っつーか、謝礼。とりあえず前払いでこれだけって思ったんだけど。もしかして気に入らなかったか? それとも足りねェ? だったら後で金貨も持ってくるけど。金貨はどのくらい要る?」何を勘違いしているのかコラソンはそんなことを捲し立てた。
「コラさん、これは流石に受け取れねェ」
 ローは小袋の中に指輪を戻すとコラソンの手に握らせる。すると吸血鬼は困惑したように眉を曇らせた。
「なんで? 迷惑だったか? おれが吸血鬼だからか?」
「違ェよ。迷惑とか吸血鬼だからとか、そういう理由じゃねェ。勿論、気に入らねェわけでもねェ。こんなに高価なものをいきなり贈られたら普通の人間ならビビるし、畏れ多くて受け取れねェって話だ」
「そういうもんか?」
 考えたこともなかったという顔色でコラソンは首を傾げる。
「そういうもんだ。それにおれはアンタから高価な宝石や金が欲しくて協力するんじゃない。ただおれがそうしたいからするだけだ。コラさんが護身用に拳銃をくれただろ。それと同じだ」
 噛んで含めるように説明をするとコラソンは納得したようで「良かった。ローに嫌われなくて」ほっとしたように笑った。
「それじゃあ、はい、」
 コラソンは手にした天鵞絨の小袋を改めてローに差し出した。
「いや、だから――」
 おれの話聞いてたかとただすとちゃんと聞いてたと返ってくる。嘘つけほんとかよ――つい口を突いて出そうになって、寸前のところで呑み込む。
「これはおれがローにあげたいと思ったからプレゼントするんだ。どうしても要らねェってなら売っぱらっても構わねェ。だけど、おれのこと嫌いじゃねェなら持っててくれると嬉しい」
 にこりと微笑まれて、ローはたじろいだ。嫌いじゃないなら持ってて欲しい――そんな言い方をされてしまったら拒絶できないではないか。
「……判ったよ。これは有難く受け取っておく」
 天鵞絨の袋を受け取るとコラソンは喜色を頬に咲かせて「お前の瞳と同じ色の宝石だったから、絶対似合うと思ったんだよな」無邪気に言い放った。そんな台詞を耳にしてローは俄にカッと顔を赤らめた。――その言葉はまるで。そう、まるで仲睦まじい恋人に告げる甘い睦言のような。そう言えば初めの頃、彼は自分の瞳を覗き込んで綺麗なだ、太陽のようだと言っていたのを思い出す。今となってはその賛美も口説かれているような気がして、心臓が莫迦みたいに鳴った。
「ロー? どうした?」
 間近で顔を覗き込まれてローは椅子から転げ落ちそうになった。コラソンの顔のドアップは頗る心臓に悪い。
「……いや、どうもしない」
「そうか? なんかさっきより顔が赤い気がするけど……」
「気のせいだ」
 努めて冷静を装いながら言うと吸血鬼にしてはえらく純心な――単純ともいう――コラソンはあっさり信じた。
「さて。腕の傷の痛みも大分良くなってきたし、今夜はもう帰るよ。あんま長居しても悪ィし」
 コラソンは音もなく立ち上がり、窓辺に寄る。ローは彼の足元を見たが、やはりそこにはあるべき影がなかった。彼は異形の存在、人ならざる者、人の生き血を吸う恐ろしい吸血鬼なのだとまざまざと見せ付けられるようであった。
「また狼男に襲われないようにな」
「大丈夫。空飛んで帰るから」
 大きな手が窓に触れた時、コラソンは振り返ってじっとローを見詰めた。心の裡を探るような眼差し。見返す柘榴色の瞳の奥にちらと寂寞の影が揺曳していた。彼が何を望んでいるのか察したローは歩み寄って、大きな躰をゆるく抱き締めた。思わぬ抱擁を受けたコラソンは大きく瞳を見開いた。
「ロー?」
「コラさん、また明日。家で待ってる」
「……うん。また明日」
 コラソンは小さく頷きながら痩躯を抱き返すとローの顔をろくに見ないでぱっと姿を消した。突然消えた温もりを追って窓の外へ視線を放つと満月の表面を一匹の蝙蝠が音もなく横切っていくのが見えた。
 ローは彼を見送ると窓を閉め、処置台に置いた天鵞絨の小袋を手に取った。そっと中身を取り出す。豪奢に煌めく指輪を電灯にかざし、試しに指に嵌めてみる。選んだ指は薬指。ほとんど無意識だった。指輪は大きすぎてサイズが合わず、親指に通してみても尚大きい。この指輪のサイズはコラソンのような大男用だろう。それとも吸血鬼という種族は女性であっても堂々たる体躯なのだろうか。想像しようとしても上手く像が浮かばない。
 ピアスはつけているものの、仕事柄手指には装飾品を身につけることはできないし、そもそもこの豪華すぎる指輪は日常使いには不向きだ。パーティや何か特別な時に身につけるのだろう。だがもし、この指輪を嵌めてコラソンに見せたらどうだろう。
 ――ローにすげェ似合ってる。
 優しい笑顔でそんなことを言ってくれただろうか。
 想像をして冷めた熱が戻ってくる。顔が燃えるように熱く、心臓が煩い。
 ああ、これはもしかして。もしかしなくても。
 ――ローさん、恋人ができたらちゃんとおれらにも紹介してくださいよ。
 昼間シャチと交わした言葉が脳裏に翻る。
「……それは無理な相談だな」
 幾らコラソンのことが好きでも、彼が恋人になることはない。だって彼は吸血鬼なのだ。人間になりたいと心底望んでいるし、ローも尽力するつもりだが、いつそれが叶うか判らないのだ。たとえ彼が人間になったとしても同性同士なのは変わらない。 男である自分がコラソンの恋愛対象になることはない。それにあんなに美しい男なのだ。それこそ人間になれば引く手数多だろう。誰も彼もが彼に夢中になる。コラソンの赤い瞳に映るのは自分ではない、他の誰かだ。
「初恋は実らないとは良く言ったもんだ」
 恋を自覚した途端に失恋するとは思いもしなかった。
 ローはコラソンから受け取った黄玉の指輪を天鵞絨の袋に仕舞うと、緩慢な動作で使わなかった注射器や試験管を片付け始めた。

 5.

 それからというもの、コラソンは三日とあけずローの元へやって来た。蝙蝠となって空を飛んで。
「空飛ぶとちっと消耗すんだよな」
 どうやら血を飲んでいないことで生じる弊害は基礎体力や魔力にも及ぶらしい。吸血行為は単なる生命維持だけでなく、多くの人間の血を飲めば飲むほどに強い魔力を持つことができ、また人間において命取りになるような重傷を負っても瞬時に回復すると言う。先日、コラソンが狼男の襲撃によって負った怪我の治癒に数時間要したのは長い間吸血行為を行っていないためであり、また狼男に易々とやられたのも魔力の低下のせいだと言う。「吸血行為をしてた頃のおれなら、あのクラスのやつなら一瞬でぶちのめしてた」と悔しそうに言うのだった。
 コラソンが夜に自宅へ来るので自然と仕事の方も定時で上がることが多くなった。これまで特に仕事がなくても調べ物をしたり、論文を読んだり書いたりしていつまでも診療所に居残っていたから、さっさと仕事を片付けて帰宅するローを見てペンギンとシャチは「今日もデートですか?」「今度ローさんの恋人に会わせてくださいよ」「仕事の鬼だったあのローさんが定時で帰るなんてよっぽど相手に夢中なんですねぇ」勝手に盛り上がってニヤニヤと笑いながら軽口を叩いた。その度にローは「違う」「そんなんじゃねェ」と否定したが、あまりムキになって言うと変に墓穴を掘りそうだったので、ある時から聞き流すことに徹した。口が裂けても言えない。頻繁に会っている相手はちょっと風変わりな吸血鬼で、あまつさえ彼に片恋をしているなど。
 コラソンはローの元に来ては珍しい異国の物語を話して聞かせたり、これまでやらかした嘘のようなドジ話を面白おかしく披露した。時々、手土産だと年代物の赤葡萄酒ワインを持ってくることもあって、その時は二人でグラスを傾けた。またある時、ローが愛飲している珈琲に興味を示したのでコラソンに振舞ったが「にっが……っ!?」盛大に顔を顰めて「これは吸血鬼の飲み物じゃねェ」とまで発言したのには苦笑を禁じ得なかった。
そして良く晴れた日はコラソンがローを抱きかかえて――例のお姫様抱っこで――空中散歩した。初めは慣れなかったローも三度四度と繰り返す度に風を切って空を飛ぶ心地良さや楽しさを知った。高いところから町並みを見下ろすのも、手が届きそうなくらいに月が近くなるのも、煌めく星屑の中を泳ぐような心地も、全てが新鮮だった。またコラソンに合法的に抱き着けるというのも良かった。
 コラソンに抱きかかえられるといつも不思議な香りがした。花のような甘さとほろ苦い香りが混じった体臭は、何か香水でも使っているのかと思われたが、どうも違うらしい。本人は「キャベツやレタス食ってるせいかな」と言っていたが流石にそれはないだろう。そしてもう一つ、ずっと不思議に思っていたのはその体温である。
 吸血鬼はいわば、死者である。それであるのに触れると温かい。本や芝居では「触れると氷のように冷たい」と表現されることが多いのに、コラソンのそれは生者と変わらなかった。温かくて優しい。その温もりにいつまでも触れていたいほどに。だから夜空の散歩が終わってしまう時は内心いつも残念に思っていた。ある時、ローが目に見えて落胆していたので「もしかして空飛ぶの楽しくなかったか?」コラソンはおろおろと動揺しながら訊ねたものだ。ローが「そうじゃねェ。楽しかったから終わっちまうのが惜しかったんだ」と告げると吸血鬼は得意げな顔色でアンコールとばかりにローを抱きかかえて空を飛んでくれた。地上に戻った時、コラソンは「ちっとはしゃすぎた」ぐったりとしていたが。
 吸血鬼を人間にする術を見付けるべく、初歩的な検査を試みた。だがそれで判ったことは彼の血液型くらいで他はさっぱりだった。研究は長くなりそうだとコラソンに打ち明けると「まあそう簡単にいかねェのは想定済みだ。おれにはたっぷり時間があるし、のんびりやるさ」薄い眉尻を下げて笑った。ローはそんな彼の無垢な笑顔が胸に痛かった。コラソンは不老不死だから無限ともいえる時間があるが、人間である自分には限りがある。長く生きて百年が精一杯だ。自分が生きている間に彼が人間になれなかったら? 遺された彼はどうなるのだろう。「ローの顔見るとちくちくする胸の痛みが治るんだ」と無邪気に笑う彼は。それに海へ行こうと約束したことも。コラソンを独り遺しては逝けない。自分が先に逝くことになっても、彼をどうにかして人間にしなければ。そうすれば、きっと――。
「ロー? どうした? 難しい顔して」
「なんでもねェ。少し考え事をしてただけだ。――てかコラさんそれ、」
 現実に引き戻されてちらと見えた袖口から覗く白い布の切れ端――彼が腕を怪我をした時に巻いてやった包帯だった。傷は疾うに治癒しているはずで包帯も必要ないだろうに――ローが指摘するとコラソンはばつが悪そうに視線を外してしどろもどろに答えた。
「あー……なんか捨てらんなくて……そのままになってて……別にもう要らねェのは判ってるんだけど……」
 手当てをした時、彼が「人間ぽくて良い」と言っていたのを思い出す。人間になりたい彼はこんな物にまで「人間らしさ」を見出し、よすがとするのか。いとけないような、あまりにも痛切な願いに胸が軋む思いだった。
 ローは徐にコラソンの腕を掴むと袖を捲った。乱雑に包帯が巻かれた太い腕があらわになる。自分でどうにか巻き直したらしい。
「包帯、巻き直してやるよ」
 そう言って包帯を解いていく。ざっくり切り裂かれた傷は綺麗に治癒していた。痕すら残っていない。普通の人間ならばこうはいかないだろう。それなりに傷痕が残ったはずだ。治癒能力も常人とはかけ離れていることに、やはり目の前の男は異形の者なのだと実感を新たにする。コラソンは肌が包帯で覆われていくのを嬉しそうに眺めてから「また次も巻き直してくれるか?」期待を込めた瞳でローを見た。
「ああ、お安い御用だ」
「約束な!」
 白い牙を見せてニカッと笑った。眩しいくらいの笑顔だった。
コラソンにしてみれば包帯を巻く行為は「人間ぽいから」という、ただそれだけの理由だろうが、ローは包帯を巻くことで自分を思い出せば良いと密かに願った。自分でも女々しいと思うが、こればかりは仕方がない。コラソンが人間になることに執着するように、ローもまた彼に執着に似た恋情を抱いていた。そして同じように彼に執着して欲しいとも。恋は盲目と良く言うが、ローはそれを通り越している自覚があった。恋は執念、そんな言葉が似合いなほどに初めての恋はローを駆り立た。
 コラさんが好きだ。どうしようもなく。
 彼の傍にいられるなら、どんな犠牲も厭わない。
 仮令たとえ、彼に愛されなくても。


「いやー、人間ってすげェな。あんな高いところで飛んだり跳ねたり。大玉の上に乗ってジャグリングするなんておれには無理。すっ転ぶのオチだ。猛獣を上手く手懐けてるのも凄かったなァ。普通獣は火を恐れるもんなのに。火の輪くぐり、キャベツを餌にやれって言われてもおれはできねェ」
 興奮冷めやらぬ様子でコラソンは今しがた見てきたサーカスについて隣を歩くローにあれこれと感想を述べた。
 二人は先月町にやってきたサーカスを鑑賞した帰りだった。ある日の夜、いつものようにローを抱きかかえてコラソンが夜空を飛んでいた時「あの天幕テントはなんだ?」と彼が興味を示したのがきっかけだった。ローが簡単に説明をすると見てみたいと言うので、夜の開催時間を選んでサーカスを見に行ったのだ。なるべく目立たない、後ろの方の席を選んで鑑賞した。曲芸を初めて目の当たりにしたコラソンは子供のようにはしゃいで終始凄い凄いと口にしていた。ローもサーカスを見るのは子供の時以来で、懐かしい思いに駆られながら披露される驚異的な演目を楽しんだ。
 終演後、人群れを離れてローはコラソンと共に帰路に就いた。頭上にかかる檸檬色の月が美しく輝いて一人分の蒼い影を地面に投射する。頬を撫でる微風そよかぜが心地よく、良夜という言葉が相応しい夜だった。
ローはゆったりと歩きながらちらと隣の長身を盗み見る。と、柘榴色の瞳がローを捉えて「なんかおれの顔についてる?」不思議そうに瞬きする。吸血鬼故に彼は気配や他人の視線といったものに敏感なのかもしれない。
「いや、別になにも」
 不自然にならないように視線を正面に戻して「少しうちに寄って行くか?」さり気なくお茶に誘った。もう少しだけ一緒にいたかったので。
「良いのか? それならこの間ローが淹れてくれた緑のやつ飲みたい。あれ美味かったから」
「緑のやつ? ああ、緑――」
 突然言葉がもぎ取られた。何が起きたのか瞬時には理解できなかった。
「ロー!?」
 コラさん!――叫びたくても声が出なかった。口を塞がれていたので。耳元で獣の低い唸り声がした。背後から強く躰を抱き込まれ、僅かな身動ぎすらも敵わない。ローの躰を戒める腕は灰銀色の毛並み覆われていた。首筋をざらついた舌が触れ、その気色悪さに怖気が立った。躰をぎりぎりと締め上げられ、骨が軋む。地面に落ちる影を見て悟った。――間違いない。狼男だ。
「ローを離せ!」
 コラソンが鋭く叫んだのと狼男が咆哮したのは同時だった。ローが漆黒の強風を全身に浴びたかと思うと次の瞬間には地面に叩きつけられていた。背中を強打し、激痛が走って刹那、息が止まった。が、痛みにのたうち回っている場合ではない。
「ロー! すまねェ! 早く逃げろ!」
「コラさん!」
 コラソンは狼男――三メートル以上はあるだろう巨体だった――と激しく揉み合い、獣の爪が鋭く宙を裂き、牙が光り、黒いマントが翻って地面に倒れ込んで縺れ合う。耳をつんざくような獣の叫び声と聞いたこともない迸るようなコラソンの絶叫と。長らく吸血行為をしていなかった影響か、目に見えてコラソンの方が押し負けていた。
このままではコラさんが死ぬ――ローははっとして懐から拳銃を取り出した。コラソンから渡されたくだんの銃だ。ふるえる手で構えて照準を定める。頭か心臓を狙え――しかし対象が押し合い圧し合い動き回るので急所を狙うのは至難の業だった。これまで銃を扱ったことがないので尚更だ。しかし躊躇っている時間はない。早く早く引き金を引かねェとコラさんが――。
「ロー! 躊躇うな! おれごと撃て!」
 コラソンの叫びに弾かれたようにローは引き金を引いた。轟音と共に飛び出した銀の弾丸は揉み合い縺れ合う黒い塊を貫いた。夜がひび割れるような絶叫と共に月明かりに黒く照る血が飛び散った。
「コラさん!」
 ローは手にしていた銃を投げ出すと地面に倒れたまま動かないコラソンに駆け寄った。彼の白いシャツは真っ赤に染まり、銃弾を受けたであろう場所が灰塵のように脆く崩れていた。退魔の弾丸はあろうことかコラソンの心臓を貫いていたのた。一気に血の気が引いた。だって、そんな、まさか。
「ああ……! コラさん、いやだ……!」
 肉体の崩壊は止まらない。コラソンは眠るように瞼を閉じたままでローの呼びかけには応じなかった。どうする? どうすれば良い? 混乱する頭で考えて、咄嗟にローは自身の手首に噛み付いて皮膚を食い破るとコラソンの口を片手で開かせ、ぼたぼたと垂れる血を注いだ。人間の血を飲めば一瞬で怪我も治ると言っていたのを思い出したのだ。純銀の弾で心臓を撃ち抜いている以上、効果はないのかもしれない。しかし諦められなかった。吸血鬼の驚異的な回復力に一縷の望みをかけたのだ。これが彼の望みを踏みにじる結果となってしまっても。
 ――コラさんコラさんコラさん……!
 ――頼む、目を醒してくれ……!
 この時、初めて信じていなかった神に心の底から祈った。
 視界の端で狼男の躰が音もなく灰塵になるのを捉えながら。

 6.

 ゆっくりと意識が浮上する。コラソンは薄く目を開けた。目に入ってくる光が眩しくて思わず顔を顰めた。白い天井。どうやらローの自宅の寝室らしい。やがて朧気ながら記憶が戻ってくる。確か狼男に襲われたローを助けるためにやつと揉み合ってて、それで最後は――。
「……あれ……おれ撃たれたんじゃ……?」
 なぜ生きている――疑問が頭に浮かんだ時、掠れた声がコラソンを呼んだ。そちらに目を向けるとローが顔を歪めて金色の瞳から大粒の涙を零していた。
「え!? ロー!? なんで泣いて……!?」
 驚いて飛び起きると「コラさん……!」ぎゅうと強く抱き着かれた。頬を流れる熱い雫はコラソンの肌を濡らす。
「良かった……ほんとに良かった……! もう駄目かもしれねェって思った……!」
 アンタを喪わなくて良かったと声を慄わせるローをコラソンはそっと抱き返した。泣いている彼にどう声をかけたら良いのだろう。なんて言えば泣き止んでくれるのか、コラソンには判らなかった。ただローが泣いている姿を見ていると酷く胸が痛んだ。初めて知る胸の痛みに戸惑いながら「もうそんなに泣くなよ。おれは大丈夫だから」淡く微笑んでくしゃりと黒髪を撫でた。
「本当に……?」
 濡れた金色の瞳がじっとコラソンを見詰める。いつもとは違う、どこかいとけない雰囲気に胸を掻き毟りたいような衝動を憶えて、それを堪えるようにコラソンはローの濡れた頬に手を触れた。自分が目醒める前もきっと泣いていたのだろう、すっかり目の縁が赤くなり、白目も充血して真っ赤になっていた。
「コラさん……」
 ローは大きな手に自身のそれを重ね合わせて愛おしむように頬擦りした。温かい体温にまた涙が出そうになって、彼の手を離した。
「……躰はなんともないか?」
 医者の顔になって訊ねるとコラソンは安心させるように強く頷く。
「ああ。どこも痛くねェし、寧ろ前より調子が良い気がする」
「そうか」
「てかおれ、確かに撃たれたはずなんだけど……」
 銀の弾丸に心臓を撃たれたはずだ。その瞬間の息ができなくなるほどの灼けるような激痛は憶えている。通常ならばそこで肉体が滅び、死を迎えるのだが。
「アンタにおれの血を飲ませた」
 この通り――ローは包帯を巻いた左手首を見せた。自ら食い破ったそこはまだ熱を持っていて痺れるような痛みがあった。だがこの程度の怪我は何でもなかった。彼を喪うことに比べれば。
「血を飲めば怪我の回復も一瞬だと前に言っていただろう。それで咄嗟に――コラさんの願いを踏みにじったことは申し訳なく思ってる。本当にごめん」
「――なるほどな。そういうことか」
 コラソンは静かに呟くとベッドから降り、やわく痩躯を抱き締めた。コラさん?――突然の抱擁に驚いていると「怖い思いをさせちまってごめんな。今までありがとう」穏やかな声が降ってきた。
「なんで急にそんな、」
 別れの言葉みたいに言うんだ――ローは言葉を呑み込んで広い背に腕を回す。嫌だ、聞きたくない。だけど耳は閉じられない。
「ローがおれを助けてくれたことには感謝してる。本当にありがとうな。吸血鬼のおれに優しくしてくれたことも嬉しかったし、お前と過ごした時間は今まで生きてきた中で一番楽しかった」
 良い思い出ができたよとコラソンは笑う。それからふと真面目な顔付きになり言葉を続けた。
「今回のことで判ったんだ。おれが一番望んでいることについて。本当は人間になりてェわけじゃなかった。いや、それもそうなんだけど、そうじゃなくて、おれは死にたかったんだ。ずっと」
「アンタなに言って――」
 心臓がおかしな音を立てる。まるで素手できゅっと握られたような心地だった。コラソンの声音はどこまでも優しかった。
「そうだなァ。これは人間にはあんま判らねェ感覚だと思うけど、ずっと生きてるってのは飽きるし、結構つまんねェもんなんだよ。まあ人間だったら、ずっと生きてても金を稼ぐとか美味いもんたらふく食うとか、なんか目的はあるだろうけど、吸血鬼のおれにはそれがねェ。食うもんだって限られてるし、金とかは別に必要ねェし、一族なかまを増やしてェとかもねェもん。ほんとにただ生きてるだけ。永遠の生ってのはそれ自体が罰なんだよ」
 死ねば今ある喜びも幸福もなくなるが、同時に苦痛や悲しみもなくなる。全てから解放されるのだ。しかし不老不死であるコラソンにはそれが赦されない。何に対しても歓びを見出せないまま、空虚を抱えて生きていかなければならないのだ。
 自分で銀の弾を頭にぶち込めば死ねるけど、痛いのは嫌だしな――コラソンはおどけてへらりと笑う。泣き笑いのような顔がメイクも相俟って道化師ピエロのようだ。悲しいのに無理やり笑っている、孤独なアルルカン。
「……アンタほんとに……、なんで……酷ェよ……」
 そんなのあんまりだ――乾いたはずの涙が新たに視界を滲ませる。
「酷いやつでごめん。せっかくローが助けてくれたのに。でもおれ、」
 不意に強く胸倉を掴まれて躰が大きくかしいだ。と、唇に柔らかいものを感じた。ローに口付けられていると思った時には唇は離れていた。全ては一瞬の出来事だった。
「ろ、ロー……!? お、おま、な、えっ!?」
 コラソンはぎょっと目を剥いて真っ直ぐに己を見詰めるローを見た。胸を貫くつよい瞳は燃えるように美しかった。コラソンが長年焦がれ、夢見ている太陽のように。
「おれはアンタに死んで欲しくない。コラさんのことが好きだからだ。今のキスがおれの全ての答えだ。コラさんがずっと独りで生き続けるのが辛いなら、寂しいのなら、おれが傍にいてやる。だからおれを吸血鬼にしろ」
「はあ!? お、お前、自分がなに言ってんのか判ってんのか!?  吸血鬼になっちまったらもう太陽の下を歩けないんだぞ!? それに人間になる方法が見付からない以上、やっぱり吸血鬼になるんじゃなかったって後悔しても遅いんだぞ!? それ判ってんのか!?」
 血相を変えてがなり立てるコラソンとは対照的にローは落ち着いた口調で告げる。
「判ってるよ、ちゃんと。――なあ、コラさん。おれは生半可な気持ちでアンタを好きで愛してるわけじゃねェ。アンタが顔を見せに来る度にどうかしてると思うくれェ舞い上がってたし、別れる時はすげェ寂しかった。コラさんが帰るのを見送ってる傍からもう会いたくて堪らなくて、プレゼントにくれた指輪を取り出して飽きもせずに眺めて心を慰めてた。腕の包帯だって、アンタが捨てられないのはおれのことが好きだからかもしれないって、都合よく考えたりもした。はっきり言って自分でも莫迦みてェだと思う。だけど、全部本当なんだ。コラさんのことが好きで好きでどうしようもねェ。他のことがどうでも良くなるくらいに。こんなに誰かを好きになったのはアンタが初めてなんだ。だから、」
 拒絶しないでくれ――縋るように大きな躰を抱き締めた。嘘偽りないローの告白を聞いてコラソンはこれまで感じていた胸の痛みの意味を初めて理解した。そして退魔の弾丸に心臓を撃ち抜かれたのにも拘わらず、ローの血を飲んだことで生き返った・・・・・理由も、確信に変わった。
「ロー。本当におれで良いのか? 後悔しねェ?」
「さっきも言っただろ。迷いはねェし、このままコラさんと別れる方が一生後悔するどころか、後悔してもしきれねェよ」
「……そうか。判った」
 コラソンは静かに頷くと抱いていた痩躯を解放し、どこからともなく短剣を取り出した。否、召喚した・・・・と言った方が正しい。まるで不可思議な魔法のようなそれにローが瞠目すると徐に吸血鬼は短剣の鋭利な刃先を躊躇うことなく自身の舌の上に滑らせた。赤い瞳が獰猛な獣のように光る。
「トラファルガー・D・ワーテル・ロー、我が血を受けよ」
 コラソンはローの頤を捉えると舌から溢れ出る鮮血を開かせた口へと流し込んだ。その瞬間、感じたこともない眩暈のような強烈な快感がローの躰に轟いた。

 7.

 潮風が髪を攫う。白く砕けて押し寄せる波は月光を受けて煌めき、夜闇に黒い海面は月を映して光の欠片を撒き散らす。
「夜の海も良いもんだな」
「そうだな。月も綺麗だし」
 相槌を打ちながらコラソンは天を仰ぐ。欠けた月が呑気そうに夜空に浮かび、浜辺に並んで腰を下ろす二人を冷たく照らしていた。
 眼前に広がる海景はコラソンの寝室に掛かっていた絵画と同じ場所だった。尤も今は真夜中とあって全く違う風景だけれども。だが場所は確かで絵画の裏面に、描かれた日付とその場所が記されていたのだ。二人は走り書きのようなサインを頼りに場所を特定し、無事にその場所に辿り着いたのだった。
 コラソンはそっとローの手を握る。と、金色の瞳が切なそうに撓められて、やがて薄く伏せられる。コラソンは唇を寄せて柔らかなそこへ重ね合わせた。胸の裡が甘やかなものに満たされる。ローを知らなければ、愛さなければ知り得なかったものだ。かつて死を望んだように、人間になりたいと切望したように、ずっと欲しかったものは自分だけに差し出された愛だったのだとコラソンは気付いた。
「ローと一緒にいられてすげー幸せ」
 コラソンは噛み締めるように言いながら痩躯を抱き締める。
「それ何回言うんだよ」
 ローは微苦笑しながら愛しい人を抱き返した。まだ吸血鬼になってから半月しか経っていないのにもう百回以上は聞いた気がする。それに合わせて好きも愛してるもことあるごとに囁かれるのだから堪らない。
「何度だって言わせてくれよ」
「アンタほんと、そういうところだぞ」
 これ以上おれを惚れさせてどうするんだ――まるで底なしだ。ずっと深いところまで溺れてしまうようで。
「え? なにが?」
 何も判っていない彼はきょとんと赤い瞳を瞬かせて首を傾げる。そんな仕草が可愛く見えてしまうから、どうしようもない。自分も大概だとおかしくなる。
「――思えばおれは最初からローのことが好きだったんだなァ」
 コラソンは膝を抱えてのんびりとした口調で言いながら砂の上に徒に指を彷徨わせた。意味のなく渦巻きが描かれる。
「言われてみれば確かにそうかもな。おれが初めて洋館を訪ねた時、嫌いになるとかならないとか言ってたし」
思い出すと少し懐かしい。それほど昔の話ではないのに。
「なあ、ローはいつおれのこと好きだって思ったの?」
「……それは……黙秘させてくれ。アンタこそどうなんだ? 初めは無自覚だったようだが」
 意地悪く口の端を歪めて笑うと「あー、まあそれはお前に好きだって言われた後くらいだけど。でもそれより少し前には判ってたよ」コラソンがやや意外なこと言うのでローは目を見開いて恋人を見た。どういうことだと言葉の先を促すと彼は説明する。
「吸血鬼ってのは好ましい相手の血が一番美味く感じたり、その血が齎す魔力というか、力が段違いなんだよ。おれが銀の弾丸で心臓ぶち抜かれても生き返ることができたのはおれがローのことが好きで、与えられたのがお前の血だったからだ。そうじゃなきゃ、あの時確実に死んでたよ」
「……それは初耳だな」
 ローは些か呆気にとられながら呟いた。咄嗟の判断だったとはいえ、あの行動は正しかったのだ。否、全て偶然か。
「今初めて言ったからな」
「吸血鬼は研究のしがいがありそうだ」
 医者としての好奇心がむくむくと沸き立つ。
ローはまだ諦めていなかった。吸血鬼が人間になる方法について、これからも探るつもりでいるのだ。時間なら心配しなくともたっぷりあるし、もし人間になる方法が見つかったら、その時は改めてどうするかコラソンと相談するつもりでいる。
ロー――静かに名を呼ばれて海に放っていた視線を隣に向ける。
「なんだコラさん」
「おれのこと選んでほんとに後悔してねェ?」
 コラソンは眉根を寄せてどこか苦しそうな表情を浮かべる。ローは彼の不安を拭うように優しく笑いかけた。
「それも何回言うんだよ。おれの答えは何度聞かれようが変わらねェよ。後悔は一切してねェ」
 彼が気にしているのはロー自身というよりも、残してきた家族や友人、長い付き合いのある仕事仲間兼幼馴染みのことだ。
 吸血鬼となったローは流石に人前に出ることは憚れると開業していた診療所を一身上の都合として閉めた。勿論、継続して通っている患者にはそれぞれ紹介状を送り、安定して治療を受けられるように配慮をしたのは言うまでもない。
 そして看護師として勤務していたペンギンとシャチにも手紙を書いて二人共路頭に迷わないよう、新たな雇用先を斡旋した。自分の勝手な振る舞いでこれまで診てきた患者や幼馴染みを困らせてしまったことに良心が痛んだが、それも甘んじて引き受けた。
 ペンギンとシャチに関しては折を見て彼らの元を訪ねるつもりだ。約束通り恋人を紹介しにきたぞ、と。きっと二人は腰を抜かすだろう。恋人が吸血鬼で、自分もその仲間入りを果たしたと知ったら。それでも自分達のことを祝福してくれるはずだ――ローはそう、堅く信じている。
 ああそうだ――ふと思い出してローは懐から天鵞絨ビロードの小袋を取り出し、中身を掌の上に出した。転がり出たのは大きな黄玉トパーズが嵌め込まれた指輪。かつてコラソンに贈られたものだ。
「コラさん。これ、おれの指に嵌めてくれないか」
「おう! 良いぜ!」
 白い牙を見せて笑うとコラソンは長い指で差し出された指輪を摘み、ローの左手を恭しく取ると迷わず薬指に通した。が、指輪はぶかぶかで、まるで子供が大人の真似をして遊んでいるような不格好さだ。
「あー、やっぱサイズが合わなかったか」
「でもおれはこれが良い」
 ローは薄く笑ってやたらとサイズが大きい指輪を右手で弄んだ。冴やかな月光を受けて黄玉が豪奢に煌めく。その光のなんて美しいことだろう。無垢な月の光を全て集めたように。ローは直感する。――この輝きはコラさんの魂そのものだ、と。
「ローにすげェ似合ってる」
 コラソンは心底愛おしそうに柘榴色の瞳を細めて、優雅に微笑んだ。

(了)
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