紅千鳥 後編
「駄目よ、潰しちゃ」
慌てて五条の行く手を遮ろうとした夜蛾も、入って来たその声に動きを止める。扉の方へ視線を向ければ、取り調べが終わったらしい歌姫がいた。
「歌姫」
「先輩!!」
夜蛾と硝子は安堵で胸を撫で下した。
「ー⋯無事に終わったのか?」
「はい。何とか無事に終わりました」
歌姫はそのまま五条の目の前まで近付き、下から顔を覗き込む様にして立った。
「ーお疲れ様。酷い顔色してるわ。アンタも、硝子も。」
五条の顔色を確認した歌姫は、そのまま硝子の方へと視線を向ける。2人だけでなく、2人の担任である夜蛾も見るからに疲れているのが判る。
視線を五条に戻すと、光の無い虚ろの表情で歌姫を無言で見つめていた。
ーまるで心此処に非ずね。
歌姫は眉根を寄せる。連日のストレスと疲労が極限である事に加えて、睡眠不足と栄養不足。反転術式を会得し、常時展開出来る筈なのに、とてもじゃないがそう見えないという事は、つまり、振り切れているのだ。五条も、そして硝子も。
自分の言う事等、殆ど聞き入れられた事等無いが、それでも歌姫は言わずにはいられなかった。
「ー五条、少しでも休んだ方がいいわ。反転術式が追い付いてないんでしょう?」
なるべく穏やかに、静かに声を掛けてみたが、案の定、五条は歌姫の気遣いを余所に、いきなり本題に入った。
「歌姫。京都へ異動って聞いたけどどういう事?それに、傑が起こした事件の村へ再調査って何?アイツらに何言われた?」
歌姫が答える前に、片腕を掴み引き寄せるが、歌姫が踏ん張って持ち堪えた為、掴んだ腕だけが、五条の胸元にいく。
恐らく無意識だろう。掴む腕に力が籠められ、痛みで顔を顰める歌姫を見た硝子は、五条の元へ足早に向かい制止をかけた。
「ー五条!手を離せ。力を入れ過ぎだ。先輩が痛がってる」
硝子の制止が視界の端に映る。しかし五条にとっての最優先事項は、歌姫から答えを聞く事だ。歌姫の反応に注視する。
「京都校への異動は、あくまで教員試験に合格してからよ」
「合格したら行くのかよ」
「ーそのつもりよ。東京校勤務は⋯駄目になっちゃったわ」
五条に掴まれた腕を好きにさせたまま、歌姫は肩を竦めて努めて軽い雰囲気で振る舞った。五条は、目を細め諭すように告げた。
「俺が京都への異動を取り消してやるよ」
それを聞いた歌姫は危機感を募らせる。
最近の五条の心身の状態が大分拙い事になっているのは、硝子や夜蛾から聞いてはいた。平常時の五条であれば、こんな軽率に自分の権力を使う言葉はまず使わない。
それがどれ程危うい行為であるか、五条自身ちゃんと理解している事を歌姫は知っている。
なるべく五条の気に触れない様、兎に角、ゆっくりと静かに、そして宥める様に言葉を選びながら伝える。
「ーそれは駄目よ。解ってるでしょ?」
一拍置いて、五条と視線を合わせたまま続ける。しかし、反応はなく、剣呑な表情のままだ。
「上は、アンタの一強は勿論だけど、私達周りに対しても1ヶ月経った今でもとても過敏になっているわ。恐れているのよ。いつかアンタが箍を外してしまうんじゃないかってね」
歌姫の続く言葉に、ようやく目に光が戻る。
「ーだろうな。夜蛾センには牽制と釘を刺し、挙げ句、監督不行届の糾弾を一身に浴びせ、硝子は元々動けないし、余計な真似出来ねぇから除外。」
互いに視線を合わせたまま、嘲笑とともに続ける。
「七海は呪術界離脱、冥さんには敢えて俺等を鴉で監視させて、俺等に疑心暗鬼を持たせ不和を作る。残る歌姫はー」
掴んだ腕を離さないまま、五条は距離を詰めた。視線を逸らす事なく、離さないと全身で告げていた。
「ー傑が、特級の呪詛を吐きまくった穢れの地へ再調査の名目で出す。生き残ったら、京都校へ異動にして人員不足の穴埋めに使って万事オッケーってか?」
語気から憤怒が溢れる。近くに家具や備品が無かったのが幸いだ。あったら、怒りのまま振り翳した拳の直撃を受け、粉微塵だっただろう。
上からの理不尽な仕打ちが、一方的に降り掛かる教え子達に、何一つしてやれない己の無力さを、夜蛾は必死で飲み下す。硝子も言葉一つ掛けれず、ただ五条の怒りの発露を黙って聞く事しか出来ずにいた。
だが歌姫には、まだ五条に幾つか掛けられる言葉を持っている。どこまで五条に届き、宥められるかは解らないが。
「ー五条、大丈夫よ。まず、再調査は私一人で行くんじゃない。上の走狗の一人、監視の『耳』が一緒なの」
その言葉に、ピクリと目元が反応したのが見えた。
「『耳』、腰巾着の宇佐美か!?」
五条の驚きの反応に、歌姫は静かに頷いた。
「は?あの上の言う事しか聞けねぇ、チクリ魔の宇佐美が歌姫と一緒にあの村へ行くだぁ?」
あからさまに嫌そうに顔を顰める五条に苦笑しながらも歌姫はまた頷いた。
「ー歌姫、今日何言われた?宇佐美が態々出張る理由が、単なる歌姫の監視だけだとは思えねぇんだけど?」
鈍っている癖に鋭い。歌姫は胸中で毒吐いた。確かに、上層部の直轄の走狗の『耳』である宇佐美を態々歌姫に付ける理由は少しばかり不可解だろう。
五条周辺の人間関係や相関図を詳細に分析して報告し、冥冥に敢えて監視させる様進言したのも、五条の孤立無援を発案し、仕向ける様仕立て上げたのも、他でもない宇佐美である。
五条の言葉に黙って聞いていた硝子と夜蛾も歌姫に視線を向ける。硝子は心配そうに、夜蛾も複雑な顰め面であった。
「ー京都へ異動になるのと同時に、宇佐美さんと婚姻しろって言われたわ」
まるで他人事の様に呆れて吐き出したが、聞かされた方は、我が事の様な三者三様の反応になった。
「あ"あ?!」
「え!?」
「ーッ、」
呆気に取られた。ではなく、3人とも、見事に眉間に深い皺を拵えたおっかない顔を作っていた。
歌姫は思わず、口元を引き攣らせる。深刻にならないよう、大事にならない様、自分なりに充分気を付けて軽い物言いにしてみたのに、全く効果が無かった。
「ーあのスケコマシ野郎殺す」
「許す。遺体の処理は任せろ。微塵切りにして焼却炉で灰にしてやる」
「ーガッデムッ!!」
3人それぞれの反応に思わず目をぱちくりさせたが、ふっ、と微笑む。
「大丈夫よ。ちゃんと断ったわ」
今度は、3人が目をぱちくりさせ歌姫に視線を向けた。
歌姫はニコニコと軽やかな雰囲気を纏っていて、一見何も無さそうだがそんな訳が無い。上層部からの半ば命令の様な指示。断れる筈がないだろう。
「2級の弱姫が断れるわけねーだろ。命令に逆らってただで済む訳が無い。俺が揉み消してやるよ。いい加減ムカついてたからな。この特級呪術師にして、最強かつ、五条家次期当主の俺様なら、ジジィ共を捻り潰す事くらいわけないし」
何てことない様に言ってはいるが、目が据わっているし、荒んだ呪力がビリビリと歌姫の掴まれたままの腕から伝わる。
「ーそれがホントの目的だったらどうするの?」
「あ?何だって?」
五条と目を合わせたまま静かに言う。それは歌姫がこの1ヶ月、ずっと思案していた懸念材料の最大要素だった。
いつ言おうか迷っていたが、今がその時だちょうどいい。
「ーずっと考えていたの。そもそもアンタは、味方より敵の方が圧倒的に多い。」
キッと鋭い眼光と語気で自分を射抜いてくる歌姫の迫力に、思わず五条は瞬いだ。
「持てる権威と術式は呪術界の頂きにあって、同じ特級の夏油が居なくなっても一強は揺らぐどころか、あの件を期に覚醒して盤石になってしまった。『個人』なのに『組織』を上回る力を持っている。アンタがその気になれば、たった一人で、『御三家』とも『上層部』とも渡り合えるのよ。だから、アンタを抑え込むなら今が絶好のチャンス。」
「ーーー、」
今度は歌姫から距離を詰める。いつにない真剣な表情は、五条から言葉を奪う。
「連中がアンタを良く思ってないのなんて周知の事実。」
五条は黙って目を瞬かせる。
「だからもし、本気でアンタを叩く為に、残る御三家の加茂や禅院、ーそして、上層部が結託して動き出したら?」
訴えかける眼差しを向け、一拍置く。
「流石のアンタでも太刀打ち出来ないわ。対人間相手に戦うのは、『武力』ではなく『政治』よ。」
「ーーッ」
五条はハッと息を飲んだ。
歌姫の表情に影が落ちる。その『政治』の中味を知っているのだ。自分と同じ様にー。
「幸いアンタはまだ当主ではない。でも、当主になったからといって今より権力を振り翳して思うがままに出来るかしら?ー否よ。五条家を、アンタのワンマンにしたって、全員味方になんて出来やしない。当主になっても独断専行を続ければ、思わぬ身内から足元を掬われかねない。例えアンタでも支持を失う可能性だってある。そうなった時が本当の意味で、アンタは、呪術界で孤立無援の四面楚歌になる。」
「歌姫ー、」
戸惑いが声と表情に出てしまうが気にしてられない。目の前にいる歌姫が、まるで別人の様に思えたからだ。
動揺を隠せない五条を尻目に、歌姫は酷薄に笑みを向けた。
「ー私ならそうする。私が五条の敵で、上層部の人間なら、これを機に一気に叩く為、態とストレスを掛け続けて、仲間に色々ちょっかい掛けて揺さ振るわ。アンタの反応を見ながらね。ーちょうど今、思惑通りになってるみたいだし?」
「ぐっ、」
容赦のない指摘に、自覚のある五条は苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。
それを見た歌姫はフッと表情を緩め笑みを零すが、直ぐに引き締め、一気に畳み掛ける。
「ーアンタの味方は、残念だけど、アンタと同じ立ち位置で戦うには足りないモノが多すぎる。私含め全員アンタの庇護下よ。結局矢面に立って、『御三家』や『上層部』とやり合えるのはアンタだけ。だから、アンタの感情が振り切れて暴走しだせば、もう上の思う壺。大義名分掲げて、あれやこれやと、アンタ自身を堂々と処分出来るし、アンタの周りも縛りに掛けれる。アンタさえどうにか出来れば、連中は、今までよりずっと、これからも自分達の思うがままに自由に出来るんだもの。必ず賛同者が出るわ。アンタさえどうにか出来れば、もう、自分達の脅威が無くなるんだもの。」
「ーーー、」
五条に反論の余地を与えない厳しい指摘と分析に、ずっと成り行きを見守る夜蛾と硝子は目を見張る思いだった。
「ーこれは、私から見たアンタの最大の欠点で弱点だわ。アンタが最強なのは、『呪霊』と『武力』に対してのみよ。『組織』と『政治』が相手なら、まだまだ準備と精神の練度と人生の経験が不足過ぎる。独断専行は『その時だけ』しか効果が無い。だから、駄目よ」
「ーーッ、」
五条は歌姫に対して初めて驚嘆した。歌姫の口から出たあまりの衝撃的な内容に、元々大きな双眸をより一層開かせて凝視し、暫くいや、一切言葉が出なかった。
言われた内容自体は理解出来るし、ほぼ当たっているだろう。残る御三家が、結託等有り得ないというのが呪術界の常識だが、『五条 悟を落とし入れる為』という双方の利害が一致するなら、決して有り得ない話ではなくなる。
それ程に御三家のパワーバランスは、五条が産まれた事で偏ってしまったのだ。その可能性は、五条の中でも密かに懸念していた事だ。
それ以外でも、五条を揺さ振る為の身近な人間への干渉等、五条にとって数少ない信に足る者達は、残念ながら力不足は否めず、呪術界の腐敗しきった諸悪の根源に立ち向かえるだけの強者がいない事。
唯一足るのが離反した親友だった。
現時点での立場の脆弱さもそうだ。まだ学生であり、次期当主というだけで、支持基盤の地固めも不完全である。その辺りは追々と呑気に見積っていたが、夏油の離反でそうも言ってられなくなってきたのも事実。
当主になったとして、ある程度は、六眼と無下限術式持ちの五条家当主・最強の称号を持つ特級呪術師の地位と権力を余す事無く振るい、力でゴリ押し出来るだろう。
だがそれが通じるのは、本当に『ある程度』までだ。
不平不満や畏怖に嫉妬が積み重なれば、必ず隙を突かれて足元を掬われる。五条 悟唯一人に焦点を絞り、『組織』として多勢に無勢で『政治』を仕掛けられれば、流石の自分も窮地に立たされるのは考えるまでも無い。
それをまさか、親友ではなく、弱姫と弄り倒していた歌姫に看破されるとは思わなかった。
ー傑や夜蛾センにだって忠告された事ねぇってのに⋯。
歌姫を、決して侮っているわけでも、軽んじているわけでもない。けれど、思いも寄らないだろう?普段自分の揶揄や弄りに一々反応して感情を剥き出しにして隙だらけでチョロくて、ポンコツでドジな彼女が、こんなにも自分の周囲の状況を的確に把握していたなんて、一体誰が想像出来ただろう。
その証拠に、硝子や夜蛾ですら驚愕の表情で歌姫を凝視しているではないか。
視界の片隅に映る2人の様子はさておき、五条は歌姫の懸念を理解した上で、自身の意志をもう一度告げた。
「それでも、京都には行かせるつもりねぇから」
「ー五条、」
「彼奴等の思惑なんざどうでもいい!!歌姫まで居なくなるなよっ!!」
無自覚だったのだろう。叫んだ本人が、歌姫や様子を見守っていた2人よりも余程驚いていた。
慌てて五条の行く手を遮ろうとした夜蛾も、入って来たその声に動きを止める。扉の方へ視線を向ければ、取り調べが終わったらしい歌姫がいた。
「歌姫」
「先輩!!」
夜蛾と硝子は安堵で胸を撫で下した。
「ー⋯無事に終わったのか?」
「はい。何とか無事に終わりました」
歌姫はそのまま五条の目の前まで近付き、下から顔を覗き込む様にして立った。
「ーお疲れ様。酷い顔色してるわ。アンタも、硝子も。」
五条の顔色を確認した歌姫は、そのまま硝子の方へと視線を向ける。2人だけでなく、2人の担任である夜蛾も見るからに疲れているのが判る。
視線を五条に戻すと、光の無い虚ろの表情で歌姫を無言で見つめていた。
ーまるで心此処に非ずね。
歌姫は眉根を寄せる。連日のストレスと疲労が極限である事に加えて、睡眠不足と栄養不足。反転術式を会得し、常時展開出来る筈なのに、とてもじゃないがそう見えないという事は、つまり、振り切れているのだ。五条も、そして硝子も。
自分の言う事等、殆ど聞き入れられた事等無いが、それでも歌姫は言わずにはいられなかった。
「ー五条、少しでも休んだ方がいいわ。反転術式が追い付いてないんでしょう?」
なるべく穏やかに、静かに声を掛けてみたが、案の定、五条は歌姫の気遣いを余所に、いきなり本題に入った。
「歌姫。京都へ異動って聞いたけどどういう事?それに、傑が起こした事件の村へ再調査って何?アイツらに何言われた?」
歌姫が答える前に、片腕を掴み引き寄せるが、歌姫が踏ん張って持ち堪えた為、掴んだ腕だけが、五条の胸元にいく。
恐らく無意識だろう。掴む腕に力が籠められ、痛みで顔を顰める歌姫を見た硝子は、五条の元へ足早に向かい制止をかけた。
「ー五条!手を離せ。力を入れ過ぎだ。先輩が痛がってる」
硝子の制止が視界の端に映る。しかし五条にとっての最優先事項は、歌姫から答えを聞く事だ。歌姫の反応に注視する。
「京都校への異動は、あくまで教員試験に合格してからよ」
「合格したら行くのかよ」
「ーそのつもりよ。東京校勤務は⋯駄目になっちゃったわ」
五条に掴まれた腕を好きにさせたまま、歌姫は肩を竦めて努めて軽い雰囲気で振る舞った。五条は、目を細め諭すように告げた。
「俺が京都への異動を取り消してやるよ」
それを聞いた歌姫は危機感を募らせる。
最近の五条の心身の状態が大分拙い事になっているのは、硝子や夜蛾から聞いてはいた。平常時の五条であれば、こんな軽率に自分の権力を使う言葉はまず使わない。
それがどれ程危うい行為であるか、五条自身ちゃんと理解している事を歌姫は知っている。
なるべく五条の気に触れない様、兎に角、ゆっくりと静かに、そして宥める様に言葉を選びながら伝える。
「ーそれは駄目よ。解ってるでしょ?」
一拍置いて、五条と視線を合わせたまま続ける。しかし、反応はなく、剣呑な表情のままだ。
「上は、アンタの一強は勿論だけど、私達周りに対しても1ヶ月経った今でもとても過敏になっているわ。恐れているのよ。いつかアンタが箍を外してしまうんじゃないかってね」
歌姫の続く言葉に、ようやく目に光が戻る。
「ーだろうな。夜蛾センには牽制と釘を刺し、挙げ句、監督不行届の糾弾を一身に浴びせ、硝子は元々動けないし、余計な真似出来ねぇから除外。」
互いに視線を合わせたまま、嘲笑とともに続ける。
「七海は呪術界離脱、冥さんには敢えて俺等を鴉で監視させて、俺等に疑心暗鬼を持たせ不和を作る。残る歌姫はー」
掴んだ腕を離さないまま、五条は距離を詰めた。視線を逸らす事なく、離さないと全身で告げていた。
「ー傑が、特級の呪詛を吐きまくった穢れの地へ再調査の名目で出す。生き残ったら、京都校へ異動にして人員不足の穴埋めに使って万事オッケーってか?」
語気から憤怒が溢れる。近くに家具や備品が無かったのが幸いだ。あったら、怒りのまま振り翳した拳の直撃を受け、粉微塵だっただろう。
上からの理不尽な仕打ちが、一方的に降り掛かる教え子達に、何一つしてやれない己の無力さを、夜蛾は必死で飲み下す。硝子も言葉一つ掛けれず、ただ五条の怒りの発露を黙って聞く事しか出来ずにいた。
だが歌姫には、まだ五条に幾つか掛けられる言葉を持っている。どこまで五条に届き、宥められるかは解らないが。
「ー五条、大丈夫よ。まず、再調査は私一人で行くんじゃない。上の走狗の一人、監視の『耳』が一緒なの」
その言葉に、ピクリと目元が反応したのが見えた。
「『耳』、腰巾着の宇佐美か!?」
五条の驚きの反応に、歌姫は静かに頷いた。
「は?あの上の言う事しか聞けねぇ、チクリ魔の宇佐美が歌姫と一緒にあの村へ行くだぁ?」
あからさまに嫌そうに顔を顰める五条に苦笑しながらも歌姫はまた頷いた。
「ー歌姫、今日何言われた?宇佐美が態々出張る理由が、単なる歌姫の監視だけだとは思えねぇんだけど?」
鈍っている癖に鋭い。歌姫は胸中で毒吐いた。確かに、上層部の直轄の走狗の『耳』である宇佐美を態々歌姫に付ける理由は少しばかり不可解だろう。
五条周辺の人間関係や相関図を詳細に分析して報告し、冥冥に敢えて監視させる様進言したのも、五条の孤立無援を発案し、仕向ける様仕立て上げたのも、他でもない宇佐美である。
五条の言葉に黙って聞いていた硝子と夜蛾も歌姫に視線を向ける。硝子は心配そうに、夜蛾も複雑な顰め面であった。
「ー京都へ異動になるのと同時に、宇佐美さんと婚姻しろって言われたわ」
まるで他人事の様に呆れて吐き出したが、聞かされた方は、我が事の様な三者三様の反応になった。
「あ"あ?!」
「え!?」
「ーッ、」
呆気に取られた。ではなく、3人とも、見事に眉間に深い皺を拵えたおっかない顔を作っていた。
歌姫は思わず、口元を引き攣らせる。深刻にならないよう、大事にならない様、自分なりに充分気を付けて軽い物言いにしてみたのに、全く効果が無かった。
「ーあのスケコマシ野郎殺す」
「許す。遺体の処理は任せろ。微塵切りにして焼却炉で灰にしてやる」
「ーガッデムッ!!」
3人それぞれの反応に思わず目をぱちくりさせたが、ふっ、と微笑む。
「大丈夫よ。ちゃんと断ったわ」
今度は、3人が目をぱちくりさせ歌姫に視線を向けた。
歌姫はニコニコと軽やかな雰囲気を纏っていて、一見何も無さそうだがそんな訳が無い。上層部からの半ば命令の様な指示。断れる筈がないだろう。
「2級の弱姫が断れるわけねーだろ。命令に逆らってただで済む訳が無い。俺が揉み消してやるよ。いい加減ムカついてたからな。この特級呪術師にして、最強かつ、五条家次期当主の俺様なら、ジジィ共を捻り潰す事くらいわけないし」
何てことない様に言ってはいるが、目が据わっているし、荒んだ呪力がビリビリと歌姫の掴まれたままの腕から伝わる。
「ーそれがホントの目的だったらどうするの?」
「あ?何だって?」
五条と目を合わせたまま静かに言う。それは歌姫がこの1ヶ月、ずっと思案していた懸念材料の最大要素だった。
いつ言おうか迷っていたが、今がその時だちょうどいい。
「ーずっと考えていたの。そもそもアンタは、味方より敵の方が圧倒的に多い。」
キッと鋭い眼光と語気で自分を射抜いてくる歌姫の迫力に、思わず五条は瞬いだ。
「持てる権威と術式は呪術界の頂きにあって、同じ特級の夏油が居なくなっても一強は揺らぐどころか、あの件を期に覚醒して盤石になってしまった。『個人』なのに『組織』を上回る力を持っている。アンタがその気になれば、たった一人で、『御三家』とも『上層部』とも渡り合えるのよ。だから、アンタを抑え込むなら今が絶好のチャンス。」
「ーーー、」
今度は歌姫から距離を詰める。いつにない真剣な表情は、五条から言葉を奪う。
「連中がアンタを良く思ってないのなんて周知の事実。」
五条は黙って目を瞬かせる。
「だからもし、本気でアンタを叩く為に、残る御三家の加茂や禅院、ーそして、上層部が結託して動き出したら?」
訴えかける眼差しを向け、一拍置く。
「流石のアンタでも太刀打ち出来ないわ。対人間相手に戦うのは、『武力』ではなく『政治』よ。」
「ーーッ」
五条はハッと息を飲んだ。
歌姫の表情に影が落ちる。その『政治』の中味を知っているのだ。自分と同じ様にー。
「幸いアンタはまだ当主ではない。でも、当主になったからといって今より権力を振り翳して思うがままに出来るかしら?ー否よ。五条家を、アンタのワンマンにしたって、全員味方になんて出来やしない。当主になっても独断専行を続ければ、思わぬ身内から足元を掬われかねない。例えアンタでも支持を失う可能性だってある。そうなった時が本当の意味で、アンタは、呪術界で孤立無援の四面楚歌になる。」
「歌姫ー、」
戸惑いが声と表情に出てしまうが気にしてられない。目の前にいる歌姫が、まるで別人の様に思えたからだ。
動揺を隠せない五条を尻目に、歌姫は酷薄に笑みを向けた。
「ー私ならそうする。私が五条の敵で、上層部の人間なら、これを機に一気に叩く為、態とストレスを掛け続けて、仲間に色々ちょっかい掛けて揺さ振るわ。アンタの反応を見ながらね。ーちょうど今、思惑通りになってるみたいだし?」
「ぐっ、」
容赦のない指摘に、自覚のある五条は苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。
それを見た歌姫はフッと表情を緩め笑みを零すが、直ぐに引き締め、一気に畳み掛ける。
「ーアンタの味方は、残念だけど、アンタと同じ立ち位置で戦うには足りないモノが多すぎる。私含め全員アンタの庇護下よ。結局矢面に立って、『御三家』や『上層部』とやり合えるのはアンタだけ。だから、アンタの感情が振り切れて暴走しだせば、もう上の思う壺。大義名分掲げて、あれやこれやと、アンタ自身を堂々と処分出来るし、アンタの周りも縛りに掛けれる。アンタさえどうにか出来れば、連中は、今までよりずっと、これからも自分達の思うがままに自由に出来るんだもの。必ず賛同者が出るわ。アンタさえどうにか出来れば、もう、自分達の脅威が無くなるんだもの。」
「ーーー、」
五条に反論の余地を与えない厳しい指摘と分析に、ずっと成り行きを見守る夜蛾と硝子は目を見張る思いだった。
「ーこれは、私から見たアンタの最大の欠点で弱点だわ。アンタが最強なのは、『呪霊』と『武力』に対してのみよ。『組織』と『政治』が相手なら、まだまだ準備と精神の練度と人生の経験が不足過ぎる。独断専行は『その時だけ』しか効果が無い。だから、駄目よ」
「ーーッ、」
五条は歌姫に対して初めて驚嘆した。歌姫の口から出たあまりの衝撃的な内容に、元々大きな双眸をより一層開かせて凝視し、暫くいや、一切言葉が出なかった。
言われた内容自体は理解出来るし、ほぼ当たっているだろう。残る御三家が、結託等有り得ないというのが呪術界の常識だが、『五条 悟を落とし入れる為』という双方の利害が一致するなら、決して有り得ない話ではなくなる。
それ程に御三家のパワーバランスは、五条が産まれた事で偏ってしまったのだ。その可能性は、五条の中でも密かに懸念していた事だ。
それ以外でも、五条を揺さ振る為の身近な人間への干渉等、五条にとって数少ない信に足る者達は、残念ながら力不足は否めず、呪術界の腐敗しきった諸悪の根源に立ち向かえるだけの強者がいない事。
唯一足るのが離反した親友だった。
現時点での立場の脆弱さもそうだ。まだ学生であり、次期当主というだけで、支持基盤の地固めも不完全である。その辺りは追々と呑気に見積っていたが、夏油の離反でそうも言ってられなくなってきたのも事実。
当主になったとして、ある程度は、六眼と無下限術式持ちの五条家当主・最強の称号を持つ特級呪術師の地位と権力を余す事無く振るい、力でゴリ押し出来るだろう。
だがそれが通じるのは、本当に『ある程度』までだ。
不平不満や畏怖に嫉妬が積み重なれば、必ず隙を突かれて足元を掬われる。五条 悟唯一人に焦点を絞り、『組織』として多勢に無勢で『政治』を仕掛けられれば、流石の自分も窮地に立たされるのは考えるまでも無い。
それをまさか、親友ではなく、弱姫と弄り倒していた歌姫に看破されるとは思わなかった。
ー傑や夜蛾センにだって忠告された事ねぇってのに⋯。
歌姫を、決して侮っているわけでも、軽んじているわけでもない。けれど、思いも寄らないだろう?普段自分の揶揄や弄りに一々反応して感情を剥き出しにして隙だらけでチョロくて、ポンコツでドジな彼女が、こんなにも自分の周囲の状況を的確に把握していたなんて、一体誰が想像出来ただろう。
その証拠に、硝子や夜蛾ですら驚愕の表情で歌姫を凝視しているではないか。
視界の片隅に映る2人の様子はさておき、五条は歌姫の懸念を理解した上で、自身の意志をもう一度告げた。
「それでも、京都には行かせるつもりねぇから」
「ー五条、」
「彼奴等の思惑なんざどうでもいい!!歌姫まで居なくなるなよっ!!」
無自覚だったのだろう。叫んだ本人が、歌姫や様子を見守っていた2人よりも余程驚いていた。