菜食主義の吸血鬼


 1.

 頬を撫でる風が心地好い。川面を渡ってくる夜風はしっとりとした水気を含んで、遥か遠くに繋がっている海の匂いを連れて来る。微かに香る磯の匂いに幼少期の懐かしい思い出をふと想起しながら、今日一日の仕事を終えたトラファルガー・ローは家路に就いていた。
 こつこつと石畳の道に足音を小さく響かせながら川沿いを歩いてると視界の端に妙なものを捉えた。ゆったりと流れる川の水面にちらと見える白いもの。珍しく魚でも跳ねたかと思ったが違った。白く見えたのは明らかに人の手だった。
 ローは片手に下げていた仕事鞄を放り出し、咄嗟に川辺りへと飛び降りた。衣服が濡れるのも構わずに川へ身を投じる。流れは早くないが深さがあり、川底に急に足がつかなくなった。ローは水を掻き分けるようにして揺蕩う白い手に近付き、腕を伸ばして掴んだ。脱力した手を引き、水面に俯せになっていた頭を抱き起こす。どのくらい水に浸かっていたのか定かではないが、すっかり躰は冷え、瞼を閉じた顔は血の気を失って白い。手遅れかと思いつつも、ローは岸を目指して泳いだ。抱えた躰は大きく、衣服がたっぷりと水を吸っているせいもあって酷く重い。数メートル先に見えている陸地がやたらと遠くに感じられた。
「はあ、はあ……、クソッ……」
 ローは息を乱しながらずぶ濡れの躰を岸に引き上げた。直ぐ様、地面に横たえた大きな躰の気道を確保し、人工呼吸を開始する。息を吹き込み、胸部を強く圧迫するとごぼっと鈍い音がして、慌てて躰を横臥させた。水が吐き出される。再度息を吹き込むと投げ出されていた大きな手がぴくりと僅かに反応し、呼吸が戻ってくる。良かった、生きている。だが油断は禁物だ。
「おい、アンタ大丈夫か?」
 ローは肩を叩きながら呼びかける。しかし反応はない。早く濡れた服を脱がせて躰を温めなければ。ここから自身が開業している診療所に運ぶよりも、自宅の方が遥かに近い。ローは大男の躰を抱き起こすと足早に自宅を目指した。


 男の風貌はやや奇妙だった。
 右眼の下の青いペイントに笑みを刻むように引かれた真っ赤なルージュ。歳の頃は二十代半ばくらい、輝くブロンドの髪、体躯は三メートル近くあるだろうか。身に纏っていた服もレースがたっぷりとあしらわれたドレスシャツに黒いマントといった中世の貴族然としたもので、まるで何かの芝居から抜け出てきたようである。そう言えば数日前にサーカスの一団が町にやってきたと診察に来た子供が言っていたので、彼はそこの団員なのかもしれない。が、それにしても仕事着のまま――彼がサーカス団の人間と仮定して――川に流れていたのはなぜだろう。誰かに突き飛ばされたのか、何かをしていてついうっかり川に落ちてしまったのか。それとも――世を儚んで自ら川へ飛び込んだのか。
 ローは取り留めもないことを考えながらベッドに横たわる男を見た。彼は規則正しく呼吸をして眠っていた。脈も安定し、体温も取り戻して頬に赤みがさしていた。この分なら後遺症も無さそうだとほっとしながら、ローはベッドの傍らの椅子に腰掛けて暖かい珈琲に口を付けた。
「ん……あ……?」
 白い瞼が慄えて薄く目が開かれる。ローは立ち上がり、男の顔を覗き込んだ。柘榴色の瞳が正面を捕らえる。まだ醒め切らないのか、男の目付きは夢を見ているようだ。
「気が付いたか。自分が誰か判るか?」
「ここどこだ……? おれ川に……」
 彼は不思議そうに視線を惑わせる。
「ここはおれの家だ。アンタが川で溺れてるのを見付けた。応急処置をしたが気を失ってたからうちに連れてきたんだ。服もずぶ濡れだったから脱がせた。勝手して悪いが、低体温症を防ぐためだ」
 濡れたままじゃベッドに寝かすこともできないからなと説明すると彼は「え!? うっそ、おれ真っ裸 かよ!?」大きく目を見開いて飛び起きた。
「あ、莫迦ッ、急に動くな」
 ローが慌てて彼の肩を掴んで横になるよう促すと「いや大丈夫」彼はゆるく頭を振った。それから髪を掻き毟って「思い切りドジっちまった」大きく息を吐いた。
「ドジった? 誤って川に落ちたのか?」
「あー、空飛んでたら空腹でこう、くらっと……」
「空を飛ぶ?」
 鸚鵡返しに問うと彼はしまった!と言わんばかりに片手で口許を覆った。
「アンタ大丈夫か?」
 ローは真面目な口調で訊ねた。妙なことを口走る彼が譫妄状態にあるのではないかと危惧したのだ。目が醒めたばかりで意識が混乱しているのかもしれない。ローは彼の顔の前で指を立て、右へ左へと水平に動かして目で追うように指示する。赤い瞳は言われた通りにローの指を見た。
「これは何本に見える?」
 今度は指を二本立てる。
「二本」
 彼は短く答えてから「心配してくれてんのはありがてェけど、おれは正気だよ」どこか困ったように薄い眉尻を下げる。
「躰の具合はどうだ? どこか痛いとか気持ち悪ィとかないか?」
「それも大丈夫」
「そうか。――自己紹介がまだだったな。おれはトラファルガー・ロー。医者だ」
「へえ、お医者様か。だからおれを助けたのか?」
 彼は言いながらじっとローを見詰める。心の裡を探るような目付きはどこか酷薄な色を帯びていた。彼の視線に呼吸ごと縫い止められたようになり、ローは一瞬言葉に詰まった。
「……別に医者でなくても助けるだろ」
 あの時は考えるより先に躰が動いていた。とにかく川から引き上げることしか考えていなかったのだ。火事場の莫迦力でどうにか大男を半ば引き摺るようにして自宅まで連れて帰ったものの、家に着いた途端、どっと疲労感が押し寄せてきて、その後の処置に地獄を見た――とは決して言えないが。
「――それで。アンタ名前は?」
「おれ? おれはコラソン。吸血鬼だ」
 彼は言いながら真っ赤に彩られた口の端を指で引っ張りながら鋭い牙を見せて、笑った。

 2.

「ローさん、なんか今日は随分とぼんやりしてますね。寝不足ですか?」
「どうせまた医学書を朝まで読み漁ってたんでしょ。駄目ですよ、ちゃんと寝ないと。また目の下の隈濃くなってますよ」
 ペンギンとシャチは広げた昼食の弁当をつつきながら言う。彼等の向かいに座るローは煩わしそうに顔を顰めながらおにぎりを齧った。
 午前の診察を終えたローは看護師の二人と共に昼休憩をとっていた。今日は普段よりも患者が少なかったのできっかり十三時から昼食を摂ることができた。午後からはまた忙しそうだが、いつものことだ。帰宅するのはきっと二十時頃になるだろう。
「なあ、吸血鬼って本当にいると思うか?」
「へ? 吸血鬼?」
「なんですか、突然」
 ローの問いかけにペンギンとシャチは面を食らった。休憩時間であっても話題は専ら仕事に関することばかりであるのに、今日は一体どうしたものか。看護師二人が顔を見合わせていると再度ローが問うた。
「流石にいないでしょ、吸血鬼なんて」
「まあ、この地域では古くから吸血鬼の伝説があるみたいですけど、あくまでも伝説ですし。シャチが言うように実在はしないんじゃないんすかね」
 ローが黙っていると「え、もしかして吸血鬼見たんですか?」シャチが口許を歪めて身を乗り出す。その横でペンギンが「ローさん? まさか本当に?」目深に被った帽子の下で目を見開く。
「……いや、どうだろうな」
 ローは力無く呟いて昨夜の出来事を思い返していた。
 

「吸血鬼だって? 気は確かか?」
 コラソンと名乗る男の言葉が俄かに信じられず、ローは冷淡に応じた。吸血鬼が実在するとは思えない。本や芝居の中だけに存在する化物モンスターだ。自分を狼男だと思い込んでしまう狼化妄想症――セリアンスロピィという精神的な病があるが、もしかしたら彼はその病に罹患しているのかもしれない。精神病は専門外だからローが診てやることはできないが、専門医を紹介することは可能だ。ローがそんなことを言うと「いやいや、嘘じゃねェよ! ほらこの通り――」コラソンはぱっとベッドから姿を消すと音もなくローの背後に立った。
「なっ――!?」
 驚いて振り返るとコラソンはきちんと服を身に着けた姿で立っていた。レースがたっぷりあしらわれた白いドレスシャツに足元まである黒いマント、シルクハットまで被っている。窓の外に見える月を背負ったコラソンの姿は本当にそのまま本や芝居から抜け出してきた中世の貴族のようだ。あの鏡を見ろ――彼は優雅に長い指を指して言う。ローが振り返ると壁に掛けられた鏡には自分しか映っていなかった。
「どういうことだ!?」
 何か仕掛けがあるのか、それとも夢を見ているのか。ローは正面に視線を転じる。コラソンは静かに立っている。もう一度鏡を見るが、やはり彼の姿はなかった。――こんなことがあり得るのか。
 愕然と立ち尽くすローをコラソンは赤い瞳を細めて見詰めながら告げる。
「吸血鬼は魂を持たない。古来より魂を持たない者――幽霊や悪魔なんかは鏡に映らないんだ。あと影もねェ」
 彼の足元を見ると確かにあるべきはずの影がなかった。窓から差し込む月明かりや電灯の光を受けているのにも拘わらず。
「……アンタ本当に吸血鬼なのか?」
 不可思議な現象を目の当たりにしても信じられない。疑われるのが心外なのか、吸血鬼と自称する男は「だからそう言ってるだろ」口吻を尖らす。
「じゃあなんで川に流れてたんだ? 吸血鬼は泳げないのか?」
「あー、さっきもちらっと言ったけど、移動すんのに空飛んでたら腹が減りすぎてくらっときちまって。バランス崩して落ちた。そのまんま気絶してみてェだな」
「おれの血を吸う気か」
 ローは無意識に自身の首筋に触れた。吸血鬼に襲われる――そう思いながらも、なぜだか危機感や恐ろしさはほとんど感じなかった。あまりにも非現実的すぎて理解が追いついていないせいかもしれない。
「いや、おれは血は飲まない」
「は?」
 コラソンの宣言にローは鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。
「じゃあアンタ吸血鬼でもなんでもねェじゃねェか」
 吸血しない吸血鬼などあるものか。
「おれは正真正銘、由緒正しき吸血鬼だっつーの。ちっとは信用しろよなァ」
 コラソンはどこか呆れた調子で告げて大きく溜息を吐いた。――信用って、この場合どうなんだ。言葉の使い所が間違っている気がする。
「おれはある時から吸血するのを辞めたんだ」
「なんでまた……?」
 思わず訊ねてしまう。コラソンはにこにこと笑顔で「知りたい? 知りたいよな?」ローにずいと顔を近付けた。ぎょっとして目を見開くとコラソンはぱっと姿を消す。どこに行った――視線を四方に彷徨わせるとぽんと背後から肩を叩かれた。まるで予期していなかったので「うわっ!」やたらと大きな声が出てしまった。
「あ、悪ィ。驚かせちまった」
「アンタなァ……!」
 振り返ってローが強く睨み付けるとコラソンは短い顎髭が蓄えられた顎を捕らえて金色の瞳を間近で覗き込んだ。澄明な赤い双眸が細められる。
「なんだよ……っ」
「お前の眸、すげェ綺麗だなあ! きらきらして太陽みてェ」
「はあ?」
 ――何言ってんだこいつ。
 ローが盛大に顔を顰めるとコラソンの手が離れていく。
「そうそう。おれが吸血を辞めた理由の話だったな。――おれは人間になりたい。だから血を飲むのを辞めたんだ。まあ元々、あんまり血の味が好きじゃねェのもあるけどな」
 彼はそう言って薄く笑った。
「アンタ、本当に吸血鬼か? 吸血鬼が人間になりたいだなんて聞いたことねェし、そもそも血を吸わなけりゃ生きてきけねェだろ」
 至極尤もな疑問を口にするとコラソンはベッドの縁に腰掛け、長い足を組んで被っていたシルクハットを手で弄ぶ。
「お前の言いてェことは大体判る。おれのこと変な吸血鬼だと思ってんだろ。一族なかまにもそう言われてるし」
 不貞腐れたような、酷く面白くなさそうに言う。
「吸血鬼って人間になれるものなのか?」
「それはおれにも判らねェ。ずっと人間になる方法を探してる。だからとりあえず吸血鬼っぽいことを辞めてみた」
 なるほど、だから血を吸わないと彼は言ったのだ。
「飯はどうしてるんだ? 空腹だって言っていたが」
「キャベツやレタス食ってる。夜に畑に行って幾つかこっそり貰ってな。まあ盗むのは良くねェから、代わりにその場に金貨や宝石をちょっと置いてくるけど。金貨や宝石はおれが持ってても意味ねェし、興味もねェから」
 朝、畑に出た農夫達はたまげただろう。農作物が貴金属に化けていたのだから。きっと慈悲深い神の御業だと思うに違いない。実際はその対極にある闇の化物モンスターの仕業なのだが。
「……アンタ本当に変な吸血鬼だな」
 ローが目を丸くしながら呟くと「だからそれ言うなよ。結構気にしてんだからな」コラソンはむうと口をへの字に曲げてみせた。
「それは悪かった」
 素直に謝罪するとコラソンはぱちぱちと瞳を瞬かせた後、ふと柔らかく微笑んだ。
「さて――」
 コラソンはひょいと立ち上がるとハットを被り直す。
「すっかり長居しちまったな。おれを助けてくれてありがとう、ドクター」
 黒いマントを翻して窓辺に立ち、両開きの窓を開け放った。ひんやりとした夜風がカーテンを揺らす。静かに照る蒼い月光に金糸が煌めき、柘榴色の瞳が妖しいまでに輝いた。純度の高い紅玉が燃えているようだった。
「最後に一つ、おれからの忠告だ」
 コラソンはローに向き合う。
「最近、この辺を妙な連中がうろついてる。特に今日みてェな夜は気を付けろ。あっという間に殺されちまうぞ」
「妙な連中って、」
 一体何だ――問いかけは虚しく夜の底に落ちた。
 吸血鬼は音もなく姿を消した。
 ただ蒼く輝く月ばかりが静かに光を放っていた。


 ――こうして思い返しても、コラソンとのやり取りが現実とは思えなかった。本当に夢を見ていたようだ。信じられない一方で、妙に彼のことが気になった。それに最後の言葉。
「妙な連中についてなにか知っているか?」
 ローがペンギンとシャチに問うと二人は顔を見合わせてから「妙な連中ってなんすか?」不思議そうに首を傾げた。
「いや、なんでもない。今のは忘れてくれ」
 食べかけのおにぎりを口に運んでお茶で流し込んだ。 てきぱきと広げた弁当箱を片付けながら「少し外に出る。診察の時間には戻る」それだけ告げるとローは休憩室を出て行った。
「今日のローさん、様子が変だったな」
「ペンギンが言った通り、本当に吸血鬼を目撃してたりして」
 シシシとシャチが笑うとペンギンは肩を竦めてみせた。
「だけど、ローさんが言ってた妙な連中ってなんだろうな」
「さあ? おれに聞かれても判らねェよ」
「外に出るって、まさかその妙な連中とやらを探しに行ったのか?」
「それはねェんじゃねーの。ローさんも妙な連中についてよく知らないような口振りだったし」
 言われてみれば確かにとペンギンは頷く。
「ローさんのことだから、行きつけの書店にでも顔だしてるんじゃね? あの人研究熱心つーか、本の虫だし。またどっさり本抱えて戻って来るっしょ」
「そうかもな」
 ペンギンは軽く応じて残りのサンドウィッチを平らげた。

 3.

 数日後。
 日が沈むのを待ってローは自宅を出た。片手にキャベツ一玉をぶら下げて。
 目的地は小高い丘の上にある古い洋館だった。運が良ければあそこに菜食主義の吸血鬼がいるはずだ。
 ローは忙しい仕事の合間に吸血鬼について、この土地に古くから伝わる吸血鬼伝説について調べていた。
 基本的に吸血鬼は日光を嫌い夜に活動し、銀製品に弱いこと、十字架や聖水、聖なる場所――主に教会など――、大蒜にんにくや野薔薇、山査子さんざしを苦手としていること、また計算癖があることから辛子の種を撒いて家の中に入ってこないように仕向けることもあるらしい。外見的特徴としては瞳が赤いこと、また狼や蝙蝠、霧に変身できること、血の代用として赤葡萄酒赤葡萄酒ワインや肉を食すこと、そして不老不死であること……等とされている。魂を持たないとコラソンは表現したが、これは不老不死のことを指すのだろう。
 先日ペンギンが言ったようにローが住まう町には吸血鬼伝説があるのは本当らしく、図書館で当たった郷土史には、ある貴族が領地を支配していた時代、若い娘ばかりが失踪する事件が何十年にもわたり起こった。その失踪事件こそ、貴族の身分を隠れ蓑にした吸血鬼の仕業であったのだ。麗しい容姿で人目を惹き付け、言葉巧みに娘達をかどわし、その生き血を啜り、享楽に耽った吸血鬼は聖職者と町の人間達により討伐された――らしい。純銀の杭で心臓を貫き、首を切り落とし、日光に晒したところ、吸血鬼の躰は灰燼となって消えたと記録されている。この記述がどこまで真実なのか定かではないが、貴族が住んでいたという館は今でも残っていた。小高い丘に立つ洋館がそれである。
 あの館にコラソンがいるかもしれない――何の根拠もなかったが、直感でそう思った。そう思ったらいても立ってもいられなくなった。自分でも説明のつかない衝動に突き動かされ、手土産を持って洋館を目指した。会えるかどうかも判らない上に、会ってどうしようという目的もない。ただ、彼がどうしているか気になった。勝手に通院を辞めた患者に会いに行くような気持ちだった。
 人工的な石畳の道が途切れると畦道になる。人が住む町らしい景色からひなびた広大な田畑へ。コラソンも腹が減ったらここへ来てキャベツやレタスをこっそり失敬しているのだろう。想像をしてローは小さく笑った。
 夜空をゆっくりと昇る月は明るく、金銀に輝く星達が犇めいて、どこまで行っても果てがない。こんなふうに透き通った桔梗色の夜空を目にしたのは随分と久し振りに感じた。仕事や普段の生活に追われ、せかせかと道を歩くばかりで空を見上げたり、静かに満ち欠けする月を心ゆくまま眺めることがなかった。ローはやや歩調を緩めて畦道を歩いた。
 土の匂い、青々とした緑の匂い、頬を撫でるひんやりとした夜気、微かに聞こえる虫の声音。耳を澄ませば星の瞬きまで聞こえてきそうなほど。手を伸ばせば滴る月に手が届きそうだ。
 美しい夜の中を歩いて、こんもりと茂った森に入る。樹々の梢が頭上を覆い、冴やかな月光が遮られているせいで酷く暗い。ローは用意したランプに火を灯して暗い森の中を注意深く進んだ。ごつごつと縦横無尽に樹の根が張った地面は歩きにくく、気を付けていても転びそうになってしまう。漆黒の闇の底から響くような梟の鳴き声が森の深さを伝える。地図で確認した感じではそれ程大きな森ではなく、二、三十分も歩けば抜けるはずだ。ローはできるだけ人が歩いた跡を辿った。
 特に何事も起きず、無事に森を抜けると聳え立つ洋館が見えてくる。小高い丘の斜面はゆるやかで石畳の道がローを導くように続いていた。
「やっと着いた……」
 赤錆が浮いた洋館の門に辿り着いた時、ローは大きく息を吐いた。懐中時計をランプの灯にかざして見ると家を出てから三時間以上経過していた。そんなに歩いていたのかと驚いた。不思議と躰は疲れていなかった。
 鉄柵の門を押すとキィとか細い音を立てて開く。ローは意を決して敷地内に足を踏み入れ、迷わずに進んで重厚な玄関扉の前に立った。ガーゴイルを象ったノッカーを数回鳴らす。しかし、反応はなかった。コラソンはいないのかもしれない。縋る思いでもう一度ノッカーを鳴らす。結果は同じだった。それでも諦めきれず、ローは扉を押してみると、ギィィと重たげな音と共に開いた。
「コラソン、いるか?」
 真っ暗な闇の中に呼びかける。ランプの灯をかかげて中を覗き込んだ。暗くて良く判らないが、やはり人気はなさそうだった。中へ一歩進む。と、扉が勝手に閉まった。まるでローを歓迎するような、もう逃がさないという悪意を持っているような……。
「コラソン、おれだ。トラファルガー・ローだ。アンタに会いに来た。いるなら姿を見せてくれ」
 大きな声で告げると、壁に備え付けられていたランプが一つ、また一つと明かりを灯して視界が明るくなった。突然のことに驚いていると「ドクター!? お前なんでここに!?」不意に目の前に現れたコラソンに肩を掴まれた。彼は心底驚いた様子で大きく目を見開いてがくがくとローを揺さぶった。
「ちょ、コラソン、それ辞めてくれ」
「あ? ああ、悪ィ。てか、なんでお前こんなところに……」
 コラソンの疑問は尤もである。
「アンタに会いに来た」
 これは土産だと持参したキャベツが入った籠を差し出す。コラソンは目を輝かせて「美味そうなキャベツじゃねェか! わざわざおれのために持ってきてくれたのか。ドクターありがとう」礼を告げながら受け取る。
「そのドクターってのは止してくれ。ローで良い」
 患者達からは先生と慕われるローであったが、この吸血鬼に「ドクター」と呼ばれるのは何だか落ち着かない。コラソンはそうか?と不思議そうに突然訪ねてきた闖入者を見ると「じゃあおれのこともコラさんって呼んでくれよ」そんなことを言い出す。
「コラさん……?」
「うん。なんかその方が人間っぽいだろ?」
 コラソンはにこにこと笑う。彼は余程人間になりたいらしい。なぜそこまで人間になることに執着しているのか一切謎であるが。その点について訊ねたら答えてくれるだろうか。
「それにしても、おれがここにいるって良く判ったな」
「古い史料にその昔、ここに貴族の身分である吸血鬼が住んでいたと書いてあったのを読んだ。それでもしかしたらコラさんもここにいるんじゃねェかなって思って」
「あ、あー……そう……」
「記述にはその吸血鬼が女ばかり狙ってたって書いてあったが……まさかコラさんじゃねェよな?」
 真正面から長身を見上げる。
「それはおれじゃねェ。やったのは……おれの一族一族みうちだけど……多分……」
 コラソンは言い難いのか視線を外して、しどろもどろに答えた。語尾はほとんど聞き取れないほどだ。と、大きな手が伸びてきて、ローの外套の袖を遠慮がちに指先で掴んだ。
「……な、なァ、おれのこと嫌いになったか? やっぱ怖ェって思う……?」
 ちらとローを窺うコラソンの顔色がまるで迷子になった幼子のようで。ローは堪えきれずに噴き出した。突然肩を慄わせて笑いだしたローを見てコラソンは呆気に取られたようにぽかんと口を開けた。
「え、え、ろー? おれなんか変なこと言ったか?」
「いや……悪い、アンタがそんなことを言うとは思わなくてな。嫌うもなにも、コラさんのことまだ良く知らねェし、怖ェと思ったらここまで来ねェよ」
 言いながら思う。そうだ、コラソンのことが妙に気になったのも、こんなところまでのこのことやって来たのも、彼のことを知りたいからだ。人間になりたくて血を飲むことを辞め、キャベツやレタスを食べている菜食主義の吸血鬼。医者としての好奇心があることは否めないが、それでもローが個人的に誰かに興味を持つのは稀だった。知りたい。彼のことが。
「じゃあ、おれのこと好き?」
「好きもなにも、まだコラさんのこと良く知らなねェって言ったろ」
「えー、だって嫌いの反対は好きだろ? それに嫌いだったらおれにわざわざ会いに来ねェだろ」
 コラソンはどうも人の微妙な心の機微や言葉のニュアンスが判らないらしい。説明しても理解できるかどうか。それはそうとして。少なくとも彼を厭う感情はない。恐ろしいと思うことも。
「そうだな、それじゃ好きってことで構わねェよ」
 ローがそう言うとコラソンはぱっと表情を明るくして嬉しそうに笑った。まるで向日葵が花開くような。――この人、くるくる表情が変わって面白ェな。いや、人じゃなくて吸血鬼だけど。
「ローがせっかく来てくれたから、上等な葡萄酒葡萄酒ワインを開けよう」
 吸血鬼は上機嫌に笑ってローを館の奥へと招き入れた。
 

 人が住まなくなってから気が遠くなるような月日が経っているだろうに、洋館の内部はそれこそ古びてはいるものの、手入れや清掃は行き届いてるようだった。
 ローが通されたのは豪奢なシャンデリアが煌めく広い食堂だった。長テーブルには白いクロスを掛けられ、燭台が置かれている。壁には大型の人物画が幾つもかけられており、もしかしたらカンヴァスに描かれた人物は皆、この館歴代の主なのかもしれなかった。彼、彼女達は着飾り、貴族の証の勲章を身に着けて口許に淡く笑みを讃えていた。並んだ肖像画の中にコラソンの姿はなかった。 
 コラソンは宣言通り、上等な赤葡萄酒でローを持て成した。普段酒類をあまり口にしないので違いが良く判らなかったが、それでも美味いと思った。コラソンはローの向かいに座り、皿に盛られた千切ったキャベツを手掴みで食した。彼曰く、銀でできたカトラリーは触れないからとのこと。
「ここに来るまでに吸血鬼について色々調べてみたが、本当に銀には触れないんだな」
「ああ、うっかり触っちまったら肌が灼けちまう」
「他のものはどうだ? 日光や十字架、大蒜とか」
「そうだなァ、まあ日光は駄目だな。銀と同じで躰が灼けちまう。十字架や大蒜は別にって感じかな。まあ純銀製の十字架を躰に押し付けられたらあれだけど、見てる分には問題ねェ。大蒜や薔薇の匂いもなんともねェし、聖水や呪文――聖書の言葉なんかは、力が弱いやつには効くだろうが、おれくらいの級クラスになると大して効果はねェだろうな」
「なるほどな。実質、アンタをたおすとなったら銀を使うしかねェのか」
「そうなるな。え、なに、ローおれのこと殺す気でいんの?」
 コラソンはキャベツを口に運ぶ手を止めてローを見る。じっと胸を裡を探るような眼差しに些か居心地が悪くなる。
「心配しなくても、おれはコラさんをどうこうしようとは思っちゃいねェよ」
「そうか。なら良かった」
 心底ほっとしたように表情をゆるめて吸血鬼はキャベツを頬張る。もぐもぐと咀嚼している姿はなんだか兎のようでもある。それが少し可愛く見えてしまう。酔いが回ってきたせいだろうか。
「見たところコラさんはおれと変わらない年齢のようだが、何年生きてる? アンタはずっと独りなのか?」
 すると吸血鬼はふと目線を下げ、目に見えて悄然と肩を落とした。触れてはいけないことだったかと、答えたくなければ無視して良い――ローがそう口にする前にコラソンが呟く。
「……何年……生きてるんだろうな。正直もう憶えちゃいねェ。ずっと長い間おれは独りだよ。一族なかまはいるが、随分前から疎遠になってる。おれが人間になりてェだなんて言いだしたから。あいつはイカれてるって、一族の恥晒しだって兄上が」
「……そうか。悪い、立ち入ったことを訊いた」
 謝罪をするとコラソンは「なァロー。吸血鬼が人間になりてェって思うのは、やっぱりおかしいか?」縋るような目を向けてくる。不安そうな面持ちは今にも泣き出しそうで。悠久の時を生き、人智を超えた存在である吸血鬼がこんなにも人間以上に人間臭いものだとは思いもしなかった。彼のことが放っておけなくなってしまう。そんな、泣きそうな顔をされては。
「吸血鬼がこの世にどれだけいるか知らねェが、一人くらい人間になりてェやつがいても良いんじゃねェのか 」
「ほんと?」
「ああ。変わってるとは思うが、それなりに理由があるんだろ」
 ローが賛同を示すとぱっと目の前からコラソンの姿が消えたかと思うと次の瞬間には思い切り抱き着かれていた。
「ロー!」
 ぎゅうぎゅうと頬擦りする勢いで抱き締められて首が絞まる。
「ちょ、こらさんくるしい、」
 離してくれと背を叩くが本人は気が付いていないのか「コラさん嬉しいぜ」「ちょっと泣きそう」「ローは優しいなァ」「あ、駄目だほんとに泣きそう、泣く」だとか宣う。吸血鬼に抱き着かれて窒息死――ぼんやりそんなフレーズが浮かんで気が遠くなりかけた時、漸く解放された。
「ろ〜!? すまねェ! 大丈夫か!?」
「……なんとか……」
 はあとローが息を吐くと大きな手に腕を掴まれた。
「ローに見せたいものがある」
 コラソンは悪戯っぽく笑うとロー腕を引いて椅子から立ち上がらせると食堂を後にする。優雅に螺旋を描く階段を上り、やや埃っぽい長く伸びた廊下を真っ直ぐに進んで、突き当たりの部屋の扉を開けた。
 コラソンが案内した部屋はどうやら寝室らしかった。部屋の中央にやたら大きい天蓋付きのベッドが置かれていたので。吸血鬼は棺桶で寝るんじゃないのかと疑問を口にすると「あれおれにはちっと窮屈なんだよなァ」コラソンは困ったように笑った。確かに彼ほどの大男なら棺桶で休むよりは広々としたベッドの方が寛げるだろう。日光を完全に遮断するためか、窓があるであろう場所には分厚いカーテンがかかっている。
「それで、見せたいものとは?」
「あれ」
 コラソンが指し示す方へ視軸を転じるとベッドの真正面の壁に豪奢な額縁を纏った一枚の絵画が掛けられていた。ローは良く見ようと絵画に歩み寄る。
「これは、凄いな」
 自然とローの口から感嘆が洩れた。
 カンヴァスに描かれていたのは清冽な海景だった。生まれたばかりの太陽が水平線から顔を出し、神々しいまでの旭光を放って海面を眩く照らしている。白い波が打ち寄せる浜辺には複雑な形をした巻貝が髪飾りのように置き忘れ、彼方まで続いている海は朝焼けの空と境を失って、どこまでも蒼く、碧く、青かった。深い青色は瑠璃ラピスラズリを溶かして流し込んだよう。じっと見詰めて耳を澄ませば潮騒と海鳥のさえずりが聞こえてきそうだ。
「ここに行ってみたいんだ」
 コラソンはローの隣に立って静かに告げる。
「コラさんが人間になりてェ理由はそれか」
「そう。こんなに美しい朝の光の中で眺める海はきっとめちゃくちゃ綺麗なんだろうなァ。砂浜でのんびり太陽の光を浴びて昼寝するのも気持ち良さそうだし。――莫迦みてェだと思うか?」
「思わねェよ。おれも、この海を見たい」
 久しく見ていない海に呼ばれているような気がした。――髪を攫う潮風と絶え間ない濤声とうせいと羽搏くウミネコの囀りと。
「コラさんが人間になったら、一緒にこの海を眺めに行こう」
 長身を見上げると彼は虚を突かれたように大きく目をさ見開いていた。まるで信じられないものを見たように。
「コラさん?」
「……おれと約束してくれるのか……? 人間のお前が化け物のおれと……」
「ああ、約束する。それにおれは医者だ。アンタを人間にする方法を医学的なアプローチで見付けられるかもしれない。どのくらい時間がかかるか判らねェけど……って、うわっ」
 突然大きな躰に背を掻き抱かれた。ぎゅうと痛いくらいに強く抱かれる。
「ありがとう。すげェ嬉しい」
 ローは優しいなァ――しんから告げる声は僅かにふるえていた。泣いているのだろうか。きゅうとローの心臓が引き攣れる。胸の奥が痛い。コラソンの顔は肩に伏せられているせいで窺うことはできなかった。泣かないでくれよコラさん――ローは心中で呟いて、そっと広い背を優しく抱き返した。


 帰りはコラソンに抱きかかえられて空を飛んだ。所謂、お姫様だっこで、である。しっかり捕まっててくれよとコラソンは言って、マントを蝙蝠の翼に変えて夜空を音もなく羽搏いた。ローは特段、高所恐怖症というわけではないが、流石にこれには竦み上がった。 来た時と同様、徒歩で帰れば良かったと思うが、もう遅い。
「コラさん! 落とさないでくれよ!」
 ごぅと耳元で風を切る音に掻き消されないようにローは声を張り上げて逞しい首筋に縋り付く。こんな空高いところから落ちたら即死だ。
「だいじょーぶ。大人しく捕まっててくれりゃあ問題ねェ」
 コラソンはのんびり告げて真円に近付いた月面を横切った。大きな黒い翼を器用に操りながら飛翔する様は漆黒の風のようだ。暫く空を飛んでいるとローも慣れてきて眼下に広がる町の風景を見下ろす余裕ができてくる。真夜中なので家々の明かりは落とされているが、点在する瓦斯燈ガスとうが星のように光り、ゴシック様式の教会、聳える時計塔、無人の噴水広場、寝静まったサーカスの天幕テント、どこまでも伸びていく線路、ゆったりと蛇行する川……それら全てがミニチュアのように映った。
 時間にして二十分にも満たない夜間飛行はローの自宅前で終わりを告げた。コラソンは静かに石畳に降り立つとそっとローを降ろした。ふっと背中の翼がマントに変ずる。
「コラさん、ありがとう。助かった」
「どういたしまして。おれの方こそ、ありがとうな。ローが遊びに来てくれたおかげで楽しかったよ」
 吸血鬼はにこりと微笑む。それから金色の瞳を真っ直ぐに覗き込んで「またおれと会ってくれるか?」遠慮がちにローの手を握った。しおらしい態度にローは小さく笑った。
「ああ、勿論。――そうだ。明後日の夜、診療所に来てくれ。場所は教会通りを北に進んだところにある。アンタの血を摂りたい」
「なんで?」
「人間になる方法を探るためだ。血を調べたらなにか判ることがあるかもしれない」
「そっか判った」
 それじゃあまた――握られた手を離そうとして呼び止められた。なんだと長身を見上げると、彼は懐から一丁の拳銃を取り出してローに手渡した。銃身や銃把に繊細な装飾が施されたそれは随分と古そうな、実用品というよりは蒐集品コレクションとして楽しむような代物だった。
「これは……?」
「護身用にお前に預けておく。この間言ったろ? 妙な連中がこの辺をうろついてるって。おれもまだ実際の姿は見てねェが、気配を感じる。確実にやつらはいる。――銃の見た目はこんなだが、手入れはしてあるから問題なく使えるはずだ。中には純銀の弾が入ってる。万が一襲われたら躊躇わずに頭か心臓を狙え」
「それは判ったが……アンタは大丈夫なのか?」
「おれは大丈夫。不老不死の吸血鬼だからな。敵襲にあったところで死にやしねェよ」
 コラソンはなんでもないように言って笑った。そこまで言うのなら遠慮することはないだろう。ローは有難く拳銃を受け取った。
「それじゃあ今度こそ。――おやすみ」
「ああ、おやすみ。コラさん」
 吸血鬼は音もなく蝙蝠に変じると夜空へと飛び立っていった。ローは彼の姿が夜に紛れて見えなくなるまで月が輝く濃紺の天を見詰めていた。
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